【週俳7月の俳句を読む】
句の前で立ち止まって
羽田野 令
教室中でメロスの激怒夏に入る 村上瑛
メロスは昔から教科書に載っていて、今も載っている。冒頭「メロスは激怒した」は多くの人が知っている。その激怒の共有を「教室中で」と言ったところが、皆が激怒しているように書けているのが面白い。暑い教室での生徒たちの熱気も感じられる。
冷やし中華電源コードに頭と尾 村上瑛
コードに頭と尾があるって何のことだろうと思った。頭と尾だから動物ということだろうと思って、コード、動物で検索してみた。充電のコードの差し込み口に動物が付いているようなのだ。「ガブッと噛み付く」というコピーで載っている。コンセントに向かって動物が噛み付いているような格好である。付いているのかと思ったら、コードにつける別売りのマスコットなのだそうだ。猫、兎、犬、鰐、鯨、河馬、パンダ等々明るい色の可愛らしい動物が沢山ある。冷やし中華を食べながら充電している光景か。若者の生活のひとコマなのだろう。
紫陽花やうらぶれつつも文具店 太田うさぎ
私の住んでいる小学校区に昔あった文房具店はもう数年も前に店を閉めているし、隣の学区の文房具屋ももっと前からなくなっている。今は文房具店に代わる店は100円ショップだろうか。たまに古い商店街に昔からあったままのような文房具屋さんが今も営業しているのを見かけることはある。そういう情景が掲句なのだろう。紫陽花は散ることなく、その形のまま朽ちていく。茶色くなってまさにうらぶれた感じになる。「紫陽花や」で切れているから、「うらぶれつつも」は文具店にかかっているのだが、紫陽花の立ちつつ枯れていっている姿をも思わせる。
てつぺんかけたか義経は息災か 太田うさぎ
十句の中でこれだけがわからない。他は描かれている場面を映像としてそれぞれ思い浮かべることができる。しかしこの句の前では立ち止まってしまった。この句がここ何日も私の中にひっかかっている。何か面白くて、わからないからと通り過ぎてしまえないのである。
構成としては「てつぺんかけたか」と「義経は息災か」の部分に分かれている。「てつぺんかけたか」は時鳥の鳴き声の聞き做しの一つである。時鳥はそれはそれは綺麗な声で鳴く。私にはキョキョキョと聞こえたことがあるが、キョキョキョとカタカナで書いてしまうととても尖った膨らみのない音のように表されてしまうが、澄んだ響き渡る深い透明感のあるキョキョ キョという声である。
わからないのは、「義経は息災か」なのである。この「ヨシツネ」「ソクサイ」という音も、鳥の声の聞き做しのようにも思えないこともない。このように聞く人もいるのかもしれない。「義経は息災か」、これは誰かの科白という形である。義経が無事に元気にいるかと案じている言葉とするなら、誰の言葉とするかはいろいろ考えられる。
義経は、家族一緒にひとところに暮らすという今の私たちのような生活をしてきた人ではないから、どの時点でも誰かに「息災か」と心配されていただろう。赤ん坊の時、雪の中を常盤御前に抱かれて吉野へ逃げ延びた時は父義朝が心配しただろう。が、その時はまだ牛若という名であった。少し長じて鞍馬山に入った時は遮那王である。義経となったのは元服してからである。母である常盤御前、妻である静御前の言葉だと取れるが、頼朝と義経の命を助けた池禅尼もこういう思いは抱いただろう。
義経は芝居や語り芸の中によく登場する人物だ。大物浦の渡海屋に現れる義経、安宅の関で弁慶とともに登場する義経などでは「義経は息災か」は思い当たらないのだが、他に歌舞伎、能といった演劇の中や、浄瑠璃などの様々な語りの芸のなかに「義経は息災か」と語られる場面があるのかもしれない。
あるいは、義経は平泉で没したのではなく生き延びたという伝説がある。生きて大陸へ渡ったというのだ。
その後の義経を心配する民衆の声として「義経は息災か」というのもありかもしれない。
また、時鳥が綺麗な声で鳴くその意味するところは、義経を心配しているのだとも読める。
決定的な解釈に行きあたらなくてまだ何だろうという疑問のさ中にいる。時鳥の澄んだ声に時空を超えた発想が沸き起こった、と解すればいいのだろうか。
