2020-03-08

【週俳1月2月の俳句を読む】雑読雑考4 瀬戸正洋

【週俳1月2月の俳句を読む】
雑読雑考4

瀬戸正洋


猪鍋をつつくポールとオノヨーコ  山本真也

ポールマッカートニーとオノヨーコが猪鍋を囲んでいる。つつくとあるから箸でつついているのだろう。箸がつかえるのかなどという疑問は不要なのである。その様子を想像してみればいいのだとおもう。俳句は、考えるのではない。想像することが大切なのだとおもう。

木守柿ジョンが残らず取ってしまう  山本真也

残らずとは大仰なことだとおもう。取ってしまうだけで十分ではないか。要するに、情け容赦がないということなのである。情け容赦がないほどの真面目さということなのかも知れない。真面目な人にとっては、おまじないや風習などは不要であるということなのかも知れない。

冬の鹿ギターはすすり泣いていて  山本真也

すすり泣いているのは鹿である。それも、冬の鹿なのだという。それも、泣きつづけているのだという。キターは泣かない。冬であっても泣かない。何があっても絶対に、ギターは泣かないのである。

十二月八日のドアノブを回す  山本真也

ドアノブを回すとは、ドアとドアの枠を固定している錠を外すということである。ドアが開かれたのか開かれなかったのかは知らない。それは、四十年前の、高級集合住宅の玄関前での出来事であった。生きていれば、今年、彼は八十歳である。

くまあなにこもるP.S.アイ・ラヴ・ユー  山本真也 

熊が冬眠につく。動物たちも続々と冬ごもりに入る。本格的な冬が訪れるのである。その季節の追伸が、「アイ・ラヴ・ユー」なのである。季節は問わない。場所も問わない。ことばも概念も、善悪でさえ不要であるということなのである。

初富士を駆け下りて来るリンゴかな  山本真也

元旦に見る富士山のことを初富士という。また、その富士山のことをいう。リンゴが初富士を駆け下りて来るというのだから、それは、そのとおりなのだろう。

ビートルズが活躍したのは、子どものころのことなのでよく知らない。ただ、Hというシンガーソングライターのアルバムに「コーヒー・ショツプ」がおさめられていた。その歌詞のなかに、「古いビートルズのうたばかりまわってて」というフレーズがあった。その歌詞が、何故かわすれられない。

ブライアン・エプスタインの事務始  山本真也

ブライアン・エプスタインとは、イギリスのビジネスマンであり、ビートルズのマネージャーとして知られた人である。西暦1967年8月、三十歳代の若さで亡くなったとあった。中学生のころの土曜日の午後の音楽番組で年間のベストテンのようなことをやっていた。一位が「Masschusetts」、二位が「Hey Jude」であり、司会者が驚いていた。「Hey Jude」が一位だと誰もがおもっていたからである。

鯛焼をダコタハウスに持ち帰り  山本真也

ダコタハウスの玄関前で事件が起きたのは、西暦1980年12月8日のことであった。鯛焼きとは、明治時代に発案された菓子である。

「鯛焼きをダコタハウスに持ち帰った」とすると身もふたもないことなのだろう。わからない作品は、「わからない」として味わえばいい。味わうことが大切なことなのだと。最近、そのように考えている。

鮟鱇を獲るぞイエローサブマリン  山本真也

「イエローサブマリン」の和訳を読んでみた。潜水艦のなかの大地の話だという。海へ航海していた男の人生の話だという。太陽へと漕ぎだしたとあった。「鮟鱇を獲るぞ」と決めたことが俳句であるのかも知れない。

番鴛鴦曲がりくねった川をゆく  山本真也

番の鴛鴦とある。この作品のタイトルである「マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー」の「ジャパン」を象徴している。そんな気がしないわけでもない。この作品を読みながら、ビートルズの楽曲を聴いてみるのもいいのかも知れない。

笑つても笑つても冬プラタナス  細村星一郎

葉のないプラタナスは何かものたりないような気がする。春、夏、秋と季節がめぐれば様子は変わってくる。「笑っても笑っても」に比重を置くのか、「冬のプラタナス」に比重を置くのか、それは、読み手の生き方の問題ではないのかともおもう。

鯛焼を渡す手渡さるゝ両手  細村星一郎

両手で渡し、両手で受け取ったのだとおもったが、よく読むと、片手で渡して、両手で受け取ったようである。片手で渡した人の感情に違和感を覚えた。

もしかして冬うぐひすのにほひかも  細村星一郎

「もしかして」とは、起こってはならないことを仮に想定することばである。「かも知れない」とは、可能性はあるが不確実であるということである。つまり、「冬うぐいすのにおい」とは、そのようなものであるといっているようだ。

