【週俳8月の俳句を読む】
舞台装置
神山刻
◆堀田季何「生えてゐる」
イデオロギー、及び蠅などを用いた見立てとを主軸とした10句。
淫楽となるまで蝿の逃ぐる音 堀田季何
「淫楽」には大きく分けて二つ意味がある。
①淫楽(いんがく)……心を惑わす淫らな音楽。
②淫楽(いんらく)……みだらな楽しみ。肉欲の楽しみ。
手元の辞書に記載があるのは②のみであった。もちろんどちらで鑑賞しても問題ないだろう。
蠅という小さな生命を追い詰めて殺虫スプレーを振りかざす己の残虐性を自嘲した句ともとれるが、いずれにせよ、高い羽音を立てて飛ぶ蝿を追い立てることでより高い音で逃げることを、人間側は「淫楽」としてしまうのである。
◆佐藤友望 旅程表
作者は東北にお住まいとのこと。私と谷村行海くんでやっている真芯句会は若手中心の句会だが、そこで目にするような表現・句材がいくつか見られ、世代による俳句表現の共通項というのはやはりあるのかなと感じた。
水飲めば汗のはみ出す無人駅 佐藤友望
汗がところてん式に「はみ出す」のである。滲み出すのではなく。
そこには、数秒前まで自分の構成要素だった体液に対する執着心のようなものはない。
無人駅という場所にいて、人体の代謝機能がシンプルな装置として働いていることを、自分から突き放して描いているところが面白かった。
発汗をこう無機質に描いてしまうと、作者の肉体が人体の細胞の擬人化などとは無縁のところにある存在のように思えてくる。
大夕焼け寝るためだけのホテルかな 佐藤友望
ホテルの自室での句と受け止めたい。
寝るためだけに取ったホテルなのに、夕方に綺麗な大夕焼けが見える眺めのいい部屋を取ってしまった作者。
そして、「寝るためだけ」のホテルということはこれから改めて外へ出て、何らかの外食を摂ってから再びホテルに戻るということなのだ。
しかし、夕食を摂るにはまだ早い時間。自分で「寝るためだけ」と言っている以上、このホテルは他の有意義なことに使うことが叶わない設定の筈なのだ。当然読者は、ホテル内で本を読んだり風呂を浴びたりなどの時間を想像してはならない。
夕食までの手持ち無沙汰の時間を、大夕焼けに圧倒されるかのように窓を眺めているという作者の姿、その無音の時間の長さが感じ取れた一句。
秋近し米有り余る海鮮丼 佐藤友望
「ありあまる」がポエジーの溢れる動詞であることは疑いないところだと思うが、それを逆手に取って俗的なところに句と言葉を落とし込んでいるのが面白い。(作者の本意でなかったら申し訳ない)
確かに海鮮丼を食す上で米が余らなかったことは無かった気がするが、「ありあまる」まで行くかどうかは本人のペース配分次第だと思うのだ。
もしかすると、「秋近し」のこの季節だからネタとなる魚介類に箸が進んだものの、秋本番になれば米の美味しさが倍増してパワーバランスが逆転し、エビやマグロの方がありあまることになる、とでも作中主体は思っているのかもしれない。
大丈夫。海鮮丼はオールシーズン米が余るように出来ているし、おそらく毎回ペース配分は上手くいかない。
◆中矢温 にこり
中矢さんとは何度か句会でご一緒したことがあるが、一筋縄でいかない句が多い印象。一句目から牽制のようなものを感じた。
正しさの耳飾りけり律の風 中矢温
季語でない形容詞を用いた「?さの」という上五は、個人的には飲み込めないことが多い。飲み込めないことも手伝って、「正しさ」と「律」の意味関係の強さなどが余計に気になりはじめてしまった。
「耳飾り」という既存の単語に加工を加えて「耳飾りけり」とするなどのように、色々な手法を身につけてらっしゃるのだろう。恐らく、一句を通して読者に容易には結像を許さない構造に敢えてしているのだと思う。
桃買へば鏡ににこり昇降機 中矢温
一般的な俳句とは違うところで俳句を作っているのかもしれない。
「桃を買った時はいつも、エレベーターの中の鏡に微笑んでしまう」というおおよその内容なのかと思うが、その場合一読した字面上は「桃買へば鏡ににこり/昇降機」と切れるところを、意味の上では「桃買へば/鏡ににこり昇降機」と前半で切れる形をとるということになる。
普通に俳句を読んでいく上では若干戸惑いがないわけでもないが、そういうところは意識的にやっていらっしゃるということなのだろうか。
夢の汝は水棲にして秋の雨 中矢温
一読してギレルモ・デル・トロ監督の『シェイプ・オブ・ウォーター』を思い出したが、既存の映画の世界に即して鑑賞するのはむしろ作者に失礼であろう。
おそらくは思い人である「夢の汝」は、夢とは違って当然に陸上に足をついて生活していて、夢の中のように水の中で暮しているわけでもない。そして、秋の雨が静かに美しく降り出しても、汝は私の目の前に現れてくれるわけでもないのである。
好きな句。
鰯雲けふの天気と検温と 中矢温
鰯雲といったあとにわざわざ天気というのだから、つづく「検温」を同様に鰯雲に見立
てている、というのは浅い鑑賞であろうか。
句の評としては少しずれるかもしれないが、街中にご自身の名前の文字「温」が、検査される文字として目にされるようなご時世、作者はどんな心持ちで見ているのだろう、というところに思いが及んだ。
◆衛藤夏子 海辺の映画館
楽しませていただいた。
映画館によってはロビーが全面ガラス張りで、そこから綺麗な景色が望めるのかもしれない。が、もちろん映画館の本分はそこではなく、外界の情報を一切遮断している暗い箱をいくつも擁した建物、というところにある筈である。10句を通して季語の配置とそこのギャップとを味わえたように思う。
萩の咲く港の見える映画館 衛藤夏子
スクリーンのある部屋の扉に入ってしまえば、萩の咲く港は当然見えない。ところが、見えようが見えまいが作中主体のいるところは「萩の咲く?映画館」に違いないのであり、そのことは彼女にとって軽いことではないのだ。
映画館での映画の鑑賞は、その映画館の周辺情報に少なからず影響されると思う。ここでは映画を見終わったあとには夕影の萩の港が待っている、などのように。
筆者も『シティハンター』は選んで歌舞伎町の東宝シネマズに見に行った。『踊る大捜査線THE MOVIE』などは見たことはないが、どちらかといえばお台場のユナイテッドシネマで、それが叶わなければ海に近い映画館で見たくなるはずだ。
戦争を語るキネマの秋祭 衛藤夏子
星とんでエンドロールの故人の名 衛藤夏子
映写技師ちいさな街を去る燕 衛藤夏子
句材に映画館を選んだ時点で、基本的には時候や衣服・食べ物の季語を選ばない限り「内と外」の取り合わせの句になることは避けられないが、これだけ徹底的にやっているなら意図的なものであろう。
海辺の映画館の外には、上映中も萩が咲いているし、星が飛んでいるだろうし、燕が去っているだろうし、なんなら秋祭も近隣で行われているのかもしれない。そこを、ともすると映画の本編の内容を表していると取れるような書き振りにしているところを楽しみたい。
鰯雲映画館から広がって 衛藤夏子
この映画館を愛するあまり、鰯雲がこの映画館という一点から遠くの空へ広がっていくというような錯覚を覚え始めている。
鰯雲の連続性によってエンドロール的なものも想起させるが、既にエンドロールの句が数句前にあるため、鰯雲そのものの句として味わいたい。
映画館を出るまでは空に何が広がっているかわからないという、「シュレディンガーの鰯雲」とでも言いたげな舞台装置の物言いが楽しい一句。
◆柏柳明子 盆用意
お盆時期のスピリチュアル的バイアスを楽しませていただいた。
どの部屋の扉も開きし盆用意 柏柳明子
「開けし」ではないので、おそらく誰の手によるものとはなしに勝手にすべての扉が空
いているのだ。
盆用意の時期、先祖をお迎えするに当たって、家人は無意識に家の風通しを良くしなけ
ればと思わされるものなのかもしれない。
掃除機の鳴りてはやみぬ茄子の馬 柏柳明子
いくつもある小部屋を電源プラグを抜き差ししつつ掃除機をこまめにかけていっているのだろう。「つけてはとめぬ」ではない以上、作中主体ではない誰かの手によって。
普段はそこまで念入りに掃除機をかけないような部屋まで、誰とはなくあたかもひとりでにであるかのように、だ。
そういえば、車輪の二つついた掃除機本体は茄子の馬にどことなく似ているかもしれな
い。
甘き指近づけてきし盆の月 柏柳明子
お盆で集まった親族のうちの子供の指か、親しかった故人の指か、それとも月光の婉曲
的な表現か。
どの鑑賞でも楽しみたい。
新涼の美貌の石に出会ひけり 柏柳明子
石に「出会う」のである。出会うには「偶然に会う」的なニュアンスが強く含まれるので、親族の墓石などではないだろう。
落ちている石の美醜に、ある種病的ともいえる想いを馳せるのは新涼の時期のせいなのだろうか。
虫すだくヨックモックのあをい箱 柏柳明子
「ヨックモック」が、虫の声のオノマトペ的に働いているようにも感じた。
一読したときには捨ててある箱に虫が集まっているのかとも思ったが、親族の集まりにヨックモックのお菓子を広げていると捉える方が自然だろう。
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