「ことりと楓と俳句」イベントレポート
友定洸太
■水位が上がってくるのを待つ
2022年11月19日、小川楓子さんの句集『ことり』出版を記念するトークイベントが 鎌倉のカフェバー Platero にて開かれた。レトロな洋間でコーヒーやワインを飲みながら、作家の肉声を聞くことができる貴重な機会だ。小川さんが自身の俳句の作り方について、『ことり』の収録句を引きつつ振り返っていくところから第1部が始まった。
小川 私はほぼ100%吟行で作っています。私の場合、俳句を作る回数が少なく、うっかりすると2か月半くらい作っていなくて、「俳句の作り方を忘れちゃったな」ということがよくあり、まわりの人に驚かれます。自分のなかの水位みたいなものが満ちてこないと俳句を作る気持ちにならないので、絵を見に行ったりとか、俳句以外のことをして、「今いいぞ」ってときに俳句が向こうからやってくるのを待つみたいな感じで作っています。〈わたくしもこころのやうで柿の照る〉も吟行の句です。神奈川県の西のほうにある(足柄上郡大井町)篠窪という窪地に行ったとき、そのお椀状になっているところのへりに立ってすーっと下を見たら、家が3軒くらいあってそこに吊るし柿があったんですね。遠くに小さくぽつぽつぽつと吊るされているのがすごく鮮やかに見えて、「ああそうか、あれは、こころだな」と。何の根拠もないんですけど、あんな遠くに「こころ」があるな、と。すごく気持ちのいい日で、風が窪地を回るように吹いていたので、窪地自体も陽に浸かった「こころ」みたいな気がして、へりに立っている私ももしかしたら「こころ」かもしれないと思いました。20代の頃で空虚な気持ちがあったんですね。私とは何かというのがうまくつかめない時期だったので、景色に受け入れられるみたいな感じでこの句は作っています。〈素足ですし羊歯類の王ですわたし〉は吟行の最中、土を感じながら歩いていて、足が地に触れている感じが勇気づけられるものだなと思って作りました。「私は今この時点であれば羊歯類の王になれるかもしれない」と。ふだんから「日常のなかの非日常」で俳句を作りたいと思っていて、この句も非日常がすーっと差し込まれたときに作る感じでした。
どちらの句も「私」の心や身体が一人の人間の範囲を超えて外の世界と連関したように思われた感覚を捉えている。小川さんはその感覚を東京芸術大学名誉教授だった野口三千三が考案した「野口体操」の考え方にヒントを求めながら掘り下げていく。
小川 野口体操は、身体の力を抜いてリラックスした状態が最もよい状態という考えのもとで実践する体操なのですが、「人間の身体は液体に満ちた袋のようなもので、内臓や骨格はそのなかに浮いている」という発想があるんですね。それは俳句にも通ずると思っています。俳句って、手のひらに乗るくらいの透明でちょっと光る袋のようなものに思うんです。液体がたぷたぷしていて、中が静かに循環しているのがいちばんいい状態というような。特殊な感覚だと思うんですけど。吟行で使う私の身体と俳句がさざなみのように呼応していくというイメージがあります。
吟行を通じて外の世界と身体が呼応し、そして身体と俳句が呼応する。そういうイメージを持つと、俳句を作ることは作者の頭や手だけによるものではなくもっと大きな流れのなかに行われているものだと捉え直すことができ、心が軽くなるような気がする。
■ぽよんとしている俳句
黒岩徳将さんとの対話形式による第2部でも引き続き吟行や句作をめぐる感覚が話題にあがった。
黒岩 さきほどのお話しの「水位」っていうのは、自分の気分とか俳句受信機がいい状態だってことじゃないですか。どうやったらなれるんですか?小川 栄養みたいなものが溜まっていかないと枯れちゃう気がするんですよね。俳句をいっぱい作るとどんどん自分を削っていくような感じがして。黒岩くんの場合はすごくたくさん作るじゃないですか。枯渇していく感じはないんですか?黒岩 僕も目の前にあるものでとか、自分のなかにあるものばっかり出すと、俳句を作るときすごくしんどくなる。音とかリズムが好きだから、定型のリズムに言葉をガチャってはめて「できた!」みたいな、そういうことでたくさん作ります。
黒岩さんは小川さんと一緒に吟行句会をすることがよくあるそうだ。
小川 歩いたりすることで身体が揺れるってことが大事かなと思うんですよね。自分の体液が揺れるじゃないですか。なにかが循環するときに振動って大事で。黒岩 「液体がたぷたぷしていて、循環しているのがいい状態」というお話しもありましたが、俳句にも揺れる感じってあるんですか?小川 俳句は、たっぷりしていて、ちょっと「ぽい」って突っつくと「ぽよん」ってなる感じです。黒岩 いろんな俳句に感じますか?小川 私が友達のように思っている俳句はそんな感じです。黒岩 「ぽよん」が面白いですね。〈眠たげなこゑに生まれて鱈スープ〉は「ぽよん」って感じがします。
「ぽよん」という表現が、すとんと腑に落ちた。俳句は非常に短い詩型だけれど、読んだ瞬間に一気に人の暮らしが見えたり、景色が広がったりする。俳句という短い表現から読み手が多くのものを展開させたとき、読み手の心も俳句自身も小さく弾んでいるといえるのではないか。俳句と読者が出会う瞬間を「ぽよん」という言葉は捉えていると感じた。
■俳句、すごいな
黒岩 『ことり』という句集の何がすごいか。いつ誰がどこでなにをしたのかをわかりやすく書かないこと、全てを言わないで余白を持たせること。〈内気ですきちきちは鋭角にとぶ〉もそうですね。この「きちきち」はちょっとかわいいなということだけはわかる感じです。五七五ではない俳句がたくさんあることも魅力のひとつだと思っています。〈ひとりとてもたのしさう臘梅ことり〉の口に出したい感じ。黄色い臘梅がぷわっと咲く感じ。それだけで俳句って楽しいじゃん、という感じがこういう句にはすると思います。〈毛糸編むアラスカつてくらい素敵な〉の「つてくらい」とか、〈夜空吸ひこみ嵩張るんよ白菜〉の「るんよ」とか、言葉のドライブする感じはどうやってされているんですか?小川 私の先輩がこういう感じで作っていたんですよね。2015年9月の吟行句会の句なんですけど、谷佳紀さんが出されていたのが〈夫婦は突如大声残暑は早足で〉〈金木犀そろそろ終り建替中〉。成田輝子(島田輝子)さんは〈ももハム二枚朝刊も来て敬老わたくし〉〈誰の噂してるの? 昼の虫しししし〉。すごいエネルギーと頭の回転の速さがあって。特殊な系統を引き継いだんですね。谷さんが亡くなって、成田さんが亡くなって、「ここは一回締めるところだろう」というのが句集をつくるきっかけのひとつでした。港の人から出版したかったのは光森裕樹さんの歌集『鈴を産むひばり』(2010年)の装幀がすごく素敵だったからで、地元の出版社で出したいという思いもありました。
小川さんは20代なかばの頃、心身ひどく衰弱してしまった時期があったそうで、そこから回復するときに俳句に出会ったという。2008年から現在に至る作句期間の半分程度は回復の過程だったそうだ。
小川 私は私自身の回復のために俳句を作っていたのに、『ことり』を読んだ方からは「仕事に疲れて気持ちがささくれ立っているときに読むと心が落ち着く」「介護で疲れ切っているときに読むと気持ちが軽くなる」という感想をいただきました。俳句は短いし、意味を伝えるものでもないのに、誰かの回復のための力になるんだということが嬉しくて。俳句、すごいなと。出版して正解だったとつくづく思います。
■言葉の気配
今回のトークイベントがカフェバー Plateroさんの読書会企画の一環として行われたということもあり、普段から俳句に触れている方だけではなく、初めて読んだ句集が『ことり』という方も会場にいらっしゃった。そういった空間で俳句が人に届いていく様子を間近で見ることができ、とても嬉しかった。
ここでは紹介しきれなかったが、日ごろ関心を寄せている環境問題の話や愛読している永瀬清子の詩の話など、小川さんのバックボーンが窺い知れるお話しがたくさんあった。黒岩さん企画の俳句穴埋めクイズで会場も一体となり、充実の2時間だった。
最後にもう少し、小川さんが第1部で語られていたことを紹介する。
小川 〈胸のなかより雉を灯して来りけり〉。雉の鮮やかな色彩が胸の前のあたりにふわーっと出てくるような、そんな感じの人が来たらいいなと待っている気持ちがこの句には出ていると思います。〈水澄むや一駅を過ぎたあなたは〉は、もう会うことはないだろうという人を思って作った句です。会うことはなくても、あなたの点とわたしの点はいくらかは繋がっていて、その繋がりは意外と消えないものだなと感じて作りました。〈つぐみ来るから燃えるつてしぐさして〉。私の句って「どういう意味だよ」って言われることが多くて、でも意味はどう読んでもらってもいいなあというか、言葉の手触りや気配で読んでいただけたらなと思っています。俳句だけでなく、ほとんどのことに正解はないんじゃないかなと思います。
イベントのあとで『ことり』を読み返すと、改めて新鮮な印象を受ける。一句一句の言葉の気配がよりいきいきと立ち上がってくるのだ。それはお話しを通して、どんなことを考えながら俳句を作ってきたか、その一端を知ることができたからだと思う。もちろん背景を知らずにひとりで読むのも楽しいし、今回のような機会があるのも楽しい。
(了)
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