2022-12-25

『ゴリラ』読書会 11号~15号を読む〔中篇〕

『ゴリラ』読書会 11号~15号を読む 〔中篇〕


開催日時2022年5月4日 13時~16時半
出席者小川楓子 黒岩徳将 外山一機 中矢温 三世川浩司 横井来季

『ゴリラ』
11号 1988年10月30日発行
12号 1989年2月15日発行
13号 1989年5月30日発行
14号 1989年9月10日発行
15号 1989年12月25日発行

黒岩では、11号から15号の、「ゴリラ」の皆さんの句について、話して行こうと思います。


小川私は今回すんなりと入ってくる句を選びました。ちょっと感傷的な感じだったかも。女性の句が全体として他の回より惹かれるものがありました。安藤波津子の《乱雑な部屋にぽあーんと私空気》とか。ちょっと壁を抜けたなって感じがして。〈私空気〉って、空気を空虚な感じと読めなくはないけど、ぽあーんとむしろ明るい印象。それも清潔で整然とした部屋じゃなくて、散らかって賑やかな感じ。あ、私空気だわという発見。あとは、《ガラスを抜けた小鳥抜け殻がきれい》こういうふうに書く人は他にもいるかもしれないけれど、彼女の今までの作品と比べると変化があって。室内っぽさを安藤の作品には感じるんだけど、その室内から、心が動いて外へ向かうような。次のステップが見える気がしました。谷の句では《君も同年なめくじの先と皮膚と肉》。なめくじって、どこが先なんだろうみたいな不思議さがあって。角のところかしらみたいな。ぬめぬめした皮膚と肉というのが、普通喜ばしいものではないんだけど、自分と同い年ぐらいかなと思ったりする、そんなはずはないんだけども、そう思ったりする。親しみみたいなのが生き生きとしていいなと思いました。早瀬もそうですね。〈紫木蓮〉もいいんですけど、《満月や腹透きとおるまで画鋲うつ》は、満月との呼応があって。腹透きとおるまで画鋲打つっていうのがどういう感じなんだろうと思いつつも、なんか熱心にやっていて、思考が無になっていくような感じ。それで、満月の夜だから心地よい気持ちなのかしらと思って。

黒岩■確かに軽やかというか外界に抜けてゆく感じを感じます。韻律の話はまた後で話したいのでまたそこも教えてください。では、外山さんお願いします。

外山■はい。そうですね。いくつか言うと、谷さんの《焼鳥の微光受信の母国語よ》っていうのは、すごく自分の中ではすごくわかりやすかったというか。結構意味に寄っているのかなって。あ、こういうのもあるんだと思いましたね。すごく単純に捉えると、焼き鳥を食べているのか焼いているのか、焼き鳥屋か飲み屋かなんかですけど、そこに光が差していて、そういう状況、そういう世界を受け止める、そういう言葉として母国語がある。この母国語っていうのは、おそらく日本語をさすと思うんですが、ここでなんで日本語って言ってないんだろうと今ふと気になったんですけど、でも考えたら、パウル・ツェランの詩のことを谷さんが確か書いてますよね。今回の五冊のどこかで書いていたと思うんです。パウル・ツェランっていうのは、それこそ、母語とか母国語との間ですごく苦しんだ詩人だし、飯島耕一のそれこそ「母国語」って詩の中に、パウル・ツェランが出てきて、そこに対する共感を飯島耕一も書いてたし、そういう意味では、「日本語」という言葉では単純に置きかえられないような意味で「母国語」というものを使っているのかなと思います。そう考えると、言語観というのかな、言語とか、母国語と詩との関係っていうのを、情緒的っていうか、俗っぽいと感じもしますけど、見せている、そんな句かなと思って。だから、こういうのもあるんだという感じの句でした。それから安藤の《こけし売り泡立つ海を後手に》っていうのは、ちょっと捻った見方をすれば、こけしっていうものが、いろんな解釈があるじゃないですか。子を消すでこけしなんだとか。そういうものを売っているこけし売りと、その後ろに、不穏な、何か訴えかけるような海を捉えつつ、それをわかっているんだけども、見ないようにしているのか、あるいは背負っているのか。何か、自分の行い、例えば、こけし売りっていうものが象徴する、ある種不穏な行いっていうものに対する背徳感というか罪悪感みたいなものが、泡立っているっていう、その意識っていうのかな。そういったものを背景にしながら、自分の宿命的な生業を行なっているというか、そういう人間みたいなものが書かれているのかなって思って。これは、今回の中で一番いいなって思いましたね。あと、《メガネ置きひとりのことを消せずいる》っていう山口のやつですけど、一人のことっていうのがなんのことなのかというのは、いろいろ解釈があると思うんです。この一人を恋人とか好きな人にしちゃうとすごい歌謡曲っぽい雰囲気の句になりますが、単純にこの一人っていうのは自分のことで、自分が一人ここにあるっていうことがメガネ置きがあるってことによって毎回毎回自分に確認されてしまう悲しみなのかなって思いました。林田紀音夫のかなり最後の方の作品に、メガネを置いて明日も同じような感じだ、みたいな句があります。明日も今日と同じようにやはり来てしまって、そのことをどうしても毎回毎回確認させられるっていう。林田紀音夫の方はもうちょっと生活者としての悲しみが描かれていると思いますけど、山口の方はそういう生活感はない感じ。自分の存在ってものの悲しみに向き合った感じがしました。もう一個だけあげると、《青葉木菟遠く縫針行くごとし》っていうのがありましたけど、これは、なんですかね、すごく単純に比喩だとすると、青葉木菟の声が針が行くように遠くへ聞こえていくんだっていうのか、あるいは遠ざかっていくのか、時間をおいて聞こえてゆくっていう様を言っているふうに読めなくはないんですけど。ただ、そういう状況の描写ではないような気がしますね。小川さんさっき言ってくれた、画鋲の句がありましたね。《満月や腹透きとおるまで画鋲うつ》と迷ったんですけど。自分はこれとすごく似ているものを感じるっていうのかな。針っていうものと、夜の間の自分の心境ってものを捉えた句なのかなって。それを仲介するように青葉木菟があるのかなと思いましたね。そんな感じです。

黒岩こけし、確かにかわいいというより怖い感じがしましたね。異色作ということで凄く気になりました。メガネは結構、洗濯機とか、山口の生活者モチーフの句が並んだ後にこの句がきて、僕は生活の中の一句だと思ったんですけど、おっしゃる通り、存在ってことにフォーカスをして、いるとも言えると思っていて、日常詠っぽくないところも面白かったです。

中矢後で韻律を話す時間があるかと思うので、ここでは前半二句だけ話題に挙げさせていただきます。外山さんの取られていた谷佳紀の《焼鳥の微光受信の母国語よ》の、「母国語」と「母語」の違いは改めて話したいと思いました。「母国語」というのは、生まれた国で使用されている言語で、日本だとわかりやすいので例にしますと、日本の国語は日本語ですね。ですが「母語」は人によって異なり、英語ではマザートングです。家庭内の言語であって、更には両親の話している言語が違うこともあると思います。この句での「母国語」は日本語という読みでいいんでしょうね。この句は日本語で書かれているということと、焼き鳥っていうモチーフから、居酒屋みたいなものを思うからだろうと思います。上手く言語化できないのですが、面白い句だと思いました。

久保田古丹の、「黄色風船」のなかにある《緑園にくらげが来ているパラソル》は、やっぱり金子兜太の《梅咲いて庭中に青鮫が来ている》から来ているんですかね。青鮫じゃなく海月が来ていて、梅でなく夏のイメージなので、句の構造なども勿論違うのですけれど、両者共に幻想のような幻覚のような、でも明るさが押し寄せてくる感じを受けました。

