2024-04-21

ゴリラ読書会〔16号~20号〕評論要約 小川楓子 黒岩徳将

評論要約


■01 久保田古丹俳論「奇形個室-崎原風子に寄せて-」(ゴリラ16号)

小川楓子要約

評者の久保田古丹は、崎原風子とともにアルゼンチンで俳句を作っていた。久保田は、ゴリラ6号から寄稿している。さて、崎原風子の簡単な紹介として数句引いてから進める。

参照:崎原風子読書会「ゆたかな等高線へ」〔前篇〕 〔後篇〕

『崎原風子句集』(海程新社)

Ⅰ 南魚座(1959-61)

野の十字架冬日尽きむとして奢る
向日葵群れ焦点のない焦りくる

Ⅱ 寝棺(1962-70)

わたしと寝棺のまわりゆたかな等高線
婚礼車あとから透明なそれらの箱

Ⅲ もっとはるかな8へ(1972-69)

い。そこに薄明し熟れない一個の梨
う。夜あけ前のうすい肉親それらの離陸

アルゼンチン移民の風子は、筆者である古丹が選者の邦字紙の選句欄に投句することをきっかけに俳句を始めた。古丹の誘いによって俳会「南魚座」に入会。一見非現実的な彼の作品に、意外に写実性が低徊しているのは、沖縄、内地、亜国を転住し、それぞれの土地の影響を受けたからではないかと古丹は推察する。このような風土性は風子に不安をもたらし、その突破策として三風土の融合を試み、結果として「白色地帯と呼ばれる作品を作り出した」と比喩的に評している。(「白色地帯」という言葉から推測するに、崎原風子句集のⅡ寝棺の時期の作品を指していると思われる)。しかし、白色地帯も三風土の混成した現実であったため、脱出を試みたのだった。

い。そこに薄明し熟れない一個の梨
う。夜あけ前のうすい肉親それらの離陸

等の作品について当時、機能的可能性について論じ合われたが、古丹は、「い」といい「う」というも、つまりは単に「掛声」「気合い」あるいは「呪文」に過ぎない一種の呼吸であると述べる。この試みもまた慣性を招き飽和状態になってしまった風子は、詩をやりたいと興味を移したようだ。古丹は「風子よ、今一度自分の背にある大パンパスを好むと好まざるに限らず、不可避な実在として見直してもらいたい。そこから新しい詩境のパイオニアが生れるものと思う」と結んでいる。『崎原風子句集』の解説を担当した「海程」の元編集長大石雄介に先日尋ねたところ、「崎原さんが作句した期間は短かった。その後のことはわからない」とのことだったので、風子は俳句と関わったのは短期間であった可能性が高い。


■02 「俳諧放談 パチン考」(ゴリラ16号)

小川楓子要約

〈出席者〉鯨丘草波 文司流山 〈コーディネーター〉原満三寿

※対談形式となっているが実際は原の一人語りと推測される。以下に座談会文章の要約を記す。

■02-1 大石雄介の俳句(記事内の小見出し)

「海程」の同人誌時代の全盛期を創り上げ、主宰誌移行とともに「海程」を退会。手書きの主宰誌をわずかな人に配布し、謎の俳人となっている大石雄介を取り上げている。「海程」在籍中の初期作品とその後の作品を比較する。

自我ごうごうと照る白岩か冬の俺は
口吸えば産卵期のひかりの漁港だ
紅葉食らって山犬が吐く空気だ
存在の淋しさ緑便夏の華
寝室はどの塊が秩父往還に
鱧の湯引きを存在のひとすじを吸うよ
河口より黄のトラック群わが戸口に
足長蜂荒れわだかまる鳥の暗さ
昼月しずく花鶏しずく枝に積もらぬ
(『大石雄介句集』海程新社より)

