2021-11-21

『ゴリラ』読書会 創刊号~5号を読む〔前篇〕

『ゴリラ』読書会 創刊号~5号を読む〔前篇〕

開催日時:2021年8月14日 13時~16時
出席者:生駒大祐 小川楓子 黒岩徳将 外山一機 中山奈々 中矢温 三世川浩司 横井来季

『ゴリラ』
創刊号 1986年7月31日発行
2号 1986年10月5日発行
3号 1986年12月15日発行
4号 1987年3月5日発行
5号 1987年5月15日発行

小川●
本日はお集まりいただきありがとうございます。今回は、1985年6月に「海程」が同人誌から主宰誌に移行し、谷佳紀が、一時「海程」を退会。そして、原満三寿と結成した同人誌『ゴリラ』を取り上げます。まず、創刊号から五号まで読みます。

俳壇のなかでは、ほとんど知られていない海程系の俳人たちの面白い作品を『ゴリラ』で紐解いてゆきたいです。不確実性が高い世界のなかで「意味がわかる」ということが重視され「意味がわからない」ことに対する拒否感のようなものを覚える傾向が社会の中で強まっているとのではないかと感じます。そのなかで「簡単にはわからないもの」や「意味以外のもの」を考えてゆきたいです。

さて「ゴリラ」の二人を簡単に紹介します。

谷佳紀は、1943年、新潟県生まれ。1962年、2号から「海程」に参加。1976年、海程賞受賞。1985年、「海程」退会。1986年、原満三寿と『ゴリラ』創刊。1999年、「海程」復帰。2018年「海程」終刊、後続誌「海原」同人となるも死去。句集に『谷佳紀句集』『楽』、遺句集『ひらひら』。

一方の原満三寿は、1940年、北海道生まれ。俳句は「海程」「炎帝」「ゴリラ」「DA句会」を経て、無所属。句集に『日本塵』ほか。『風の図譜』により第12回小野市詩歌文学賞(俳句部門)受賞。詩は「あいなめ」(第二次)「騒」を経て、無所属。詩集に『魚族の前に』ほか。『評伝 金子光晴』により第二回山本健吉文学賞受賞しています。

黒岩●
ありがとうございます。司会を務めます、黒岩です。よろしくお願いします。時間はたっぷりあるので思い残しのないディスカッションができればと思います。全体の流れとしては、小川さんのリクエストを受けて黒岩が簡単に5分くらいで1986年の俳句と日本を表にして説明します。私自身生まれておらず、詰めが甘いところがあるので、皆さんご指摘・補足をお願いします。それから皆さんの『ゴリラ』1-5号の10句選を見て、それぞれ全体の所感と評論に思ったことを述べていただければと思います。

1986年前後の俳壇の動きについて今回は社会の動きと金子兜太という俳人がどういう状態だったのか、それから現代俳句協会・俳人協会の年表があったので、そこからエポック的な今日の俳壇に繋がるところを持ってきています。 

金子兜太は1983年に現代俳句協会の会長に就任、現代俳句協会の人数も増やしていこうとか、雑誌を綺麗なものにして紙面を充実させていこうとか、協会も勢いのある雰囲気がありました。1985年以前と以降に誌面の分厚さがかなり変わっていたのも現代俳句協会事務所で確認しています。この年の現代俳句協会新人賞は折笠美秋、「未来図」の創刊、飯田龍太『山の影』が刊行。角川俳句賞受賞作は風土詠的な特色のものがあります。

「海程」は金子兜太が従来の同人代表から主宰になるという移り変わりがあります。こういう移り変わりがあって、『ゴリラ』も生まれたのではないかと思います。 評論については谷佳紀の評論で坪内稔典や夏石番矢が話題にあがっていたように、血気盛んに「俳句研究」や「現代俳句」で評論を書き連ねているのが特徴です。澤好摩さんが「俳句研究年鑑」でそこらへんを書かれています。

1986年に金子兜太が『皆之』を刊行してます。谷佳紀の主張やメッセージにも重なるところがあると思うんですが、この頃、和田悟朗が短文時評で「『平明』が大事という価値があるけれど果たしてそれだけでいいんだろうか」といった疑問を投げかける評論が、『現代俳句』にあったりしました。それから各協会は海外とか外国に対する親交や文化普及をしていました。『俳句研究』が俳句研究賞を、『俳壇』が俳壇賞をスタートしている、そんな時代でした。金子兜太が小林一茶についての評論を出したりしている時期で、この頃兜太は……小川さん、何歳くらいでしょうか。

小川●
金子兜太は1919年生まれなので……。

黒岩●
では68歳くらいですね。ここら辺がベースの社会状況としてわかればいいのではと思います。非常に散発的でこまごましてますが、こんな感じかと思います。補足ありましたらお願いいたします。

小川●
この時代特有のエネルギーがありますよね。

黒岩●
人間探求派の晩年の句が取り上げられていた時代でありつつ、伝統的な価値観や「花鳥諷詠」の世界に対してそれだけでいいの? という疑問は、現代俳句協会にかかわっていた人たちは持っていたと思います。「海程」も枝分かれして、『ゴリラ』が何を目指していたのかを見ていけば、何かが見えてくるのでは。俳句の本質論がたくさん出ていた時代でもあり、今後どんどん読んでみたら面白いかと思います。

それでは皆さんの10句選に移ろうかと思います。五十音順でお願いいたします。

生駒●
選句については僕の好みもかなりあるし、結構体調というかその時によって変わるものですが、不思議な明るさみたいなものがある句に全般的に惹かれました。

第1号の原満三寿《秋風と犬もあるけば猫もあるく》のかわいらしさ、とはいえ「秋風や」ではなく、「秋風と」であるとか、秋風という季語--季語論の評論についてはまたあとで語りたいんですけれど--秋風という自然現象と、犬という命あるものが並列であることは面白いと思います。さらに普通なら「秋風と犬もあるけば」の後で転換したいところを「猫もあるく」でその辺にいる動物で攻めたところが面白いと思い、とりました。

谷佳紀の句には明るさがあると冒頭に述べましたが、ひらがなに開いている句もあったりしましたね。簡単には読ませないぞという句が結構あって、その不思議さのなかにきらりと光が見えるということがあります。そして批判的なんですよね。谷佳紀《もうすこしいいにっぽんの草と天》(第2号)。批評的なんだけれども口ぶりが明るい。《もっときれいなはずの私と春の鴨 正木ゆう子》という句もありました。改善すべき余地あるみたいな部分をより柔らかく言ってる句で、「草と天」もより普遍的なことを言おうとしているなという感じがしました。

全部言おうとすると長くなるのですが、韻律でいうと--原満三寿の韻律論もありましたが--元「海程」という感じもあるのかなとも思いつつ、例えば毛呂篤《鮫跳ねるや洸洸として了はるや》(第3号)も全部で17音で、無理やり区切ると「さめはねる やこうこうつとし ておはるや」なんですけど、韻律を工夫している感じを受けました。下五が下四に見える感じ。多賀芳子《象の鼻の半径手紙まつしろ》(第4号)の「まつしろ」の言い足りない感じが面白いやり方だと思うし、今も掘りつくされてはいない領域だと思います。