次の句は猪鼻治男の句で、《手のひらの砂ふりつづく家を買う》です。「つづく」は、連体形と終止形が同一で、だから読みが面白くなるよねという話をしたくて選びました。「ふりつづく」を連体形で解釈すれば、砂がずっと降り続いてしまうような家を買うということになるし、ここの「ふりつづく」で一旦切れば、手のひらの砂が、一握の砂的な、ずっと続いていて、それはそうとして、家を買ったよという別の事象との二句一章になる訳です。一つ目の句は、金子兜太のものを思ったというところで、二つ目の句は単純に好きなイメージだったのでいただきました。

黒岩まったくその通り。手のひらの砂の句はダブルイメージがあって、私もすごく注目しました。三世川さんお願いします。

三世川前置きになりますが。十一号から十五号は、1988年10月から1989年12月までの約一年間の発行なんですね。自分がいただくにあたってこのスパンで見ると、特徴的なのは久保田古丹の作品がよく目についたことです。韻律ということも合わせていただいていて、とても心惹かれたものが多かったです。それに引き換え谷佳紀の作品については、もしかしたら自分が谷作品に慣れすぎたせいかもしれませんが、何かイメージや意味性の強いものが多く、なおかつ韻律という観点からしてもあまり興味をひくものがありませんでした。そんなことで韻律も含めて、三作品いただきました。ただ韻律と言っても根本的なことになると色々難しい問題がありますので、わかりやすい意味で目につく韻律という観点から顕著な作品を採りました。で、一つ目が《鳥騒やひとりカルタひとり花骨牌》という多賀芳子の作品でして。ところで自分は季語に疎いもので、これは「とりさわ」ではなく「ちょうそう」でよろしいのでしょうか?。

黒岩これはですね、この字で、あおば「ざい」とか……

三世川ありますよね。「とりざい」なのかな。

小川「ちょうさい」と読むのかな。わからない。

三世川そうですね。囀りとかそういうことだと思いました。賑やかに鳴き交わす囀りとは没交渉に、骨牌で一人遊びしているのでしょう。なにか物憂いというか、やるせない心持ちが染み込んでくる感じがします。ところで花骨牌なのか花の骨牌なのか、あるいは花札なのかも判らないのですけど。それはともかく「鳥騒や」以外はいわゆる複合名詞、他に何も含まない複合名詞のリフレインだけなので、ゆえに一人遊びの映像がクローズアップされていると思います。そういう風に目についた韻律でした。それから次が《遊女に夕陽は異教のブランコ》で、作者は久保田古丹ですか。なにかこう、異教のブランコという言葉に引きずられているのでしょう、アインデンティティ不在の虚無感漂う映像が見えます。そしてそれと呼応するように、情感や思い入れの深入りを断ち切るかのようなブランコという体言止めの四音が、大袈裟な言い方をしますと、実存的な悲しみを誘うようでそれでいただきました。これも体言止めの四音が、韻律として目につきました。最後が《皿運ばれてゆく晩秋という部屋》でして、これもやはり久保田古丹作品です。とても淡々とした内容を負わない映像と、五七五とは異質な抑揚のない韻律によって、晩秋のもつ鎮静した空気感とか情感というものを、無自覚にしかし明確に感覚させられます。ある意味こう、まぁ前衛的というのは抽象的な言い方ですが、前衛的な文体に近いのかなとも思いました。

黒岩そうですね。久保田さんに注目がいって、谷さんには韻律面でも内容面でもっていうのが面白かったです。

三世川すみません。久保田古丹はどのような作家だったのか、手短に教えてもらえますか。

小川アルゼンチン移民の方じゃなかったかな。崎原風子が書いてたような気がする。

中矢井尻香代子先生の『アルゼンチンに渡った俳句』という本に久保田古丹は出てきてます。

三世川伝統的な俳句からは、スタンスの遠い作家だったのでしょうか。

小川「海程」の人じゃないのかな。

中矢小樽出身の方で、生まれたのは1906年で、没年は96年の方で、俳句は、

黒岩あ、プロフィールもありましたよ。ゴリラ六号に。これ、崎原風子が書いてる。

小川どこに所属とかは書いてない。

三世川今回の選においてたくさんいただいたので、急に久保田古丹という人物であり作家に興味が沸き、質問させてもらいました。

小川崎原風子の俳句の師、そして仲間であると書いてますね。

三世川あー、やっぱりそうなんですね。

中矢芸術家だった感じが。

黒岩絵描きでもある。

中矢写真機とバイオリンと共にアルゼンチンにやってきたとあります。

黒岩すごい。

中矢1936年にアルゼンチン美術展に初入選したとありますね。画家としての活動の他、漆芸家としても名声を得て、アルゼンチンの指導に携わっていたが、やがて俳人として俳句の普及活動を開始したそうです。最後、スペイン語での俳句グループを作ったことは知っています。ただ、訳者の井尻先生曰く、井尻先生はスペイン語の辞書を編纂されるような凄い先生なのですが、その方が読んでもあんまりよくわからなかったとのことでした。この記述から、古丹のスペイン語能力といった問題ではなく、私としては、日本語でその句を表現したとしても、日本の俳人たちにとっても解釈が難しかった、意味内容をストレートに伝える俳句は日本語でもスペイン語でも書こうとしてはいなかったと考えるのが、この感じだと妥当なのではないでしょうか。

黒岩僕は結構、久保田の作品は今回凸凹としているなという印象が、ちょっと観念とか、分かりやすい陥穽に嵌っている句もあったかなと思うんですよ。三世川さんがあげた句単体で見ると、そうかそういう、空白感みたいなものを読み取れる句があって、なるほどと思いました。戻ります。では、では横井さんお願いします。

横井そうですね。今回、意識したわけではないんですけど、小川さん同様女の人の句が面白いのが多かったのかなって思って。気づいたら十句中九句が女の人の句になりましたね。多賀芳子の俳句は、九号では、谷に気楽に笑えないと言われていて、十三号のやつでも、別に談林を目指していないと言っていましたけど、僕は真面目さは好きなんですね。理屈っぽくあっては、それは駄目ですけれど、完全に無意味であると、一体何処に行くんだろうという感じがしまして、その点で多賀さんの句は取れますね。結構、《砂漠立つ胃の腑のような映画館》は、すごく「立つ」っていうのはおかしいんですけど、砂漠の殺風景な印象の中に、映画館のなかに放り込まれて、その中で、胃の腑のように映画館が丸まっている、そしてその中で詠者も、胃の腑のように丸まっている映像が見えてきて、面白いと感じましたね。渇きに似た苦痛を感じました。次に、《乱雑な部屋にぽあーんと私空気》小川さんもとっていたと思うんですけど、この句は、「ぽあーんと私空気」が、これもまた十三号で、多賀が安藤に言っていたんですけどね、「傷を舐めながら時に明るく吠えながら檻の外に出ようとしない」と書いていたんですけど、割となんだろう。傷を舐めながらって言いようは、違うような気がするんですけれども、すごく楽しそうに檻の中にいる、と僕は思います。で、普通に好きな句を挙げると、《水匂う 見渡す限り積木の部屋》っていうのがいいと思います。積木って別に水の匂いはしないと思うので、この水の匂いは印象的なものと思うんですけど、積木というものがあって、狭いけれど広大な部屋に散らばっていると。子供のときの記憶が……水、そうですね生命には必要不可欠なもので、原初とも言えるものですけど、生命の原初を思わせる部屋だったんですね。子供のときの記憶を、そのまま俳句にしたようで、普通に好きな句で取らせていただきました。以上です。

