2021-11-21

【極私的姫路散歩】№1  「錯覚」を求めて 村田篠

 【極私的姫路散歩】№1

「錯覚」を求めて

村田 篠


コロナの影響で外出が激減したころ、身体を動かすために東京の街歩きを始めた。「街歩き」というと聞こえはいいけれど、ただの散歩である。住んでいる周辺が自然の少ないところなので、散歩をすると、必然的に「街歩き」になった。

あちらこちらに足を伸ばし、頻繁に歩くようになると、これが予想以上に楽しい。最近は随所に立て札や説明パネルが設置されていて、いろいろなことを教えてくれるので、どんどん想像が広がってゆく。

「風景」はかならず「時間」を含んでいる。「現在」の姿の裏には「過去」が透けて見えるのだ。

1年半ほど帰省していなかった姫路へ、この秋、頻繁に行く用事ができた。東京で「街歩き的散歩」の味を覚えた私は、用事のあるとき以外の時間を使って、姫路でも歩くようになった。

姫路城の世界遺産登録を機に城下の整備が進み、2014年の大河ドラマ『黒田官兵衛』の放映で姫路城周辺が再び注目されるようになったせいか、姫路は街の歴史を掘り起こされ、いつのまにか、「街歩きの宝庫」のような場所になっていた。

24歳で離れてからン十年、街はすっかり変わってしまったけれど、ふと佇むと、ゆっくり時が流れてゆく音が聞こえる。現在の風景に過去の風景が重なって見えるような気がしてくる。もしかしたら、そんな「錯覚」を待望しているのかもしれない。

まずは姫路城の周囲を歩いてみることにする。城の東南にある姫路城の入場門の跡のひとつ、「総社門跡」からスタート。石の鳥居をくぐって「播磨國総社」を通りすぎ、「内京口門跡」へ。この門跡、いまは女子校の裏門として風景に溶け込んでいるのが、なんとも微笑ましい。


ここから始まっている水路が姫路城の中濠。もちろん、かつてはぐるりと城を取り囲んでいたのだけれど、時代を経て埋め立てられ、いまは城の北半分に残っているのみだ。


ちなみに、姫路城には城に近い方から「内濠」「中濠」「外濠」と三重の濠があり、「内濠」はほぼ残っているが、「中濠」「外濠」は遺構になってしまっている部分が多い。

中濠をかすめて少し東へ歩くと、北へ向かって延びる「寺町すじ」が現れる。向かって左側にずらっと寺院が並んでいる道で、右側には「邸宅」と呼びたい、呼んで差し支えない風情の大きな家が並ぶ。

寺が多いことや「五軒邸」(ごけんやしき)という地名から察すると、かつては武家が住んでいた屋敷町だったのだと思う。「五間邸」と表記していたこともあるらしいから、間口の大きさが地名になったのかもしれないけれど、詳細は分からない。

「寺町すじ」を抜けると、「ノコギリ横丁」と呼ばれる不思議な町並みが現れる。各家屋が道に対して斜めに建っているので、ノコギリの刃のように町並みがギザギザしているのだ。こういう建て方をした深いわけはきっとあると思うのだけれど、残念ながらはっきりと分かっていない。

またこのあたりは、きれいな四つ角ではなく、少しずれて道が付いている。これは「あてまげ」と言って、敵の侵攻を少し鈍らせるための、姫路城の守りのひとつだという。

ノコギリ横丁

あてまげ

「あてまげ」の地域を過ぎると古い町家がぽつぽつと現れ、「野里」の古い街並みが見えてくる。かつて「野里」は但馬への玄関口として栄えた商業の街で、その名残があちらこちらに残っているエリアだ。

そこを歩く前に野里街道へ出て、「野里門跡」へ寄る。門跡そのものは影も形もなく、かつての名残はない。

けれども、わずかに残っている石垣の脇に立ち、再び姿を現した中濠が直角に折れ曲がって城の北側へ流れ去るようすを見ていると、自分が立っている場所が、城の内外を分ける目に見えない境界の「外」なのだというあやふやな感情が、ゆらゆらと身体の中に立ち上がってくる。  


 (つづく)

0 comments: