2019-11-03

【週俳9月の俳句を読む】独り言的文字ライブ 原英

【週俳9月の俳句を読む】
独り言的文字ライブ

原英


俳句を前にして、自分が考えたり感じたりしたことをそのまま文字に起こすとどうなるんだろ? なんてことも、もう書いてみたりしてます。取り上げる句の数も文の長短も問わないとのことなので、全部にします。すでに若干言葉が乱れてしまっていますが、よろしくお願いします。

書き方については読者に寄り添ってというよりも、俳句自体によりそって、ただ感じたことに素直に、肩肘張らず、なんというか<俳句編>独り言的文字ライブ始めさせていただきます。


蟬の時間 五十嵐秀彦

タイトルの「の」がいいですね。蝉時間だとなんとなくSF的な空虚感がでます。もちろんそれも悪くないですが「の」があることで蝉の時間が現実であることを感じさせてくれます。ただ蝉の切なさを言いたいわけじゃないことがこの時点で感じられます。蝉と人間の時間関係を、蝉にとっての一日が人間にとって何年だとか、そんなことじゃなく、ただ素直に蝉の時間を言いたいという宣言のように受け取りました。これが十句を通底しているものなのか、或いは十句の中の代表句の特に言いたい部分なのか。楽しみにこれから拝読します。

大河往く黒蝶の遠きサイゴン  五十嵐秀彦

このサイゴンは川の名前というより旧都市名としてのサイゴンですかね。それなら大きな河を渡ってもこの黒蝶はサイゴンに行けないかも知れません。もしかしたら、サイゴン川を渡ってサイゴンに行こうとしているのでしょうか。「遠き」の句またがりが現在と過去をつなぐ役割を果たしていそうです。

頸椎の組糸ほつれゆく炎暑  同

頸椎の組糸が難しいですね。神経とかを表現しているのかもしれません。そうだとしたらほつれたら大変です。でも、炎暑なら頸椎の組糸たちも見えないところで油断していそうです。それが「ほつれゆく」ことなのでしょうか。

炎天や母さん死はまだ怖いですか  同

感じることはたくさんあっても、言葉にし辛いですね。大丈夫です。お母さまにはそんな叫び方をしなくても伝わると私は思います。うまく書けません。どうしたらいいのか。関係ないかもしれませんが、私にはなんとなく伝わってくるものがあります。

踏切は植民の鐘浜蓮華  同

行ったことないので的外れかもしれませんが、北海道の景でしょうか。踏切の音も北海道へ移住し開拓した人々の鐘に聞こえるということかもしれません。植物も詳しくなくて申し訳ないです。おそらく海辺の花ではないかと感じます。しかもおそらく強い花ではないでしょうか。というより、そうあって欲しいとさえ思います。

蟬の時間聞こえなくなるまで涅槃  同

きました。蝉の時間。ここできましたか。そうなのですね。これまでの句が響き始めました。炎天の句とは対照的ですね。生まれ変わりということを考え始めてしまいそうです。蝉が中心ではなかったのが、タイトルのすごさです。蝉の時間への託し方に驚きました。

迸る滝にヒト科をかがやかす  同

もしかして、滝行ですかね。それもヒト科ってなんだか人類全体を背負ってる感じがあります。しかも「かがやかす」だなんて、迸ると付き過ぎの感もありますが、逆に言えばそれほどのことなんだということですね。ある種願いも込められているような気もします。

アルゼンチン・タンゴ窓辺に置く桔梗  同

アルゼンチン・タンゴというのがあるのですか。正直どんなダンスなのか分かりませんが、桔梗が助けてくれそうです。桔梗が似合うタンゴなのでしょう。実は私、タンゴもよくわかりません。でも、なんとなく凛とした姿勢で踊るのではないかなあと、知らなくても想像で楽しめます。あえて窓辺としたことで見てほしいんだという思いもなんとなく伝わってきます。

満潮の香にあぢさゐの朽ちゆけり  同

満潮の香ですか。これは感じたことなかったです。やはり濃い香りなのかもしれませんね。その濃さ故ににあぢさゐも朽ちてゆくのだと感じたのでしょうか。けりの切字がこの句にとって強く残り過ぎるのか、どこかしてやったり感の気配があるような気がして、「けり」を見た瞬間に句から離れてしまって、私はうまくこの句の世界に入り込めませんでした。すみません。

鶏頭や終りし時がはみ出して  同

「鶏頭や」と「はみ出して」が案外響きますね。「終りし時が」はなんだか惜しい気がします。もったいないのかもしれません。ここまで読んだせいかもしれませんが、言い過ぎに感じてしまうのはなぜでしょう。

反世界色の日暮や秋薔薇  同

物理はよくわからないのですが、色のイメージで畳みかけてこられて恐縮してしまいました。私も秋薔薇にはただの薔薇にはない違和感を覚えます。どうしてなのでしょうか。その雰囲気がよく出ているような気もします。

全体的にに終末前後感が強かったです。なんというか、蝉の時間というタイトル、まだ響いてます。代表句を取り出したように見せかけて、ある程度の通底も狙っていると感じました。もちろん「蟬の時間聞こえなくなるまで涅槃」も印象的です。良い意味で裏切りがある十句だと感じました。


水を注ぐ 若林哲哉

「そそぐ」でしょうか。「つぐ」と読んだほうが五音になって読みやすいかもしれません。「水」という様々なイメージを纏っている言葉が「注ぐ」とされたことで、はっきりとします。そうか、水を注ぐのかと思わせてくれます。それは決して悪い行いではないではないだろうという安心感がすでにありますね。ちょっとぶっきらぼうなタイトルにも思えますが、照れ隠しのような気もしてきました。では、拝読しますね。

窓といふ窓開いてゐる昼寝覚  若林哲哉

すごくまとまっています。単純な景ではないのかもしれません。「窓といふ窓」のあえてのゆるさが「昼寝覚」に収束していく作りでしょうか。これはある意味一句で完結していて、なぜ窓は開いていたのだろう誰が開けたのだろうという世界の広がりを拒絶しているのかもしれません。そんなんどうでもええやん。みたいな感じですかね。唐突に方言を出してしまいましたが、その方言を使ってそうとかはちらりと思いました。

父の髪母より長しねぢれ花  同

一瞬「父の髪」の説明ために「ねぢれ花」を選んだのかな? なんて思ってしまいましたが、そんな読みをすると面白くないですね。おそらくここでいう髪はドレッドなのではないでしょうか。もしかしたらそれだけのことなのかもしれませんが、なぜかボブ・マーリーを思い出しました。私のドレッドのイメージが更新されていないのかもしれません。今のドレッドは誰ですか? なんだかそういう時代感の違いを知らされたような気もします。

揚花火果てて砂漠の匂ひかな  同

私は砂漠をよく知らないので、「砂漠の匂ひ」がどこまで力のある言葉なのか分かりませんでした。ただ、滅びの気配を感じます。それも砂ではなく、砂漠なので、広大な途方もない滅びの気配です。それを、揚花火のあとに嗅覚として体感できたのでしょうか。その嗅覚は一瞬にして孤独を浮かび上がらせますが、かなで終えたことにより、孤独を否定的に捉えておらず、そんな孤独をさえ仕方ないと受けとめることができているのだなあと感じます。

出目金や天津飯の全き円  同

きれいな気持ち悪さですね。出目金はもちろん、この天津飯もおそらく食べられないでしょう。その違和感が共通していて、意外に響きます。狂気を前面に出さず、奥に潜んでいる冷静さにも気持ち悪さがあり、その正体は食べられない出目金を、実は食べてみたいんだという欲求があるといったところなのかもしれません。

太腿に缶挟みをる油照  同

手ではなく太腿の意外性で勝負でしょうか。油照が嫌な感じを出してます。おそらく座っているんでしょう。公園とかのベンチかもしれません。しかも空き缶だと思います。やるせなさの生感がこの句からは感じられますね。

パイナップル喉をとげとげしく通る  同

そうなんですか? ちょっとパイナップル食べてみたくなりました。とげとげしかったですか。これも冷静さが際立ちますね。通るで終えたからでしょうか。嚥下とか飲み込むとはしないことで、対象を客観的に捉えようとしているのだと読み取りました。これまでの句もそうですね。良い意味で作者の熱を読者に見せないようにしていると感じます。

