2024-06-16

瀬戸正洋【週俳5月の俳句を読む】サングラスと珈琲Ⅲ

【週俳5月の俳句を読む】
サングラスと珈琲Ⅲ

瀬戸正洋


ポップ体の閉店告知水温む  加藤右馬

価格や商品説明と同じ文字を使い閉店の告知をする。内容と書体に違和感を覚えた。閉店と水温むという季語からも違和感を覚えた。違和感を揃えたことで閉店告知に対する複雑な心情を表現したかったのかも知れない。

水槽の栄螺四隅に閑やかに  加藤右馬

おだやかでおちついているさまというよりもひっそりとしているということなのだろう。生きのいい栄螺をおいしくいただくための水槽である。食べるということは残酷なことなのだとあらためて思った。

傘いつか骨となりにし雛の間  加藤右馬

骨となったのは傘ではないような気がする。いつかその日はくる。すこやかな成長を願っている。すこやかな成長の先には骨となる日がくるのである。

彼岸過ぎたり鉛筆の円くなり  加藤右馬

鉛筆の鉛筆たる所以は削りたてである。凛としたすがたは美しい。削りたての鉛筆を使ったあとは捨ててしまいたいくらいである。もちろん、SDGsに反するつもりはない。十七色のピンバッチを付けているひとの胡散臭さについて何かをいうつもりもない。彼岸の入りには阿弥陀堂を開錠し掃除をする。彼岸の明けには賽銭箱を整理し施錠する。今年は、その三年目。当番最後の年にあたる。

麗らかや器の底のアラベスク  加藤右馬

器の底がアラベスクだという。もちろん器の底だけがアラベスクなのではない。器全体がアラベスクなのだと思う。うるわしい春の日である。器の底だけが目立っていたのかも知れない。

姉の目に翌なき春の笑ひ皺  加藤右馬

春の終る日である。ひとつのけじめなのかも知れない。笑うことも泣くことも怒ることも同じである。たとえ笑い皺がふえたとしても、笑っていれば立ち止まらなくて済むのかも知れない。

白藤の真下をくぐる櫓舟かな  加藤右馬

櫓を漕いで白藤の真下をくぐっていく。観光であるのかも知れない。暮らしのなかの出来事なのかも知れない。櫓舟はどこまでも進んでいく。

どの薔薇の茎にも紙の巻かれたる  加藤右馬

茎に紙を巻く理由は知らない。わざわざ紙を巻くのだからそれなりのことはあるのだろう。うまく育てるためなのかも知れない。高価で売るためなのかも知れない。薔薇にしてみたらたまったものではないと思う。

実印に曲線多し桐の花  加藤右馬

そういわれてみればそんな気がしない訳でもない。実印だけではなく印とはそういうものなのかも知れない。角ばることなく連続的に曲がっている。そんな生き方も悪くはないと思う。

夏立ちて髭の分厚きデスマスク  加藤右馬

偉人、それも外国の、そんな気がする。とすれば、それは美術館での出会いなのかも知れない。五月のさわやかな、ある晴れた日の、美術館の、そこにあるデスマスクのまえに立つ。年表や解説を読む。こころ惹かれ、違和感を覚え、日々の暮らしへともどっていく。

山賊の歌の底より浮いてこい  楠本奇蹄

半世紀くらい前、「山賊の歌」の作者の話を聞いたことがある。講師紹介で司会者がそんなことをいっていた。「風が吹けば山ができる」という歌詞にある深さを感じた。しかも、そのとき誰もがその歌を知っていた。「浮いてこい」というおもちゃの名も不思議だといえば不思議である。

ニセアカシア鏡の父は固結び  楠本奇蹄

鏡の父は父ではない。鏡の固結びは固結びではない。うっかりしていると固結びができないことがある。ニセアカシアの花は気付かれることなく咲き、散っていく。

父親ごつこ新緑の手を摑むたびに  楠本奇蹄

「ごっこ」とは遊びである。別の誰かになりきる真似をする。この遊びは新緑の手を掴むたびに終わるのではない。新緑の手を掴むたびに始まるのである。

ナナハンに雨夜の匂ふ背や薄暑  楠本奇蹄

雨の夜には色がある。それは美しく映える。ナナハンに美しく映える。薄暑に美しく映える。雨夜の匂ふ背はだんだんと大きくなっていく。

沈黙は金なりバナナに種の不在  楠本奇蹄

バナナの種を気にすることはない。気にしないから不在なのである。沈黙することは難しい。余計なことをいいたくなる。それでもこらえるのである。誰にも理解されない。理解されてもしかたがない。沈黙すること、不在を主張することは正しいことなのかも知れない。

ぎこちなく麦酒に獣崩るるを  楠本奇蹄

酔っている。その行為に不自然さを感じる。獣は獣であることを放棄した。ひとはひとであることを放棄した。麦酒は魔物である。美味しい魔物である。

酔へば海訛りひろがる夜の涼し  楠本奇蹄

標準語ではない。それにしても標準とは不快なことばである。酔えば自由になる。海の前では何も気遣うことはない。ましては夜なのである。さわやかな夜である。すがすがしい夜である。内から湧き上がってくる涼しさである。

河鹿啼くうつすら苦きアーモンド  楠本奇蹄

ごくうすい苦味といわれれば、そんな気かしない訳ではない。河鹿の雄はしきりに鳴いて訴える。アーモンドの苦味とは河鹿の生きるための苦味なのかも知れない。

父の余白みたいな白髪抜く梅雨入  楠本奇蹄

白髪は余白である。梅雨入りも余白である。余白とはゆとりを持つことである。ゆとりを持つこととは余力があるということである。無駄だと思い排除してしまうことは不毛なことなのである。白髪を抜いてしまうことなどとんでもないことなのである。

花樗くちに口笛透けるまで  楠本奇蹄

くちびるが透けたとき口笛となる。口笛はコミュニケーションである。花樗が空に透けたとき「自分を理解して欲しい」などという雑念は消える。

銀山を銀色に鳴く時鳥  鈴木総史

銀山だから銀色に鳴く。自然な行為である。時鳥は間違っていない。銀山を金色に鳴く。作為を感じる。時鳥は間違っている。昨今、このようなことが多すぎると思う。

髪が減る新樹のまへをとほるたび  鈴木総史

なるべくならば同じでいたい。年を取るとそれがままならなくなる。新樹だからそのことを強く感じたのかも知れない。みずみずしい若葉は老人にはまぶしすぎる。現状維持、なんとすばらしい言葉なのだろう。

はきはきとしやべる鳥なり黐の花  鈴木総史

はきはきとしゃべる鳥がいる。そう思って鳴き声を聞くと、すべての鳥がはきはきとしゃべっているような気がする。その鳥は黐の花に隠れているのかも知れない。

とほくより風鈴売と分かりけり  鈴木総史

おだやかな精神である。これからのことがおぼろげながらわかっている。ゆっくり待って対処すればいいのである。風鈴売りである。かすかに澄んだ音色が聞こえてくる。

夏痩の手が包丁をいさぎよく  鈴木総史

包丁はいさぎよく使うものである。食欲がなくなる。そんなときは特にいさぎよく切ることが必要なのである。いさぎよく生きていくことは大切なことなのだと思う。

冷麦や太ももは傷すぐ治り  鈴木総史

「そんな気」がするということなのである。「そんな気」とは、生きていくためには必要なものなのである。冷麦とは小麦粉に塩を混ぜ水でこねて細く切り乾燥させたものである。

Bボタン連打オランダ獅子頭  鈴木総史

Bボタン連打とは、Bボタンを打って何かを実行しようと焦る様を表すこととあった。よくはわからないが「何かを実行しようと焦る様を表す」ことに興味を覚えた。それは危険なことである。オランダ獅子頭はゆったりと泳いでいる。

雄弁な人待ち合はす緑雨かな  鈴木総史

雄弁な人は苦手である。無理をしようとするからいけない。口下手な人はやさしい。無理をしないからこころがおだやかである。緑雨とは新樹の若葉に降る雨のことである。

白服がハンバーガーを迷ひなく  鈴木総史

白服とは風通しがよく涼しげな夏向きの服である。その白服がハンガーをあっさりと決めた。決めなくてもいいことを決めた。誰もがこんなことをしながら生きている。

鯵刺が統べる汀と呼ぶところ  鈴木総史

統率する支配するよりも、統率される支配されることの方が気楽だ。鯵刺は苦労している。汀を支配しょうとする考えは誤りであると思う。

憂ひつつぬるき苺を嚙みにけり  野城知里

憂うことは必要なことである。なまぬるい苺を噛んだから不安になったのである。不安であることを憂う。これが真実の不安であるというのかも知れない。

むらさきの尾の垂れ残る吹流  野城知里

吹流しだけが置いてけぼりをくっている。そのことが不思議だと思う。むらさきの尾であるからなのかも知れない。置いてけぼりをくうことは何も不快なことではない。集団から離れたのである。おだやかでのんびりとした気分になった。五月の空の下ならばなおさらである。

清和にて水のみるみる苔の中  野城知里

清和である。水も安心して苔の中にしみこんでいく。苔も安心して水をしみこませている。水も苔も自由である。

天蛾の閉ぢぬつばさへ街の風  野城知里

つばさとは大げさである。閉じないから翅ではないのかも知れない。風にもいろいろとある。街の風である。変なもの、わけのわからないものがいろいろと混じっている。おもしろい風であるのかも知れない。

