2024-03-17

青木ともじ【週俳2月の俳句を読む】いろいろな感覚の

【週俳2月の俳句を読む】
いろいろな感覚の

青木ともじ


瀬間陽子 地球儀が軋む

薬喰青空の味していたり  瀬間陽子

青空の味というのはどんな味なのか瞬時には想像がつきませんが、この人はあまり味付けをしていない肉を食べているような感じがします。最近はジビエという呼ばれ方で様々な肉を食べる機会が増えてきましたが、そんなジビエ肉を食べているのだろうと思います。獣の肉を食べるとき、どうしても獣本来のえぐみや臭みを意識してしまいますが、この句ではその中にあるかすかな青みのようなものを感じ取り、ここで「青空の味」と言ったのでしょう。しかし単に「青い味」と言ってしまってはそこに面白みはなく、「青空の味」と言い切った思い切りの良さが良い。そこにすがすがしさもありますし、生きていたころに獣が見ていた野山の空も同時に連想させます。味覚に根ざしていながら奥行きのあるよい句です。

地上絵のようにしずかな浮寝鳥  瀬間陽子

地上絵といえば、ナスカの地上絵を思い浮かべる人が多いと思いますが、ナスカの地上絵には、ハチドリやペリカン、ヒメウなど様々な鳥が描かれているといいます。かつての人々は空を飛ぶ鳥を眺めながら、そのはばたく姿を陸に描いたのかもしれませんが、この句では浮寝鳥たちはみな視界の下に散らばっていて、動かない。まるでこの人が神の視点に立ったかのような描き方をしています。しかし実際の景色に立ち戻ってみれば、人類が見上げていた鳥たちのうち、鴨なりなんなりだけが、狭い視野にコンパクトに収まっているというちんまりとした光景でしかないという可笑しさが、地上絵という比喩によって逆説的に活かされています。

他にも「くす玉の半分は雲冬ひばり」の句では半分は雲という把握の不思議さに惹かれました。「初日記果物を剝く白さかな」には果物といいつつ果物は出てこない。白さだけから果物へ発想を飛ばした面白さがあります。「ホチキスで綴じる生涯磯千鳥」では、このホチキスで綴じられることは必ずしも「薄さ」ではなく、軽やかでありながらもきちんと紙に綴じてもらえる明るさがありました。

堀切克洋 二月四日 

早梅の土に淫するごとく散る  堀切克洋

早梅であるから、まだ土は梅の匂いを知らない。梅も土の匂いを知らない。そこへ初めて落ちる梅の花とその香りを思うとたしかにその妖艶さが引き立つように思われます。梅の花の湿度を感じる質感自体も、土にしみわたってゆく感じがして梅らしいと思いますが、ここではただの梅ではなく、早梅としたことがこの句の良さです。満開の頃の梅では、香りや質感の情報量が多くこてこてになってしまいそうです。

受験生ひとり監督ふたりなり  堀切克洋

学生のとても少ないような地域なのか、追試や予備試験のような試験なのか。監督が二人いるところをみると、後者のような雰囲気がします。このような場面には学生の頃出会ったことがあるけれど、大人数の試験のような緊張がない一方、監督官との距離感にこそばゆい思いになるものです。自分一人のために二人も監督官がいるのか……、とか、試験が早く解き終わってしまって時間が余ったとき、いまここにいる全員がただ待っているだけなのか……、とか、学生時代の妙なディティールを思い起こさせます。そういう読者それぞれの想像力を掻き立てるのは、ひとえに述べ方によるところが大きい。反復的なリズムで即物的にのべているところがよいですね。

他には「枯れきらぬ芭蕉を枯らす春の雨」の「枯れきらぬ」の部分に目を付けたことの手柄は着目すべきだと思いました。春の雨の明るさの裏にあるかすかな腐敗感と湿度が魅力的です。「よく育つヒヤシンスなり歩き出す」の下五の唐突な配し方もよいですね。歩き出すときというのはいつも唐突なものです。

森尾ようこ 木偶

復元土器恥づかしさうに立つ二月  森尾ようこ

博物館に展示されている土器を想像しましたが、土器の立つさまを「恥づかしさう」ととらえたのは面白いです。この恥じらいというのは、当然土器そのものの持つ感覚ではなく、作者が復元された土器に対して感じるささやかな違和感を反映しているでしょう。復元された文化財というのは、「本来の形」でありながら、「そのもの」ではないという、相反する性質を持つものです。例えば式年遷宮が文化財としての価値を持つのかという話はかつて議論されたこともありましたが、もちろん復元された文化財にも価値があるわけです。しかしそこに向けられた屈折した感情自体を句にしたことは手柄だと思います。季語の二月も、寒さの中できりりと立つ土器の質感、しかしこれから春へと向かってゆく明るさを併せ持った季節であり、この句を観念だけの世界から引き戻してくれる働きをしています。

耳穴に棲みたくなりぬ春の暮  森尾ようこ

ある種の春愁の一つなのでしょうか。耳穴に棲みたいとは何事かと思うところですが、あの小さくて暗い空間に棲みたいというのは、妙に共感してしまう自分もいます。耳の穴というのは摩訶不思議です。耳の形もよくよく見れば人それぞれ千差万別で、耳の奥にも蝸牛管があったり、エウスタキオ管があったり、各器官の形も名前も魅力的。あそこに棲んだら、家の(耳の)中は楽しい空間になることでしょう。まあそんな独善的な好みはさておき、この句では春という季節を配したことがとても適切。啓蟄となれば蟻も蛇も穴を出てくる季節ゆえ、あなぐらへのまなざしを意識する季節でもあります。正統にゆけば穴を出てゆく明るさを詠むところ、この句では寧ろあなぐらに入ろうとしている。この後ろ向きな姿勢こそ春愁であり、春の人類らしいなと思うのです。

他には「春寒の机に花壇設計図」の句に登場する花壇設計図はどんなものなんだろうと、とても実物を見たくさせるわくわく感がありました。「遅刻魔の姿の見えて日永し」は、句の素材自体はそこまで珍しくはないですが、どこか悠々と地平から姿を現してくるような可笑しみがあります。

今回は図らずも比喩や観念の句を多く選び出してしまったような気がします。二月はまだ冬らしい寒さから、春へ向かう明るさ、春愁然とした屈折感まで、いろいろな感覚の交錯するシーズンですね。


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堀切克洋 二月四日 10句 ≫読む 第877号

森尾ようこ 木偶 10句 ≫読む 第878号

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