谷佳紀の句は3句くらい取りました。《時間つくるや空の隙間のブーメラン》(第4号)。「時間つくるや」でかなりの飛躍があるのに、「空の隙間のブーメラン」とまでいい意味でも悪い意味でも言ってしまう。「ブーメラン」という言葉を入れると、どうしても句がカタカナの感じになるというか--絶対伝わっていないと思うんですけれど--かっちり系より、ライトなやわらかい感じに落とし込むところは谷佳紀らしさを感じました。全体を通じた作家性がこのあたりに現れているのかなと思います。韻律とか詩的飛躍を使って、ひらがなに開くなど表記の問題を含めつつ、冒頭で述べた通り明るさのある句に惹かれました。

評論についてはかなりびっくりしたというか、季語の評論があったと思うんですけれど、僕とはかなり違う見え方をしている。谷佳紀は森澄雄の《炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島》の句を季語の世界観のなかでしかないと批判的に見ている。間違っていると言うつもりはなく、また間違っているはずもない。そういう風に見ていた人がいて、しかもひとりだけではなくある派閥としていたと考えると、コクがあるなと思います。ここら辺は知らなかったので意外でした。ざっくりとしていますが以上です。

黒岩●
生駒さんありがとうございました。私も谷佳紀の評のなかで森澄雄の《炎天より僧ひとり乗り岐阜羽島》の句があのような形で季語に収まっているという言い方をしていたことには驚きました。森澄雄《若狭には仏多くて蒸鰈》の句に関してはなるほどなと思ったのですが、「炎天」の句ではあまり例としてぴたっとはまっていない気がしました。生駒さんのお話を受けて皆で深めたいところ、疑問質問何かございますか。

三世川●
小川さんと自分は谷佳紀さんと交わる機会があったのですが、ご指摘にあったように谷さんは韻律に対してとても意識的でした。いうならば意味ではなく韻律で感情を伝える、ということにウェイトを置かれていたように思います。そして谷さんの作品が明るいというご指摘も、その通りだと思います。非常にエネルギーを感じさせる作品をよく作られてきた、という記憶があります。

生駒●
そうですね、遺句集を読んでいても確証に変わったのですが、韻律や詩的飛躍を使って、句の示す意味内容のベン図よりも、その領域を選び出した手つき・手触りをいかに表現するかというところを感じられました。つまりは谷佳紀の人間が見える句だなと思っています。すごく納得した次第です。あと問題提起として1ついうと、選句をする上で第5号を飛ばしています。第5号は浅尾靖弘の150句が載っているんですが、僕のなかで違うんじゃないかという思ってしまって、外しました。取られている方に感想をいただきたいです。

黒岩●
ありがとうございます。では5号からも選句した方や浅尾靖弘の句をとった方は、生駒さんの疑問に答えるかたちでお願いします。あとで話したいことが出てくればまた混ぜ返していただければ盛り上がると思います。では次小川さんお願いします。

小川●
そうですね。選句したものを見ながら思ったのは私が「海程」在籍中に「海程風」、「海程だから」と言われることが多かったのですが、実際の「海程」には合致しないなと思っていました。そのことをあらためて思い出しました。ざっくり言ってしまうと「海程」のなかでも金子兜太系のがつんがつん派と、毛呂篤さんや谷佳紀さんにも通じる阿部完市系があると思います。金子系・阿部系のどちらを指すかで議論は全然変わってくると思います。もちろん、他にも句柄はありますし。もっとも、どことなく異端なものを「海程風」と言われていただけなのかもしれませんが。

逆に谷佳紀たちの言う「伝統派の人はね」という話もぴんとは来ないなと思っていましたが『ゴリラ』の評論を読むとやはり納得のゆく感じではないなと思います。谷佳紀や原満三寿の評論は突っ込みどころが満載で、季語のところも全然賛成できないなと思いながら読んでいました。谷佳紀の最期の十年、よく話をしたのですが、季語の話ってあんまりしなかったなと思います。結局どのような折り合いを谷佳紀は季語とつけたんだろうかと。

さて、話が逸れてしまいましたが、選句は、自分ですーっと読めてしまう、腑に落ちるものになりました。谷佳紀は、俳句を構成してパーツを組み合わせたりせず、言葉が言葉を追いかけてゆく感じで作っていました。最終的には構成はしたとは思いますが、設計図を描いて作っていた訳ではありませんでした。よく言われていたのが、三世川さん何でしたっけ。

三世川●
「言葉が次の言葉を連れてくる」、「観念があれば、観念に乗って言葉を持ってくるよ」といった言い方をされていたと思います。散文的な意味合いでの言葉の関係性ではなく、ご自分のなかの言葉の感触や感性で次の言葉が出てくるのを、作品にされていたんだと思います。

小川●
ありがとうございます。そうですね。谷佳紀《君が来てサーカスが降る大天才》ですが、君が来て→何かわくわくする?→サーカス→一時的なもの?→降る→降るのは?→大天才のように言葉を連れてくる感じで作られているのかもしれないなと。

谷佳紀《簡易便所の水着少年刺身なり》は、水着で簡易便所にいる所在なさげな少年、けれども生身の新鮮な肉体があることを「刺身なり」と感じたのかな。向日性を感じる作家なので揶揄ではないような気が私はします。

毛呂篤《植木屋が光る多くさん光る多くさん》は、植木屋さんが一人なのか、複数いるのかはわからない。どちらでもいいなと思っていて。韻律の波に乗る心地よさを味わうだけで充分な気がします。さまざまな植木の葉の照り返しが葉擦れとともに押し寄せて来るような。「たくさん」ではなく「多くさん」としたところで「多」でぐっと踏み込んで読むが印象あります。

さらに、毛呂篤《へんぽんと植物と毛のたのしさ》は植物と毛まで見ていてミクロ視点なのに「翩翻と」という言葉は、弾むような印象と空間の広がりがある。韻律で意味を超えてゆこうとする作家だなと思います。山口蛙鬼の《すこし離れ胃や腸の中ゆく草笛》《えんぴつでなく青草のびる故郷が》、二作は日常から少しはみ出した日常観に興味があります。

黒岩●
各作家を語るキーワードが出てきて興味深かったです。何か質問ある方はいらっしゃいますか。

中矢●
お二人の話を伺っていて思ったのですが、『ゴリラ』の句に対して生駒さんは「簡単には読ませない」、楓子さんは「すっと入ってくる」というお話をされていて、そこだけ切り取るとお二人の意見は全く違うように思えますよね。「読みやすい」というのは、たくさん句が並ぶなかで「読みやすい」ものがぱっと目に飛び込んでくる感じなのか、それともどれも楓子さんにとっては「読みやすい」ものなのか。楓子さんにとっての「読みやすさ」ってどんなものでしょうか。

小川●
例えば谷佳紀《簡易便所の水着少年刺身なり》は独特の韻律で内容でないものも読者に伝えているのじゃないかなと。私にはこういったリズムが身にしみ込んでいて、とても読みやすいんですよね。毛呂篤《植木屋が光る多くさん光る多くさん》とかも、「あ~、光るよねえ」というウェーブに乗っていけばいい心地よさで読んでしまって、何も考えていないみたいな。でも初めて読む人は読みづらいと思います。私も最初に谷佳紀の句を読んだときは読みづらかったです。