紅葉の山の濡れたまんまかな
大きく大きく汚れきった黄揚羽
腹鳴りも朝寒もちょうどいいな
天体の騒ぎを鼬の子と見ていた
俺だか黄のヘルメットだが分からない日暮
斑の山羊生れたまま大きくなった
轢かれた雀を「きれいだ」といってしまった
毛も見えたりする向日葵に空気ぞ
友来る冬鮒らいらいとあるべし
野犬といて鼻毛があるなと思えり
(『包』1~5号より 1号は1988.2.15刊行)

海程時代は言葉がいつも緊張して一語一語がのっぴきならない関係を結んで息苦しいほどの一行詩として立っていたが、『包』においては、表現されたものよりは表現する主体そのものへののっぴきならなさに集中していると原は述べかつての大石の理論について説明する。
〔補足1〕かつての大石理論

・語彙とは人それぞれの体験と意識の全体に対応する言語体系を単語の面からみたもの。各語はすべて有機的な関係として存在≒語彙体系といってもよい。

・ある一語を選び取る=一語+一語の抜けた語彙体系を選びとること。

・俳句形式=語彙体系から五七五、十七音を抜き取った、その空白としてしか価値づけられない。

・語彙体系は、この空白によって静的な充足を破られ、ひとつの動的な緊張関係に転じる。

・ことばとぼくの関係とは、ぼくらが手段でも目的でもなく、日常的なあらゆる限定を超えて、生の全容になる。

〔補足2〕上記の大石理論に対する感想  小川楓子要約

語彙が、残りの語彙体系と釣り合うものならば、韻文散文をとわず、あらゆる表現は、同価値ということになる。そこには何故俳句なのかが解き明かされていない。

表現された語彙が本来的に生の全容そのものならば、何故いろいろある言葉のなかから一つの言葉を選びとる必要があるのか。

選ぶ作業そのものが人それぞれの生の全容をあらわにすると述べる大石が、選ぶ行為をする大石という存在に目を向け出し、俳人としての全存在をかけている。

小川・追記

『包』は7号までは複数名で発行していたが、8号から現在に至るまで大石雄介の一人誌となっている。
『包』3号「文は人なり」において、大石は森鴎外の史伝『栗山大膳』にたまたま目を通して特別興味はなかったが「そうせずにはいられないことをしている。そのあり方に打たれるのだ。全体重をかけて、無心に。それだけでいい。それが作品の価値というものだ。このときぼくらは「文は人なり」の語をその頁の意味で負い、あるいは受けとめることになる。用を求めてやまない現今の風とは別にぼくらはこういう先人と同じところに立って俳句を書いているのだ」と記している。

■02-2 偶然ということ(記事内の小見出し)

言葉は一語を選ばなくとも天から降ってくることもある。座という疑似的異空間において定型という壷の中で振られると、かぎられた偶然ではあるがなにがでてくるかわからない、その面白さに遊んだのが連歌の文学だった。

時代は変わり、座を今も囲んではいるが、一人一台のパチンコ台で誰が一番玉が入ったかを競っているにすぎなくなった。

ほんものの偶然とは、大自然を賭場とし、定型の壷を振って宙にほうりだされた言葉なのではないか。

■02-3 意味、俳諧について(記事内の小見出し)

俳諧においては、意味も天から降ってくる偶然そのものなのだろう。狂気、無意識等の現象としてその姿は垣間見られる。対して意味世界は俗世界のコードの回路においてのみ受容され、その論理と論理世界の感動を呼び起こし、伝説を古典化することはあっても、これからの人間にとって新しい位相を切り開くことはできない。許容されたコードで俳句を書く行為も古くからの生をなぞっているにすぎない。

諧謔は、共同体物語の破壊として反世界をつくるが、あくまでも意味世界の存在を前提とする。
小川・追記:原満三寿『いまどきの俳句』に俳諧放談〈パチン考〉は掲載されている。

■03 多賀芳子「ゴリラ圏股覗き その三」(ゴリラ16号)

要約:黒岩徳将(以下同)

多賀が過去の「ゴリラ」作品の見渡した評論である。評論対象は山口蛙鬼・在氣呂・妹尾健太郎の作品である。

山口句を5句引用、うち2句を次のように評する。

梅雨の家洗濯機放し飼いのごと走る 山口蛙鬼

「洗濯機放し飼いのごと」といわれると、”梅雨”が滅法明るく野面を駈ける、”洗濯機くん”のご機嫌なさまが彷彿としてくる。

噴水に触れ素手ふとありふと暮し 同

この句の”ふと暮し”にたち止る。”ふと”は何気なくとも”太”とも読める。”暮し”は”黄昏し”を孕んでもいる。”ふと”の重複には、時空雨をこえてある蛙鬼の生のリズムが感じられないだろうか。

多賀は山口を評する際、柄谷行人の「自然(じねん)=どこにも主体がなくて、何か自然というべき働き(傍点柄谷)があって、その結果としてこうなったのだ」や橋閒石の「俳諧の精神=殊更に構えた調子でなく、普段のことを種にしながら書く。それがまた俳諧の精神に非常に近い」を引用して特徴として指摘しつつも、讃辞としてこれらの言葉を送るのではなく、「この人の「修羅」を垣間見たくなるのは、私だけの望蜀にすぎるのだろうか。」と締めくくる。

在句は6句引用、全体に「異界への渇仰を意思で立ち止まらせた残滓が、柔和な表白の裏に見えかくれして、氣呂独自の詩的空間をかもし出している」と、現実からの遊離を指摘。

青葉木兎遠く縫針行くごとし 在氣呂
部屋を馳けめぐるサイコロ部屋自身 同
赤い釘ゆらりと「誰か居ませんか」 同

「青葉木兎」の女族めいた絹糸の怨念。「部屋を駈け」の、無機質な自我表白。「赤い釘」のもつ、ソフトタッチの嗜虐性」と、一句の中のパーツを抜き出して全体的なテーマを探ろうとする鑑賞法である。

飽食日本の現実に生きる者の自己愛の痛痒があるのかも知れない」と在句を物言いたげな風に捉えている。

妹尾句の〈あした咲く白木蓮の息吹き好き〉については、「伝統的な俳句理念がゆかた(ママ)に在るらしいことは想像出来る」「素直な抒情に充たされている。」と述べる。伝統的な俳句理念の「伝統」性については「俳句の本道ともいいたい日本的美意識に忠実な軌道を歩いていったら楽々と、”正道”を闊歩出来ると思う」と言及しており、やや多賀のポジションを示すにとどまっており細かな分析はない。多賀の論旨は、妹尾が「白木蓮」のような「等身大」の句柄を超えて「「現代俳句」への挑戦を敢て決行」している若々しさを感じるというものだが、加えて後の2作の「挑戦」を次のように論じる。

そりやあそあ絶対冬木アキラはさあ 妹尾健太郎

世紀末の俳句圏はこうした舌足らずの表記をやすやすと許容するのだろうか。私には、日本語を完全にマスター出来ない人間の、樹間の悲鳴くらいにしか解せない。」「資質が、ともすると情に棹さして流れやすい純な脆さ、とみる故にいたましさがさきに立つ。

ひとさらいぐらい目映い秋葉原 同

めずらしく自立した作品である。”ぐらい”は良い。”ひとさらい”という喩をこの言葉がぐっと現実にひきつけ、「あきはばら」という街の特異性を十分に活かしている。心理状況もよく伝達された秀吟と思う。

多賀は妹尾句にも山口同様の「自然(じねん)」や「俳諧」の無理のない形態を見出して、「異邦人が街をさまよう如き、新鮮なおどろきと不安を内在させることが出来る」としている。かつて多賀は「ゴリラ圏股覗きその二」で谷佳紀句に「反人間的な酷薄な自他否定の詩的営為と、うらはらな、そこからにじみ出る熱っぽい人間味」があると述べているのだが、妹尾とは相反していると言いつつ妹尾に「言葉の波に翻弄され、言霊の恩寵に見離されかけたときには、極北に在る谷佳紀の孤独な使徒ぶりを想起してほしい」とまとめる。


