2024-03-10

鈴木茂雄【週俳2月の俳句を読む】俳句の文法

【週俳2月の俳句を読む】
俳句の文法

鈴木茂雄


「俳句を読む」というときには、ふたつの側面がある。ひとつは、なにが書いてあるのかということ。もうひとつは、どう書いてあるかということである。さらにいうと、もっと大切なことは、俳句はひとつの文法(語法ではなく)であるということを理解していることである。俳句の文法とは詩を表す仕組みのことで、それ自身が一個の詩的手法として働き、われわれの心のひだにある抽象的思考を異化作用によって言語化する。断るまでもなく、それは俳句を解釈する場合もなくてはならないものであり、詩としての俳句の正しい解釈を導き出すひとつの方法である。俳句の正しい理解とは、通り一辺の語釈を意味するのではなく、作品に潜む匂いやニュアンスまでも読み取るということである。俳句という575の詩形の中には、目には見えない言葉の定位置というものがあって、置くべきところに置かれている言葉の配置図を手がかりに、コトバの裏の意味までもまるごと理解する必要がある。


瀬間陽子 地球儀が軋む

くす玉の半分は雲冬ひばり
なまはげの森閑とする背中かな
初雪は来年も降まるまぁ座れ
初日記果物を剝く白さかな
ホチキスで綴じる生涯磯千鳥
円陣の半分が泣き氷下魚かな
薬喰青空の味していたり
地上絵のようにしずかな浮寝鳥
菓子パンと薄いカーテン冬木の芽
冬萌にかすかな軋みページ繰る

「くす玉」の句、この「くす玉」には、夏の季語としてのそれと、それをまねた運動会などで使われる、割れると中から紙吹雪やテープなどが出てくる飾り玉とがあるが、この句の薬玉の場合は季語として扱われていないので、後者の意味として使っていることになる。その薬玉の「半分は雲」という。空洞の玉の中に半分雲が詰まっているというのだ。だとするとそれは気体ではなくて、綿菓子のようにふわふわとしたものに違いない。その「くす玉の半分は雲」と「冬ひばり」との関係に迫ってみよう。なぜ「くす」だけ平仮名表記なのか。なぜ「半分」という量にこだわるのか。なぜまるまる薬玉ではないのか。なぜ冬ひばりなのだろう。なぜ揚雲雀ではないのか。すると「冬」がこの一句の焦点なのか。などなど、謎は深まるばかりだが、詩は謎めいているという観点もあるから、このまま眺めていることにしよう。

「なまはげ」の句、「なまはげ」は鬼の仮面を付け、藁などで作った衣装をまとって、厄払いや「怠け者はいないか」と大声で怒鳴りながら家々を回る秋田県男鹿半島で行われている、秋田を象徴する記号にもなっている年中行事だ。異形な仮面もさることながら、なまはげがまとう藁などで作った衣装もまた独特なデザインだ。「森閑とする背中」とは言い得て妙、広々とした深くて暗い森を思わせるものがある。幼い子供たちの目には、さぞ恐ろしい巨人のような背中が映っていることだろう。「かな」はその詠嘆だ。

「初雪」の句、「まぁ座れ」がこの句の眼目。窓を開けて眺めようとする来訪者に、「初雪は来年も降る」と言って着席をうながしたもの。一句はこの家の主人のセリフで出来ている。よほど待ちくたびれていたのだろう。「まずは一杯」と盃をすすめている様子が目に浮かぶ。

「初日記」の句、初日記といえば過去に問題句になった「新日記三百六十五日の白 堀内薫」という句があるが、揚句の初日記は「果物を剥ぐ白さ」というのだから、ちょうど元日の夜に開いた真っ白なページにみずみずしさを感じて詠んだものだろう。「果物を剥ぐ」とあるが、どの果物をイメージして言っているのだろう、と読者は剥ぐ(むく、ではなく)果物をあれこれ考えさせられることになる。

「ホチキス」の句、「綴じる生涯」の「綴じる」には、生涯つまり自分史を綴ったものをホチキスで綴じて冊子にするという意図のほかに、慣用句の「幕を綴じる」という意味が付随している。そうすると下句に置いた「磯千鳥」は何の記号だろうという疑問が湧くが、古来より和歌に詠まれてきた磯千鳥への思いを視野に入れると合点がいく。たとえば、光源氏が須磨で過去の華やかな生活を追憶する気持ちを詠う、というように。

「円陣」の句、円陣を組んでいる。その半分が泣いているという。まさか「氷下魚」を囲んで泣いているわけではないだろう。それではこの「氷下魚」」は何の記号なのだろうという疑問。「円陣の半分が泣き」と「氷下魚」の関係。なぜまた半分なのか。なぜ氷下魚なのか。最後までわからない。わからないからだめというのではない。詩はわからないものなのだという観点に立脚すると、なぜかわかったような気がしてくるから不思議だ。

「薬喰」の句、薬喰いは冬の季語。肉食が禁止されていた時代のこと、寒中に薬と称して鹿や猪の肉を食べた。その鍋は紅葉鍋、牡丹鍋という美しい名前で呼ばれて、現在にいたっている。「青空の味していたり」と詠んだのはそのせいだろう。もちろん青空に味などないが、ないことをいうのが詩であったりする。

「地上絵」の句、「浮寝鳥」は冬の季語「水鳥」の傍題。水に浮かんだまま眠っている鳥をいう。「地上絵のように」と、直喩で「浮寝鳥」の姿を示す。地上絵といえばナスカの地上絵が有名だが、広大な大地に巨大な図形で描かれたものと比較するのはいささか大げさと思うかも知れないが、「ように」は「静かな」にも掛かっていて、静かさを表現するのにいっそうその効果を発揮する。

「菓子パン」の句、「菓子パンと薄いカーテン」から思い浮かぶのは若い女性のひとり住まいのシーン。「冬木の芽」はささやかな幸福のシグナルだろう。

「冬萌」の句、冬萌は「冬のうちから草が芽ぐむこと」。春がそう遠くはないことを匂わせている。その冬萌に「かすかな軋み」とあるが、なにが軋んでいるのだろう。「地球儀が軋む」とタイトルにあるから、地軸が軋む音を感じたのだろうか。それにしてもいきなり「ページ繰る」というのはどんな種類の本なのだろう、と想像は尽きない。


堀切克洋 二月四日

春を待つ掌に乗るがじゆまると
学びては知らぬこと増え冬木の芽
早梅の土に淫するごとく散る
久美逝く二月四日は雪もよひ
薔薇の芽や東京はすぐ雪溶けて
イヤフォンの縺れてバレンタインの日
受験生ひとり監督ふたりなり
枯れきらぬ芭蕉を枯らす春の雨
春の水睨み一水四見とは
よく育つヒヤシンスなり歩き出す

「春を待つ」の句、「がじゆまる」は常緑広葉樹の高木だが、「掌に乗る」というからこの句のガジュマルは小さな鉢に収まった観葉植物だ。ガジュマルの花言葉(健康・多幸)をシグナルとして発信しているということは、「春を待つ」というフレーズからして察しがつくだろう。

「学びては」の句、「学びては知らぬこと増え」というどこかで聞いた名言のようなフレーズと「冬木の芽」の新しい関係は詩的かそうでないか。それは「冬木の芽」が生かされているかそうでないかに掛かっているが、詩は理屈を嫌う。

「早梅」の句、早梅は冬の季語。春の到来に先駆けて咲く、ということを本意とする。だが、この句は「散る」という。しかも「土に淫するごとく」と。最初、「淫する」は「みだらなことをする」と読みかけたが、「土に淫する」だからこの淫するは耽溺、つまり「一つのことに夢中になってほかを顧みないこと。多くはよくないことに熱中することにいう」ことである、と読み返そうとするのだが、詩は説明を嫌う。

「久美逝く」の句、作者にとってこの固有名詞はどういう関係なのだろう。ここでは「逝く」という表現だけで想像するしかないが、「二月四日は雪もよひ」という下りを読んで少し救われる。近親者ではないと思ったからである。立春に当たる二月四日は「雪もよひ」だったのだ。春の兆しのなかにもいまだ寒気の残る季節。「雪もよひ」はまた空を仰ぐ行為を示唆している。

「薔薇の芽」の句、昨夜降った雪は「薔薇の芽」にまだ残っているが、表の道路の雪はもうすっかり溶けてなくなっている。「東京はすぐ雪溶けて」がよくその情景を語る。

「イヤフォン」の句、「イヤフォンの縺れ」と「バレンタインの日」の関係。「縺れ」がこの句の焦点。バレンタインの一日のすべてを饒舌に語る。

「受験生」の句、「受験生」が冬の季語。試験場に「受験生」がたった「ひとり」、「監督」が「ふたり」もいるという。受験生が一人監督が二人、この情景設定からどういう事情か、想像はつく。最初からそのことを意図して書かれたものだからだろう。

