【空へゆく階段】№49
意志の文体 木村轡『日向灘』
田中裕明
「晨」第15号・1986年9月
いつもという訳では決してないけれども、本を読むときに文体が気になることがある。そのとき読んでいる文書のスタイルが変わっているというのではなくて、文体に対して意識的にさせる文章がこの世にはあるということだろう。
同じように句集でも文体が気になる本がある。たとえばこの木村さんに「日向灘」がそうだ。
夜の新樹少年潔き怒り持つ
山の子と海を夢みるかたつむり
この子供が主人公である二句は、昭和四十九年以前として収められている。作者の初学の頃の作品と言ってさしつかえないだろうが、ある文体の萌芽のようなものが感じられる。いまかりにそれを「意志の文体」と呼ぶ。
畦塗るや高嶺いちにち雲の中
寒明けの寺の銀杏がぬきんでて
明け方の夢が尾を引き青嶺聳つ
俳句は散文ではないから、文体という言葉は当たらないかもしれない。それならスタイルと呼ぼうか。ビイルを飲むのにだってスタイルがある。
さきほど「意志の文体」という言葉を使ったけれども、それは作品の中に作者の志向性あるいはこころざしがあらわれている、そんなスタイルというほどの意味である。
そう、たとえば雲の中にある高嶺のように、あるいは寺の銀杏の木のように、作者の意志は垂直に立っている。それをいま比喩でもなく、象徴でもない、文体という言葉で表現したい。
おもえば作者の師飯田龍太もまた蛇笏も、意志の文体とでも呼ぶべきものを持つ作家ではなかったか。一言で言えばこの親子の作品にはスタイルがある。そのスタイルを木村氏も学んだにちがいない。
もちろん龍太や蛇笏はその作品の中で垂直の意志だけを表現したのではない。同じように作者も作品のモチーフの幅にはかなり広いものがある。
小鳥買ふことおもひだし冬木坂
春鴨の水がお寺へきらきらす
つくねんと負鶏の日日梅ひらく
鳥をモチーフにした詩では田村隆一の「言葉のない世界」を思い出す。あの詩の場合はライトモチーフと言ったほうが良いのかもしれない。田村の詩の最終連は「おれは小屋にかえらない/ウイスキーを水でわるように/言葉を意味でわるわけにはいかない」というものだった。現代人にとって鳥は鳥でしかないけれども、古代はそうではなかった。さきの三句には古代人の目が感じられないか。
この句集のモチーフにはもうひとつ死者への呼びかけがある。それについて触れる余裕がなかったのが残念である。
吊干菜いづこの家も遺影あり
稲架の間の墓なつかしき故郷かな
亡き父母と語りつ青野の川渡る
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