■04 原満三寿評論「詩人が俳人になる時―阪口涯子俳句逍遥―」(ゴリラ18号)

「海程」の注目すべき作家として、14号で崎原風子、16号で大石雄介を取り上げた原は次に阪口涯子を論じる。「なぜかというと、崎原氏も大石氏も阪口さんに大いに心寄せていたと思われるからである。」とある。海程新人賞選考の際、ベテランと若手の選考委員の意見が割れた際に阪口氏が座をとりなすような発言をしたエピソードを交えている。

阪口涯子は1901年佐世保市生まれ、1925年九大俳句会に参加、のち「天の川」同人。1962年「海程」に参加、1968年口語俳句と決別し「鋭角」を発行、1987年「蒼穹」創刊、顧問になる、1989年死去とある。句集を三冊刊行している。「天の川」の吉岡禅師寺洞が口語俳句運動を推し進めると多くの実験的な口語俳句を創作し、最後にたどりついたのが、いわゆる造形俳句運動をすすめていた金子兜太らの「海程」であったと原はまとめている。

原は阪口を「いつも時代の最先端の俳句運動の渦中にいた」「最後に住いとした「海程」でさえ満足は得られなかったのではないか」と書いている。本評論では、原は阪口の初期の作品も後期のものも、基本的に阪口が作品を作る過程を想像するスタイルで評をしている。句が多くの人にわかりやすく伝達されているような表現になっていないために、書かれた最終形態としての一句の言葉をつぶさに見ていく評がしづらい句が多いように思われる。

なお、阪口涯子『北風列車』は、遺族に許可をとった涯子応援隊による下記のブログで全句が閲覧可能である。

原が「創作順に、世評の高い作品と注目したいもの」として挙げた句が抜粋されている『北風列車』は、「動乱の戦時下から混乱の戦後をくぐっての作品集で、作家の井上光晴が絶賛したことでも有名になった。」とある。

『北風列車』(第一句集)

蒼穹に人はしずかに撃たれたる
草原に人獣はすなおに爆撃され
夕餉の家にきらきらと凍河もちかえる
苦力の流れに身をしみじみとひそめたる
冬天のもとの木椅子に寄らんとす
北風列車その乗客の烏とぼく

厳しい状況に己の身を投じる句が並ぶ。「蒼穹に」の句を原は「虚空に両手をむなしくあげて撃たれる兵士を撮った、ハンガリーの写真家・キャパーの有名な白黒の写真を見る思いがする。」(おそらくロバート・キャパのこの写真のことだろう)とし、「暗い時代とそれに犠牲者としてたえながら、時代にふりまわされる過酷な人間たちを見据えるリアリストの目がある。」と述べる。「「蒼穹に人は…」「草原に人獣は…」の句は、ノモンハン事件当時(昭和十四年)の作といわれているが、すでに一部からにらまれており、涯子も日本にいたならば検挙されていたと考えられるが、国外にいたので難を逃れられた、といったところであった。すでに出征していた俳人の前線の生々しい表現や戦火を想望した俳句が国民一般の厭戦的な傾向を助長するというのが、治安当局のもっとも恐れたことではあったからだ。)」と添えている。思想をやや直接的に表現した『北風列車』を、「自分のいいたいこと(詩)を客観写生という俳句の器にほうりこんだままの不熟な出発ではあった」と欠点を指摘しつつも、「当時の涯子の俳句の特徴は、なんといってもそのリアリズムによる写生手法にあっただろう。観念としてのヒューマニズム思想から引き出されたリアリズムという手法と俳句の方法論として抑制しあいながら居心地のいい混在をなしていた。」「『北風列車』は、句集としてそういう欠点をもっていたとはいえ、その詩人としての時代との対峙、抵抗の仕方は、誰にでもできるものではなかった」と、「リアリズムによる写生」と「抵抗」をキーワードとする。しかし、原が『北風列車』で解釈した阪口句の特徴は、以降「口語俳句」と「定型の否定」により大きく変質すると指摘している。

