2024-03-10

瀬戸正洋【週俳2月の俳句を読む】空想による雑談Ⅱ

【週俳2月の俳句を読む】
空想による雑談Ⅱ

瀬戸正洋


くす玉の半分は雲冬ひばり  瀬間陽子

くす玉には延命、長寿、無病息災等の願いが込められている。そのなかの半分は雲なのである。低く飛びまわる冬のひばりはくす玉から飛び出たものなのかも知れない。

なまはげの森閑とする背中かな  瀬間陽子

鬼に扮したひとびとが家々を訪れ祝言を述べる。なまはげの背中は森閑としている。鬼に扮することにためらいがあるのかも知れない。祝言を述べることにためらいがあるのかも知れない。

なまはげとはひとのことである。ひととは鬼のことである。鬼とはなまはげのことである。

初雪は来年も降るまぁ座れ  瀬間陽子

雪が降ると困るのである。念を押しているような気がする。坐れといったのは、そのどうしょうもないことについて語り合いたいと思っているからなのかも知れない。

初日記果物を剝く白さかな  瀬間陽子

日記は元日から書きはじめるとは限らない。剥くと白い色をした果実がある。ページを開くと日記は白いのである。何も書いてないから白いのである。果物にナイフを刺してみたいと思った。

ホチキスで綴じる生涯磯千鳥  瀬間陽子

生涯とはホチキスで閉じる程度のものである。閉塞感を感じる。結果があればいいのである。群れていればいいのである。留まっていればいいのである。そのまま、どこかへ飛んで行ってしまってもいいのである。

円陣の半分が泣き氷下魚かな  瀬間陽子

円陣を組むことなく生きていきたいと思う。なみだはからだを守るためのものである。半分とは等分したもののひとつである。なかばという意もある。その半分を得るためには氷を砕かなくてはならない。その中に入って行かなくてはならない。

薬喰青空の味していたり  瀬間陽子

寒中に滋養となる肉類を食べることを薬喰という。青空の味といわれても誰も知らない。想像するだけである。それは太陽の味とも違うようである。

地上絵のようにしずかな浮寝鳥  瀬間陽子

しずかであることは有り難いことである。こころを乱されずに済むことは有り難いことである。越冬のためにまいねんやって来るのである。

地上に絵を描く。それは空を飛んでみたいと思っているからである。

菓子パンと薄いカーテン冬木の芽  瀬間陽子

菓子パンと薄いカーテンにはやさしさがある。冬木の芽には厳しさがある。それらを隔てているものが窓なのである。

冬萌にかすかな軋みページ繰る  瀬間陽子

冬萌である。かすかな軋みを感じた。何がそう感じさせたのか考える。勘違いしたのかも知れない。書物の中にこころを沈める。何かがはじまるような気配がする。

春を待つ掌に乗るがじゆまると  堀切克洋

春を待つにはふさわしいのである。欲張ることはしない。ほどほどの立場でもある。ほどほどであることが大切なのである。ほとほどとは掌に乗るくらいのものなのかも知れない。

学びては知らぬこと増え冬木の芽  堀切克洋

何かをはじめると無知であることに気づく。春に芽吹く木の芽は秋にきざし冬を越す。動かなければ何も知ることなく死んでいくのだ。あたたかい部屋で本を読む。そんな暮しの意味を考える。

早梅の土に淫するごとく散る  堀切克洋

土がすべてなのである。土にあまえてはいけない。おぼれてもいけない。あたたかい生活。咲き急いたりすると自分を見失うことにもなる。

久美逝く二月四日は雪もよひ  堀切克洋

本人にしか理解できない。俳句とはそういうものであるのかも知れない。他人には何も解らない。

薔薇の芽や東京はすぐ雪溶けて  堀切克洋

雪は溶けたくないのである。薔薇の芽とは生きるよすがなのかも知れない。ながれに逆らうことは難しい。東京であることが支えになっているのかも知れない。

イヤフォンの縺れてバレンタインの日  堀切克洋

待つことが大切なのである。ひと呼吸おいてみることが必要なのである。思ったよりも簡単に解けてしまった。縺れているのはイヤフォンだけではない。バレンタインの日である。もの悲しい音楽が流れはじめる。

受験生ひとり監督ふたりなり  堀切克洋

受験生にとってはどうでもいいことである。監督者はひとりいれば十分である。たまたま、そうなってしまった。試験場の緊張感だけは緩んだような気もする。

枯れきらぬ芭蕉を枯らす春の雨  堀切克洋

ひとは何もしなくてもいいのである。待っていればいいのである。春の雨は正常なすがたにもどしてくれる。

春の水睨み一水四見とは  堀切克洋

睨むことは控えるべきである。おだやかであることが肝要なのである。他人は何も変わらない。自分を変えてみればいいのである。川のながれは速くきらきらと輝いている。

よく育つヒヤシンスなり歩き出す  堀切克洋

歩くためには歩かなくてはならない。ヒヤシンスを育てるためにはヒヤシンスを育てなくてはならない。あとは耐えればいいのである。それで世の中はうまくいくと思う。

熊鈴のかすかにきこゆ椿かな  森尾ようこ

鈴の音が聞こえた。熊はひとになどと出会いたくない。ひともひとになどと出会いたくない。

椿の森で鈴の音が聞こえた。そこにはひとがいる。熊もひとも不快になりたくない。それなら、そこへ行かなければいいのである。

春寒の机に花壇設計図  森尾ようこ

季節は移ろうものである。ある朝、平凡な寒さのなかに春の気配を感じた。花壇設計図をひろげてみる。これで終了である。あとは、風に任せておけばいいのだと思う。

復元土器恥づかしさうに立つ二月  森尾ようこ

復元されるとは思ってもみなかった。そっとしておいて欲しかった。恥ずかしいからである。それくらいのことはわかっていて欲しかった。二月でなくても立っていることは恥ずかしいことなのである。

太陽と春泥すこしづつ動く  森尾ようこ

感じるだけでいいのである。動くだけでいいのである。太陽と春泥はすこしづつ動いている。ひともすこしづつ動いている。生きるとはすこしづつ動くことなのである。

恋人の心臓の音あめふらし  森尾ようこ

恋人の心臓の音はあめふらしである。恋人の心臓の音を感じるにはあめふらしでなくてはならない。恋人が恋人であるためにはあめふらしでなくてはならない。あめふらしがあめふらしであるためには恋人の心臓の音が聞こえてなくてはならない。

木偶の持つ風船やみくもに揺れる  森尾ようこ

むやみやたらに揺れるのには理由がある。木偶の持つ風船はあやつられている訳ではない。そのうしろには黒い服のひとがいる。ひとをあやつることは罪悪なのである。

でくのぼうとよばれたりもする。そうよばれることは悪いことではないのかも知れない。

暖かや木屑もそれを食む虫も  森尾ようこ

あたたかさは何もかもを包みこんでくれる。木屑、虫ばかりでなく獣も鳥もひとさえも包みこんでくれる。あたたかいからである。

遅刻魔の姿の見えて日永し  森尾ようこ

理由があって遅刻をしている訳ではない。毎日のことなので誰もがわかっている。遅刻をしないとものたりなくなったりもする。春の日が長く感じられると人生も長いような錯覚に陥るのである。

耳穴に棲みたくなりぬ春の暮  森尾ようこ

穴がある。もぐり込みたくなる。生き物とはそういうものなのかも知れない。説教は長い。隣のひとの耳が気になり出す。この耳もおなじ話を聞いているのだと思うと不思議な気がする。耳が貝殻のように見えてくる。やどかりになったような気がした。

竜天に登る懐紙に渦模様  森尾ようこ

春分の頃に竜が天に昇り雨を降らせることを「竜天に登る」という。春分の日の雨を見て竜が天に昇り雨を降らせていると思うひとはまれである。懐紙に渦模様があったとある。渦模様の懐紙を持って暮らすひとはまれである。

故に、俳句であるのだと思う。



瀬間陽子 地球儀が軋む 10句 ≫読む 第876号

堀切克洋 二月四日 10句 ≫読む 第877号

森尾ようこ 木偶 10句 ≫読む 第878号

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