中矢●
なるほど。今回参加された方ひとりひとりの「谷さん量(谷佳紀の作品を読んできた量)」は違いますもんね。一回波に乗ればあとは読めるというのはすっきりしました。遮ってしまいました、生駒さんにお渡しします。

生駒●
今の話にも関連して思ったのが、「読みやすい」「読みにくい」の話って、おそらくは一回性の言葉かどうかが効いている気がします。小川さんが例に挙げた「簡易便所」の句だと結構伝統寄りな文体で書いている気がしていて、季語としてここには「鶏頭」がはいるか「木犀」が入るかみたいな置換可能な文字列を最適化するみたいな目で潜って見ていると、「簡易便所」の必然性があるはずだという見方をしてしまうから、読みづらさや立ち止まりがある。けれど、なんだか頭に言葉による現実として簡易便所を据えて、そこから引っ張られるようにイメージの世界で水着少年が入っていって、それは刺身だよねみたいな。ロジックではない了解があると考えると、そして潜りではなく波乗りのように捉えて、言葉を滑っていくと「読みやすい」というのは分かります。そして読書量が増えたら読みやすくなるというのも納得です。

黒岩●
「読みやすい」というのはどのレベルで「読みやすい」のかも大事だと思っていて、頭にすっと入ってくるとか、声に出して体に沁みてくるとかも大切だし、一回一句を飲み込んだうえで、そこにある世界を引き受けることができるかというのも考えたいなと思います。つまり意味を離れて音を楽しむのも大切だけれど、音だけだったら言葉はなんでもよくなってくるというか、生駒さんの言ったようなこの言葉だからこその良さをその句が生んでいるのかどうかを、選句のときに考えてしまいました。またその辺りも話せたらと思います。小川さんありがとうございました。それでは黒岩の選に移ります。

黒岩●
私は俳句を読むときに言葉と言葉のイメージのぶつかり合いを楽しむみたいなところがあって、イメージが重なったうえで何が生じるかを気にするが故、『ゴリラ』を読むときはかなり悩むことが多かったです。果たしてこの句を味わいきったことになるのかどうかで、気になることが多かったです。並んでいる句に「そんな風に思わなくてもいいんじゃない?」と私の読み方自体に言われている気がして、悩みながら楽しみました。例えば表題句になっていたかと思うのですが、谷佳紀《腹の底まで水は磁石だ詩は元気》(創刊号)はガンガンガンと来ました。向日性というか、元気といわれて元気になるような。「詩は元気がいいんだ」と言っているようにも見える。

私は基本的には詩歌を作るときに詩歌のこと自体をテーマするのはかなり抵抗があり、個別具体の詩歌を書くことの方が価値が高いと思っていました。でも、この句は詩は元気だなと納得してしまうところがあります。磁石という遠ざけたり引き寄せたりする力のあるものを考えると確かに元気だよなと。その句を味わったといいたい欲望があって、だからこそ音だけ楽しむのは怖いと思う。

山口蛙鬼《すこし離れ胃や腸の中ゆく草笛》(2号)も「草笛」の時間性というか、が胃にあるときと腸にあるときで音の溜り具合や時間差を考えると、面白いなと思います。意味的なイメージを引っ張り出して考えてしまう。言葉と言葉の掛け算で考えたいのですが、そんなことどうでもいいと言われそうで怖いです。他の句もそんな感じです。

谷佳紀《大空気全力疾走が飛び出す》(4号)は「全力疾走」も「飛び出す」も言葉としてずるずる引っ張ってきて、言葉のイメージの距離はないが、「大空気」と言われると更に明るくてまっしぐらで、一本の直線が走っている感じする。

猪鼻治男《のどにつかえる港椿が落下した》(5号)は超現実的なイメージの気持ち悪さ、体内や肉体のなかのうごめきを感じました。金子兜太のしてきたような造形的なイメージでしょうか。

生駒さんが挙げられた、浅尾靖弘150句は違うのではという話は面白いなと思い、私も1-4号を読んだあと浅尾靖弘の「はいかい」が来ると読むのが楽だなと思いました。切れがわかりやすく、散文的で、何がポイントかがわかりやすい句が多かった。例えば《小便近くなりまんさくをよく見る》といった糞尿を書いて荒々しさを出すという表現が他の方より直截的で読みやすいなとなりました。これが読んだことになるかはまた別の議論ですが。そこが読みの楽さにかまけていいなと思ったところでもあります。自分の読みのなかの葛藤をぶつけてしまいました。

評論としては谷佳紀「季語と原罪」で「表現とは日常の言葉で、肉体を装置とする想像力のはたらきによって、日常の質とはまったく違うイメージの言葉に変え、その変化がさらに想像力を刺激し、言葉を変えてゆくという、「言葉・イメージ」と「肉体・想像力」の交感関係である。」と書いています。言葉を日常の言葉と全く違うイメージに変えるということが、この言葉でしかないとか、普遍性とか一般性をはぎ取る役割をしているのかなと思います。正に季語を季語として使わない句はここら辺にヒントがあるのではと思いました。だからこそ読みづらいというか最大公約数的なイメージは使わないぜと言っている気がして、私たち読者もそこを裏切って読んでいかないとしんどいのかなと思いました。ここら辺についても突っ込んでいただけると幸いです。

三世川●
先ほど黒岩さんがおっしゃったように、韻律だけで読んでしまっていいのか、というのはその通りだと思います。ただ読み方の一つの方法としての韻律といっても、存在する言葉にはすでに意味やイメージはつきまとっている訳です。ですので大雑把な言い方になりますが、意味にウェイトを置いて読んでゆき何らかの感情を生成させるか、音の部分の関係性にウェイトを置いて自分のなかに読後感を生成させるかの、二通りがあるのではと思っています。良い悪いではなくて手法として、意味よりも音にウェイトを置くこともありえるのかなと思っています。

黒岩●
10号あたりの座談会で谷佳紀が音派であると話されていて、これから少しずつ評論や実践で見えてくるところかもしれません。自分の読みが理屈っぽいという不安は感じていますが、そういう味わい方も考えていけたらなと思います。特にご質問なければ、外山さんお願いいたします。

外山●
はい、よろしくお願いいたします。自己紹介がてら言うと、私は谷佳紀さんと浅からぬ縁がありまして、谷さんは2010年頃に個人誌で『しろ』というのを出されていたかと思うのですが、何冊か私も現物を持っております。19号くらいで終わったかと思うのですが、谷さんが『しろ』をやめたいという気持ちになった理由の一つが私だったそうで、お手紙をいただきました。互いに相模原に住んでいたということもあり、一度だけお話したことがあります。それまで存じ上げなかったのですが、お会いするまでに勉強してという感じです。先日遺句集を出されたこともあり改めて読み、今回の読書会に至るということです。

私が今回選んだのは、割とわかりやすいものが多いかなと思います。例えば『ゴリラ』のタイトルになった《ゴリラや毛虫瞬間的に丸太ン棒》のように意味を汲み取っていくのでは太刀打ちできないようなものは選ばなかったと思います。

『ゴリラ』を読んでいて思ったのは、毛呂篤のような阿部完市の雰囲気のある人もいますが、それぞれが少し前の空気・同時代の空気を吸いながら書いていらっしゃったのかなと。原満三寿はそれとはまた違う角度かなと思います。阿部完市は1970年に第17回現代俳句協会賞を獲っていますが、ちょうど戦後派の一つ下の世代がクローズアップされてくるなかで、その筆頭である阿部完市や河原枇杷男など、その辺りを見ながら書いているような素振りが『ゴリラ』にはいくつか見えました。そこらへんを避けたいなという個人的な気持ちがあり、毛呂篤も選んでいないし、その他の方の句もそこらへんの雰囲気のあるものは削ってしまったかなと思います。

面白かったのは、多賀芳子《竹叢を竹が出てゆく無辜の昼》です。言葉遊びではなくて、普遍的なしずかなイメージに到達していると思いました。

浅尾靖弘の150句が話題にのぼったかと思いますが、私は2句取っています。言い訳ではないですが、仕掛けがわかりやすいですよね。《ほととぎす柱の傷のあたらしや》の柱の傷の古い・新しいというとてもありふれたことと、手垢のついた「ほととぎす」という言葉を敢えて合わせてみせるという面白がり方がわかる。

ひとり寝のふとんよじれる嵐山》、これもそれこそ和歌の時代からある抒情、タイトルにあるような「はいかい」的な転換の面白さだろうなと思います。このような句も受け入れられている土壌であることがひとつ面白いかと思います。『ゴリラ』は勿論5号以降も読んでいかないと断定はできませんが、いろいろなものを受けて入れている気がしました。

猪鼻治男《あゝ春だブルドーザーが燐光す》の社会性としても読めるようなものも出てきている。谷佳紀は『俳句人』の座談会にも古沢太穂などと一緒に何回か出ているんですよね。そこで赤城さかえの中村草田男の犬論争についてお互い語りあっていたりとか。1960年代なので谷さんはかなり若かったと思いますが、社会性俳句はどうなんだということをおっしゃっている感じ。谷佳紀の第一句集を見てみると社会性俳句の語彙を使っていたりして、谷さん自身も出自としては社会性俳句も掠っていると思います。『ゴリラ』は「海程」のイメージも強いですが間口が広いと思いました。

黒岩●
ありがとうございました。ちなみに私も原満三寿はこのなかで異色というか、違うことをやろうとしている印象を受けました。外山さん的には原満三寿の異色性はどんなところに感じられますか。

外山●
俳句は自分にとって身の丈に合わないのではと恐る恐る書いている感じですかね。特に創刊号の最初の方の句は、こんなにカチカチになって書かなくてもいいのになと思いました。《溌止溌止と丘痕つけるゴリラかな》とか《生国の粗々しい魚腹かな》とか、わざわざ「かな」で終わらせているような、何か気を遣っているのかなと思いました。自分が俳句を扱っていいものかという恐る恐るな手つき。あとはユーモアを打ち出そうとしている感じがする。谷佳紀の明るさからのユーモアともまた違う角度からのユーモアだろうと思いました。

黒岩●
ありがとうございます。他に外山さんにご質問などありますでしょうか。

三世川●
今、外山さんがおっしゃったように、谷佳紀もある時期は社会性俳句に散見された語彙というか、イメージを押し出した作品作りをされていたようです。しかしイメージによって俳句を書くことに、谷佳紀を含めた「海程」の一部の作家は疑問を抱いたのですね。そういった意味で社会性俳句と呼んでいいのかわかりませんが、イメージを押し出した俳句というものに対して谷佳紀は、ご自身の作品も含めて失敗だったと話していたように記憶しています。 例えば他者の作品の鑑賞・批評においても、社会性俳句から派生したようなイメージの強い作品をご覧になると、結構辛辣な批評をされていました。自分の俳句もそのように批評されたことがあります。

黒岩●
そこらへんは考えたいなと思います。ひとつイメージの活用としては、1961年の金子兜太の「造形俳句論争」というのがポイントになるかなと思います。社会性俳句がイメージを活用して造形にしていくということに対し、それだけでないという反発が『ゴリラ』の作品にも表れているのかもしれません。逆にイメージを活用しないとなったら、どのような手段があるのかについても考えたいです。先ほど「ブルドーザー」の俳句が出てきましたが、「ブルドーザー」が頭を掠めこそすれど、そのまま句の読みに直結する訳でもないということも大切です。おっしゃる通り外山さんの挙げられた浅尾靖弘の「はいかい」2句にはくすぶりも入っているし、他の句との手触りは違うかもしれません。『ゴリラ』がこれからどうなっていくのかは本当に興味がありますね。

外山●
一点だけ失礼します。谷佳紀さんなりにどんな書き方を考えていたのかなというところははっきり分かってはいないのですが、先ほど音の話や言葉の並べ方についても出てきましたが、気になったのは第3号の「ライトの系譜」です。坪内稔典の《今日もまた負けてうの花若乃花》《朝潮がどつと負けます曼殊沙華》を引いたうえで、「坪内は俗的心理を心得ている。どう書けば面白く読んでもらえるかに意を注ぐ。そして確かに面白いのだ」と、「大衆性という平準化に乗っているからこそ成立している」と書いています。私はちょっと待てよと思って。この句はとても分かりづらい句ではないかと思います。取り合わせの複雑さはスルーしてしまう。一行で書く形式の勢いを空間的に捉えている雰囲気も見受けられますが、空間を言葉で埋めていく音やリズムに意を注いでいたところがあるのかなと。谷佳紀の独特な面白さと読みづらさをもたらしているのかなと思います。

小川●
谷さんの感覚からしたら「うの花」は白くて「若乃花」はお相撲さんでふっくらした白いもの。「潮」はぱっと散り「曼殊沙華」も気がつくと消えている。この辺りを分かりやす過ぎると思ったのではないでしょうか。スルーしているというよりは、本人のなかでは腑に落ちているところなのかなと思います。

黒岩●
そうですね、評論として一句を具に観察するというよりかは、ご自身のなかの納得はざっくり省略してまとめるというのは、他の評論でも見られることかなと思います。

小川●
特にこの文章は強引でどんどん行ってしまうから、私もどうなのかなとは思います。もう「海程」の古参同人でもないし、どうにかしなきゃ! という思いがあったのかなと。

黒岩●
坪内さんがライトで挙げられているのは、坪内さんの主張にも合うかなと思います。夏石さんはライトで片付けられてよいのかなと思いました。「歴史が無化されて現れたのがライトの若手であり、夏石番矢や坪内稔典はその先ぶれといえよう。」とありますが、かなりカラーの違う二人の作家をまとめてしまってよいものか。「観念と言葉の癒着」は理解できましたが、少し強引だったのかなと思います。では次の中矢さんに移ろうと思います。

中矢●
私は読書会関連でいうと、2019年の家政高校での「海程」の島田輝子さんの読書会に参加したのと、2020年の5月に「海程」のアルゼンチン移民の崎原風子の読書会に参加しました。今回3回目という感じです。私は好きな句と話したい句で10句選びました。

全体の感想ですが、今まで季語というものに読みをかなり助けられていたんだなと思いました。俳句の3分の1を占めていることが多いので、季節はいつか、どのように詠まれてきたかのジャンル分けをされている感じ。最近あったオリンピック風にいうと、体重別で階級が分かれているから戦いやすいみたいな感じです。季節や季語という階級のないフリースタイルで全員の句が出てくる感じ、こってりとした重厚感を感じました。