エクストリームアイロニングののち午睡 橋本直
エクストリームアイロニングというスポーツがあるのだそうだ。急な岩場を登ったりしてその頂上でアイロンがけをしたり、一面の雪の原の中に行ってアイロン台を置いてアイロン掛けをしたりするらしい。もちろんアイロンコードは電源に繋がっていない。別にシャツのシワがちゃんと伸びたりしなくていいのだそうである。険しい自然の中の困難な道のりを経てそこで平然とした顔をしてアイロン掛けをする。あるいは、スカイダイビングの途中や水中でのアイロンがけというのもあるそうである。
なぜそんな場所でアイロンを掛けなければならないのか。スポーツとはっきり言えるのか言えないのか解らないような行為である。
まるで漫画のような、冗談のようなことが実際に行われていることに驚く。
「エクストリームアイロニング」という長い言葉にはあと季語ぐらいしか合わせられない。「エクストリームアイロニング」というしんどい目をして午睡というのは頷ける。
不自然な川不自然な小鬼百合 橋本直
川は大抵どこも不自然だ。護岸工事でがちがちに固められている。元々川は氾濫原を広く持ち流域の形を変えて流れるものだろう。だから「不自然な川」はよくわかる。川と小鬼百合のどちらにも「不自然な」という語が掛かっているが、二つの「不自然な」は少し違うように思える。あとの方の「不自然な」は不自然なように見えるということではないだろうか。鬼百合はよく見るし、つい最近も見たが「小鬼百合」は見たことがなかった。しかし写真で見るに「鬼百合」と「小鬼百合」はそっくりである。色が少し薄いのが小鬼百合という説明があるが、花弁の形や反り方は同じだ。鬼百合がすっくと咲いていて見事に反り返っているのは、よくぞこんな綺麗な形に誰が作ったの、と思うぐらいである。その花の作りは「不自然な」と形容してもいいくらいだと思う。川のそばの小鬼百合を不自然という同じ語の繰り返しのパターンの中に収めている。
メロスは昔から教科書に載っていて、今も載っている。冒頭「メロスは激怒した」は多くの人が知っている。その激怒の共有を「教室中で」と言ったところが、皆が激怒しているように書けているのが面白い。暑い教室での生徒たちの熱気も感じられる。
冷やし中華電源コードに頭と尾 村上瑛
コードに頭と尾があるって何のことだろうと思った。頭と尾だから動物ということだろうと思って、コード、動物で検索してみた。充電のコードの差し込み口に動物が付いているようなのだ。「ガブッと噛み付く」というコピーで載っている。コンセントに向かって動物が噛み付いているような格好である。付いているのかと思ったら、コードにつける別売りのマスコットなのだそうだ。猫、兎、犬、鰐、鯨、河馬、パンダ等々明るい色の可愛らしい動物が沢山ある。冷やし中華を食べながら充電している光景か。若者の生活のひとコマなのだろう。
紫陽花やうらぶれつつも文具店 太田うさぎ
私の住んでいる小学校区に昔あった文房具店はもう数年も前に店を閉めているし、隣の学区の文房具屋ももっと前からなくなっている。今は文房具店に代わる店は100円ショップだろうか。たまに古い商店街に昔からあったままのような文房具屋さんが今も営業しているのを見かけることはある。そういう情景が掲句なのだろう。紫陽花は散ることなく、その形のまま朽ちていく。茶色くなってまさにうらぶれた感じになる。「紫陽花や」で切れているから、「うらぶれつつも」は文具店にかかっているのだが、紫陽花の立ちつつ枯れていっている姿をも思わせる。
てつぺんかけたか義経は息災か 太田うさぎ
十句の中でこれだけがわからない。他は描かれている場面を映像としてそれぞれ思い浮かべることができる。しかしこの句の前では立ち止まってしまった。この句がここ何日も私の中にひっかかっている。何か面白くて、わからないからと通り過ぎてしまえないのである。
