【週俳8月の俳句を読む】
ちょっと別の感覚へと
山田耕司
ぐらぐらになつた詩人が生えてゐる 堀田季何
何を書いたらいいのか迷っているのは、何かを書こうとしているからである。何か「を」書くという他動詞としての「書く」ではなく、書くことそのものを目的化している状態を自動詞としての「書く」という考え方を示したのは、たしか、ロラン・バルトであったろうか。
言葉を使うならば、社会的な意義あることを何らか言わなければならない。そういうまなざしの読者を想定して、詩歌においても何事か「を」言わなければならないというザワザワ感が広がり始めたのはいつからだったろうか。個人的な感覚で言えば、東日本大震災あたりから、か。
たしかに、言葉を使うものならば何かを訴えなければならないという義に思いいたす傾き具合もわからなくはない。と、同時に、「書く」ことを自動詞化する行為、つまり、作品を書くことそのものを目的とする営みが、詩歌というものの根っこのあたりにふかく組み込まれていることも忘れてはならないのだと思う。
「詩人」が「ぐらぐらになつた」状態とは、何ものをも書くことができなくなったことではなく、むしろ、何ごとか「を」描き続けなければならないありさまを指すのではなかろうか。他者であれ、またみずからの内奥にある読者であれ、その期待に応えることが、自己目的としての詩歌の手触りよりも、情報を運ぶウツワとしてのふるまいにつながってしまう。そんな時代の空気が、詩人をぐらつかせているのかもしれない。「詩人」を「奥歯」などに置き換えると、歯茎がイカれてしまっているのでアブナくなっている歯のありようを思い浮かべることができる。「生えてゐる」とは、「爛々と昼の星見え菌生え 高浜虚子」における「生え」とは異なって、やっとのことでそこに踏みとどまっているというように読めるのも、そのせいだろう。
掃除機の鳴りては止みぬ茄子の馬 柏柳明子
いうまでもなく「掃除」という目的があるからこそ、掃除機は吸ったりしているし、すなわち、その際に鳴ったりもするのである。「茄子の馬」という情報によって、掃除をしているのは「お盆」の準備やら後片付けやらが連想される。それは、〈意味〉の世界の図柄。なるほど、〈意味〉において、つじつまがあうようにしっかりと書かれている。
掃除機の音にのみ関心がある書き方をしている。ここに、〈意味〉の世界から、ちょっと別の感覚へと読者を誘う扉が備えられている。
「鳴りて」と「止みぬ」の間に、助詞「は」が示されている。このことで、「鳴り」と「止み」の営みが反復されるふるまいであることが読者にもたらされる。
人間の営みの慣習として飲み込もうとするならば、時代や場所が違っても「お盆」のころは人と人が出会い別れる機会が多く、なるほど、掃除機も鳴ったり止まったりを繰り返すことになるだろうなぁ、というヨミにたどり着くことになるだろう。ともあれ、こうした人間の営みの慣習に回収するヨミは、せっかくの「ちょっと別の感覚」への扉を活かしきれていないようで、私の好みではない。
モノとしての掃除機そのもののふるまいとして「鳴りては止みぬ」を読み直してみると、では、このずんぐりとしていて割り箸の四肢をふんばっている「茄子の馬」も、ひょっとしたら、自らの営みとして、あくびのひとつくらいするかもしれないなどという想像のエリアに足を踏み入れることになるかもしれない(ちなみに、キュウリで作るのが「精霊馬」、茄子で作るのは「精霊牛」というのだそうだが、この手のことはちょっと脇に置いておくことにしよう)。まあ、「想像」というよりは、「妄想」の域のヨミではあろうけれども。
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