2026-07-26

西生ゆかり〔近藤十四郎の20句〕蛸のような句

〔近藤十四郎の20句〕
蛸のような句

西生ゆかり

近藤十四郎さんの句は、なんだかよくわからない。わざとわからなくしているのではなく、わからないものをわからないままに書いているから、わからないものができあがるのだと思う。できあがったものは、にゅるにゅると滑って捉えがたく、例えるならば蛸に似ている。蛸はおいしい。

水風呂の臍までの水投票日

浴槽に入る人体と箱に入れられる投票用紙。どちらも臍まで入ったところでぴたりと止まったのかもしれない。

めだか死ぬ白いタイルは冷たいか

タイルが冷たいか否かということに色は関係ない。ただ、めだかの骸の下にあるタイルが青でもなく赤でもなく白だったということに、主体は何らかの思いを抱いたのだろう。

靴底より地球空洞説の泡

地球の中が空洞であるという説は、古くから多くの人に唱えられてきた。今となってはその説は根拠のない泡のようなものに思えるが、地を踏みながら「この遥か下は空洞になっていて、そこに地底都市があるかも」と考えると、なにやら胸ときめいてくる。

ちょいまがり」胡瓜が盆に五六本

生育過程で少し曲がってしまった胡瓜が、帰省した際に五六本出てきた。サラダにするも良し、漬物にするも良し、そのまま齧るも良し。曲がっていても味は抜群なのである。

訃報あり素麺がゆでられている

また人が死んだ。それはそれとして、生者のための素麺がゆでられている。命とはちゅるんと終わってしまうもの、などと思いながらゆであがった素麺を啜るのかもしれないし、特に何も考えず啜るのかもしれない。

墓地を過ぎ八月の底ゆく都電

墓地・八月・底というやや抽象的な単語の後、突然〈都電〉という固有名詞が出てくる。そこを行くのは銀河鉄道のような幻想的な乗り物でなく、現実に染井霊園や雑司ヶ谷霊園の付近を走る〈都電〉なのだ。句跨りのぎくしゃくとしたリズムが、死者と生者のぎくしゃくとした関係性と重なり合う。

砂町に死す海底に刺さる月

砂町とは石田波郷が暮らしたことで知られる江東区の町。映画『ベニスに死す』の妖しい雰囲気とは違い、現実の砂町は下町情緒溢れる所だが、作者の幻想の中ではベニスと重なる部分があるのだろうか。

しおしおのぱあスイカ食う絶望

特撮テレビドラマ『快獣ブースカ』で、しょんぼりしたブースカが発する「シオシオのパー」。西瓜に塩をかけながら主体はその台詞を思い出し、思わず口にしたのだろう。何に絶望しているのかはわからない。

インク壺のぞけば遠く稲妻す

インク壺の近さ・暗さと稲妻の遠さ・明るさ。その対比の鮮やかさもさることながら、〈のぞけば〉で前半と後半の因果関係を示唆しているのがおもしろい。インク壺を覗くと、なぜだか稲妻が走るのだ。壺の中で走るのか、外で走るのかはわからない。

百舌の贄あるらし乾物屋金歯

モズは捕らえた虫や蛇を、木の枝に刺して蓄えておくことがある。人は捕らえた魚やイカを、串刺しにして蓄えておくことがある。ただし人が蓄えるのは食べ物のみならず、それを売って得た利益をも時には蓄える。蓄えた金で金歯を買い、客に見せびらかすのである。

星またたけばわたしはあなたの犬

 The Stoogesの”I Wanna Be Your Dog”ではIggy Popが「俺はお前の犬になりたい」と歌っているが、掲句の場合は願望ではなく〈わたしはあなたの犬〉と決めつけているのだから、随分とふてぶてしい。しかし星のまたたく下でこのように言われたら、思わず「はいはい、飼ってあげる」と受け入れてしまいそう。

かぼちゃかぼちゃ吾が癇癪の内と外

草間彌生の作品のような水玉模様のかぼちゃが、癇癪を起している人の内と外にある様子を想像した。怒りながらも、どこか自分を冷静に見ている。

蛸の首腰にあり天高くあり

蛸の頭部は脚(=正確に言えば腕)と繋がっているので、そこに人体で言うところの首や腰を無理に見出そうとするならば、頭部‐首‐腰‐脚(=正確に言えば腕)という順序で繋がっているということになろう。その場合、実質的には「首」「腰」という言葉で同じ部位を指しているので、〈蛸の首腰にあり〉と言っても一応理屈は通る。それはそれとして、〈天高くあり〉で蛸が凧のように飛んでいるイメージも浮かび、なんだか楽しい。

トランペット壊れたり十月の芝生

トランペットが壊れた。ふと足元を見るとそこには〈十月の芝生〉があった。というより、トランペットが壊れたことが心に何らかの影響を及ぼし、足元にある緑色の物を〈十月の芝生〉と認識させたのだろう。

青蜜柑ノートは糸で縫ってある

青蜜柑の鮮やかな色と匂い、手に載せた時のころんとした感触。そういったものに心を寄せた後、ふとノートを見ると、それは糸で縫ってあった。物がそこにあるという、ただそれだけのことが、随分とふしぎなことに思えてくる。

フェリーニの大田区秋鯖買う夫人

大田区の〈大〉の字が、フェリーニの映画に大きな女がよく出てくることを想起させる。秋刀魚は目黒に限るが、秋鯖は大田区に限る。

ウォーレンオーツくしゃみする京成の踏切

ウォーレン・オーツの出ている映画は観たことがないが、写真を見るとなんとなく親しみの持てる風貌で、なるほど京成線の踏切でくしゃみしていてもおかしくない。立石あたりで飲んでいそうな気もする。

マネキンの股間はつるりクリスマス

服を纏うことが仕事のマネキンなので、服で隠れる股間には不必要な毛など生やしていない。逆に言えば、なぜ人は不必要な毛を生やしているのだろう。クリスマスにプレゼントを交換したり、生殖を目的としない性行為をしたりと、人は不必要なことばかりしている。

寅彦忌燃えないゴミは八日より

寺田寅彦忌は12月31日。物理学者・文学者としてのその功績に主体は思いを馳せつつも、すでに年明けのゴミ出しの心配をしているのだろう。

金属が溶けたかたちのままとなる

物理現象に関する事実をただ述べただけとも取れるが、なんとなく「終末後の光景」とも思えるのは、このところの暑さでいよいよ世界が終りに近づいているという感があるからか。しかしこれが「終末後の光景」だとすると、それを見て俳句に詠んでいるのは何者なのだろう。誰もいない、何も聞こえない、言葉を届ける先もない、そんな状況でも勝手に生まれてしまうのが俳句―あるいは俳句に似た何か―というものなのではという気が一瞬して、しかしそれは暑さで頭がおかしくなった私のたわごとなので聞き流してほしい。

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