【週俳9月の俳句を読む】
西瓜丸く手籠の布をよろこばす 相馬京菜
布をよろこばす、というのがよい。たしかに角ばったものを包むよりも球に近い、それもどっしりとした重さのあるものを包むほうが、痛くもなくて包みがいがあるかもしれない(布としても。あっ、今は布の気持ちになって読んでいます)。手籠から出されたときに、おっ、これを包むのか、西瓜か、いいじゃん、今日はいい仕事だな!という気持ちになりそう。布だけでなく包み手の楽しさも伝わってくる。
地球の日落ちて西瓜に日の当たる 相馬京菜
2回出てくる「日」は単純なリフレインではなく、前者は地球における太陽で、後者の日はその光のことなのだ。句を読むと、まずぱっと太陽の周囲を回る地球の図がイメージされ、そのあと地球の上のとある畑の、輝くスイカ一つにぐっとフォーカスされる。眼の中に3つの球の残像が浮かぶ。全部丸くてなんとなく満足感がある。
七夕や盗み見てゐる物理の書 吉川わる
この主体は少なくとも物理専攻の人ではないとわかる。自分の教科書なら盗み見たりせずに堂々と読むはずだからだ。自分の部屋に忘れものとして置いてある物理の書物をちょっと見てみるような近しい関係では、まずない。この人は、教室の机の上に忘れられた物理本をぱらぱらめくっているか、本屋で自分のジャンルではない場所にアウェイの雰囲気を感じつつ立ち読みしているか、そんなところだと思われる。物理難しそう、全然わからん、図を見ても正直雰囲気しかわからん、と思いつつ、物理の本を日常的に読んでいる(今は会えない関係の)その人にかすかに憧れている。そこに上5の七夕のニュアンスが絶妙に重なってくると思う。
自分より賢い人は格好いいよね。わかります。ことに、自分が無知なジャンルにあかるい人は無条件に素敵だ。自分の知らない小宇宙がその人の中にあり、そこに近づきたくても触れられないということ。どこまでも憧れを持って盗み見るしかないのだ。
ぽつりぽつり背中に話すカヌーかな 吉川わる
登場人物が出てくるとき、その二人の関係をつい考えてしまう。カヌーに二人で乗るくらいには親しく、しかし対面では言えないことがある関係。相手にそう簡単には明け渡せない領域のある関係。恋人ではないだろう(恋人だとすればもうその関係は終わりかけていそう)。親子でも合うが、ここはひとつ、友人で。
相手も自分もその場から逃げられず、対面で相手の目を見て反応を気にしなくてもいいからこそ言える言葉があり、ようやく相手に渡せる自分の中の領域がある。そう考えるとこの「ぽつりぽつり」が何とも良い。その言葉が湖や森に吸い込まれてゆるされていきそうなところも。
まあ、そんな緊迫した話じゃなく、風景の話なんかしていても、いいんですけども、ね。
三日月に水草すぢかふ水面かな 淺津大雅
水面に映った三日月とゆるやかに揺れる水草がななめに交叉している。(単に複数本の水草が交叉している、という読みでもいいのかもしれないがそれだと三日月に、にはならないのではないかと思った)
三日月は天にあり、水草の本体は水中にあり、本来は交わることはない。水面という一平面があるがためにそのまぼろしが交わる、この面白さ。文頭の「み」の音、挟まれるカ行の音の配列が非常に心地よい。
台風の夜の痩犬をかはいがる 淺津大雅
台風が来るときはすべての犬を家にしまうべきだというのをツイッターで読んだ(@momodog22さんのツイートより、参考:https://twitter.com/i/events/1301398833591533568)。この人も、自分が飼っている犬かどうかはわからないが、台風に備えて犬を家の中にしまったのだろう。
主体がこの犬をかわいがってしまうのは、もちろん家に入れてみて犬の哀れさに目がいったことも理由であるかもしれないが、台風の夜の自分自身の身の置き所のなさも理由であるだろう。自分の不安を埋めるようにかわいがる犬はふくふくと肥えてはおらず、ゆたかな動物を撫でる幸福は感じられない。しかし孤独な一人と一匹の連帯のようなものも感じられて、わるくない。
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