2020-07-05

【週俳6月の俳句を読む】雑読雑考7 瀬戸正洋

【週俳6月の俳句を読む】
雑読雑考7

瀬戸正洋


いま欲しきもの叔母さんの白日傘  安田中彦

あこがれのひとだったのかも知れません。少年時代に、白日傘に対して何らかの思い出があったのかも知れません。「いま欲しきもの」とありますので、その時は、たいして気にもとめてはいなかった。それが、今では、たいへん気になってしまっている。思い出すのは、得てして、そんなときなのかも知れません。

らんちうの死す感傷がやや足りぬ  安田中彦

「やや足りぬ」くらいがちょうどいいのかも知れません。らんちうの死に心を痛めることだけではなく、身のまわりに起こる全てのことに対して、「やや足りぬ」くらいにしておくことが理想なのかも知れません。

立ち眩みして水無月の青の中  安田中彦

立ち眩みとは老人の専売特許ですが、水無月の青の中とありますから、そうではないのでしょう。水無月の青葉の闇の中、その先には、いったい何が待っているのでしょうか。立ち眩みするのは、からだばかりではありません。こころも、血液や酸素が足りなくなれば、からだと同じように、立ち眩みするのだと思います。

鳥として骨となりたる昼寝かな  安田中彦

昼寝から覚めるときに見る夢は、変幻自在なものです。理由はあるのでしょうが、私には、よくわかりません。不思議なことだと思います。俳句を作るときに浮かぶ言葉も同様です。意識しているとき、意識していないとき、その差は、何なんでしょうか。無意識のうちにうかんだ言葉を使ったとき、何故、その言葉だったのか。そのことを考えることは必要なことだと思います。

告白す鈴蘭の香を嫌ひつつ  安田中彦

告白などしてはいけません。余計なことはいわないに限ります。発言したいときでも、他人の話を黙って聞くことが肝要です。鈴蘭の香が、こころを乱したのです。もっと激しく乱してくれたのならば、告白などしなくて済んだのだと思います。

でで虫の愛なら伝へやすさうな  安田中彦

伝えることの容易な愛などどこにもありません。愛に限らず、伝えることは難しいことなのです。でで虫を見ていたら、そんな気になってしまった。だが、そこに立ちどまり、じっと考えてみることが必要なのだと思います。

骨格は螺子にてゆるぶ揚羽蝶  安田中彦

「骨格」とは、螺子によって締めたり緩めたりしているものだといっています。ひとの拵えたものは、自然を参考にして、できたものが多いということですが、螺子も、きっと、そうなのでしょう。当然、骨格を締めたり緩めたりする指示を出しているのは揚羽蝶なのだと思います。

万緑やわが身一つを隠匿す  安田中彦

全てのものは、こっそりと隠さなければなりません。からだだけ隠すのなら、こころだけ隠すのならば、方法は、他にもあるのかも知れません。だが、そのどちらも隠すとなると万緑しかないのだと思います。

教科書を踏まれてひるの金魚かな  安田中彦

「踏む」と「踏まれる」との違いを考えていました。すると、金魚が泳いで目の前を通りすぎていきました。何故、金魚だったのかと考えてみましたが、それは、金魚に聞くしか方法はないのだと思いなおしました。自分のちからでは、どうにもならないことは考えない。老人は、それでいいのだと思っています。

狂ひつつたたかふ子ども立葵  安田中彦

子どもの成長とは、本人も、両親も、誰もが自覚することなく、少しずつ狂っていくことだといわれれば、そんな気がしない訳でもありません。立葵とは、成長の象徴です。さらに、そのことを、黙って見つめているものなのかも知れません。

子らに端食われたのかも花畠  樋野菜々子

草花を栽培している畠、草花のたくさん咲いている場所のことを「花畠」といいます。ひとが、花畠を食べるということは、誰もが知っていることだと思います。「子どもたちは、花畠を食べることが大好きである」とも、誰かがいっていました。それであっても、断定してはいけないと思っています。

見にしむや講義終わりの友と夜  樋野菜々子

大学の近くの珈琲店というところでしょうか。珈琲色に統一された店内は、歴史を感じ、いちばん奥のテーブルにふたりは座っています。

俳句を読むとは、否定することではなく、肯定することだと考えています。作者のことを知るためには、ただ、ひたすら肯定しなくてはなりません。生きることに間違いなど何ひとつない、ということと同じであると思っています。

棚ひとつぐっと移動す掃納  樋野菜々子

ものごとは、「ぐっと」してしまうに限ると思います。そういえば、何年も、掃納めをしたという記憶がありません。ところで、瞬間的に力を入れること、ものごとをひと息にしてしまうことは、老人のからだのためにはよくありません。それでも、たまには、「ぐっと」何かをする。老人にとっても、それは必要なことなのだと考えます。

絵双六戻るマスにも止まってみたい  樋野菜々子

戻るマスとは、通りすぎてしまうマスなのだと思います。通りすぎるマスに立ちどまることはできません。だが、そこには、生きていくための知恵がいくらでもあります。そこには、生きるための喜び、悲しみ、苦しみなどが隠されています。「遊ぶ」とは、立ちどまることです。立ちどまって、過去を、ゆっくりと考えてみることも、大切なことだと思います。

そういえばわたしも二十歳ひなかざり  樋野菜々子

「二十歳」以外の、ことばは、全て吹き飛んでしまいました。時間が残っているということに、何故、こんなにときめくものなのでしょうか。不快なことも、これから、いくらでもあると思います。だが、そんなことは、何も気にしません。ひとは、過去であっても未来であっても、不快なことは忘れてしまうものなのです。

日も暮れかかった午後、ひとり暮らしの老婆が、お雛さまを飾っています。

オンライン授業は春の夢までも  樋野菜々子

儚きもののたとえとして使われます。「春の夢までも」のあと、いったい何があったのでしょうか。「春の夢までも」とは、いったい何だというのでしょうか。オンライン授業は、春の夜の夢にまで入りこんできます。朝になるのを待てばいいのだと思います。

花の雨期限の切れた定期券  樋野菜々子

「2018.4-5」継続という定期券を持っています。その日、私のサラリーマン生活は終了しました。考えてみれば、碌でもない人生であったということです。それでも、ながめていると、確かに、思い出は、それなりにあります。これは、PASMOと併用の定期券でした。現在も、セブン銀行でチャージして使っています。

花の雨とありますので、卒業、入学の季節ということなのでしょう。余計なことかも知れませんが、碌でもない人生でないことを、影ながら祈っています。

君の待つURL夏来る  樋野菜々子

老人にとって、URLとは、よく解らないものですが、「いくらでも、目にしているものですよ」といわれました。そうなのかと思いました。

ひとやものごとが来ることを望み、頼みとして時を過ごすことを「待つ」といいます。季節は、いくらでも、巡ってきます。待ち望んでいることは、常に、遅れてしまうもの。生きるということは、耐えるということなのかも知れません。

三日ほど干しっぱなしの半ズボン  樋野菜々子

干しっぱなしの理由を考えてみました。干したことで満足してしまった。他のことに興味が移ってしまった。非常に多忙である。着る時に取りこめばいいと考えている。

それよりも、三日であること、半ズボンであることに、理由があるのかも知れません。

金魚鉢私も画面内の人  樋野菜々子

傍観者ではなく当事者ということなのでしょう。そのことに、あらためて、気づかされました。金魚鉢の金魚の幸不幸について思いをめぐらせています。自分自身の幸不幸について思いをめぐらせています。

夏きざすベンチに鳩の座りをり  千野千佳

座っている鳩について考えてみました。何故、座っているように見えたのか。何故、座っているとしたのか。「座る」とは、ものがしっかりとある位置を占めているということなのだそうです。夏らしくなったベンチだからなのかも知れません。鳩も覚悟を決めたのだということです。

立てばすぐ席とられたる薄暑かな  千野千佳

これが人生であるということです。取られることもあります。取ることもあります。そうしなければ生きていけないからです。少し感ずるほどの暑さ。少し感ずるほどの不快さ。少し感ずるほどの悲しみ。これから本格的な夏がやってきます。これまでのことは忘れ、あたらしい席を見つけにいかなくてはならないのだと思っています。

銅像のわきのしたより噴水が  千野千佳

銅像は手前に、噴水は、その向こうにあるのだと思います。そのように見える、ちょうどいい場所にいるということなのです。これは、遠近法だなどと、のんびり構えているときではありません。これはよいことなのです。よいことは続くものです。これから、さらなるよいことが訪れます。このチャンスは逃してはならないのだと思います。

場所とりのミニーマウスの日傘かな  千野千佳

永遠のガールフレンドなのだそうです。「永遠」と公私ともに認められてしまったら、どんなに辛いことなのでしょう。

日傘には、ミニーマウスが描かれ、それは、場所取りに使われています。考えてみれば、それくらいのことに使われるのならば、しかたがないとあきらめてもいいのかも知れません。

冷さうめんみるみる雨のつよくなる  千野千佳

雨は、だんだん強くなってきています。おお粒の雨が降っています。それは、冷さうめんを食べようとしたときだったのかも知れません。外へ出る用事もなく、自分は決して、この雨に濡れることはないと確信したとき。おお粒の雨は、楽しくなってきます。

夏雲やかすれしポスカぐつと押す  千野千佳

ボールペンは、使い切るものだと思っています。使い切った時の達成感がなんともいえません。ところが、ポスカを、使い切ったという記憶がありません。かすれてしまうから、そのまま、捨ててしまったのだと思います。この夏雲はポスカにより描かれたものです。ポスカをぐっと押したときの手ごたえを思いだしています。この手ごたえには、達成感とは違う別の何かがあるのだと思います。

リュック背負ひシートベルトを夏の朝  千野千佳

夏の朝という季語がぴったりしているような気もします。リュックを背負ったままシートベルトをしているのは幼い子どもなのでしょう。これからどこかへ出掛けることの楽しさ、高揚感というようなものも感じられます。

おりがみの家に窓描くすずしさよ  千野千佳

おりがみとは、正方形の色紙を折ることで個体を作る遊びです。幼稚園児、保育園児が夢中になるもの。そんなイメージを持っています。窓を開けますと涼風が入ってきます。窓を描くとは、涼風も描くということです。したがって、おりがみの家にも、涼風が入って来たということになります。

白南風や店員の私語たのしさう  千野千佳

不快に思うことを、楽しそうだと感じました。店員が楽しそうに話しているのをながめていました。白南風だったから、そう感じたのかも知れません。

ひそかに話すこと、ささやくこと、公の場であるにもかかわらず、自分たちの勝手な話をすること、それを「私語」といいます。

平泳ぎしながら時計さがしをり  千野千佳

からだは、平泳ぎに集中しています。こころは時計をさがすことに集中しています。ひとと時間との係わりかたについて、何かをいいたかったのかも知れません。ひとを表現するのに、「このひとを取りまいている時間は、他のひととは違うようだ」などといういいかたがあります。

時間について、どう考えればいいのでしょうか。時計は、さがさなければいけないものなのでしょうか。


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