構成としては「てつぺんかけたか」と「義経は息災か」の部分に分かれている。「てつぺんかけたか」は時鳥の鳴き声の聞き做しの一つである。時鳥はそれはそれは綺麗な声で鳴く。私にはキョキョキョと聞こえたことがあるが、キョキョキョとカタカナで書いてしまうととても尖った膨らみのない音のように表されてしまうが、澄んだ響き渡る深い透明感のあるキョキョ キョという声である。
わからないのは、「義経は息災か」なのである。この「ヨシツネ」「ソクサイ」という音も、鳥の声の聞き做しのようにも思えないこともない。このように聞く人もいるのかもしれない。「義経は息災か」、これは誰かの科白という形である。義経が無事に元気にいるかと案じている言葉とするなら、誰の言葉とするかはいろいろ考えられる。
義経は、家族一緒にひとところに暮らすという今の私たちのような生活をしてきた人ではないから、どの時点でも誰かに「息災か」と心配されていただろう。赤ん坊の時、雪の中を常盤御前に抱かれて吉野へ逃げ延びた時は父義朝が心配しただろう。が、その時はまだ牛若という名であった。少し長じて鞍馬山に入った時は遮那王である。義経となったのは元服してからである。母である常盤御前、妻である静御前の言葉だと取れるが、頼朝と義経の命を助けた池禅尼もこういう思いは抱いただろう。
義経は芝居や語り芸の中によく登場する人物だ。大物浦の渡海屋に現れる義経、安宅の関で弁慶とともに登場する義経などでは「義経は息災か」は思い当たらないのだが、他に歌舞伎、能といった演劇の中や、浄瑠璃などの様々な語りの芸のなかに「義経は息災か」と語られる場面があるのかもしれない。
あるいは、義経は平泉で没したのではなく生き延びたという伝説がある。生きて大陸へ渡ったというのだ。
その後の義経を心配する民衆の声として「義経は息災か」というのもありかもしれない。
また、時鳥が綺麗な声で鳴くその意味するところは、義経を心配しているのだとも読める。
決定的な解釈に行きあたらなくてまだ何だろうという疑問のさ中にいる。時鳥の澄んだ声に時空を超えた発想が沸き起こった、と解すればいいのだろうか。
エクストリームアイロニングののち午睡 橋本直
エクストリームアイロニングというスポーツがあるのだそうだ。急な岩場を登ったりしてその頂上でアイロンがけをしたり、一面の雪の原の中に行ってアイロン台を置いてアイロン掛けをしたりするらしい。もちろんアイロンコードは電源に繋がっていない。別にシャツのシワがちゃんと伸びたりしなくていいのだそうである。険しい自然の中の困難な道のりを経てそこで平然とした顔をしてアイロン掛けをする。あるいは、スカイダイビングの途中や水中でのアイロンがけというのもあるそうである。
なぜそんな場所でアイロンを掛けなければならないのか。スポーツとはっきり言えるのか言えないのか解らないような行為である。
まるで漫画のような、冗談のようなことが実際に行われていることに驚く。
「エクストリームアイロニング」という長い言葉にはあと季語ぐらいしか合わせられない。「エクストリームアイロニング」というしんどい目をして午睡というのは頷ける。
不自然な川不自然な小鬼百合 橋本直
川は大抵どこも不自然だ。護岸工事でがちがちに固められている。元々川は氾濫原を広く持ち流域の形を変えて流れるものだろう。だから「不自然な川」はよくわかる。川と小鬼百合のどちらにも「不自然な」という語が掛かっているが、二つの「不自然な」は少し違うように思える。あとの方の「不自然な」は不自然なように見えるということではないだろうか。鬼百合はよく見るし、つい最近も見たが「小鬼百合」は見たことがなかった。しかし写真で見るに「鬼百合」と「小鬼百合」はそっくりである。色が少し薄いのが小鬼百合という説明があるが、花弁の形や反り方は同じだ。鬼百合がすっくと咲いていて見事に反り返っているのは、よくぞこんな綺麗な形に誰が作ったの、と思うぐらいである。その花の作りは「不自然な」と形容してもいいくらいだと思う。川のそばの小鬼百合を不自然という同じ語の繰り返しのパターンの中に収めている。
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