【週俳1月の俳句を読む】
自分ではない誰か
近恵
枯葉踏む三角形の音立てて 西生ゆかり
枯葉を踏むのが好きだ。梅の咲き始めの頃の雑木林に入るといい具合に乾いた枯葉が沢山落ちていて踏み放題なので楽しくて仕方ない。杉の枯葉は踏むとシャリシャリと細かな音がしてこれまたいつまでも踏んでいたくなる。けれどこの句の枯葉は踏まれて三角形の音を立てている。なんだかあまり楽しそうじゃない。心がとげとげしているような、緊張しているような。それはそうと、枯葉を踏む音に三角形の音という比喩は面白い。枯葉を踏む音を形にして表すとしたら丸でも四角でもなく、やっぱり三角形なんだろうなと納得する。
喉奥に未遂の咳や終電車 同
世間がもう少し景気が良かった頃、終電車に乗ったら朝の電車よりもぎゅうぎゅうだった記憶がある。特に金曜の夜はもう酔っ払いだらけで、時々青白い顔をして何かに耐えているような人が近くにいると、マーライオン!の二次被害を避けるためになんとか少しでも離れようと必死になった事も何度か。
そんな込んでいる終電車であろうか。すぐ目の前に他人の顔があり、咳をするのも憚られる。マスクをしていなければ尚更。未遂の咳、喉の奥にある咳の気配のようなものは、吐き出したくても出せない心の声のようでもある。未遂の咳という書き方はまだ咳にならない違和感。その違和感は咳という形になっていつか飛び出してしまうのだろうか。それとも呑み込んでしまうのだろうか。
フードコート海の見えない席につく 知念ひなた
海の見える飲食店に入ったらとりあえず海の見える席に着きたいなあとなんとなく思う。海の近くのフードコートはきっと海に面した広い窓なんかがあるんだろうな。でもこの句では海の見えない席に着いている。たまたまかもしれない。けれどもこう書かれると敢えてそうしているようにも思える。海の街に住んで飽き飽きしているのだろうか。街を出たくても出られなかった自分への嫌悪感か。屈折を感じる。
踏んだものはたぶん花火の屑だった 同
この句にも屈折を感じる。花火という華やかで賑やかで楽しいもの。誰かがそこで楽しんだ後の残骸。それを踏んだ、いや、たぶん踏んだ。花火の屑という表現には、自分ではない誰かが楽しんだ後の屑、楽しい場所には自分はいなくてその残骸ばかりを感じているという、置いてきぼりになっているような思いを感じる。同時に「花火の屑だった」の「だった」に、あきらめのようなものも感じる。
■西生ゆかり 室内楽 10句 ≫読む 第926号 2025年1月19日
■知念ひなた 風の街を住む 20句 ≫読む 第926号 2025年1月19日
■暮田真名 芋づる式 10句 ≫読む 第927号 2025年1月26日
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