『ゴリラ』読書会 創刊号~5号を読む〔後篇〕
≫前篇開催日時:2021年8月14日 13時~16時
出席者:生駒大祐 小川楓子 黒岩徳将 外山一機 中山奈々 中矢温 三世川浩司 横井来季
『ゴリラ』
創刊号 1986年7月31日発行
2号 1986年10月5日発行
3号 1986年12月15日発行
4号 1987年3月5日発行
5号 1987年5月15日発行
黒岩●
では、残りの時間で、フリートークみたいになっちゃうんですけど、ディスカッションできればと思います。前半を踏まえても踏まえてなくても良いんですけどね、外山さんに口火を切ってもらいたいと思います。
外山●
そうですね。句についてってことですか?
黒岩●
評論でも何ですけど、人数がいる中で議論してみたいことがあればもし、言っていただければ幸いです。
外山●
なかなか今ぱっと出てこないんですけど、じゃあ評論の方で良いですか。韻律の話があったじゃないですか。あの、原満三寿の。で、それを受けて谷佳紀さんも書いてましたけど、あれ、韻律っていうものにすごい意識があったんじゃないかなっていうのを改めて意識したんです。
なんていうのかな、谷佳紀や原満三寿の考えているものとはちょっと違うものとして、毛呂篤の書き方ってあったと思うんですね。例えば、第3号の、毛呂篤の作品で、5pの《へんぽんと植物と毛のたのしさ》《山脈の声あかあかと毛も》とかってあるじゃないですか。で、このちょっとこの尻切れとんぼな書き方ってありますよね。これはまぁ毛呂篤独自のものっていうよりも、阿部完市をはじめとする人たちの独特のこの韻律、途中でふっと切れてしまうような切れ方ですね。
じゃあ毛呂篤以外の人がこういう韻律を使うかっていうと、『ゴリラ』の中ではそうでもないと。それぞれ独自の韻律の感覚の中で書いているっていう、感じがあった。その中で、谷佳紀と原満三寿は文章として韻律はこういうもんだよって書いてましたけど、原満三寿の韻律論ってみなさんどういう風に読まれたのかなと。そうだよなと読んだのか、よくわからなかったって感じだったのか、印象としてどうだったかって聞きたいですね。
黒岩●
承知しました。毛呂篤の句もそうですけど、まず原満三寿の「真空行動」って評論ですね。そちらについて、575と77の関係とか、俳句定型の歴史を共時的な断面として捉えようとしているという論について、みなさんがどういう印象を持たれか、どなたでも良いので反応していただければと思います。
私から簡単に申し上げますと、原満三寿の最後の、一番言いたいことが最後の段落なのかなと思いまして、「3句体の定型を本来的に与えられたものとして諾々と受容することが世界を閉じ込めるので、未知の様々な多義的な円環運動として大胆に俳句を見よう」っていう。これは、作ってきた俳句とか、上五たくさん字余り、下六になるとか、そういうものを割と私は受け入れてきたので、五七五じゃないといけないとは思ってないし、その句ごとに独特の韻律があって、一番その句を輝かせるように読む方法があるはずだと思ってるんでここは納得できるんですけど、五七五の断絶されたとか、足を切られたみたいな話から、共時的に捉えるっていうことについては、納得というか、本当にそうなのか、っていうか、面白いかっていうとそんなに腑に落ちなかったと思いました。他の方はいますか。
外山●
じゃあちょっとだけ良いですか。韻律というか、形式ということについての、ここまでの第5号までの段階での考え方を見ていくと、原満三寿とか、それを受けての谷佳紀の考え方だと、五七五の後にまだ何かあって、それが切り落とされたんだけども、その切り落とされたもの、っていうものについての考え方っていうのがなにかもやもやするんですよね。そこにあるはずの何かが切り落とされていてそれを意識しながら俳句形式っていうものが成立しているんだっていうような考え方って、それこそ仁平勝さんが『詩的ナショナリズム』だったと思うんですけど、幻股って言葉で書いてますよね。
でも谷佳紀はそれともちょっと違うような発想で書いています。その仁平さんの考え方っていうのは、谷さんが批判するような高柳重信の考え方に近いんだと思うんですよね。つまり先験的に俳句形式っていうものがあって、それを後から追いかけていくっていう、絶対辿り着くことは出来ないんだけど、その形式を求めていく、そのときの、言葉の在り方として五七五で書き上がったとしても、さらに辿り着けない幻股の部分の痛みを覚えながら俳句っていうものは成立してるんだよという書き方を仁平さんはしていたと思うんですよね。しかし谷さんはそれとも違う意味で、韻律の後ろの部分が失われている形式としての俳句の韻律を考えているのかなって。谷さんとかの場合って、辿り着けないものではなくて、その都度成立するものなんから、先験的に形式が存在しているなんてことはあり得ないっていうところから韻律を語っているっていうか。
すごく面白いなと思ったのは、大体同じぐらいの時代に同じように、五七五の後ろに何か言葉が何か、本当はあったんだよと、それが失われているんだよっていう意識ってなんかあるよねっていうような俳句の形式の考え方っていうのがいろんな角度から出てたんだなということが非常に興味深かったですね。
私仁平さんのほうは割と納得したんですけど、『ゴリラ』の方は正直納得できなかったですね。皆さんはどうなのかなーって。これは多分歴史的に正しいとか正しくないとかじゃなくて、自分が新しい俳句表現を求めていこうとしたときに、これを書かなければ次に進めなかったので急いで書いたって感じがすごくするんですね。そういう意味ですごい誠実だなと思うんですよ。
で、俳句形式についてのこうした認識が正しいとか正しくないとか私は興味なくて、私はこれは各々の書き手が納得できるかどうかが大事なんだと思います。私はとても納得できなかったですね。それが、みなさんはどういう印象だったのかなーっていう。みなさんも俳句書いてると思うんで、これ見たときに、そうだよなと思うのか思わないのかというところ、自分の表現行為に引き付けて何か感想欲しいなと思いましたね。
黒岩●
ありがとうございます。谷佳紀という作家が、自分の表現に何か納得してけりをつけて達成するためにこれを書いたというのは全く同意です。あまり正しさとかじゃなくて、なぜ俳句を書くのかということにフォーカスして五七五の定型論を考えてるってことだと思います。
何かこの今皆さんの反応を伺ってると、この韻律論・形式論が腑に落ちるとはあんまり思ってないと思うんですけど、それが何でかっていうと、「形式の根拠」で言ってる、高柳の美学にしか存在せず、決して実現することのないロマンティズムは、問題の本質を避けたものであった、と書いているんだけど、その後に問題の本質に向き合ったとされる、谷佳紀の結論とか、失われた方の何かを追い求める方の意義とか価値があまり言われてないように思う。だからその足りないけれども、それでも何かを描こうとして辿りつけないという仁平さんの主張というのは、私は乗れないけど、そういう心持で俳句を書いていることに対する理解はすごくできるので、逆にそれに対する谷佳紀の答えはあまりないのかなと思いました。
三世川●
自分の感想にすぎないんですけども。1号から5号に書かれている論は、現状の俳句シーンに対する一つの、谷佳紀と原満三寿がこういった状況では作品ではいけないよな、というところから発想が始まったんだと思います。つまり現状へのレジスタンス、という面があると思うんですね。
自分たちの作品を俳句をどう作るかという理念、あるいはモデルやプロトタイプが明確にあるという状況よりも、現状の谷佳紀と原満三寿とがこうあっては自分たちはいけないよ、こうあって欲しくないよというプロテクトみたいなものをずっと重ねていたような気がするんですね。その中で結論的なものが出ているかというと、それが見えにくい。ですから否定されたあるいは批判されたものに対して、こちらが斟酌していかざるを得ない気がしています。
それで形式論で言えば、自分も単純に言いますけれど、現状の定型に対する検証をちゃんとやり直したほうがいいんじゃないか、ということが谷佳紀たちには問題意識としてあったのではと思っています。それも歴史的なあるいは現状としてのファクトとして形式があるからそれに沿って、詩型に沿って俳句作りをすることに対し、韻律というものにスポットを当てて、その効果をちゃんと自分たちで検証して作品を俳句を作っていくことが必要じゃないのか、と言いたかったんだと自分は受けとめていました。
黒岩●
ありがとうございました。6号以降に実践の爪痕っていうのが作品なり評論なりで出てきたらいいのかなと思うんですけど、私も、レジスタンス、ルサンチマンありきで書いてるんじゃないかという気は、「季語の原罪」も「ライトの根拠」も「形式の根拠」も、対抗馬出して欲しいという気持ちはちょっとありましたね。例えば、毛呂篤の白の連作とかで、原満三寿が鑑賞書いてますけど、韻律に関する意識とかの話は特にないんですよね。どっちかというとイメージの話になってるのかなと。詳しく聞きたいなと思いますね。生駒さんもちょっといいですか。
生駒●
基本、三世川さんと黒岩さんが話されていたのと同意見で、あと一ついうなら、論の役割っていくつかあると思うんですけど、この論を通じて何か新しいものが作れたりだとか、句の良し悪しの見通しがクリアになるみたいなことが起こりにくいというか、そこまで達していないと思って。だからちょっと自分の考えをまとめているという意味では意味があったんだろうけど、読者としてこれを読んで何か次のアクションに移れるかというと移れないので、そういう点で歯痒さがありましたね。
やっぱりレジスタンス性というかちょっと感じて、5号の編集後記ですね、そこに、稲畑汀子会長の伝統俳句協会が設立したという話で、俳壇政治に無関係な私たちには無縁の出来事だが、っていってるんだけど、めっちゃ嫌なんだろうなって。本当に無縁なら他の人が何やってももいいじゃんってなるんで。やっぱり屈託はあるんだけど、それを政治的に推し進めていくのには、反発していたからこその矛盾が発生していたとやっぱり思いますね。
中矢●
第2号の原満三寿「真空行動」論についてコメントします。「俳句は(五+七+五+七)の最後の(+七)が排除され、和歌は (五+七+五+七+五) の終わりの五が七音に延び、俳句と同じように最後の(+七)の無い形になった。したがって俳句は (+七)を失ったのであり、和歌の七七を失ったのでは無い。」とあります。ここは私は初めて読んだ主張で、新鮮でした。そして「日本の韻文は漢詩の強い影響をうけたので、対句への配慮が働いたに違いない。対句的にみると、 (五+七)VS(五+□)が俳句である(※□:原文の表記ママ)。無理に対句にすると最後の五音に負担がかかり過ぎ、言葉の展開力が無くなる。」というのも知りませんでした。この五七のパターンと定型についての原満三寿の論は、第5号の谷佳紀「形式の根拠」の論でも引用されています。
原満三寿は「負担のかかりすぎる最後の五音」について、五七の繰り返しを喪失することで、「新しいリズム「切れ」を発生させたということがひとつ。それと、五+七が日常的に保障していた言葉と言葉の有機的結合、連関が七の喪失によって困難になったということである。」と説明しています。日常的に五七の繰り返しを感じることはあまりなく、また「日本の韻文定型は五七が基本パターンである」というのは頷けても、「五七五七五七五……と謡い込むわけだ」という主張には少し謎が残りました。私は連句の五七五→七七→五七五→七七が基本パターンだと思っていました。
そして谷佳紀は同じく「負担のかかりすぎる最後の五音」について、「形式の根拠」の末尾で、「連句が成立した当初から、発句は俳句になるべき性格をもたされていたのである。発句はすでに俳句であったのだ。ただ、七七を引きずった五七五の成立は、七七に引きずられた表現を生むであろうし、七の影響を拒否した表現をも生むであろう。そして七七が消滅した子規以後においても、七七の対句構造からの働きかけは続き、その影響に晒されているのである。」としています。存在しない七七の存在・影響に着目するのはとても面白かったのですが、連句における発句は、切れ字や季語といった特権性というか特徴もあるので、この韻律の話だけでどこまでいえるかはやや難しい気がしました。
でも総じて私の方に勉強が足りないため、お二方の論に対し、勇み足などといった判断を、他の方のようにすることはできませんでした。勉強のためにも、原満三寿「真空行動」の論の基になった先行研究や句があるなら、知りたいなあとも思います。
こういう対句的な考え方と関係あるのかはわかりませんが、 自分が俳句を部活で始めた頃に、 取り合わせ をシーソーのバランスに喩えた話を先生がしてくれたのを覚えています。季語という蓄積のあるものを片方に置いて、残りの七五か五七にフレーズや言葉を置いて、釣り合いの取れる気持ちのいい感じというのが、取り合わせだという説明でした。VSというのがシーソーの真ん中の支えの部分のイメージです。そうなると、上五に季語を置く場合もあるので「(五)VS(五+ 七 )」もありえますね……。今話しながら思いましたが、季語を中七に入れる場合もあるし、ここでは韻律の話なので、季語とはまた違う話かもしれません……。
黒岩●
ありがとうございます。連句が基本パターンなのではというイメージに関しては私も一緒でですね、原満三寿の主張で五と七が繰り返されることが基本パターンであることの根拠を示して欲しかったなぁってちょっと思いましたね。ここでいきなり僕も挫かれた感じがあって、悩ましいなとは思います。
中山●
「真空行動」のp. 8の下のところで、「こうして俳句は、日本の韻文からも、漢詩からも疎外された、鬼子、畸形児としての宿命を負っていることがわかるのである。」っていう。これを書くためだけに五七五七七の、あれをやったんじゃないかなってのはあるんですね。歴史的にと言われると、わたしもよく分かってないんですけど。五が、七音が短くなって五になったとか、短歌における五七五七七の七(結句)は五が伸びたんだとか、ここに結局集約されてしまう。七七とか、畸形児とか、これが「こうして俳諧は、日常を不断に活性化させる。いうなれば俳諧は、日常を非日常的に、非日常を日常的に、円環的な因果律として、パラドキシカルに変転させる。」と押さえておくことで、俳句の独特の韻律が生まれたんだから、独特のことを書いても、俳句ではいいよねっていうことがここで言えてしまう。そのための論だと思うんですよ。俳句全体の論というよりは、わたしたちはここを目指しますよと。
で、そんなの俳句じゃないと言われようが、元々奇形とか異形とか、もっと遡れば、神話の時代にヒルコっていただろうっていうぐらいの勢いの話はなんだし、そういうことを踏まえてやってるんだから、好き勝手じゃないけど、やってもいいだろうというか、やってるんだという拠を示すための論だったんだな。めちゃくちゃだと思うんですよ。「3句体の定型」てなんだ? と思いながら読んでたんですけど、わたしは好きな論です。
黒岩●
ありがとうございます。それぐらい風変わりなことをやろうとすると、今でもいう人がいると思うけど「これは俳句じゃない」とか「俳句性が失われている」とか、そういう批判が飛んできたりとか逆にスルーされるとか、やっぱりそういう時代だったんですかね。だけど、防御反応的に書いているのもあるかもしれないと、中山さんの話を聞いて思いました。
生駒●
こういう五七五とか五七五七七を前提にして、書いちゃうと句跨がりとか破調とかって結構こぼれ落ちちゃうので、それが多い作家性の人がこれ言うのって結構諸刃の剣だなと思いつつ、奈々さんが言っていたのは多分その通りなんですけど、五七五って本当? ってところから疑って欲しいなと思ったのは事実です。
黒岩●
もうちょっと、自分の作風に引き付けて書くことができたんじゃないかみたいな感じです。
生駒●
そうそうそう。金子兜太さんは造形論とか読んでて、自分の作品を挙げてるのは、良い意味悪い意味あるけど、ある意味自分は、その人はそういうことなんだって説得力が増すからそういう感じにしてもよかった。まぁ今を言うのも変なんだけど、そういう風に引きつけた方もあったんじゃないかと思いつつ読んでましたねぇ。
三世川●
やっぱりちょっと強引で拙速な論の進め方は否めないと思いますよね。ですから先ほど黒岩さんもおっしゃったように最後のところだとか、あるいはこれは2号のp9の「俳諧は、日常に混沌を持込むことによって、あらゆる人為的、ロゴス的な関係の価値を混乱に巻込み、因果的関係でがんじがらめの人間、言葉、事物を、初源的な関係に引戻し、本源的な活力を取戻す援けをする。韻文としての俳句の畸形がそうさせるのである。」など。実はそこのところを谷佳紀も原満三寿も言いたいのであって、そのために形式が畸形であるとかいうことを、ちょっと牽強付会的に結び付けていかれたんだなと自分は思いました。
それと余分なことなんですが当初この論を読んだとき、日本の韻文は漢詩の強い影響を受けていることで対句への配慮が働いたに違いない、そして五七五七が基本形だと言っているのですけど。漢詩は五七って音じゃないですよね。あれは文字ですよね。絶句にしても律詩にしても五文字七文字であって、中国語の言語で話しても五音でも七音でもないはずなんですよ。という風に自分は記憶しているんですけど、そうすると五七五七というのは漢詩の影響というところからすると、矛盾した言い方になるんじゃないかとも思っていました。