『阪口涯子句集』

門松の青さの兵のズボンの折目の垂直線のかなしい街
海峡はいちまいのハンカチ君の遺髪ぼくの遺髪をつつむ 「LONGS之章」より

原は阪口の「戦後禅寺洞が口語自然律を提唱し、……ぼくらもそれに反対しながらも四分五裂しながらもそれに従ってその方向での実験実証を重ねていった」(『黒の回想』)という記述を挙げる。禅寺洞の「五七五の古くさい文語定型のリズムを否定し、しかも新興俳句の限界を克服しよう」とした試みを阪口は横目に見ながら、同じ轍を踏まない様にしたいと思い、されど失敗する可能性が高いことを意識しながらも、定型をはみ出した長い句の実践・実験行為に踏み出した。

原は「ダメとしりつつくりかえし作った口語の実験が、意外にも涯子独自の言葉の吐き様、言葉の呼吸の出方を形成していったようだ。そういうものの代表作として喧伝されたのが次のような句であった。」と述べる。

れんぎょう雪やなぎあんたんとして髪だ
生きづくり激浪その他すべては散り
アフリカのこぶ牛などもみてしまいぬ
海辺にてあしたのことも解りますの

原は次のように述べる。「特に、「れんぎょう雪やなぎ…」の句は、涯子生涯の代表作と評判になった。この流れるようなリズム、青海波の西陣をみるような果てしなく連なる詠みぶりは、定型にはない涯子独自のものだ。しかも「…あんたんとして髪だ」という比喩の使い方はまさしく一時の「海程」流ともいうべき作りかただった。

「海辺にてあしたのことも解りますの」についての八木原裕計評「"の“の字による呼びかけは、まさに口語定型の醍醐味というべく、軽くやさしい一字が、むしろ重い内容を伴ってくる。」と評価し、対して原は「おどけたユーモアばかりが目について、もっともらしいことを、いかにもなにかありそうに見せたまでのことで、とるにたらない」と厳しい。

原が「口語俳句に決別すると、次のような句が立ち現れる」として次のような句を挙げている。

からすはキリスト青の彼方に煙る
空に鳥たち茗荷はうすく礼装して
凍空に太陽三個死は一個
胸にラッセル逃亡の一群獣写り
老ゲリラ無神の海をすべてみたり

これらの句について、原は「涯子だけの俳句世界というには未完という気がする。」と言いながら先行する海程作家の句の類似性を挙げたり、上記の句よりも〈哀のアフリカ海に落葉がふりしきり〉〈うめさざんかの快楽はあり海辺〉の方を評価して「いかにも精神が開放されていて、俳句が自由にのびのびとしている」と述べている。

八十三歳の涯子の最後の句集『雲づくり』からは、懇意にしていた海程の作家家木松郎氏との関わりのエピソードも紹介しつつ、もっとも推薦する二句を引いて「俳句を創作するプロセスが一切見えない。いわんとすることの前に言葉が自らある俳句となってできた心地よさ」「詩人が俳人になった」と評する。

若夏(うりずん)という居酒屋のこの白花
灯の海冴えて遠いそこからまだ遠い


■05 阿部鬼九男「トゲの刺さった俳句あるいは戦後俳句の一断面〈多賀芳子掌論〉」(ゴリラ19号)

〈前提〉
過去の「ゴリラ」読書会でも多賀の句については「鳥騒やひとりカルタひとり花骨牌」「砂漠立つ胃の腑のような映画館」など触れてきた。文章については、一例として16号の多賀芳子「ゴリラ圏股覗き その三」要約を参照いただきたい。多賀論執筆者の阿部鬼九男は「俳句評論」のメンバーであり、ネットで見られるものとしては「大井恒行の日日彼是」にしのぶ会の記事がある。