浅尾靖弘の150句はすごい数だなと思いましたが、ある程度の句数を並べてもらって初めて読めるなあというときもありました。一句単位だと読む数は少なかったと思いますが、より選びづらかったように思います。

全体としては私は俳句をキーワード的に読んだので、先ほどお名前のあがった夏石さんの『現代俳句キーワード辞典』のような感じでしょうか。

創刊号の原満三寿《森潜る厚葉神経されさうな》の「厚葉」からは島田輝子さんの《厚葉夜は垂れて爆土のアマリリス》を思い出しました。お2人がいつ「海程」に入られたか、重なっていたかは調べていないのですが、同時代的にお互いのキーワードが重なったのか、両方共、森や夜の暗さは共鳴している気がしました。今回10分の4で原満三寿の句をとっていて、原満三寿の句は皆と違うことをしようとしているのではというお話が出てきましたが、私自身がその違いを言語化はまだできませんが、私はその違う感じが好きだったのだと思います。

次は原満三寿《部屋の隅で笑顔はがすそれから笑う》です。私は「笑う」もキーワードだと思っています。同じく原満三寿の《九月黒猫やつらやっぱりジャムジャム笑う》にも「笑う」がでてきます。どこかで身体性について触れられていましたが、「笑う」ことは歯を剥き出しにすることでもあり、それは怒りの表情とも似ていて、怖さを孕んでいますよね。そういう「笑う」の喜びや怖さの二面性を使いつつ、そこを意識的に使うという訳ではないんだろうけれど、キーワードかなと思いました。この句は部屋の隅で笑顔をはがした後に下からも笑顔が延々と出てくるような、一人の孤独な怖さが出ていると思います。

3句目は谷佳紀《簡易便所の水着少年刺身なり》で、先ほど楓子さんも取られておりました。私は「少年少女」もまたキーワードだと思います。昨日手元の『新興俳句アンソロジー』をぱらぱらしていたのですが、特に高篤三の百句選に少年少女が散見されました。《体操や春服の少女三人休む》のしなやかさ、《薫風に少女は赤き舌を出す》の真っ赤な怖い感じ。三鬼だったら《白馬を少女瀆れて下りにけむ》、鬼房の《松の蜜舐め光体の少年なり》だったり。失われた過去の自分を重ね合わたり、自分を託したり、純粋さをそこに見ていたり、やはりキーワードだなという気がします。「水着」とあることで海水浴場の簡単なトイレを思ったのですが、そこで「少年」が「刺身」というのは、比喩として食べられる感じ、新鮮な肉体。すみません、最近友人に布教されて『進撃の巨人』を読んでいるせいかもしれません。作中主体がおいしそうだと思い、人間が人間を同一視していないところが怖いなと思います。明るさもありつつ、怖いなと思います。

安藤さんの《ヒロシマ・ナガサキ8は祷りの連関》は崎原風子の《8月もっとはるかな8へ卵生ヒロシマ》を思い出しました。これはかなり踏まえていると思います。次の原満三寿《肩すくめママンぼくらの舌噛まないで》も、ぐわっと口を開けて叱られている子どもたちの舌を、言葉をもう話せないように噛みちぎってしまいそうな印象を受けました。

次の原満三寿《象の鼻の半径手紙まつしろ》は生駒さんと黒岩さんもおとりだったかな、2つのイメージの衝突がすごくよかったです。「象の鼻」の穴の暗さ、「半径」をメジャーで測る感じ、「手紙」が秋の空から届くことがとても美しいと思いました。なぜだか秋だと感じました、白いせいでしょうか。

こういう句にしっかりくたびれていると、中北さんの《洋梨のしずくに触れし指紋かな》みたいな句にありがとう!と思ってしまう。意味内容はあっさりじゃないのに、「かな」の安心感がすごい。

高桑さんの《自刃とはよき語流砂に米沈む》の句も「砂」と「米」という二種類の粒が出てきつつ、米は主食で砂は流れていってしまうという対比がいいなと思います。多分これは好きの一点で選んでいますね。

次の原満三寿の句は《塩が酒肴放哉の痰臭いだす》ですが、これは性ともかかわるというか、排泄・吐瀉・分泌といった生理現象はそれぞれで少しずつ詠まれているなという印象はあります。なぜかと思ったとき、自己の肉体が生んだものでありながら客観視できるものだからかなと思います。

谷佳紀《冬晴れの精液過多や円環蛇》の「精液」とかも自分から発されるが眼差した瞬間に「モノ」になってしまう感じ。自分と「モノ」の境界線にあるものとして複数の人が興味をもったモチーフなのかなと勝手に推測しております。

最後、浅尾靖弘の150句のなかから《皮だけ赤い酢蛸を噛む二月廃鉱》を選びました。他の人の句が10だったりするなかで150は凄い数だなとは正直思いました。でもこれは5号で原満三寿の言う「面倒だから百五十句一挙掲載に変更といきましょうか」というのが正直なところなんだろうなと思うわけです。伝統派に疑問を持ち、同人誌で誘い誘われる仲でも、おいそれと人の句を150句から選ぶのはとても難しいのだと思います。私は特に読みやすいとも思わず、他の方と同じようなテンションで読みました。

ただ他の方は句の一フレーズを持ってきているなかで「はいかい」というのは意外なタイトルのつけ方でした。虚子が1936年に渡欧した際、フランスや西欧の俳句を鍵括弧付きで「ハイカイ」と呼んでいたのを思い出しました。長くなりましたが以上です。

ここでお聞きするのが一番いいかは分からないのですが、谷さんや原さんのお写真があるとのことで画面共有お願いできますか。崎原風子が帰国したときに「海程」で集まったときの写真だそうです。作者の顔は作品に関係ないと思いつつ、写真を見られるとより親しみが湧くということです。

小川●
崎原風子の左隣が「海程」そして「海原」編集長の武田伸一さん。崎原風子の右斜め後ろが谷さんで、谷さんのすぐ後ろが原さんです。有力同人の集合写真ですね。食事中の写真ですが、崎原風子の対面の、谷さんがこちらを見ています。崎原風子の隣が《巨大なスカート拡げ家中見え》の森田緑郎さんです。

三世川●
髭の方が伝説の大石雄介さんですね。《青柿打ちつづければかがやく放蕩》《河口より黄のトラック群わが戸口に》《雨の野犬二頭いてなめらかなボール》などの作品が思い浮かびます。現代俳句の革新を次々と打ち出した、同人誌時代の「海程」で企画編集を担っていた俳人です。

黒岩●
では『ゴリラ』の方に戻ります。中矢さんに質問ありますでしょうか。中矢さんの発表は一つ一つ丁寧にイメージを手繰り寄せた鑑賞だったので、逆にどう頑張っても読めなかった俳句はありましたか。

中矢●
たくさんあると思います。それに選んだものも読めたかは自信がないです。語れる縁のあるものを選んだ感じかもしれません。キーワードに反応しているだけですね……。発表は不安だったのですが、生駒さんが『進撃の巨人』で笑ってくださったので、話していて安心しました。

