2026-07-26

谷口愼也〔近藤十四郎の20句〕物事に対する「思惟性」

〔近藤十四郎の20句〕
物事に対する「思惟性」

谷口愼也

この作者に関する情報を私は全く持っていない。あるのは「初期作品集」という西原天気さんの記述があるだけ。いささか戸惑っているが、今回はいきなりの出会いがしら、その第一印象という程度の感想だと思ってもらえればいい。

マネキンの股間はつるりクリスマス

先ずはこの句が目に留まった。「聖なるクリスマス」がこれほど滑稽に、かつひんやりとしたエロチシズムに書き換えられた作品を見たことがない。当然ここに毛の付いた女人や、人によってはダッチワイフのそれを想起するに違いない。だがそれゆえにこそ、この「聖」なるものと「俗」なるものとを内包したこの1句を、私は「白」を基調とした陶磁器のように愛でることができるのである。
 
墓地を過ぎ八月の底ゆく都電

これは現実と、個の心象風景との「取合せ」。〈墓地〉と〈八月の底ゆく〉がそうである。〈都電〉はそれを具体化するための措辞。すなわちかの東京無差別攻撃の戦禍がそこに露呈して来る。そういう寓意が、「暗喩」として使われている。というよりそれは、ひとつの言葉が、同じ意味体系の層に横滑りに移行する「換喩」的手法に似ているようだ。
作者はたぶん、そういうことを理解している人ではないか。

インク壺のぞけば遠く稲妻す

トランペット壊れたり十月の芝生

砂町に死す海底に刺さる月

これらには現代詩的発想の匂いがする。しかもそれは多分にモダニズム。私は最初、「現代詩」や「一行詩」から出発したので、ちょっとした郷愁を感じさせる句である。これら乾いた「青春歌」とも言うべきか。

星またたけばわたしはあなたの犬

フェリー二の大田区秋鯖買う夫人

「ちょいまがり」胡瓜が盆に五六本

水風呂の臍までの水投票日

これらには川柳的要素(穿ちやひねりや滑稽、等)や日常と詩の世界が割とベタにくっついているところが見受けられる。換言すればそれは、「口語俳句」の、その口語性、口誦性に少しもたれかかっているせいではないか。

だが総じて言えばこの人は、俳句の外縁から俳句を眺め、いろんな方法論を楽しんでいるのではないか。いわば「ひと・もの・こと」の対象に対しての多彩な視点を持ち合わせているのではないかとも。

個々人にはその人独自の、物事に対する「思惟性」がある。今回はそれを「俳句」として開示したのであろう。だから「初期作品集」である。当然このあと「後期作品集」なるものが出てくるはずだ。西原天気さんは、その辺のことを意図したはずだ。

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