2021-12-05

【極私的姫路散歩】№2 近世の都市型住宅 村田篠

 【極私的姫路散歩】№2

近世の都市型住宅

村田 篠

≫№1 「錯覚」を求めて

野里門跡を離れて、いよいよ、両側に町家が並ぶ道、旧但馬道へ足を踏み入れた。野里の街中を北へ貫く但馬道は播磨と但馬を結んでいた旧街道で、野里は江戸時代、播磨側の入り口の商業の街として栄えていた。街道の入り口からふと覗いただけでも濃密な空気が流れている。

町家は間口に比べて奥行きが深い。宿場町や門前町でよく見られる、いわゆる「うなぎの寝床」だ。隣が空き地になっていると、そのようすがよく分かる。限られた土地により多くの民家を建てるための「都市型住宅」だったのだろう。それが上に積み上がったのが現在のマンションということなのかもしれない。

少し歩いて右に曲がると「お夏清十郎比翼塚」のある慶雲寺が現れる。
「お夏清十郎」というのは17世紀に姫路で実際にあった駆け落ち事件。大店「但馬屋」の娘が手代の清十郎と恋仲になって駆け落ちしたが捕まり、清十郎は打ち首、お夏は狂乱して失踪し、二度と姿を見た者がない、という凄惨な物語だ。この事件を題材にして多くの作品がつくられたが、西鶴は『好色五人女』の第一章を、近松は『五十年忌歌念仏』を残している。

街道に戻ってまたてくてく歩く。角地に、かつて銀行だったと思しき建物が残っている。近づいてみると、錆びついた「神戸銀行野里支店」のプレートがそのまま残っていた。

ご存じのように、「神戸銀行」は合併を繰り返して「太陽神戸銀行」「さくら銀行」と変遷し、いまは「三井住友銀行」になっている。「神戸銀行」の呼称が消えたのは1973年だから、どういう経緯でいまだにこの建物が残っているのか、あるいはプレートを残したまま最近までなにかに使われていたのか。古い建物、廃屋につい心惹かれる質の人間としては、かなり気になってしまう。

どんどん歩く。鋳物屋だったという大野家住宅、仕出し屋の尾張屋、魚橋呉服店など、街道の重要な建築物がつぎつぎに現れる。余談だが、「魚橋」さんというのは姫路でときどき耳にする苗字で、「置塩」さんと並んで、かつての住居地や職業を彷彿とさせる。


このあたり、散歩するのにはいい街並みだけれど、人の住んでいない住宅がかなりある。たぶん景観を守るための規制があって、自由に建て替えたり、風景を大きく変えたりできないんだろうなあ、と思う。全国どこでもそうなのだろうけれど、もともとそこに住んでいた人にとっては、避けがたくむずかしい問題だ。

街並み保存地区を抜けると一気に郊外の空気が広がり、姫路の北部に聳える広峰山、増位山が近い。しばらくそのまま歩くと、「明珍火箸」の店があった。


もはや火箸を使う人はいないだろうけれど、姫路ではこの火箸を何本か組み合わせ、風鈴として売られている。玄関や軒先に吊しておくと、風が吹くたび火箸がふれあって、上品ないい音色がする。姫路の名産品だ。

そこから脇道に入り、日吉神社へ。日吉神社はどこででも聞く神社名で、全国各地にわんさかある。調べてみると、姫路だけでも4カ所もあった。総本山は滋賀県の大津にある日吉大社だそうだ。

それはいいのだけれど、この野里の日吉神社、造営は9世紀、その後何度か再建された古い神社らしいが、現在はどうやら誰も管理していないようなのだ。石塔は傾き、本殿は荒れて、社務所も空き家の様相を呈している。うーむ。写真を撮るのがなんとなく憚られる。年に2度ほど例祭日があるらしいが、そのときは氏子たちが集まるのだろうか。

すいぶん北まで来てしまった。日吉神社をゴールと決めて歩いてきたけれど、まだ夕暮れまでには時間はある。さてどうしようか、とGoogle mapを見たら、現在地から真西の位置に、かつて卒業した小学校と高校があった。そこから南下すれば、姫路城中濠の西側を確認することもできる。見に行ってみるか。

ますます極私的な散歩になってきた。(つづく)

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