2024-04-21

谷村行海【週俳3月の俳句を読む】ブレイバーンのような俳句を

【週俳3月の俳句を読む】
ブレイバーンのような俳句を

谷村行海


私事で恐縮ですが、最近『勇気爆発バーンブレイバーン』というアニメ作品にいたく感動しました。地球を滅ぼさんとする外敵をロボットに乗った主人公が迎え撃つというお馴染みのプロットではあるのですが、タイトルにも出てくるブレイバーンという「ロボット」が新規性を生み出しており、そこに私は感動しました。ネタバレになるので詳しく書けないのが残念ですが、第一話だけでも未視聴の方にはぜひ見ていただきたいです。

さて、前々から思ってはいたことですが、ブレイバーンを見てからというものの、俳句にも新規性を出さないと駄目だと強く考えるようになりました。お決まりの「制約」の中でいかに新規性を出すかにブレイバーンは成功したわけで、俳句もその「制約」の中で新規性を出していく必要がある。そんなことを考えながら句を読みました。


猫柳弾けば大き雨雫  浅川芳直

猫柳に触れたことで思わぬ発見を得た。確かな写生によって世界が拡張されていく感動があり、子規の考えた写生のようである。「~ば…」の形は一種の定型ではあるが、定型であったとしてもそこにある新たな発見が読者へ新しい世界を届けてくれる。むしろ、定型だからこそこの発見に集中できるように思える。

服薬は菓子食ふやうに春の風邪  浅川芳直

比喩が抜群にうまい。私自身、この文章を書いている時に風邪をひいていたせいもあるかもしれないが、それでもこの感覚には納得させられてしまう。のどかに過ぎ行く春の世界において、春風邪(もちろん程度によるだろうが)は深刻ではなく些細なもの。薬剤師から渡された錠剤をラムネなどの菓子でも食うかのように口に含むことにより、ぼんやりとした頭でぼんやりとした春の世界全体に自分自身を溶け込ませていくかのような雰囲気もある。カロナールとデキストロメトルファン、カルボシステイン錠なる薬を処方されているので、私も菓子食ふやうに飲んでみようと思う。

きさらぎの銀河の果てのパイプ椅子   宇佐美友海

大きな世界から小さな世界への転換があり、そこに出てくるモノがいい。きさらぎという時間的に大きなものから、時間と空間を内包した銀河というさらに大きなものへ飛躍し、最後に何が来るかと期待させてのパイプ椅子。しかし、よく考えればパイプ椅子にも時間的な感覚はある。いつもそこにある椅子ではなく、急ごしらえの椅子であるがゆえにそこで過ごすわずかの時間に意識が向かう。また、パイプ椅子を置くことでそこに新たな空間が生まれ、長き銀河の果てにある私たちの世界にも視線が向く。

ぼたん雪大きな指の攫ふ塔   宇佐美友海

実景ととるか観念的ととるかで印象が変わる句だ。実景ととればレゴブロックなどでできた塔を片している景が想起され、観念的ととれば神の世界などの形而上学的なものが想起される。しかし、いずれにしても共通するのは何かを壊して創り直すということ。ぼたん雪が止んだ後に生まれる世界に思いを馳せることで句に奥行きが生まれる。

ミャクミャク 岩田奎

タイトルにもなっている「ミャクミャク」は2025年の大阪・関西万博のキャラクター。大阪・関西万博の公式サイトによると、“今まで「脈々」と受け継がれてきた私たち人間のDNA、知恵と技術、歴史や文化。変幻自在なキャラクターは更にあらゆる可能性をその身に宿して、私たち人間の素晴らしさをこれからも「脈々」と未来に受け継いでいってくれるはず”というコンセプトからその名前が付けられているようだが、異様なデザインが発表時から物議を醸してきた。Wikipediaにさえも“その怪異なキャラクターデザインからカルト的人気を集める”と記されているほどだ。そして、全句に共通して詠まれる「血沼海」は大阪湾の別名。古事記において、戦いで負傷した五瀬命が傷ついた手をここで洗ったとされることに由来する。

タイトルと歴史的経緯を考えると「血沼海かぢめ醜と女学生」が印象深い。怪奇的とまで言われるミャクミャクの姿と穢れを払う前の醜とがリンクするかのようだ。その後に「卒業の脛美しや血沼海」と来ることで、美醜に心惹かれてしまう私たちへの懐疑的な目線も浮かび上がってくるように感じられる。ひとたびそんなことを考えると「べとべとと桜餅あり血沼海」の「べとべと」などにもそういった目が加わっているように思えてくる。脈々と受け継がれてきた私たちの感覚が問われているかのようだ。

大阪・関西万博が閉幕した後に読み返してみるとまた違った感慨も出てきそうな一連だった。

火を点し火を拝み火へ春の雪  若林哲哉

火のリフレインが印象的だが、最初の火は無から有への転化であり、二回目の火は心のなかで火への思いを寄せる、つまり、目の前にあっても見てはいない火になる。そして、最後は拝み終えてぱっと目を開いた時に見えた光景。拝む前にはなかったものであり、能動的か受動的かの違いはあるが、最初の火と同じように新しいものがその場に出現している。新しいものが生まれる光景から始まり、最後にまたそこに回帰していくのが火のリフレインと共に効果的に機能しているように感じられる。

その部屋のひねもす灯る雪柳  若林哲哉

前出の浅川さんの雪柳の句とはまた異なる発見の句である。こちらの句では雪柳はあくまでも小道具に徹しており、季語は動く。だが、別にそれは問題ではない。重要なのはその部屋に一日中灯がついていたということのほうだ。また、一日中灯がついていたということを知っていたということは、この主体自体がその部屋を一日つい気にしてしまっていたということでもある。日常の微かな不思議とともに、人間の心理的な側面が見えてくる句である。


浅川芳直 寝返り 10 読む  第880

宇佐美友海 背中 10 読む  第881

岩田奎 ミャクミャク 10 読む  第883

若林哲哉 ひとひら 10 読む  第884


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