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2026-08-02

太田うさぎ〔近藤十四郎の20句〕癇癪と絶望

〔近藤十四郎の20句〕
癇癪と絶望

太田うさぎ


水風呂の臍までの水投票日

サウナから水風呂に移動する。立てば水の高さはだいたい臍、上半身と下半身の別れるあたりだ。臍がきゅっと窄まる。足から冷気が這い上がってくるものの、臍から上はまだのぼせている。投票は済ませた。あの一票は望む世界への一歩になるだろうか。


靴底より地球空洞説の泡

靴底がぽわん、と浮いた。ちょうど泡ひとつくらいの押し上げ方。この泡は、生まれては消えるさまざまの地球空洞説と捉えてもいいし、この数百年空洞説を唱える人々が口角泡を飛ばしてきたその一つとも。ひょっとすると、地底人がお風呂でうっかり放ったおならの泡かもしれない。


「ちょいまがり」胡瓜が盆に五六本

少し安値の胡瓜。「ちょい」と言いながらそこそこの曲がり様も混じっているかもしれない。気をつけの姿勢のように真っすぐに袋詰めされた胡瓜と比べると奔放にも見える。「ちょいまがり」には町の八百屋が段ボールの札にマジックで手書きしたという気安さがあり、ついつい手に取ってしまいそう。


砂町に死す海底に刺さる月

砂町と聞くと首都圏在住者ならば江東区の砂町銀座を咄嗟に思い浮かべるだろう。東京湾が近くないことはないけれど、このエリアと海はあまり結びつかない。そこがこの句の魅力にもなっている。下町情緒や人情味の代表格のような砂町には生き生きとした生活のイメージを持ちがちなのに、反対に死を語るという落差で句の印象を濃くしている。「海底に刺さる月」という詩的な表現も相俟って乾いた余情を残す一句。


しおしおのぱあスイカ食う絶望

「シオシオノパー」は快獣ブースカがしょげ返ったときに使うブースカ語の一つ。青菜に塩といったところか。ブースカのテレビドラマを私は見ていないけれど、この言葉は何となく耳に残っている。嘆き悲しむときでもスイカは美味しい。しおしおのぱあ、と言ってみることで、自分の絶望に溺れまいとする矜持も垣間見える。


百舌鳥の贄あるらし乾物屋金歯

胡散臭い乾物屋だ。百舌鳥の贄を置いているとしたら、それは百舌鳥の上前を撥ねたに他ならない。早贄が良い加減に乾いたところをこっそり横取りするのだろうか。「あるらし」なので、店主はあるともないとも言っていない。するめや干椎茸の並ぶ店頭に立つ乾物屋が少し不気味だ。その口の奥に金色の鈍い輝きも。


かぼちゃかぼちゃ吾が癇癪の内と外

正直よく分からないのだが、なんだか面白い。破裂を待つばかりの憤怒の癇癪玉を出たり入ったりしているのだ。「かぼちゃかぼちゃ」のchaのリフレインがなんとなくラテンのリズムっぽく、南瓜をぺちぺち叩いている気分になった。自分の内に生まれた怒りを客観的に見つめているところ、「しおしおのぱあ」の句にも通ずる。


蛸の首腰にあり天高くあり

ご存じの通り、蛸や烏賊は胴頭足という繋がり方をしている。頭部は人間でいう腰の部分に相当する。私たちから見ればなんとも奇妙きてれつなことだけれど、生き物の形状は様々、それでいい。秋天が大らかにすべてを包み込むようだ。


トランペット壊れたり十月の芝生

トランペットが壊れてしまった。かつての音色はもう戻らない。十月の明るさのなかで失われた音楽を思う。秋の芝生が静かに広がっている。


マネキンの股間はつるりクリスマス

クリスマスソングが街を賑やかに彩るなか、着せ替え途中のマネキンの下半身がむき出しになっている。衣服の展示が目的のマネキンだから、身体機能に関する箇所は当然ながら省略される。生誕を祝う日に、生殖に係わる器官がつるりと消されている。皮肉といえば皮肉なことだ。

2026-07-26

近藤十四郎の二〇句・初期作品集

近藤十四郎の二〇句・初期作品集
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西原天気謹撰

水風呂の臍までの水投票日
めだか死ぬ白いタイルは冷たいか
靴底より地球空洞説の泡
「ちょいまがり」胡瓜が盆に五六本
訃報あり素麺がゆでられている
墓地を過ぎ八月の底ゆく都電
砂町に死す海底に刺さる月
しおしおのぱあスイカ食う絶望
インク壺のぞけば遠く稲妻す
百舌の贄あるらし乾物屋金歯
星またたけばわたしはあなたの犬
かぼちゃかぼちゃ吾が癇癪の内と外
蛸の首腰にあり天高くあり
トランペット壊れたり十月の芝生
青蜜柑ノートは糸で縫ってある
フェリーニの大田区秋鯖買う夫人
ウォーレンオーツくしゃみする京成の踏切
マネキンの股間はつるりクリスマス
寅彦忌燃えないゴミは八日より
金属が溶けたかたちのままとなる


掲句はすべて『月天』創刊号(1997)~第10号(2007-08)より

創刊号(1997)10句目・19句目/第2号(1998)2句目・6句目・7句目・16句目/第3号(1999)1句目・8句目・9句目・13句目・14句目・15句目/第4号(2000)3句目・11句目/第5号(2001)12句目/第6号(2002)20句目/第7号(2003)5句目/第8号(2004-05)18句目/第9号(2006)17句目/第10号(2007-08)4句目

岡野泰輔〔近藤十四郎の20句〕勇気づけてくれる

〔近藤十四郎の20句〕
勇気づけてくれる

岡野泰輔


近藤十四郎さん、不勉強な私にとって未知の作者。しかも初期作品だという。まだまだこの世界におもしろい俳句作家がいる、そのことは実作者としての私を勇気づけてくれる。

墓地を過ぎ八月の底ゆく都電

平易な記述ながらいつまでもつづく暑さの、それも都市のやりきれない暑さ、その進まない時間の停滞感が迫ってくる。こんなことを思うのもこれを書いているいま梅雨が明けようかという7月の午後の暑さの中で机に向かっているからなのか。墓地、八月の底、都電、三つのモノ・コトがひとつは閉じこめられた時間、つぎに底に淀んで堆積した時間、そして走ることによる遅さの強調という時間等を重層させながらある夏の日の気分が刻印される。それでも止まることをせずに過ぎて―ゆく私、いやこれは私か? この都電に私は乗っておらず、わたしの視点は万能の高みにあるようにも思える。この都電は雑司ヶ谷霊園の横を通る荒川線か? この都電から池袋の高層ビルの裏側を見る景色が好きだ。初夏の頃、私もこの辺を吟行しました。

砂町に死す海底に刺さる月

ベニスではなく砂町に死すという、言明は恰好いいが一にも二にもこの句は砂町という江東区のこの地名にどれほどのイメージを抱けるかにかかっている。いま悪文でずいぶん曖昧なことを言おうとしている。というのは砂町好きなんです、あの川の間の掘割りのある平らな町。一方海底に刺さる月という天地逆転したような突拍子もない事態を示されると一瞬『デューン砂の惑星』のあの圧倒的な砂が現れるが、あわてて振り払い、砂町の昔は海であったその風土への詩的飛躍という穏当な解に落ち着く。

百舌の贄あるらし乾物屋金歯

この乾物屋がエグイ、最後の三音金歯がダメ押しのように光っている。この金歯がなくても一句は十分気の利いた季語のイジリ、私も時々やります。失敗しますけど。この乾物屋の奥の暗がりが何やら気になるつげ義春的暗がり。

星またたけばわたしはあなたの犬

跪いて靴をお舐め、ということなんだろうか。この無防備な台詞の条件に「星またたけば」はなかなか言えない。

蛸の首腰にあり天高くあり

言われてみればその通りのおかしさ。みんな首だと思っているが腰でもいいのかもしれない。人間の身体の部位を基準にして万物を眺めればこの世界にはまだまだおもしろいことが転がっているかもしれない。

フェリーニの大田区秋鯖買う夫人

ある種の固有名は韻文の中で効果的につかわれると、もうその組合せしか考えられない自明性を帯びてしまう。ここではフェリーニと大田区。練馬区でも江東区でもだめな気がするのは不思議なことだ。もっともあらゆる事物にフェリーニを付ければその事物はたちまち詩性、聖性すら帯びてしまうのは『フェリーニのローマ』を持ちださずとも経験上わかる気がする。この大田区は田園調布、雪谷の山の手ではなく、蒲田、羽田の下町と思う。町工場の喧騒と頻繁に航空機が離発着する羽田のダイナミズムこそフェリーニに相応しい。で、秋鯖買う夫人なのだ。ここではなんといっても「買う夫人」の夫人が秀逸。

私もふくめて凡手のてにかかると「秋鯖を買う女」とやってしまいがちだが「秋鯖を買う夫人」と比べてその詩的効果の違いに愕然とする。ここでいわゆる切れや二物という小俳句固有の概念装置によらずとも普通に詩を読む感覚で読めば、フェリーニの大田区と秋鯖買う夫人の醸す詩的世界は強力で魅力的。

半径数メートルの了解性と季語本位制の狭間ですっかり作句がつまらなくなってしまった私などを勇気づけてくれる一句だ。

谷口愼也〔近藤十四郎の20句〕物事に対する「思惟性」

〔近藤十四郎の20句〕
物事に対する「思惟性」

谷口愼也

この作者に関する情報を私は全く持っていない。あるのは「初期作品集」という西原天気さんの記述があるだけ。いささか戸惑っているが、今回はいきなりの出会いがしら、その第一印象という程度の感想だと思ってもらえればいい。

マネキンの股間はつるりクリスマス

先ずはこの句が目に留まった。「聖なるクリスマス」がこれほど滑稽に、かつひんやりとしたエロチシズムに書き換えられた作品を見たことがない。当然ここに毛の付いた女人や、人によってはダッチワイフのそれを想起するに違いない。だがそれゆえにこそ、この「聖」なるものと「俗」なるものとを内包したこの1句を、私は「白」を基調とした陶磁器のように愛でることができるのである。
 
墓地を過ぎ八月の底ゆく都電

これは現実と、個の心象風景との「取合せ」。〈墓地〉と〈八月の底ゆく〉がそうである。〈都電〉はそれを具体化するための措辞。すなわちかの東京無差別攻撃の戦禍がそこに露呈して来る。そういう寓意が、「暗喩」として使われている。というよりそれは、ひとつの言葉が、同じ意味体系の層に横滑りに移行する「換喩」的手法に似ているようだ。
作者はたぶん、そういうことを理解している人ではないか。

インク壺のぞけば遠く稲妻す

トランペット壊れたり十月の芝生

砂町に死す海底に刺さる月

これらには現代詩的発想の匂いがする。しかもそれは多分にモダニズム。私は最初、「現代詩」や「一行詩」から出発したので、ちょっとした郷愁を感じさせる句である。これら乾いた「青春歌」とも言うべきか。

星またたけばわたしはあなたの犬

フェリー二の大田区秋鯖買う夫人

「ちょいまがり」胡瓜が盆に五六本

水風呂の臍までの水投票日

これらには川柳的要素(穿ちやひねりや滑稽、等)や日常と詩の世界が割とベタにくっついているところが見受けられる。換言すればそれは、「口語俳句」の、その口語性、口誦性に少しもたれかかっているせいではないか。

だが総じて言えばこの人は、俳句の外縁から俳句を眺め、いろんな方法論を楽しんでいるのではないか。いわば「ひと・もの・こと」の対象に対しての多彩な視点を持ち合わせているのではないかとも。

個々人にはその人独自の、物事に対する「思惟性」がある。今回はそれを「俳句」として開示したのであろう。だから「初期作品集」である。当然このあと「後期作品集」なるものが出てくるはずだ。西原天気さんは、その辺のことを意図したはずだ。

西生ゆかり〔近藤十四郎の20句〕蛸のような句

〔近藤十四郎の20句〕
蛸のような句

西生ゆかり

近藤十四郎さんの句は、なんだかよくわからない。わざとわからなくしているのではなく、わからないものをわからないままに書いているから、わからないものができあがるのだと思う。できあがったものは、にゅるにゅると滑って捉えがたく、例えるならば蛸に似ている。蛸はおいしい。

水風呂の臍までの水投票日

浴槽に入る人体と箱に入れられる投票用紙。どちらも臍まで入ったところでぴたりと止まったのかもしれない。

めだか死ぬ白いタイルは冷たいか

タイルが冷たいか否かということに色は関係ない。ただ、めだかの骸の下にあるタイルが青でもなく赤でもなく白だったということに、主体は何らかの思いを抱いたのだろう。

靴底より地球空洞説の泡

地球の中が空洞であるという説は、古くから多くの人に唱えられてきた。今となってはその説は根拠のない泡のようなものに思えるが、地を踏みながら「この遥か下は空洞になっていて、そこに地底都市があるかも」と考えると、なにやら胸ときめいてくる。

ちょいまがり」胡瓜が盆に五六本

生育過程で少し曲がってしまった胡瓜が、帰省した際に五六本出てきた。サラダにするも良し、漬物にするも良し、そのまま齧るも良し。曲がっていても味は抜群なのである。

訃報あり素麺がゆでられている

また人が死んだ。それはそれとして、生者のための素麺がゆでられている。命とはちゅるんと終わってしまうもの、などと思いながらゆであがった素麺を啜るのかもしれないし、特に何も考えず啜るのかもしれない。

墓地を過ぎ八月の底ゆく都電

墓地・八月・底というやや抽象的な単語の後、突然〈都電〉という固有名詞が出てくる。そこを行くのは銀河鉄道のような幻想的な乗り物でなく、現実に染井霊園や雑司ヶ谷霊園の付近を走る〈都電〉なのだ。句跨りのぎくしゃくとしたリズムが、死者と生者のぎくしゃくとした関係性と重なり合う。

砂町に死す海底に刺さる月

砂町とは石田波郷が暮らしたことで知られる江東区の町。映画『ベニスに死す』の妖しい雰囲気とは違い、現実の砂町は下町情緒溢れる所だが、作者の幻想の中ではベニスと重なる部分があるのだろうか。

しおしおのぱあスイカ食う絶望

特撮テレビドラマ『快獣ブースカ』で、しょんぼりしたブースカが発する「シオシオのパー」。西瓜に塩をかけながら主体はその台詞を思い出し、思わず口にしたのだろう。何に絶望しているのかはわからない。

インク壺のぞけば遠く稲妻す

インク壺の近さ・暗さと稲妻の遠さ・明るさ。その対比の鮮やかさもさることながら、〈のぞけば〉で前半と後半の因果関係を示唆しているのがおもしろい。インク壺を覗くと、なぜだか稲妻が走るのだ。壺の中で走るのか、外で走るのかはわからない。

百舌の贄あるらし乾物屋金歯

モズは捕らえた虫や蛇を、木の枝に刺して蓄えておくことがある。人は捕らえた魚やイカを、串刺しにして蓄えておくことがある。ただし人が蓄えるのは食べ物のみならず、それを売って得た利益をも時には蓄える。蓄えた金で金歯を買い、客に見せびらかすのである。

星またたけばわたしはあなたの犬

 The Stoogesの”I Wanna Be Your Dog”ではIggy Popが「俺はお前の犬になりたい」と歌っているが、掲句の場合は願望ではなく〈わたしはあなたの犬〉と決めつけているのだから、随分とふてぶてしい。しかし星のまたたく下でこのように言われたら、思わず「はいはい、飼ってあげる」と受け入れてしまいそう。

かぼちゃかぼちゃ吾が癇癪の内と外

草間彌生の作品のような水玉模様のかぼちゃが、癇癪を起している人の内と外にある様子を想像した。怒りながらも、どこか自分を冷静に見ている。

蛸の首腰にあり天高くあり

蛸の頭部は脚(=正確に言えば腕)と繋がっているので、そこに人体で言うところの首や腰を無理に見出そうとするならば、頭部‐首‐腰‐脚(=正確に言えば腕)という順序で繋がっているということになろう。その場合、実質的には「首」「腰」という言葉で同じ部位を指しているので、〈蛸の首腰にあり〉と言っても一応理屈は通る。それはそれとして、〈天高くあり〉で蛸が凧のように飛んでいるイメージも浮かび、なんだか楽しい。