帽子浮く聖なる流説ある泉  野城知里

「流説」とは、根拠のないうわさのことである。「流説」とは、世のなかに流布している説のことである。どちらにしても尊い神聖な「流説」である。帽子も浮かざるを得ないのだと思う。

五月闇釘のまはりに槌の跡  野城知里

正確に槌を下せないのである。思い切りが悪いのである。梅雨のころの夜の暗闇では釘を打ってはいけないのかも知れない。

あそびやれば蛍袋の花粉の手  野城知里

戯れるために生まれてきたのである。蛍袋の花粉が手についてしまったことは是か非かなどと考えることは不要である。何も考えないことが戯れるということなのである。

けふの服のハンガー揺れて夏旺ん  野城知里

ひとでも服でも夏でも旺んなことはいいことである。けふの服はハンガーに掛かっていた。ハンガーも揺れたくなるのはあたりまえのことなのである。

倒木へ蛭の頭を伸ばしゆく  野城知里

頭を伸ばすとは、そちらへ進むということである。倒木へ進むとはその先へ行く意思があるということである。蛭は山を下る。ひとの血を求めて集落へと頭を伸ばすことを願っている。

待人が日傘ぐらぐらさせてをり  野城知里

待ち人とは自分のことである。待人とは自分にとって大切なひとのことである。そのひとが日傘をぐらぐらさせている。安定させないのには理由がある。そんなことを考えていると不安になる。自分のことがわからなくなる。

冷えお茶のボトル落とせばすごい音  上田信治

すごいには、ぞっとするほど恐ろしい、恐ろしくなるほどすぐれているという意がある。恐ろしいとは、程度がある基準を超えているということだ。たまたまボトルを落とした結果ではない。すごい音を予感してボトルを落としてみた。そんなことをしたくなる日もある。

ルピナスや雨降ることに意味のなく  上田信治

日々のくらしのなかで意味のあることがあるならば教えて欲しい。ましては雨が降っているのである。当然、ルピナスにも咲く意味などない。ただ、空に向かってとんがっているのだ。そこのところが意味深であるのかも知れない。

風呂敷の水に緋鯉のゐて緑雨  上田信治

青葉を濡らすだけではない。風呂敷を濡らしている。緋鯉のいる風呂敷である。緑雨とは不思議なことをするものだと思う。

叩かれて家になる音栗の花  上田信治

叩かれて家になる音がするのは栗の花である。栗の花をながめているとそんな気がしてくる。見ればわかるように栗の花はとても変な花である。

紫蘇の葉や宇宙のやうな晴れの空  上田信治

海の向うには大陸がある。空の向うには宇宙がある。海も空も晴れていたほうがいい。紫蘇の葉とは宇宙であるのかも知れない。

惑星の見えてあけがた釣忍  上田信治

惑星とは太陽をまわる天体である。地球は惑星である。地球にはひとが住んでいる。釣忍は江戸時代に植木屋が考案したものである。惑星は群れている。ひとも群れている。釣忍はあけがたがふさわしいと思う。

マーガリン塗られてパンの涼しさよ  上田信治

マーガリンではなく「バターをたっぷりと」などという。マスターは頷きマーガリンをたっぷりと塗る。客もマスターも真面目な顔をしている。そして、同じあそびを繰り返す。マーガリンを塗られたパンは涼しい顔をしている。

呼び声やアイスの棒は落ちてゐる  上田信治

純粋にアイスの棒は落ちている。呼び声が落としたのではない。呼び声とアイスの棒とは無関係という関係である。

鯖は美味い雨が流れる石段の  上田信治

石段に雨は降っている。石段を降った雨が流れている。にわか雨ではない。美味い鯖は誰がどこから運んできたものなのだろう。

白瓜のしろの平気の平左かな  上田信治

白瓜のしろいのはあたりまえのことである。あたりまえでなかったとしても平気の平左なのである。何があっても平気の平左なのである。ともだちが訪ねてこなくても平気の平左なのである。珈琲屋へ行って珈琲を飲まなくても平気の平左なのである。BARで背中を丸め水割りを飲まなくても平気の平左なのである。

平気の平左と唱えてみる。唱えるとこころがおだやかになる。不思議なことばだと思う。


加藤右馬 アラベスク 10句 ≫読む  第889号

楠本奇蹄 白髪 10句 ≫読む  第890号

鈴木総史 汀と呼ぶ 10句 ≫読む   第891号
野城知里 槌の跡 10句 ≫読む

上田信治 平気 10句 ≫読む  第892号

0 comments: