【週俳9月の俳句を読む】
もう家に帰ろう
近恵
仏壇に安寧ばかり西瓜かな 相馬京菜
小学生の頃、祖母の家に行くと真っ先に仏壇へ向かい、マッチを擦って線香に火を付け、チンチンとお鈴を鳴らし南無南無と唱え手を合わせるのが日課だった。その仏壇は箪笥の上にあり、お供え物は林檎や蜜柑や頂きもののお菓子。気張ってもせいぜいデラウェアで、大きな西瓜が置かれることはない。立派な花も飾られることもなく、庭に咲いた菊があるくらい。灯籠もなく、写真もなく、もちろん金ぴかでもなく、奥に位牌があるだけの古いそっけない仏壇だった。その上その仏壇に収まっている仏さんは私とは血のつながりのない、祖母の再婚相手であった。それでも私は行くたびにマッチを擦って線香を焚き、チンチンとお鈴を鳴らし、手を合わせて南無南無と唱える。大人と同じことが出来るのが嬉しかったのかもしれない。
仏壇はそれだけで十分安寧である。なにしろ生きた人間と違って仏壇は諍いも事故も起こさない。それでもお盆になるとだいたい立派な花が飾られ、灯籠が回り、西瓜が置かれたりする。置かれた西瓜は仏壇に比べるとやけに大きくてバランスが悪い。そのうち冷して親戚家族で食べるのであろう。仏さんは一緒に食べたつもりになってそんな一族をただ見守っている。せいぜい揉めても西瓜の大きさが均等ではなくて子供たちが取り合いになるくらい。そして最後にお婆さんとかが仏壇の抽斗からチリ紙に包んだ小遣いを孫にくれたりするのだ。仏壇の西瓜はそんな安寧な仏壇に、年に一度のちょっとした賑やかさをもたらしてくれる重要なアイテムなのである。
半玉の西瓜となれば撫ではせぬ 相馬京菜
さすがに切って半玉にして売られている西瓜は撫でないけれど、田舎から送られてきた巨大な西瓜なら、半分に切っても私なら撫でちゃうなあ。西瓜、大好きだから。お尻の方をすりすりっと撫でて、それからおもむろに斜めにして底の皮を薄く削いで、西瓜がぐらぐらしないようにして冷蔵庫に入れる。でもやっぱり普通は半玉となればみんな撫でないものなのか。人は丸い物に安心するし、幼い子供の頭のようでついつい撫でてしまうのだろうから、半分になったらもう可愛らしいものではないのかもしれない。
「泣けよ」とふ本屋のポップ夏の月 吉川わる
最近、本の分類を目的別にしてコーナーを作る本屋さんがあるらしい。目的別と言っても、ダイエットや旅や、そういう目的別ではなく、「笑える」とか「じーんとくる」とか「スリルを味わいたい」とか「恋したくなる」とか、そういった読者の目的別である。「泣けよ」もきっとそんな本屋さんのポップなのだろう。「泣けよ」とは随分と命令口調ではあるが、日ごろ泣くような出来事はそうそうなく、ストレスは溜まっていたりして、でも泣きわめくこともできず我慢している現代の人にとって、「泣けよ」という命令は刺さるものかもしれない。そこまで言うなら泣いていいんですよね、的気分で、本のせいにして泣いてすっきりできるだろうから。夏の月のクールに包み込むような感じが「泣けよ」の裏にある「泣いもていいんだよ」のメッセージにピッタリである。
秋霖や車内流るる文字の列 吉川わる
新幹線や地下鉄、たまにバスもそうだが、車両の扉の上、あるいは料金表の上にある電光掲示板の文字が横に流れて、次に停車する駅やバス停、株価やニュース等を表示していたりする。流れる文字に音声はない。新幹線ならスピードが出ているので、小雨でも窓に勢いよくパタパタとぶつかり雨の線が後方へ流れて行くだけ。地下鉄なら雨も当たらない。バスなら窓の外は染み入るような雨が見えるだろう。そんな車内を流れてゆく文字の列をなんとなく見るともなしに見ているのだろう。心ここにあらずの感じには、時雨でも驟雨でもなく、やはり秋霖がよく似合う。そして目的の駅やバス停が車内アナウンスされ耳に入ると、はっと我に返るのだ。
懐におやつの卵秋祭 淺津大雅
さすがにおやつに生卵ということはないだろうから、きっとゆで卵だろう。それが懐にある。秋祭ならいろいろな屋台もでている筈なのに、おやつを家から持ってきたのだ。家の人に持たされたのかもしれない。お小遣いがないのかも。あるいは買いたいものや遊びたい屋台があるのかも。もしかしたら屋台の手伝いをさせられるのかもしれない。秋祭の俳句では珍しい切り取り方で、いろいろと想像が広がる。
秋の虹おくれて夜灯のつきにけり 淺津大雅
なぜだか秋の虹は真昼間より夕方というイメージがある。特に晩秋であればもう薄暗くなりかけた空に大きく虹がかかり、虹が消える頃には街灯がぽつぽつと灯り始める。何気ない光景だけれど、夕方と夜の間を埋めるかのような大きな夕虹が、消え、遅れて灯りがつく、というゆるやかな時間の流れが、ああ、もう家に帰ろう、そんな気持ちになる。
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