2026-07-26

岡野泰輔〔近藤十四郎の20句〕勇気づけてくれる

〔近藤十四郎の20句〕
勇気づけてくれる

岡野泰輔


近藤十四郎さん、不勉強な私にとって未知の作者。しかも初期作品だという。まだまだこの世界におもしろい俳句作家がいる、そのことは実作者としての私を勇気づけてくれる。

墓地を過ぎ八月の底ゆく都電

平易な記述ながらいつまでもつづく暑さの、それも都市のやりきれない暑さ、その進まない時間の停滞感が迫ってくる。こんなことを思うのもこれを書いているいま梅雨が明けようかという7月の午後の暑さの中で机に向かっているからなのか。墓地、八月の底、都電、三つのモノ・コトがひとつは閉じこめられた時間、つぎに底に淀んで堆積した時間、そして走ることによる遅さの強調という時間等を重層させながらある夏の日の気分が刻印される。それでも止まることをせずに過ぎて―ゆく私、いやこれは私か? この都電に私は乗っておらず、わたしの視点は万能の高みにあるようにも思える。この都電は雑司ヶ谷霊園の横を通る荒川線か? この都電から池袋の高層ビルの裏側を見る景色が好きだ。初夏の頃、私もこの辺を吟行しました。

砂町に死す海底に刺さる月

ベニスではなく砂町に死すという、言明は恰好いいが一にも二にもこの句は砂町という江東区のこの地名にどれほどのイメージを抱けるかにかかっている。いま悪文でずいぶん曖昧なことを言おうとしている。というのは砂町好きなんです、あの川の間の掘割りのある平らな町。一方海底に刺さる月という天地逆転したような突拍子もない事態を示されると一瞬『デューン砂の惑星』のあの圧倒的な砂が現れるが、あわてて振り払い、砂町の昔は海であったその風土への詩的飛躍という穏当な解に落ち着く。

百舌の贄あるらし乾物屋金歯

この乾物屋がエグイ、最後の三音金歯がダメ押しのように光っている。この金歯がなくても一句は十分気の利いた季語のイジリ、私も時々やります。失敗しますけど。この乾物屋の奥の暗がりが何やら気になるつげ義春的暗がり。

星またたけばわたしはあなたの犬

跪いて靴をお舐め、ということなんだろうか。この無防備な台詞の条件に「星またたけば」はなかなか言えない。

蛸の首腰にあり天高くあり

言われてみればその通りのおかしさ。みんな首だと思っているが腰でもいいのかもしれない。人間の身体の部位を基準にして万物を眺めればこの世界にはまだまだおもしろいことが転がっているかもしれない。

フェリーニの大田区秋鯖買う夫人

ある種の固有名は韻文の中で効果的につかわれると、もうその組合せしか考えられない自明性を帯びてしまう。ここではフェリーニと大田区。練馬区でも江東区でもだめな気がするのは不思議なことだ。もっともあらゆる事物にフェリーニを付ければその事物はたちまち詩性、聖性すら帯びてしまうのは『フェリーニのローマ』を持ちださずとも経験上わかる気がする。この大田区は田園調布、雪谷の山の手ではなく、蒲田、羽田の下町と思う。町工場の喧騒と頻繁に航空機が離発着する羽田のダイナミズムこそフェリーニに相応しい。で、秋鯖買う夫人なのだ。ここではなんといっても「買う夫人」の夫人が秀逸。

私もふくめて凡手のてにかかると「秋鯖を買う女」とやってしまいがちだが「秋鯖を買う夫人」と比べてその詩的効果の違いに愕然とする。ここでいわゆる切れや二物という小俳句固有の概念装置によらずとも普通に詩を読む感覚で読めば、フェリーニの大田区と秋鯖買う夫人の醸す詩的世界は強力で魅力的。

半径数メートルの了解性と季語本位制の狭間ですっかり作句がつまらなくなってしまった私などを勇気づけてくれる一句だ。

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