トランペット壊れたり十月の芝生

トランペットが壊れた。ふと足元を見るとそこには〈十月の芝生〉があった。というより、トランペットが壊れたことが心に何らかの影響を及ぼし、足元にある緑色の物を〈十月の芝生〉と認識させたのだろう。

青蜜柑ノートは糸で縫ってある

青蜜柑の鮮やかな色と匂い、手に載せた時のころんとした感触。そういったものに心を寄せた後、ふとノートを見ると、それは糸で縫ってあった。物がそこにあるという、ただそれだけのことが、随分とふしぎなことに思えてくる。

フェリーニの大田区秋鯖買う夫人

大田区の〈大〉の字が、フェリーニの映画に大きな女がよく出てくることを想起させる。秋刀魚は目黒に限るが、秋鯖は大田区に限る。

ウォーレンオーツくしゃみする京成の踏切

ウォーレン・オーツの出ている映画は観たことがないが、写真を見るとなんとなく親しみの持てる風貌で、なるほど京成線の踏切でくしゃみしていてもおかしくない。立石あたりで飲んでいそうな気もする。

マネキンの股間はつるりクリスマス

服を纏うことが仕事のマネキンなので、服で隠れる股間には不必要な毛など生やしていない。逆に言えば、なぜ人は不必要な毛を生やしているのだろう。クリスマスにプレゼントを交換したり、生殖を目的としない性行為をしたりと、人は不必要なことばかりしている。

寅彦忌燃えないゴミは八日より

寺田寅彦忌は12月31日。物理学者・文学者としてのその功績に主体は思いを馳せつつも、すでに年明けのゴミ出しの心配をしているのだろう。

金属が溶けたかたちのままとなる

物理現象に関する事実をただ述べただけとも取れるが、なんとなく「終末後の光景」とも思えるのは、このところの暑さでいよいよ世界が終りに近づいているという感があるからか。しかしこれが「終末後の光景」だとすると、それを見て俳句に詠んでいるのは何者なのだろう。誰もいない、何も聞こえない、言葉を届ける先もない、そんな状況でも勝手に生まれてしまうのが俳句―あるいは俳句に似た何か―というものなのではという気が一瞬して、しかしそれは暑さで頭がおかしくなった私のたわごとなので聞き流してほしい。

解題:近藤十四郎の二〇句・初期作品集 西原天気


西原天気


その句座は、いわゆる「俳壇」から遥か遠い場所、冥王星くらい遠い場所なりました。、近藤十四郎は(私の知るかぎり)俳人としてのキャリアのほぼすべてをそこで過ごしました。ナントカ協会やら俳句総合誌やらとは無縁のそうした句会はおそらく無数にあって、そこもそのひとつであったにすぎません。

かく言う私もそこで俳句との縁を得ました。思い出すに、素性の怪しい人たちが(もちろん私も含め)顔を並べ、素性の怪しい句が清記用紙に並んでいました。近藤十四郎の句も怪しさにおいてはなにものにも引けを取らず、今回謹んで選ばせてもらった20句のなかには、初読のときの驚きや愉快がきのうのことのようにあざやかな句がいくつもあります。

ところで、どこでものごとを始めるかは存外重要のようで、当時から、そしていまなお、野良の習性が抜けない野良俳人であるところの私が、私にも増してりっぱな野良俳人、近藤十四郎を、2026年の今になって紹介するというのは、別に感慨深くもなんともないのですが、単純に、自分が好きな句を誰にも何にも邪魔されずに並べてみせるという喜びはまず確実にあって、それともうひとつ、数年来、あるいはもっと以前から自分の中に抱き続けた計画をやっと実行できたという安堵があります。私の仕事は終わりました。あとは、読者諸氏の手の中にあります。

なお「初期作品集」と銘打ったのは、句群の発表年が1997年から2008年と、ずいぶん前なので。今のところ「後期作品集」謹撰の予定はありません。