黒岩●
ありがとうございます。この五と七の漢詩の影響が、五言絶句、七言律詩のことを言ってるんだったら、おっしゃる通りなんじゃないかと思っていて、ちょっと無理筋なんだろうというところはあります。
中矢●
谷佳紀が5号で十七音ではなくて「十七文字」と言っているのが少し気になりました。中国の漢俳は五文字七文字五文字で十七文字の詩のことを指すそうです。で、普通は起承転結と四つ展開があるけれど、五七五の三つになるからちょっと急な展開が生まれて面白いねということだそうです。中国の漢詩が日本に影響を与え、そして漢俳として再輸入ということかと思います。でも音ではなくて文字であることで、日本の俳句よりもよっぽど情報量は増えるそうです。俳句でも十七文字と表現しているのを見かけることはありますが、文字か音かは結構違いが大きいかもしれないです。虚子もいろいろな記録で「十七文字」という言い方をしていましたね。
黒岩●
もう一つは、論の立て方が非合理的、ロジカルじゃなかったりしてもですね、こう言う世界観を持って俳句を作ってるんです、ということが、(もちろん人口に膾炙と言うのは一つの指標でしかないけれど、)物凄い傑作が生まれているのかどうかって言うところを、後の時代になってみる立場としては気にしておいても良い視点なんじゃないかと言う気があります。
ただ、『昭和俳句史年表』のようなものは、この時代はまだないから、なんとも言えないところはあるけど、少なくとも今の俳句の世界においてパッと話題に上がる作品があまりないんじゃないかと言う風に、私には見えるんです。それがどう言う意味を持っているのかとか、何故なのかとか、複雑すぎるからですかとか、そういうところを考えるのも少しは意味があると思うんですけどどうでしょう。『ゴリラ』を読んでみて、みなさんちんぷんかんぷんで全然面白くないとか思ってないと思うんですね、今日の話を聞きますと。私も悩みましたけど、面白さとして。今と違うなとか、共時的な問題として考えている方はいらっしゃるのですか。
三世川●
ちょっと総論的と言うか、ぼんやりした言い方になってしまいますけど。例えば、創刊号の谷佳紀「季語と原罪」を読みますと単純に言えば、季語を使って俳句を書いたらダメだよとか、そう言うものは否定するよとかいうことだと思うのですが。それはある意味、季語というものが長いこと蓄積してきた概念への、あるいはイメージと同じように一つの形みたいなものをとってしまうことへの疑問であり、そういったことへの反対の方向に進む必要があるのではないか、ということを『ゴリラ』の行動の一つの指針にしたかったのだと思っています。
季語ということに特化して言いますが、それをもっとネイキッドな言葉として作品の中に解き放してやるとかを谷さんたちは目指したというか、俳句としてのあるべき姿を模索していたのだと思います。それゆえ先ほど申しましたように、理想像とかモデルなんかが蓄積されていないから1号から5号に限ってですが、こういった論理性にそれこそ矛盾があるようなものになってしまったと思っています。ただ、その意義というものは、自分たちはもっと考えておいて然るべきだと思います。多少、論に論理性がなかろうと、もう一度季語だとか定型だとかに、考えをいたすべきではないかと思いました。
外山●
さっきの三世川さんの話と、あとその前の話と重なるところがあるんですけど、非常に過渡的な時代状況だったんじゃないかっていう気がするんです。同時に、すごく自分たちがどんな俳句を目指そうかということを慌てて考えると、じりじり追い詰められているような、そういう危機感があったんじゃないかって感じるんですよね。
特にそれを思ったのが、創刊号の「季語と原罪」のなかの最後のページの下段ですね。谷佳紀さんの文章を読んでいるとき、物凄い的確なことを言っていて、びっくりすることがあるんですけど、「さらに言えば、私には有季俳句も無季俳句もない」のそのあとですね。「林田紀音夫の無季俳句も有季俳句の反映にすぎなく、有季俳句に対する無季俳句というジャンルになっている。」っていう、この一文ですね。林田紀音夫は当然「海程」とも深いつながりのある書き手ですけれども、林田紀音夫はやっぱり最初の句集出した後って、かなり苦しい状況に追い込まれたと思うんですね。無季俳句で書くということの根拠、例えば、《鉛筆の遺書ならば忘れ易からむ》とか、ああいう句を書いていくということの根拠が、どんどん失われていったという、そういう状況にあったと思うんです。それを、結構間近で見て、まぁどこまで間近かわからないですけど、結構ちゃんとフォローしてたんじゃないかって気がするんですね。