賞状をかさねて破く金目鯛  細村星一郎

気楽にいただけるような昨今である。重々しく、もったいぶって渡されても、受け取る身になってみれば、重ねて、折りたたみ、机の引き出しに入れておく。その程度のものである。それでも、多少の敬意ははらわなくてはならない。金目鯛の煮付けで一杯などと、祝ってみたりもする。所詮は、破られて捨てられてしまうものではあるが。

ロケットの落ちてきさうな冬野かな  細村星一郎

ひろびろとした野原がある。それも冬の野原である。この殺風景ななかに佇んでいたら何らかの不安が過ぎった。その不安とは、自分に因るものなのである。要するに、自業自得であるということに気づいたのである。

故郷がスキーのリフトより見ゆる  細村星一郎

再発見といってしまうと大げさだが、おもいもよらぬところで故郷を知ることができたということなのである。こんなところからという驚きも感じられる。自分を知るとは、日ごろのくらしのなかのおもわぬところにもあるということなのである。

地吹雪のどこかに電動のところ  細村星一郎

地吹雪など経験したことはない。気温が低く風が強い場合には、積もった雪は高く舞いあがるのだという。電動とは、人のいたずらなのである。風をより強くしているのは、自然ではなく、おろかな人のしわざなのであるということなのかも知れない。

真赤なる石積み上ぐる久女の忌  細村星一郎

真赤な石を積み上げている人がいる。よくわからない風景である。真赤な石を見たこともない。その行為には、久女に対する何らかのおもいがあるということなのだとおもう。

水仙や線路を切り替へるレバー  細村星一郎

駅のホームから線路を見下ろしている。大きなレバーがあることに気づく。よく見ると、そのレバーは、線路を切り替えるためのものらしい。線路のよこには、花壇がある。そこには水仙が咲いている。

消火器の栓きいろしや春隣  細村星一郎

黄色は、誇張色、進出色、温暖色、興奮色、軽量色のイメージ効果を持っている。また、五感のなかでは聴覚と関係が深いのだという。春隣という季語には、最もふさわしい色なのかも知れない。あとは、消火器の栓について考えればいいのだとおもう。

消火器とは、初期の火災を消すための可搬式または半固定式の消防用設備である。

首筋の終はりセーター卵色  田口茉於

首筋を見ていた理由が気になる。じっと見ていて、首筋の終わるところまで視線をうつした。そして、セーターの色にまでこころがうごいた。何故、色にまでうごいたのかも気になるところである。肌色と卵色とは似ていないわけでもない。

列の子の一人振り向く枯野かな  田口茉於

振り向いた一人の子が気になった。その子が、まぎれ込んでいることに誰も気づいていないのかも知れないとおもった。もしかしたら、枯野の精なのかも知れないとおもった。いつのまにか、その子どもの集団が異様なもののように見えてくるのである。

夕方の石のしづかな鬼やらひ  田口茉於

しずかなのは豆まきなのである。夕方、その家族は、おおきな声を出すわけでもなく、笑うわけでもなく、いつものとおりに豆まきをしている。

たんぽぽを踏まぬやう母と離れぬやう  田口茉於

たんぽぽを踏まないようにしているのは子の意志である。母と離れないようにしているのも子の意志である。母は自分のことで精いっぱいなのである。母と子であってもそんなときはあるのだ。母と子は、それで十分に幸せなのである。

鶯餅谷保駅降りてすぐ右の  田口茉於

谷保駅を降りてすぐ右のところに和菓子店はある。その和菓子店の鶯餅は、おいしいことで有名である。これが、その鶯餅です。食べてみませんか...。会話のような作品である。

春の日や並んでをれば列のびて  田口茉於

列がのびたりちぢんだりするのは、あたりまえのことなのである。もし、整然としている列があれば、それは、誰かが強制しているからなのである。並んだだけで十分なのである。集まっただけで十分なのである。春の日には自由が似合う。

こちら向く横顔の耳冴返る  田口茉於

こちらを向くとあるので、横顔の耳を見るためには、四十五度ずらさなくてはならない。その不自然さのために何らかの冷気を感じたのかも知れない。あたまの冴えた人といういい方があるように、この人は耳の冴えている人なのかも知れない。冴えるためには、不自然であることが必要なのかも知れない。

千の靴行き交ふ春の夕焼に  田口茉於

自宅へ帰るために、買い物に、人びとは、その商店街を行き交っている。それを春の夕焼けが見守っているようだ。いつもは、気にもとめない夕焼けに気づいたのは、行き交っているのは人ではなく、靴であることを知ったからである。

