【週俳1月の俳句を読む】
悪意のゆくえ
新倉村蛙
悪意があればチュウをしたものを 暮田真名
鑑賞や評をほとんど公開したことがないので、至らないところが多いことをまずお詫びしておきたい。
俳句と川柳の違いについて、ずっと考えていた。異論はあると思うけれど、俳句は風景画、もしくは静物画。川柳は、人物画、肖像画。俳句よりもずっと、実体としての人間に近いように感じられる。俳句には「自我を入れない」という向きがあるらしいのだが、川柳はあくまで、自分のフィルター、主観としての自分を強烈に見せていくもののような。選ばれた言葉の意味は、一見状況がわからないようでいて実はわかる。俳句の客観写生から解き放たれて、短詩の感傷的な修辞を好まず、自分の素材でテーマを集める、描画ではなくコラージュに近いのだろうか。
さて、掲句。「謝れるのは本当に悪いとは思っていない時」と聞いたことががあって、一読した時それと似ている気がした。
「チュウ」をするのは好意ではない。それは音がするほどの粘質のある欲望だ。しかも、周囲の都合や気持ちを考えない。挨拶のキスほど軽くなく、子どもじみてさえいる。一方的に相手の気持ちをかき乱すこと、これを悪意と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。もしかしたら相手は望んでいたかもしれない。「魔が差す」という、その一歩を踏み出すのは悪魔の誘惑だったのだろう。けれど、本当に好きだったら、その間隙に心を任せてはいけないのだ。そうして「チュウ」をするのをやめた。これからも、良好な関係を続けるために。
隠された上履きだから言えること 暮田真名
上履き隠し、これもとても幼稚な悪意(よしんば犯人が好意だと言い張ったとしても)が引き起こした事象である。隠された当事者でないと言えないことがある。からの、隠された上履き「自体」の身になってみないとわからないこともあるという。ここまでのずらしが非常に面白い。どこに隠されて、それから誰かに見つけてもらえたのだろうか。向けられた矢印の先に、上履きを巡るドラマが広がっていく。
ネーミングセンス光って、帰らなきゃ 暮田真名
最近では子どもたちの間で「あだ名」をつける行為はいじめに繋がるので禁止されるようになったと聞く。それでも、心の中では嫌な奴にあだ名くらいいくらだって付けたっていい。悪意には悪意を。あだ名をつけるのにはセンスが必要だが、つまりここでの悪意にもセンスが必要ということ。そして笑い飛ばしてしまうのだ。思いっきり笑ったら固執しないで、ちゃんと帰れるところに帰ろう。空を見上げて。
■西生ゆかり 室内楽 10句 ≫読む 第926号 2025年1月19日
■知念ひなた 風の街を住む 20句 ≫読む 第926号 2025年1月19日
■暮田真名 芋づる式 10句 ≫読む 第927号 2025年1月26日
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