その後、変な話、有季で書いて、無季に直すみたいな、最後はそういうことまで林田紀音夫はやっちゃうわけですけど、それはどこまで皆が知ってたことなのか。少なくとも全句集が出た段階で私なんかは知ったんですけど、しかし谷さんは1980年代に、そういうことをちゃんと分かってたんだなという感じがしたのがすごくびっくりしたんですね。有季定型っていうものを書く根拠がどんどん消去法的に相対的に増えていってしまうのに、季語がいらないっていうことの意味がなかなか見当たらない、で、どうしたら良いんだろうかという、その辛さが、例えば林田紀音夫にあったと思うんですよ。それがちゃんと分かってるわけですよね。その上で季語について書いているっていう、谷さんのこの辛さ。どんどん追い込まれている感じが身をもって分かってたんだと思うんですね。
で、じゃあ自分はどういうものを提示したら良いのかっていうのがわからないけど、でもこのままじゃまずいんだっていうのが慌てている感じっていうのがすごく感じる。「真空行動」にある、俳句というのは鬼っ子であり畸形児なんだっていう文について中山さんの指摘がありましたが、これも、とにかくそう言わなければ次に進めなかったっていう辛さってのがあったのかなっていう気がします。
あんまり俳壇的なことを言ってもしょうがないのかもしれないけれども、1980年代前半っていうのは例えば「未定」っていうのが出て、で、『ゴリラ』の評論で夏石番矢を引いているぐらいですから、当然谷さんはそうした動きを意識していたわけだと思うんですよね。で、自分たちは何ができるんだろうと。年下の人たちはなんかやってるけれども、自分たちは納得できない。で、かと言って、その下の年代の人たちが、自分たちの世代を相手にしてくれるかっていうとほとんど相手にしなかったじゃないですか。戦後派は相手にするけど、その下の世代ってあまり相手にされなかったような感じがある。一部の作家は別としても世代として、戦後派の次の世代ってほとんど相手にされなかった。
だから、我々だってよくわからないじゃないですか。論の蓄積がないから、どういうふうに論じられてきたのか全然わからない。だから、『ゴリラ』とか読んだとき、これはどういう文脈で書かれていて、どういうふうに評価したら良いものかっていうのが今ひとつはっきりしないのって、結局そういう無視されてきた、若干軽んじられてきたっていう、そういうところがあったのかなって気がするんですね。で、それをちょっと自覚しているところがあったのかなと。
自分たちはじりじりじりじり追い詰められていて、仕事がうまくできないまま、上の世代はすごい業績を残しているけれども、自分たちには同じことはできないし、やる必要も感じないし、じゃあ下の世代はどうなのかっていうと、下の世代ともうまく接続できないし、どうしたら良いのかなっていう足掻きみたいなものを感じます。それがこういったちょっと性急な論の展開っていうものを呼び出しているのかなっていう気がします。
で、それを実作としてどこまで体現できたのか、自分たち性急さっていうものを実作としてどこまでいい意味で提示できたのかっていうのは、ちょっと正直私にはわからないですね。で、わからないっていうのは私の至らなさではありますけれども、私だけの至らなさなのかなって。この世代ってずっと無視されてきたんじゃなかったのかなって、そのことにちょっと今ふっと思ったりもしました。だからこういう形で読み直されるということは意味があるのかなっていう気がしました。
小川●
本当に今外山さんがおっしゃったことは、そのまま谷佳紀さんがよく言っていました。「無季俳句も有季なしでは成立しない、非常に行き詰まりがあるものである」とも言っていたし「前衛俳句は過去のもので今の自分には関係ない」という話も非常によくしていました。私は興味津々だったけれど、情報を得ようととすることを谷さんにいつも阻まれていた。
けれども思い返せば、まだ俳句をはじめてそれほど時間が経っていない頃に資料だけはぽんと頂いていたんです。やっぱり忘れられた世代というか、スポットライトが当たらなかった世代っていうのをすごく意識していた人だったと思います。
どこの結社もそういう傾向が多少あるかとは思いますが「海程」は「海程」内で完結する印象がありました。でも、谷さんは俳壇的にどうなんだろうという視点を常に持っている「海程」では珍しい人だったと思います。「未定」の話が出ましたけれど、やっぱり重信系の俳句に関しては、伝統俳句よりも自分たちからすれば相反するとよく言っていたし。非常にやるせなさというか、やりどころがないところ、忸怩たるところはありながらも、俳句を前向きに明るく作っていたっていうような人だったと思います。
黒岩●
今私たちがこうやって振り返って読むときの視点として、どのように接続できなかった苦しさがあったのかっていうのを掘り下げることを今後読んでいく意味につながっていくのかなっていうふうにお話を聞いて感じました。あんまり『ゴリラ』っていう雑誌で仲間を集めたっていうことも、うまく議論ができなかっていうふうに感じてた理由なのかもしれない。明らかに雑誌の形態としては、もちろん浅尾靖弘に150句書かせてるけど、谷佳紀と原満三寿で引っ張るぞという感じがやっぱりあるわけじゃないですか。反応欲しがってる感じも編集後記であるけど、じゃあ実際どういう反応があったのかっていうのを本当は見たいなっていうふうに思います。
小川●
一つだけ外山さんに伺いたいのですけど、毛呂篤と阿部完市って、どっちが先だったのかなって、さっきの話を聞いてて、毛呂篤の俳句が阿部完市さんぽいとおっしゃっていたので。阿部完市は、非常に「海程」のなかで目立った存在だったんですけど、毛呂篤も結構な影響力を持っていたので、どっちが先だったのかなってちょっと思ったんです。さっき調べたんですけど、毛呂篤が何年生まれかわからなかったんですよね。でも、年齢的には、毛呂篤は阿部完市より年上だったかと思います。ただ、作句開始年齢や作風が決まった年齢はわかりません。
外山●
僕も、なんとなく、感覚ですけど、阿部完市が阿部完市らしい表現になったのって、句集でいうと『絵本の空』あたりですよね。「海程」で、海程賞をとりますよね。その少し前あたりからだと思うんですよね。阿部完市の影響が大きかったのかなって感じるのはなんでかっていうと、例えば毛呂篤の、「白盲」の言い方って白ですよね。ここは相互影響なのかもしれないですけど、白という言葉に拘るのって、いかにも阿部完市フォロワーという感じがすごくして、「一私人」のなかの四句目ですね。《白盲の近江は紙いちまいの了り》これ、いちまいって平仮名に開かれているのもそうです。
確か1970年代に、現代俳句協会賞をとったので、阿部完市が「俳句研究」に連作をばーって出しているんですよ。その中に有名な句もあるんですけど、その頃にいちまいって平仮名に開く語彙って結構あったりとか、そもそもリズムの作り方も……、だから私は阿部完市の影響かなって単純に思ったんですけど、もしこれがそうじゃなくて逆だとしたら、これは阿部完市の評価も一回検証し直さなくてはいけなくなってくる。
で、今のこの状態、もやもやとした感じが、この世代がいかに語られていないか、阿部完市ばかりが語られているか、本当にそれを証立てている感じがすごくするんですね。私もうっかり阿部完市が先じゃないかって言ってるんですけど、それは阿部完市がいっぱい論じられているから私が知ってるだけで、毛呂篤の論が少なすぎてわからないんですよ。逆ができない。そこの論の貧困さっていうのはそれ自体すごく問題だし私も勉強不足で申し訳ないなって思います。
小川●
ないんですよね。そう前から思っていて。毛呂篤って影響力あった人だったのになって。
外山●
だって大沼正明とか、それこそ大石雄介とか、どこまできちんと「海程」以外の人が知ってたんだろうって。
小川●
ほとんど誰も知らないと思いますよ。
外山●
それはおかしな話じゃないですか。でもそれが普通のこととしてまかり通っているという変さ、それはちょっとまずいよなと思いますね。
黒岩●
まさに、掘り起こす面白さがまだまだ眠っていることではないかと思います。それではみなさん、今回はここで締めたいと思います。長時間ご参加いただきありがとうございました。
(了)
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