〈要約〉
阿部は多賀作品を通した時代の見え方について書き出す。「多賀の作品を見ているうちに、近頃さしてお呼びがない方々、鶴見俊輔や日高六郎あるいは管孝行などが、日本の戦後期の思想を括った、一昔前の、すでに書棚で埃を被っている本を再読したくなったりする」と述べるがそれらの作者の時代の見方の射程距離の短さに言及し、「知・思考のあり方に対する問い直しも著しい」現在であると述べる。(ゴリラ19号発刊は1991年。)

鳥ら地を産みまっすぐにくる車椅子(『餐』、1959〜1975年の作を収録した第二句集)

阿部はこの句に、「戦中・戦後を負ってきた者でないと、こんな句は作れないだろう。」と「傷跡」を見出すも、「ここの「ら」は言い放ちの口調でもあって、「鳥(たち)よ」の柔軟さからはほど遠く、なんでも採り込むことに性急な時代相」がすでに窺われる」と厳しい。続いて橋本多佳子〈乳母車夏の怒濤によこむきに〉と比較して、乳母車に生命の危機感を見たり車椅子に高齢化社会を想起する読みを愚とする。「この句のなかで車椅子がためらいなく直進して来るさまは、橋本多佳子の乳母車の静止からエイゼンシュタインのそれの動揺を経て、「車椅子」のこわさを引き出している。(中略)周囲の状況を省略し、意識から意欲へ転轍させた手柄だ。」と、作者の感受の仕方については高評価する。

もう一句、〈鱒の晩餐荒縄のごと酔ってくる〉と合わせて、「自覚的でないにしても、社会の発展段階に対する違和感が言葉をきしませている。俳句から時代をみるのは作品論の筋からは外れていくことだろうが、時代が彼女の俳句に映ることはさけられないこととしてあった。」と述べる。

眼路に船さびつき欲しいパンと水
わたしは雲くろい椿に焙りだされ
光る糸編むみどりの馬を夜空にえて

3句に対する阿部評は主題とレトリック両方から攻めている。

これらの生の乾きや深層心理への探りや幻想への希求と抑制からの解放などが、わずかな無理強いと安直な妥協(言葉の上では「眼路」「わたしは雲」「えて」など)によって十分な昇華に至らなかったのを、多賀の足ぶみとみるか時代の混迷とみるかむずかしいところだが、傷つけられた俳句のなかにも良質な詩性が息づいている。

社会的・心理的また階層や性やその他の差別からの解放は一足飛びにはやって来ない」ことを多賀が理解しているのが上の3句に現れていると阿部は決定する。この後に阿部は、多佳子や鷹女といった「女流俳人」が「自分の領域をかなりはっきり設定してそこから出ずに、加えて女の情念のようなものを武器に勝負した。更に三橋は孤絶とまで言い得る境地に達する」ことと比べて、多賀の「意識だけが先行するような句が多い」と結論づけている。

烈日のしんしん昏き桔梗かな 『赤い菊』(一九三七〜一九四七の句を収録した第一句集)
あなうらのあつきに佇てり霧の海 同

自分の熱き身を予定超和風な季語に包んでいくような詠いぶり」であった「素直」な第一句集から、時代の混迷をくぐり、一九七六年以降の未完句集「双日抄」(仮題)から次の句を引用する。

ゴリラほどしずかに紅葉の山下る
半旗かかげる河馬一丁目のほてり
赤ん坊のまんかなくらし(※ママ)夏の月
車椅子地球をころげ落ちむか麦秋

2句目、4句目など慣れない人には性急感があるかもしれない韻律感だが、阿部は「ようやく喧騒さがひそまり、彼女はここでは呼吸を整えてきたようだ」とみなしつつも「依然俳句定型をゆすって考えている」とも指摘。575定型を所与のものとしない人たちの前提が共有されていることがわかりやすく示された。締めくくりとして、阿部は多賀の傷のある俳句を「世間にざらにある晴朗俳句や健康俳句」よりずっとましだと断じるが、これはたとえば川名大が言うような「俳句のホビー化」と≒な現象に警鐘を鳴らしているのだろう。「題とした「トゲの刺さった俳句」を「トゲのある俳句」と読み違えないでほしい。」と念押しをして本論は閉じられた。

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