【週俳2月の俳句を読む】
多様な俳句スタイル
谷口愼也
俳句は「定型詩」である。だが、その「定型」における「型」(かた)は、リンゴや椅子がそこに在るように外在的に在るのではない。それは書き手の感覚観念のなかに、漠とした「かたち」で内在的に在るものである。その不確かな集積がこの「定型詩」の本質ではなかろうか。
一読者としてのわがままを言えば、各人の俳句スタイル(様式)が、「定型」を外在的に固定化するのではなく、内なる共同幻想として拡充していくような、そんな楽しい作品を読みたいと思っている。
●「木偶」森尾ようこ
骨格のしっかりとした作品で、句中の語句の選択も明確であり、作品との「対話」を十分に楽しむことができた。
太陽と春泥すこしづつ動く 森尾ようこ
天と地の「動き」である。季節の推移に伴う従来の情緒感を排し、それを「動く」という素朴な一語で表現したところが面白い。言葉の力を感じさせる1句だ。
春寒の机に花壇設計図 同
眼前の景が立体的に、かつ豊かな色彩を伴って立ち上がってくる。〈設計図〉は句に明確な意思をもたらし、〈春寒〉は季語であると同時にその発音「しゅんかん」は、〈春寒〉を一瞬切り裂く「瞬間」でもあるという、何とも心憎い心配りである。だがそれは作者が意図したものではなかろう。一見、575音を遵守したかに見えながらも、これは確かに内なる幻想に突き動かされた1句である。
恋人の心臓の音あめふらし 同
ここに〈心臓〉と〈あめふらし〉の取合せの面白さを言っても始まらない。〈心音〉が直截に〈あめふらし〉と等価値となっているところがミソであろう。〈恋人〉が、貝殻が軟体化した〈あめふらし〉の奇妙な姿と色とに転換されている様は、従来の共同幻想的な青春歌を大きく打ち崩すものである。
復元土器恥づかしさうに立つ二月 同
この句は〈恥づかしさうに〉が眼目。ここに軽い滑稽感が生じている。古代土器の修理復元は近代人の手によってなされるもの。「あら、こんなはずではなかったわ」と言うのは復元された土器の方である。それも裸に晒されて―。コミカルではあるが、季語の選択よって、そこに冷たい隙間風が吹く。
●「二月四日」堀切克洋
生活の現場に関わりながら、そこに適度な抒情性と極端ではない言葉の選択がある。
早梅の土に淫するごとく散る 堀切克洋
「早梅が散る」という自然の成り行きに対して、〈淫する〉という措辞はやゝきついようにも思える。すなわちここに違和が生じてくるが、そこを〈ごとく〉という直喩で相関付けているがゆえに、この〈淫する〉が作者の生身の感情として突出してくる。そしてその感情は、〈淫する〉私たちの様々の感情を呼び起こしてくれるものである。
よく育つヒヤシンスなり歩き出す 同
季語の効用を言うにふさわしい1句であろう。〈ヒヤシンス〉の語感は、〈歩き出す〉によって清涼な空気感や青空までをも誘引してくれる。〈歩き出す〉とは再出発のこと。その毎日の繰り返しが人の一生の足跡となる。
受験生ひとり監督ふたりなり 同
写生句の様相を呈しながらも寓意性たっぷりの句となっている。そこに置かれた〈受験生〉の緊張感は、一人を複数人が監視するその社会的構図を想起させる。また〈受験生〉とはその国の国家体制への入り口に位置するものであることを思えば、この句は痛烈な批判精神を孕んだものとなる。
枯れきらぬ芭蕉を枯らす春の雨 同
ここには俳句独特のアイロニーがある。〈枯れきらぬ芭蕉を枯らす〉のが柔らかい〈春の雨〉であるという設定は、何処か人の情の機微に触れていて妙である。
●「地球が軋む」瀬間陽子
作者が本来的に受け持っている抒情性と、対象把握における主知的な感性とがうまく混交している10句である。
ホチキスで綴じる生涯磯千鳥 瀬間陽子
この句は、〈生涯〉や〈磯千鳥〉に伴う情感や抒情性を〈ホチキス〉で綴じている。ゆえに句の表面は、一見軽い滑稽感で覆われているかに見える。だがその中身を齧ってみると、じわっと作者の情感が滲み出てくる。俳句もまた作者の感情によって成立する文学ではあるが、やはりそこには「理知」や「知性」が働かなければ表現としては成立しない―ということを教えてくれる1句である。
菓子パンと薄いカーテン冬木の芽 同
上句中句は「生」や「生活」の頼りなさを象徴する。そのうえ〈冬木〉まで登場すれば「これは言い過ぎ」―と思わせるが、最後に〈芽〉が登場する。これで舞台は一変する。比ゆ的に言えば、長い助走の低空飛行が、つんと顔出す〈冬木の芽」によって一瞬飛び上がる、予感を孕んだものとなる。こういう書き方も面白いのではないか。
薬喰青空の味していたり 同
細見綾子に〈そら豆はまことに青き味したり〉がある。味覚から視覚へと広がるそのイメージは、実に鮮やか。それが成立するのは〈まことに〉という個の主観、すなわち表現上のダメ押し的な断定があるためであり、その断定の響きに読者もまたそう思う―という仕立てになっている。
だが抽出句は〈薬喰〉と〈空の味〉との完全な取合せ。そこに省略されているのは単に感性の問題ではなく「生活」の問題である。だから細見句に比すれば野暮ったくなる。さらに、だが、その野暮ったさの中に鹿や猪の肉を喰うという野性味を見落としてはならないだろう。野生としての生きものは、太古から〈青空〉を見続けてきたのだから。
冬萌にかすかな軋みページ繰る 同
〈冬萌にかすかな軋み〉を感受したのは作者の手柄。だがこの直感や思いつきだけでは俳句にはならない。短小詩形ながらも、俳句もまた読者との「対話」を前提とするものだ。だからそこを〈ページ繰る〉「音」と連動させた。すなわち誰でもが経験する日常的な所作をここに持ってくることによって、この句は読者との「対話」をすんなりと成立させているのである。
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