「枯れきらぬ」の句、たんなる写生の句ではない。この「枯れきらぬ」はメタファで「枯れきらぬ芭蕉」に自己を重ね合わす。その「芭蕉を枯らす」のは「春の雨」とある。春の雨といっても、枯れかけた芭蕉をさらに枯らすというのだから、冷たい雨なのだ。
この春の雨という記号は受信者によってさまざまなシグナルとして届くことだろう。

「春の水」の句、「睨み」は凝視しているということ。そして「一水四見とは」と自問する。ちなみに一水四見は仏教用語で「同じ水でありながら、天人はそれを宝石で飾られた池と見、人間は水と見、餓鬼は血膿と見、魚は自分のすみかと見るように、見る心の違いによって同じ対象物が異なって認識されること。」とある。禅問答のようなポーズがこの句を詩から遠ざける。

「よく育つ」の句、どう読んだら良いのだろう。「よく育つヒヤシンスなり」は作者の独白、「歩き出す」はその後の行動と見たら良いのだろうか。それともこのヒヤシンス自体が歩き出したということなのだろうか。詩は吃驚させるものであるという観点からいうと、後者の解釈のほうが正しい。というより面白いと言ったほうが良いかも知れない。


森尾ようこ 木偶

熊鈴のかすかにきこゆ椿かな
春寒の机に花壇設計図
復元土器恥づかしさうに立つ二月
太陽と春泥すこしづつ動く
恋人の心臓の音あめふらし
木偶の持つ風船やみくもに揺れる
暖かや木屑もそれを食む虫も
遅刻魔の姿の見えて日永し
耳穴に棲みたくなりぬ春の暮
竜天に登る懐紙に渦模様

「熊鈴」の句、「熊鈴」は熊除けの鈴だが、あくまでも自分の存在を熊にアピールするためのツール。そんな熊鈴の音が「かすかにきこゆ」とあるから、そんな場所に咲いている「椿」を見ているということなのだろう。平仮名表記もその工夫のひとつ。「かな」はその強調。

「春寒」の句、立春後の寒さ。机の上に「花壇設計図」がある。設計図といってもおそらく手書きのものだろう。庭を眺めながらここにあの種を蒔き、ここはあの石で囲って、と。

「復元土器」の句、「恥づかしさうに」と言われると、この復元土器が少し困惑した顔、おどけた仕草に見えてくる。「二月」という季節も復元土器にふさわしい。そんな感じさえしてくるから不思議だ。

「太陽」の句、「春泥」は春の雨や雪解けによって生じる泥のこと。太陽はもちろん東から出て西に「すこしづつ動く」のだが、春泥が「すこしづつ動く」といって、土がゆっくりと乾いていく様子をまるで早送りの映像のように表現する。

「恋人」の句、「恋人の心臓の音」と「あめふらし」の関係。恋人の心臓の音を聴いたのが先か、あめふらしに触れたのが先だったのか。そんな詮索をするより、「詩はリズムである」という観点から言うと、この句はリズムを楽しむほうがよさそうだ。

「木偶」の句、木偶は木彫りの人形、操り人形、役に立たない人、でくのぼう。この風船を持っている木偶はどれだろう。そう思ってしまう。そして、なぜ「やみくも」に揺れているのだろう、と。詩は謎を呼ぶ。そして遊ぶ。

「暖かや」の句、暖かさそのものを詠んだ句。どうしたら季語の本意を詠めるのだろだろうか、と。その成果が「木屑もそれを食む虫も」のイメージを生む。

「遅刻魔」の句、「遅刻魔」と「日永し」の関係。来た来たいつもの遅刻魔。いまではみんなあきらめ顔で仕方なく許容している。許容されている幸せな男。その姿を見る方も見られる方も、なんだかその周辺にほんわかとしたものが漂う。それもこれも季語「日永し」の効果だろう。

「耳穴に」の句、「耳穴に棲みたくなりぬ」という、この感覚はおそらく女が男に対して抱く皮膚感覚のようなものだろう、一読してそう思った。季語の斡旋がよかったからだろうと単純には認めたくないのだが、こ春の暮というニュアンスは、耳の穴に棲む女のことを非日常から日常へ常態化することを許容する。

「竜天に」の句、「竜天に登る」と「懐紙に渦模様」の関係。まったく新しい関係とは言えないが、この渦巻き模様を懐紙の上に滲ませるように描いて、「竜天に登る」という実際にはあり得ない季語にリアリティを与えるのに成功している。


瀬間陽子 地球儀が軋む 10句 ≫読む 第876号

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