黒岩●
食べるとか食うとかの残虐性や人間性を考えることはあると思います。

中矢●
谷佳紀の俳句は勿論同じサイズの人間同士だろうと思うのですが、このように想像したのは自分でも不思議でした。

生駒●
名前が出たので少し話しますが、私はそのような印象は受けたものの、「簡易便所」の「刺身」は食べ物として見ているというよりは、食べ物として踏み込んでいいのか、新鮮さに留めていいのかなと思いました。

中矢●
なるほど、後だしになりますが私も「おいしそう」という言葉に他意はありませんでした。もう一つ付け加えると海水浴場という読みは、「水着」はもちろんのこと、「刺身」からも来ているのだと思います。

三世川●
生駒さんがおっしゃったように、一般的な「刺身」という概念や意味よりも、どちらかというと谷佳紀が作品を作るうえで「水着少年」から受領したあるひとつの感じを言葉にすれば「刺身なり」になった、という風に解釈するのがリーズナブルだと思います。

黒岩●
ありがとうございました。続きまして中山さんお願いいたします。

中山●
中山奈々と言います。よろしくお願いします。小川さんに選句を送る時に言ったんですけど、俳句も評論も濃くて、読みきれていないものもあるんですが、どれも楽しく読んだんですよね。俳句はどれがいいかというより、句それぞれの特徴があって、つまり作家の特徴がきちんと出ていました。この作家さん好きだけどその作家さんばかり採るのはどうだろうなと思いながら一応10句のバランスは考えました。考えなくてもよかったかもしれませんが。

創刊号は今回10句には入れてないんですけど、やっぱり創刊号からインパクトがありますね。神を煮るでしたっけ。《模写すれば神煮くずれるパステル画》は、「神煮くずれる」という言葉の強さ、迫力があります。先ほど、中矢さんがおっしゃっていたように、俳句を読むときは季語に頼り切っている部分がわたしにもあります。だから季語をみるんですが、それとは別に季語ぐらいの、ある種のパワーワードというか、インパクトのある語というか、強いものが全ての1から5号のなかの作家さんすべてが持っていました。そこに惹かれたんですが、それだけじゃない句ってあるよなって感じでこの10句を選びました。

評論では特に4号の原満三寿「右手が左手にかぶりつく」が面白かったです。阿部青鞋さんの句を身体感覚の句として取り上げていくんですが、最初は経典、これは般若心経ですね、にある身体に関する語から始まるんですよね。出てくる阿部青鞋の句はどれも身体感覚、まぁ臓器とか手とか足とか体の部分的なものを詠み込んだものなんです。そこを読み解いていく原満三寿も身体に興味があるんじゃないかな。それはほかの作家さんの句を読んでいても感じたんです。先ほどみなさんがおっしゃったような社会性のある句とか、あるいは日常的な句とか、下手すると対岸にある写生っぽいのもあるんです。思っていたより幅が広い。評論もそうなんですが、選んだ10句も、ずっと繰り返しになりますが、身体的なものを選びました。わたし自身が身体性に根ざして句を作っているからかもしれません。

一句目の《鮒の血に少年二人触れて匂う 谷佳紀》。普通血の出ているものって触れないですよね。汚いのもあるけど怖い。それにわざわざ触れて、触れた手指をすぐ洗うんじゃなくて一回匂ってみる。匂い合っているのかもしれない。それが匂いとして鼻だけじゃなくってだんだんと少年二人の身体のなかにも入っていく。独特な匂いが感覚を呼び覚ましていくというのに惹かれました。

旅の途中の固まり易い時計見る 猪鼻治男》はなんだろう、時が止まっていることだと読むと安易なんですよ。ではなくて、この不思議さは、一瞬なんか、捻れたダリのあのぐにゃぐにゃがよぎる。固まりやすいとしか言っていないんですが、溶けやすくもあると読んでしまう。ここが面白くって。

三句目は、《野良犬は地を這うほかに色はなく 猪鼻治男》っていう、なんだろう、彷徨っているどうしようもない犬が描かれている。しかもそれが可哀想と言った感情ではなく、色はないっていう色で喩える、いや捉えるか、やっぱりいいですよね。身も影もすべてモノトーン。

四句目は原満三寿の句です。これはタイトルの「宮古島紀行」の通りなら宮古島のことなんですけど。《割礼ほどの瓶の切口が寒い》っていう、瓶ビールでも飲んだのかもしれないんですけど、そこに血の匂いを感じている。宮古島に割礼の習慣があるかはわからないんですけど、宮古島からだんだんと向こうのほうの、割礼の儀式がある島や国まで飛んでゆく。島というだけの繋がりなんですが、ひとつにはとどまらず、どんどんと書かれていないところにまで広がってゆくんです。そこは本当に面白いです。

五句目の《象の鼻の半径手紙まつしろ 多賀芳子》は、他の方も採られていましたね。象の鼻が吸うわけじゃないんだけど、象の鼻の届く範囲内で言葉が全部吸われていくような感じがして、これも不思議なんです。鼻と言ってもそれは象の鼻で、やっぱり人間の鼻とは違うし、ひいては自分のものとも違う。違うものの体の作りに、半径という空間、手紙がまっしろになっていく過程、時間の三つを感じさせてくれて、面白いなって思いました。

椅子だけが大きい催眠剤いろいろ 中北綾子》、あ、これ採っていたんですね。無意識に惹かれた句です。だんだん眠ってゆく感覚が、本当に椅子が大きいと思ってしまうほど、だんだん自分が小さくなっていくことに近い。そういう薬に頼ってしまうことへの、なんというか、簡単に言葉には出来ないですけど、そういうことを言わずに飲んでいる催眠剤がいろいろあるということだけを述べている。こういった切り取り方っていうのは意外にないのかもしれません。

あれっあれっと吾子持ちきれず湯たんぽの海原 山口蛙鬼》は、湯たんぽのあの小さい中の水を海原と捉える視点の面白さですよね。しかも自分じゃなくて子どもが持っているという。持ち切れていないんだけど。湯たんぽは大人からしたら小さい。けれど、子どもからしたらどうなんでしょう。大きいかも。小さいものが大きいものを持つという、しかもそれを海原とまでいう感性がいいです。

酔えばたおれ電柱の静かな捕虜 猪鼻治男》は選んでるんですけど、ちゃんと句の解説ができるかと言われたら、ちょっと困りますね。偏った読みをしてしまっています。これはね、本当にね、みんな酔って電柱にもたれかかったらわかる気がしてしまうのです。でもそうじゃない。ただの酔っ払いなんじゃないんですよ。なんか、世界のすべてに取り残された気持ちになってくる。こんなことをしていいのか、これでいいのかと自問自答する。この一瞬冷静になったときは夜に捕虜にされたような感覚になるんです。夜の捕虜。電柱に繋がれて。そこまで読み込ませてくれる句でしたね。

ドリンク剤美しく映え冬の浮浪 浅尾靖浩》は、今なら「浮浪者」という語を使って句にすると問題になるかもしれませんね。だけどやっぱり景、存在として描かなければいけない。描かなければ、は強すぎますが、描きたい景ではあります。わたしはこういう景、存在は描きたいです。ドリンク剤って高いんですよ。ペットボトルの水を買うよりも。浮浪者の家のことと捉えたんですけど、ドリンク剤が一本あることで、生きることには前向きなんだなと思えるんですよね。水が三本も買える値段で買ったんだとしたら、やっぱり愛おしく思えるんです。