おとがひのゆつくり乾く扇子かな  同

一見して「おとがひ」という冷静な言葉に少し怖さを感じます。あごではないんですよね。あごは人間の部位を示すものでありながら、どこか言葉にやわらかみを感じます。おとがひにすることで、はいっここに注目! という意図と同時に冷徹さを感じます。それはそのあとに続く、ある種ゆるい言葉の並びや趣きとバランスが取れており、一句として緻密な計算がなされているのが分かります。

蟬しぐれコーラの泡のせり上がる  同

おっ注いでる? と思わせて、実は水ではなくコーラであることでタイトルの前振り的一句のような気がしました。蝉しぐれはとても大きな声ですが、今だけなんだよなぁという切なさも同時に感じてしまいます。そこにコーラの泡がせり上がってくるのを見せられると、その生命力のような力強い泡も消えるんだろうなあと共感します。

肌脱の男と水を注ぎあへり  同

水なのがいいですね。しかもお互いに水ですもんね。これがビールだと暑苦しさが前面にでるところです。おそらく冷房裡なのではないかと思うのは、どこかさわやかさがあるからでしょうか。とてもいいですね。

標本の鯨の眼窩夏の果  同

実は八月に博物館で見たばかりです。そうなんですよね。やっぱり夏の果ですか。夏休みには博物館に子供を連れて行ったりするものなのでしょうか。家族で来ている人が多かったです。冬だとやりすぎなので、実感として夏の果がとてもよく効いていると思います。
全体的に冷静さが感じられましたね。その言葉との距離感にとても好感を持ちました。ただ、悪くない程度ですがその距離感を意識しすぎて、力まないように力んでるとでもいうような気配を感じます。一句独立をかなり強く意識しながらも十句並べることにも苦心しているのが分かります。中でも「肌脱の男と水を注ぎあへり」のような素直な句にとても惹かれました。


杉 檜 クズウジュンイチ

おそらく空白が入ってます。杉と檜の間をマウスでドラッグしてもちゃんと入ってます。なんとなく富澤赤黄男の空白を思い出しました。空間を意識して、杉と檜が二本立っているようなタイトルに見えます。でもこれはいわゆる半角アキですね。二本どうしがちょっと近いのかもしれません。でも杉と檜ってどう違うんでしょうか。植物もあまり知りませんが、杉と檜なんてよく聞くのに説明しようとしたら全くできません。さすがに句に行く前に調べたほうがいいでしょうか。でも知らないことで感じるなにかもあるかもしれません。拝読します。

立秋や老いて十指のあたたかく  クズウジュンイチ

幼い手は確かに熱そうですね。もちろん若くても熱そうです。それが年を重ねてあたたかいと言える温度になったということでしょうか。立秋とのこと。まだお若いです。今キーボードを叩いてる私の手は冷たいですよ。すみません。余談でした。面白い取り合わせですね。

蜩の声は曲がらじ杉檜  同

限定して蜩なのがいいですね。ドップラー効果ってこともないですけど、どこか遠ざかって曲がっていくような気もします。でも、やはり曲がらないでしょうね。杉や檜なので人の手が加わっている山や林でしょうか。とにかくまっすぐ生えていると記憶しています。そこが響いているんでしょうか。というよりここでは半角アキないですね。タイトルでの半角アキは考え過ぎだったのかもしれません。

静かなばつた口から泡を噴いてゐる  同

何か句の背後に隠れていそうですね。その「ばつた」はすでに生きていないように感じます。私はばったの生態にも詳しくないです。ただ、ばったが実際に泡を噴くのかどうかということが重要なのではなく、この句の世界では厳然たる事実として口から泡を噴いているばったがいるということ。それはまず受け止めなくてはなりませんね。ばったをじっくり観察したこともない私にとって、ばったは他人の家のカーテンの柄ぐらいどんなだったか思い出せません。それでもこの句には、厳かさと、やるせない不満があり、しかもそれらを言えないでいる、そんな雰囲気がありますね。

いなごあたかも銃撃の砂埃  同

いなごがたくさん襲ってきたのでしょうか。いなごが銃撃の砂埃のようだという読みをしました。ボディばかり狙われていて、ガード下げたら右ストレート打たれた感のある素直な句ですね。「あたかも」のゆるさもあえてと読むべきでしょうね。いなごは三国志などで害虫として出てきてたイメージがあります。いなご自体なんか屈強な戦士感ありますよね。詳しくないですけども。

棋士の指反つて小皿の黒葡萄  同

とてもいいですね。囲碁は見たことありませんが、将棋の対局をテレビで見たことあります。確か、対局中の棋士はおやつOKなんですよね。いいですね。黒葡萄。しかも集中して緊張したままの指を黒葡萄に伸ばしてるんでしょうね。棋士の指の繊細さと大皿ではなく小皿の黒葡萄。なんかこの句の前では息を止めちゃいます。

鵙鳴いて襟が合成皮革かな  同

合成皮革の襟ってどんなのでしょう。コートですかね。鵙が鳴いているのがいいですね。なんとなく売れてない探偵事務所のベテラン探偵を勝手に想像しました。とても世界の広い句ですね。これは楽しいです。

同じ田に椋鳥同じ木に帰る  同

富澤赤黄男の本歌取りでしょうか。いや、タイトルに空白を見つけてしまったせいか、考えすぎかもしれません。とにかくそのまま味わいましょう。椋鳥は雀より少し大きい鳥でしたか。椋鳥なので二羽だけではなさそうです。他意ないものとして素直に読むと、ほんとうに素直な句ですね。この句に関しては読み過ぎは危険な気がします。逆に、椋鳥をただそのまま見てほしいという提示かもしれません。

紫は通草に染みて卵焼き  同

通草も実はよく知らないんです。写真は見たことあるのですが。紫は中身ではなく皮の色ですよね。一枚の皿に全部乗せるスタイルの朝食でしょうか。卵焼きの日常感がいいですね。いつもの卵焼きにも紫色が移って、その部分にも秋が移って、ということでしょうか。人に言うほどではないにしても、一句にするといいですね。

やさしくて指をしたたるレモン汁  同

飲み会の席でのあるあるをイメージしました。この人いつもから揚げにレモン絞ってくれる人だっていうのありますよね。このレモン汁したたるやさしい指の人はきっと飲み会上級者ですね。レモン絞りをあざとくなくやれるのは、すごいことです。

死にながら墜ちて櫟の実なりけり  同

何か句の向こうに潜んでますよね。「死にながら」はとても強い言葉なので、もちろん安易には表に出せない言葉です。しかしこうせざるを得ない何かがあるのでしょう。その何かが私には掴めず、もやもやします。櫟の実はたしかどんぐりですね。再生のニュアンスも感じながらいろいろと想像はできますが、私の読みが狭いせいかなんだか苦しいです。
季語の使い方や言葉選びが挑戦的で読み手として熱くなりそうでした。なんかケンカをふっかけられた時みたいな感覚です。でも大丈夫です。私は殴りかかったりしませんよ。しかし、全体的に緩急をつけて句を配してあることで読み手をある程度コントールしているのでしょう。「棋士の指反つて小皿の黒葡萄」がとても印象に残りました。


蓑虫の不在 鈴木健司

とても面白いですね。奇をてらった感もなく、落ち着いたタイトルにも関わらず想像が膨らみます。蓑虫の蓑に呼び鈴が付いていたりする景や、いつもこの辺りにいるはずの蓑虫がいないのを見つけられず残念がっている人がいたりする景など、少し寂しげですがこれだけで楽しめます。このタイトルがどのように俳句に響くのでしょうか。楽しみです。では、拝読します。

着火からはじまる宴竹の春  鈴木健司

バーベキューですかね。私は火おこしできないので、着火という部分に惹かれます。確かに着火から楽しいです。竹の春なので、普段おとなしかった人が任せとけって感じで生き生きと作業してる雰囲気も読み取れます。宴で一瞬、カセットコンロの着火かなあと思ったりもしましたが、やはりバーベキューとして楽しみたい一句です。

釣瓶落し少し怠惰になる轍  同

日中は轍も頑張って轍してるんですね。これは驚きました。確かに日暮とともに轍の仕事は減って、怠惰になっていくのかもしれません。そういえば泥などでくっきりして立派な轍は暗くなれば視覚的に立派には見えなくなるような気もします。ぐったりといかないまでも怠惰な趣きのある轍には親近感を覚えます。

旧友のこと思ふなり鳥威  同

鳥威ってキラキラピカピカしてるやつですよね。見た目で鳥を追い払う感じの旧友ですか。なんだか不思議な取り合わせです。ぎらついた眼をした友だったのでしょうか。確かに私にも昔そういう友達いました。今はどうしてるんでしょうか。

肉厚な林檎の皮を弄ぶ  同

林檎の皮をむかずに齧る人もいますよね。でもこの人は皮をむく人。しかもナイフか包丁の扱いに慣れていないのでしょう。林檎の皮をむいても肉厚な皮になる。それもおそらく連なっておらず途切れ途切れの皮になったでしょう。その林檎の肉厚な皮の部分をどうしようか眺めつつも齧ってみたりしたかもしれません。それが意外に美味しい。でも、孤独を感じますね。

三日月の枕を高くしてゐたり  同

とても上品な「の」ですね。うっとりします。そうですか。やはり枕がありますか。あの姿勢はなにか補助的なものが必要ですもんね。「枕」を感じて、しかもそれも高くしているということがよく伝わってきます。穏やかさと孤独があるようなとても丁寧な一句ですね。

言ひ訳はいらない蓑虫の不在  同

不在の言い訳もいらないですか。強がりのような気配もあります。気づくといつも通りすがりに見てしまう枝にいるはずの蓑虫が、いない。別にどうでもいいことだと言い聞かせながらも、どこか悔しさのような哀しさが伝わってきます。たいていの人は蓑虫をそんなに気にせずにいると思います。そんな蓑虫にさえ見放されたと感じたのでしょうか。

稲妻や回送列車の薄笑ひ  同

意外に響く取り合わせですね。実のところ稲は稲妻によって実るわけてはない。列車と言えども一般の人は回送列車には乗ることができない。「薄笑ひ」が虚無感を引き出す役目を果たしているのでしょうか。これまでの句の並びとして徐々に孤独が膨れ上がってきている気がします。

足元にからまつてゐる秋思かな  同

考えすぎて身動きがとれないこともあります。秋思なんてまさにそんな感じですね。建設的な思考はできず、かといって退廃的な思考にもならない。今、その場を動くことができないもどかしさも感じます。

木の実落つ明日閉店の喫茶店  同

急に突き放した雰囲気がでたように感じます。この喫茶店も閉店かという感慨にふけっているよりも、まっそんなこともあるかというような感じです。寂しさはもちろん感じますが、すっきりした感じを受けるのはなぜでしょうか。

三角を繋ぎて秋の野に至る  同

三角とはなんでしょう。パイロンでしょうか。もしくは橋のトラス構造でしょうか。標識にも三角はありますし、どの三角なのか分かりませんが、私はトラス橋だと感じました。自身がその橋を渡っているというより、この橋は秋の野へ至るんだという想いをもってその橋を見ているような気がします。

なんとも不可思議な世界へ連れていかれたなあという感慨でいます。やはり句がまとまるとすごいですね。句の並びにかなりの配慮を感じます。「言ひ訳はいらない蓑虫の不在」はタイトルにも使われていますが、やはりこの句がこの十句の中心ですね。好きな句もたくさんあって、共感するところが多かったです。


最後に

さて、四人分の四十句、読み終わりましたね。独り言的な文字ライブのつもりで即興性を大事に書こうと思っていましたが、思い込みの激しい読みになっているような気もします。普段の私の読書スタイルがさらけ出されているような恥ずかしさもありますが、もしずれていたら変な読みがあるんだなあとでも思っていただければ幸いです。なんだか句会したくなりました。今から句作します。それでは、このへんで失礼します。ありがとうございました。


五十嵐秀彦 蟬の時間 10句 ≫読む
若林哲哉 水を注ぐ 10句 ≫読む
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クズウジュンイチ 杉 檜 10句 ≫読む
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鈴木健司 蓑虫の不在 10句 ≫読む

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