人のいない商店街を千の靴が行き交っている。春の日が暮れる。不気味な風景であるといえないわけでもない。

鷹鳩と化して南を向いてゐる  田口茉於

中国の俗信からきたもので、春の幻想的な気分をあらわす季語であるとあった。大事なことは、南を向いているということである。鳩に変身した鷹が南を向いているのではない。春になっても変身することのできない人たちが、おろおろとうろたえながら南を向こうとしているのである。

トランプを捲りて遅日終はりけり  田口茉於

冬の日暮れは、はやいので、春の日暮れの遅さが印象深く感じられるとあった。そんな一日が終るのである。その季節が終るのである。子どもたちは、トランプを捲ることをやめようとしない。

春浅き谷を行き交う新都心  前田凪子

「新都心」というタイトルの、いちばんはじめの作品である。行き交っているのは、人や車だけではないとおもう。

もしかしたら、日本で、何万人の人たちが罹患しているかも知れないといわれているあのvirusが行き交っているのかも知れない。

風も空も人も車もふだんと何も変わらない。生きているということは、日常である。死もまた、日常である。

梅ふふむ有給取得率可視化  前田凪子

「梅ふふむ」とは、つぼみがふくらんではいるがまだ開いてはいないことをいう。可視化することは必要なことなのかも知れない。特に、有給休暇の取得率を可視化することは必要なことなのかも知れない。

可視化とは、直接、見ることのできない現象、事象等を見ることのできるものにすることである。怠け者の私は、見えないものは見えないままでいいなどと嘯いている。

春埃ためてみているビスコ缶  前田凪子

好きなものは手に入れたくなるものだ。だが、手に入れるということは、余計なものまでが、いっしょについてくる。それは、うまくやり過ごしてしまわなくてはならないのだ。春になって強い風が吹く。乾いた地面から砂ぼこりが舞いあがる。体中、どこもかしこも砂にまみれてしまったような気になる。

ビスコ缶とは、江崎グリコの防災備蓄食品である。缶に入れたことで、いつのまにか防災備蓄食品になっている。

蟇出でよ閉じては開くブラウザー  前田凪子

リアリティのないことがいい場合もある。蟇は、私にとっては、そのようなものである。PCのプログラムを終了したり、起動したりすることで、蟇は、出たり引っ込んだりする。それで十分なのである。山村ぐらしであっても苦手なものは苦手なのである。

雲に入るホワイトボードたち鳥たち  前田凪子

北に帰る渡り鳥が、雲間に見えなくなっていくということである。加えて、ホワイトボード「たち」とある。ホワイトボード「たち」、鳥「たち」について考えなくてはならないのだろうが、よくわからない。難しい作品だとおもう。

立春の両手でふれる窓ガラス  前田凪子

両手でふれるとは微妙なちから加減が必要だとおもう。立春のころの窓ガラスというと結露で濡れてしまっているような気がする。ふれた両手もびっしょりと濡れているということである。

参道を指で測るや春の夕  前田凪子

参道の何を指で測ったのだろう。何を測ったのか、具体的に、おもいうかばないということが、この作品のおもしろいところなのだとおもう。「春の夕」という季語からも、つかみどころがないものを測っているような気がする。

クリップひとつかみ放り投げ焼野  前田凪子

クリップひとつかみとは、もったいないはなしである。それに、産業廃棄物の不法投棄と同じことである。芽吹きをうながすために野を焼くこと、また、焼いたあとの野原のことも焼野という。そこへ、ひとつかみのクリップを放り投げる。よほど屈折した何かがあったのだとおもう。

税率の混じるレシート龍天に  前田凪子

税率の記載されていないレシートなどないのである。

ところが「税率」とは、想像上のシステムである。春分の頃、天に昇り、雲を起こし、雨を降らせたりする。日本人は、おもしろいシステムを想像するものだとおもう。

アスパラガス並べちゃんとした人になる  前田凪子

ちゃんとした人になることは至難のわざである。況してハイジンなのである。あきらめたほうがいいとおもう。故に、アスパラガスなど並べてはいけないのである。茹でて、マヨネーズでも添えて、そのまま食べてしまえばいいのだとおもう。


山本真也 マジカル・ミステリー・ジャパン・ツアー 10句 ≫読む
細村星一郎 もしかして 10句 ≫読む
第669号 2019年2月16日
田口茉於 横顔の耳 10句 ≫読む
第670号 2019年2月23日
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