最初に提議がありましたよね。 浅尾靖浩の句はどうなんだっていうのがあったんですけど、確かに読みやすいというか、普段慣れている句ではあるんですよね。小川さんが先ほど言っていた、谷佳紀の句は読みやすいっていうのは、すごく明るくて素直に俳句を楽しめるという読みやすさなんです。対して浅尾靖弘の読みやすさっていうのは形式的な読みやすさというのがひとつ。またいっぺんにばぁーって書いた150句から推敲はしてると思うんですけど、150句もあるんだから、さあーどれでも好きなもの読めっていう、読みやすさなんじゃないかな。わたしはそこには惹かれました。浅尾靖弘の興味あることを手当たり次第持ってきてもらったら、そこに自分の興味と合致して、惹かれて。150句あるとはいえ。浅尾さんのは何句も引きたかったのですが、その中でもドリンクの句が一番好きでした。

そして最後の句が《橇に盛る人參ふとき血族婚 高桑聰》は、注釈にもあった山窩のことなんでしょうね。人参の太さを言っているだけなんですけど、人参が太いというのはある種、異形なのではないかな。規格外。血族婚もそうなんだろうな。異形とまでは言わないけれど。でもどんな形であれ、やっぱり懸命に生きてるっていう部分で惹かれた句ではありました。以上です。

黒岩●
中山さん、ありがとうございました。人間の生き様とか懸命さとか、わかりやすく屈折した主体みたいなものが選ばれてる句が多いかなと思いました。三世川さんにお伺いしたいんですけど、以前、三世川さんに谷佳紀のお話を伺った時に、谷佳紀が肉体を通過している表現こそを信用していたというふうな話があったと思うんですが、こういう句、今日、身体の話が出てきましたけど、何かそこに通じるものってあったりしますか。

三世川●
自分は谷さんが言われた身体を通過させるということと、例えばこの浅尾作品だとかに見られるような身体というものを一つのモチーフやテーマにして書くということとは、ちょっと何かニュアンスが違うんじゃないかって思っています。その点、うまく申し上げられないので、助け舟で小川さんにもご意見をいただければと思うのですが。

小川●
ちょっと話がずれてしまうのですが、身体の部位を出したから、身体性がそこに宿るかどうかということはまた別かもしれなというのを普段から思っていて。私の解釈ですけど、谷佳紀さんの身体性って、やっぱり韻律に乗って、自分の身体から言葉が出てきて、言葉が言葉を呼び出して行く身体性だと思うのですよね。なので、谷さんの身体性というのはやっぱり韻律だったんじゃないかなって気がして。でも一般的に俳句でいう身体性というのはまたちょっと違うような気もしますね。

中山●
そうですね。手足が出てきたら即、身体性の句とは言わないですね。例えば、手に持つ、手で触るは自分から行為をしている。自動。持っているときは言わば作業で、作業中、わたしは今、これを持っているの! なんて意識はないんです。意識していない。でも、手が痺れるといえば、それは自分の身体でありながら、別のところからの作用で、他動と捉えてもいい。この状況は嫌でも意識させられるというか、自分から身体が切り離されていくんです。これには驚かずにはいられないですよね。驚きを言葉に落とす訳ですが、少し違う部位にします。「胃が痛む」「胃がキリキリする」「胃が悲鳴をあげている」はそれぞれ違うけど、悲鳴までくるとやっぱり自分から切り離された状況になってくる。身体性は自分の身体をどれだけ離せるか。臓器への意識が顕著です。それに対して、谷佳紀の身体性が韻律というのは興味深くて、自分の身体を切り離すどころか、違う世界へと飛ばしている。身体ー韻律ー世界なのか、身体ー世界ー韻律なのか分からなくなるほど、谷佳紀の句は入り組んでいます。そこが難解に見えるかもしれないですが、身体を持つものとして、共感は出来ます。

生駒●
一般的な俳句の「身体性」はおそらく「身体"感覚"性」とか「身体"感受"性」と言って良いもので、中山さんも言われているように身体をメタ的に認識し直す時の働きが言語化されているものを言うように思うんですが、僕が勝手に感じる谷佳紀の身体性はやはりちょっと違いますね。その言葉を発話する時の身体、もっと言えば精神も含めた「この言葉を発話した時の自分に驚く」みたいな部分に立脚している気がします。うまく言えないですが……。

黒岩●
ありがとうございます。中山さんは中山さんとして、結構ゴリラの句にそういうところを感じて選ばれたところもあったのかなぁと思ってそれでちょっとお聞きしました。谷佳紀の捉えていた身体性、韻律というのもこの後また見ていきたいなって思います。中山さんありがとうございました。続きまして、三世川さん、よろしくお願いします。

三世川●
総体的なことを言いますと、十句選ばせていただいたのは、ゴリラという実験的であってある意味先進的な俳句誌について、何らかの問題意識で選んだわけではありません。意味とかイメージを追わなくても、読んだ後にある種の言葉で表せられないような感情が残っている、というような作品が自分の好みですので、そういった尺度で選ばせていただきました。

一つ一つ言うのもあれなんですが、特に自分が好きだった作品は、やっぱり谷佳紀と山口蛙鬼と毛呂篤に偏ってしまいました。それであえて個々の作品で言わせていただくと、谷佳紀の作品であれば、《鮒の血に少年二人触れて匂う》という作品でして、少年期の生々しくていてセクシャルでいてけれども清潔な生命感というか、そしてそれからの叙情性が眩しいと思いまして、それでいただきました。

毛呂篤の作品で一つ挙げさせていただければ、《白盲の海よ一私人として泡か》という作品でして、もしかしたら実際の視覚によるのかもしれないのですが、自己という存在と外界という存在の隔たりを受容している、静かな悲しみのようなものがとても美しくて、それでいただきました。あとは山口蛙鬼さんの作品ですけれど、《鯨図鑑見なれ日の暮れ愛す空が》という作品でして、ミレーの「晩鐘」を鑑賞するような感じで、一日の終わりの平穏な時間の風合いに、何か心身が満ち足りてゆくようなところが好きでいただきました。結局自分の好みで、何だろう、ふわっとした読後感があるみたいな作品を選ばせていただいたと思います。

黒岩●
三世川さん、ありがとうございました。選ばれてふわっとした読後感があるっていうのが、私もそう思う作品が多いですけど、言葉一つ一つは結構飛躍が大きいのに、連れ去ってゆく世界の連れ去りかたが優しい感じがする句も結構あって、その辺のギャップも興味深いと思いました。

毛呂篤の話が今まであんまり出てきてなかったかなと思うので、話してもいいのかなと思うんですけど、みなさんこの4号の白の連作とかはどのように思われましたか。さっき系統としては阿部完市的なところもあるんじゃないかっという話もありましたが、あまりたくさん引いてる方もいらっしゃらなかったかな。私も近江の句とかいいなって思ったんですけど。

生駒●
私は3号の毛呂篤の句結構いいなって思ったんですけど、かつ4号今見てて、やっぱり難しいですね。何が難しいというと、白盲ので、全部統一すると、逆に読みづらい人がいるというか、若干位相の違う白盲という言葉が並ぶことによって、逆に入ってきづらくなるんだなって思いましたね。他の方の作品でもテーマ性とか、同じ単語一杯使うみたいなのがあったと思うんですけど、良し悪しがある気がしますね。展開が面白い場合もあるけど、少しずつ違う白盲という言葉の意味が、結果として見づらい感じに僕は見えちゃいましたね。僕個人の感覚なんであれですけど。

