2025-09-28

『音数で引く俳句歳時記』活用句会・顚末記 西原天気

『音数で引く俳句歳時記』活用句会・顚末記

西原天気

『What's』第8号(2025年5月)より転載
※初稿ヴァージョン

【筆者による解題】

『音数で引く俳句歳時記』(監修岸本尚毅)なる歳時記を四季4冊、2023年に制作。その歳時記を手に作句・選句・合評の句会をやりましょうと、販促も兼ねて(じつは私の個人的な愉しみ)、東京・荻窪で開催したり、関西を巡業をしたり。お招きがあれば、風呂敷包みに必要冊数を抱えて出向きますよ、と冗談半分に言っていたのか、考えているだけだったか、もう忘れましたが、あるとき、仙台の川柳作家・広瀬ちえみさんから、川柳誌『What's』主催の句会で、それ、やってみませんか? と、ありがたいお誘い。東京西郊のわが家から仙台までは意外に近い。時は11月の終わり。日帰りの句会→懇親会→二次会を楽しませていただきました。

以下は、記事タイトルのとおり、当該句会の顚末記。紙幅の制限もあって、句会の記録としては、読者にも関係者にも私にもやや物足りないところがありますが、「音数」という俳句・川柳にとって幸か不幸か避けがたく、抜き差しならず身も蓋もなく、枝葉のようで根本的(ラディカル)な、指を折る人にも折らない人にもついてまわる事象について、軽く、あまりにも軽く触れた部分もありますので、ここに転載させていただくことにしました。


とある句会の、とある一句で、「右手」という語が話題にのぼりました。「なぜ左手ではなく右手なのか?」。私の見解は「3音だから」。ですが、世の中には意味の好きな人、句に意味を読み取ろうとする人が多いのでしょう。あまり賛同を得られませんでした。
 意味は、ない、に越したことはない。はたまた、書いてもいない意味を追いかけても退屈。とはいえ、川柳にせよ俳句にせよ、ことばである以上、どうしたって意味は付いてきますから、非=意味、反=意味、無=意味は、なかなか実現しない夢想に過ぎない。にしても、希求はしていたい。そこで、音数です。

意味でも範疇でもなく、音数の順に並べたアブノーマルな歳時記には、その使用法として、作句の際の音数調整という身も蓋もなく実用的な側面がいちおうあるにはある。けれども編者たる私の願いは、意味からの離脱だったりします。音数に凭れかかることで、意味がどこかに行ってしまう。屈折する。崩壊する。そんな事故のような句、事件のような句に惹かれるあまりの音数歳時記。個人的な嗜好に過ぎないのですが、そう言っておくのがロマンチックです。

さて、そこで、この音数歳時記を実際に手にしながらの句会です。これまで東京で数回、大阪、京都、神戸、大津と関西巡業、そして今回はいよいよ仙台。しかも、俳句ではなく川柳を主成分とする句会にお招きいただいての句会でした。

席題は手持ちの文庫本を適当に開いて、一行目にあった語句から選び、はたまた音数歳時記を適当に開いたその見開きの立項を席題にするという変則的な趣向もまた、意図を避け事件を期待してのものでした。うまくいったかどうか心許なくはありますが。ともかく句会は進む。投句へ、清記へ、選句へ、合評へ。

やあ、君はへっつい猫かミケランジェロか》《虹蔵れて見えずお互いに鴉》などは、歳時記効果と言っていいと思います。「へっつい猫」「虹蔵れて見えず」なんて、他で出会うことはなかなかない。《童貞聖マリア無原罪の御孕りの祝日以来麩》もそう。くわえて「以来」という席題もこの句の成り立ちに貢献したようです。

はたして、この句会で、事故のような句、事件のような句は、どのくらい生まれたか。答えは人それぞれでしょうけれど、この日が、この句会が、みなさんにとって多少なりとも事故の様相・事件の気配を帯びたものであったとしたら、うれしいです。ありがとうございました。

( 了 )

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