黒岩毛呂の句は、楽しいみたいなことを仰っていましたが、選句基準として気になったところはありますか。

横井普通に気に入った句をとった感じですね。女性を多く取ろうとした訳でもなく、別にユーモアを排除している訳でもない。意味を否定すると、ユーモア・アイロニー・感覚の方によると思うんですけど、別にそこを排除した訳でもなく、気に入った句をとった感じです。

黒岩方向性としてあんまり上がってない句だけ話したいと思います。鶴巻《ピルシャナ佛の足元の風いただきます》。これは韻律感とか、流れとか、風のそよぎみたいなものが言葉にのっているのがいいなという感じで、選んできた感じがありました。いただきますが、遠くにポーンと聞こえてくる感じが快いと思います。妹尾健太郎のが上がってて《かちっ閉じ波頭香りのジッポ来た》。ちょっとこう、分かりやすいというか情景が浮かびやすく、別に「ゴリラ」に載っていなくても、他でも載っているかもしれないなって句だったんですが、なんか、「かちっと閉じ」って言わずに、「かちっ閉じ」ってのが妙に気に入っちゃって。この書き振りが、香りを連れてくる、ジッポの炎が発せられる香りが、あるのかなっていう風に思ったりもして。あの、軽やかに書ききった句かなという感じがして。谷の即興の二句。たまたまいいなと思った句を最後十句に絞ったら、即興の二句が残ったって感じなんですけど、谷さんの俳句の作り方の中で、即興っていう指針が一つはあるのかなと思って、拘っているのが、前回の読書会で話題になった、自分を更新しながら書くみたいなイメージを持っている評論でした。だから即興っていうのか、その場で出逢って書くという事に、別に即吟が全てじゃないですよ、即興性という事にはかなり意識的だったのかなとは思いました。《虚空人即人の突っ立つ死》っていうのは、どう頑張っても読み取れないんですが、私には。多賀さんにはそう評していて、ややシニカルというか、マイナスな感じも、取られていたんじゃないかと思うんですが、うまく言えないんですけど、襲いかかってくる気持ち悪さというのがちょっと感じまして。ああ、「谷独自の言葉に対する自慰的奔放さ認められよう」「意外性が感じられない」。なかなか、多賀さん非常に理知的に分析的に書かれているなって思ったところが結構、言葉に拘っている感じがして、多賀さんの評は、すごい分かりやすいんですが、それでも興味があるというのは、虚空人即即興人というのが、プレーンな感じ。まぁ、暗いんだけど、あまりのっぺらぼう感があるというか、そこがゾッとして、俳句として神経を揺さぶってる感じがしました。原さんの句も二句とったんですけど、これちょっと原さんって前からずっと、初回の読書会でも、外山さんが、怯えながら、俳句ってどういうものかなって距離を測りながら書いているんじゃないかって指摘があって、今でもそうと思っていて、やや性的というかセクシュアルなモチーフを、俳句に活かそうとする句がやや多すぎるんじゃないかと私はちょっと思ったんですね。ただ、《夫婦はぁー皮袋からぱっくり生れ》っていうのは、なんかこう、夫婦の夫婦感とか、あんまりないなって思って、これもさっきのぽあーんと空気と近いんですけど、「ぱああんとまんさく」も一緒なんですけど、やっぱりその外界へ抜けようとする潔さみたいなものが、原さんも他の作家に「ゴリラ」の中で影響を受けながら書いているんじゃないかとはちょっと思いました。だからやっぱり原さんの本領的なではないところが面白いというのが率直なところです。そんなところです。

三世川皆さんの選んだ十句選が、誰も重ならないところが面白いですね。

黒岩そうなんですよ。結構、重ならなくて、それは僕は魅力的な句や勢いというか、のって書いている作家が多かったんじゃないかな、毛呂さんの追悼の十一号以降、ちょっと十号までの流れと、それこそ韻律的な感覚が、ちょっと変わってきた、いい方に変わってきて、私としては、かなり今回が一番楽しく読めた感じがします。

(つづく)

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