黒岩●
3号の方が、鮫の句とかの飛躍が面白かった感じですか。

生駒●
僕はそうですね。多分普通に、句集を浅学ながら読んでないんですけど、多分句集で読んだらめちゃめちゃおもろい作家なんじゃないかなと思ったんですけど。何というか、連作というものの難しさを思いました。

黒岩●
複雑なことをやろうとしてるなって感じはすごくわかります。ありがとうございます。ひとまず最後、横井さんの方行きましょうか。では横井さんお願いします。

横井●
はい。読書会は初めてなんですけれども、『ゴリラ』とか谷佳紀とか僕はちょっと知らなかったのですが、ただ読んでみると面白いのが多いなぁということで普通に好きな句が多かったです。

一句目の谷佳紀。谷佳紀、僕好きな句が多かったんですが、1号では神性を否定するような、そんな句が多かった気がするんですよね。《模写すれば神煮くずれるパステル画》もそうなんですけど、《神であろうとぐにゃぐにゃ揉み上げサキソホン》みたいな、そういうのが多くて。一句目のパステル画、パステル画になると神が煮崩れるっていうそこが面白いなぁって思ったんですよね。

創刊号の原満三寿《獣病んでからだほしがる緋の襤褸》も選びました。原満三寿は他の『ゴリラ』の面々とは別のことをやろうとしているという話があったと思うんですけど、この句は別の方向に行っていないような、同じ方向を向いているような気がしますね。これは、からだ欲しがるが結構上五か下五か、どっちについても面白い感じはするんですが、個人的には上五派ですね。その方が緋が生きているような気がします。

次の、《猫の屍の溶けつつ真空色の爪 谷佳紀》。まそらとも読めるんですけど、これはしんくうと読んだ方が面白いと思います。猫は爪を研ぎたがるものですけど、その飼っている猫の死が溶けると、それに伴って飼い主の爪に真空色が宿っていくような、そのような感覚がこの句からは感じられましたね。

肩すくめママンぼくらの舌噛まないで 原満三寿》。初見のインパクトがあるというか、いい意味での気色悪さを感じましたね。ママンとか、ぼくらの舌噛まないでっていうのが、幼児性を前面に押し出していると思うんですけど、ぼくの舌噛まないでじゃなくてぼく「ら」っていう自分のことをまるで共同体のように考えるというか、自分という個人=世界みたいな、幼児性みたいなものが気色悪さを支えて、句に響いていると思って、気になった句ですね。

梟よ軍隊は泡立っています 毛呂篤》。この軍隊は、個別のものじゃなくて、観念の、言葉上のものだと思うんですけど、泡立つ、まぁものを泡立たせるのって水が必要じゃないですか。その泡立ったものを流すのにも水が必要じゃないですか。その水流の感じが、せせらぎの感じが、梟のホウホウという音と呼応していると思いました。洗い流すものが軍隊なのは、皮肉なのかな。硬い印象のする軍隊が泡立っているというのは言葉として面白い。

蟷螂よ釦はずれていわせぬか 多賀芳子》。多賀芳子の句ですね。多賀芳子は、個人的には他の『ゴリラ』の人とは少し違うような気がしたんですけど、この句はその中でも蟷螂の感覚が出ていると思います。蟷螂ってタキシードみたいな、すらっとした服が似合いそうじゃないですか。その蟷螂に対して「釦はずれていわせぬか」と主体が服装のアドバイスを求めるようなところに可笑しみがあるんじゃないかと思います。

黒岩●
多賀芳子さんがどういう人なのか、大井恒行さんのブログに載ってたので紹介します。多賀芳子さんの自筆で作った句集。これ、大井恒行さんのもとに渡っていたみたいです。すごいですね。自筆で全部句集を作って、150句くらいっていたのかなって。で、ここにですね。『ゴリラ』のおっかさんにされ、めんくらったり、よろこんだりですって書いてあって、妹尾健太郎さんとか、あとは俳句史の本書いてる谷山花猿さんとか、その辺と現代俳句協会関係でつながってたみたいですね。で、下の方に行くと、『ゴリラ』に載ってた、《ゴリラほどしずかに紅葉の山下》だったり、《霊柩車茶碗けちらしちらし来》だったってことです。金子兜太の、『今日の俳句』にも載ってたらしいです。一人一人の作家が、具体的に「海程」の方だったとか、そこまで詳しく調べられてはないんですけど、どういう出自とか俳句経歴とかはまた見ていきたいと思います。

横井●
次に、《寒雷や胎芽のままのわが妹 森田浩一》の句ですね。胎児ならわかるんですが、胎芽の段階で男とか女とかの識別ができるのかなと思ったんですが、多分出来ないと思うんです。それでもこれは私の妹なのだという、一見「いもと」という発音からも端正な感じが出ていると思うんですが、それと反するような妹への執着を感じられて面白いと思います。寒雷という張り詰めた感覚のする季語も主体の気分と合っていると感じます。

酔えばたおれ電柱の静かな捕虜 猪鼻治男》ですね。中山さんの評と重なるんですけど、酔って倒れて電柱に凭れる、みたいな句はあるにはあるんですけど、静かな捕虜というのが、やっぱり単純に酔っ払いに仕草じゃないというか、そこが面白いと思いましたね。

島のいのちか毛蟹に細い雪明り》。浅尾靖弘の句ですね。確かにぼくも浅尾靖弘の150句は、あまりいい物がないと思ったんです。創刊号の「季語と原罪」にある、「季語の範疇を抜け出ようとする意欲がない」とか「季語というものは何でもかんでも俳句にしてしまう力を持っている」だとか、そういったものに当てはまるような連作だと思ったんですね。ただ、この句は何か、それとは違うものを感じましたね。ぼくは、この島は、毛蟹をとってそれを輸出、それを貿易することだけで成り立っているような島だと想定しました。島民がとった毛蟹に細く雪明かりが照っているような感じがして、だから、「島の命か」と言っているのかなと思って、これはちょっと違うものを感じましたね。

ザイル紡ぐ手負い山窩に雪ふるや》。高桑聰の句ですね。山窩という単語を僕初めて聞きまして、注には山岳地帯を漂白した幻の種族と書いてあるんですけど、調べてみたら、実在していたのかな、その点はちょっと、はっきりとはわかりませんでした。ただ、少なくとも現代ではいないみたいですね。下五がくどい感じもしますけど、山窩が現代でも存在するような感覚が、山窩がザイルを紡いでいるところで見えてきます。ちょっと長くなってしまって申し訳ないんですけど、以上です。

黒岩●
ありがとうございました。結構ファンタジーというか、幻想的な連作を4号・5号で作っていたような感じがあって、これも個人の試みという感じがしました。何か話したい方いますか。大丈夫ですかね。一旦句についてのご感想とか鑑賞については、このパートで一回終わりにしまして、十分ぐらい休憩をとった後に、フリートークタイムと、評論についての意見とか問題提起のタイミングに入りたいなと思っております。それで大丈夫でしょうか。

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