季語とは何か
岡田一実×吉川千早
〔中篇〕「強度」と「更新」
◆子規以後の写生と季語
岡田一実●正岡子規の時代、時代っていうか、正岡子規っていう人が「写生」っていうのも持ち込んだ時に、いったん切れたんですよね。その「本意世界」っていうのは。季語はありながら、季語を「写生」するっていう今まで大事にされてなかったことを、近代的思想を取り入れてやり始めたんですよね。だから正岡子規で、いったんその本意的なものが切れたんですけど、その後に高浜虚子がもう一回持ち出したんですよね。で、「季語はなければならない」って言い始めたその歴史的な経緯があって。で、「写生」と季語みたいな関わり方が。
吉川千早●「写生」! 写生ってまず「ぬえ」じゃないですか。「ぬえ」というか「キメラ」って柳元君が評論で書いていた(柳元佑太「写生という奇怪なキメラ」『俳句界』2022年3月号)。あれについて話し出すとみんな最後わやくちゃになりますよね。
岡田●でも季語と写生の問題って結構密接に繋がっていて、河東碧梧桐とか何とかは季語から離れていって、写生のほうに進んでいくわけですよね。五七五もから自由になって「無中心写生」っていう不思議な方向に進んでいって。
吉川●碧梧桐嫌いじゃないですけどね、私。ちょっとあわれですけどね。
岡田●いや、嫌いじゃないですけど、不思議な世界だなっていつも思う。つまり、分派があったんですよね、この時期に。
吉川●なんか進化みたい。生物の進化する時って、その正しい方に進化するんじゃなくて、あらゆる方に手出してみて、残ったやつが今残ってるだけじゃないですか。だから正岡子規の後の季語も、碧梧桐が写生のほう行ったり虚子が季語のある方に行ったりして。結局季語のある方が今残ってるだけっていうところがちょっと生命の進化っぽいです。
岡田●そうですよね。
吉川●よかった。今日岡田さんに話が聞けてすごい分かりやすくなった。自分なりに季語の本いくつか読んだりしたんですけど、でもやっぱりなんだろう、きちんと時系列入ってないんですね。岡田さんの話聞くと流れが今めっちゃ分かりました。
岡田●ありがとうございます。嬉しい。『みつゆ』とか読んでても季語あるじゃないですか。若い子たち、やっぱ季語あるんだな。この世界別に季語なくても成り立ちそうな感じだけど季語あるよね、って思った。
◆人それぞれの俳句らしさ
吉川●やっぱ、俳句の仕組みっていうんですか、構造っていうのが、二つのものが向かい合ってその時に発生するものが中心となってる。その仕組みがあらゆる所にあると思ってて。その仕組みがすごい象徴的なのが季語だから、季語があるっていうことですごく「俳句」になるっていうのは大事なんじゃないかな。俳句書くんだったら。仁平さんは季語はモチーフとかって言うけど、俳句らしさというものはある程度季語に担保されてると思うんです。俳句なくてもその世界は成り立つんだけど、俳句書くんだったらやっぱ季語はあったほうが俳句だと思うから、それはやっぱ使うんじゃないかな。
岡田●歴史的にはいろいろあって、正岡子規が「俳句」って言って、まあ俳諧から切り取って俳句を始め、始めて以降、色んな歴史があって。まあ「自由律」っていうのもあったし、「無季俳句」っていう時代もあったし、「多行」っていう世界もあったし、いまね、「口語」とかも、あるいは仮名づかいも「現仮名」だったりして色んな変遷があって、で、季語があるかないかっていうのも俳句らしさの一つではあるけど、重要ポイントじゃないと考えた人たちも歴史の中にはいて。俳句らしさって人それぞれの俳句らしさの中で、こう「ジェンガ」のように積み上がってる。
吉川●ああ。
岡田●みんながバランスを崩さないように、でもそれぞれ俳句らしさみたいなものを持ち寄って、フラフラしながら「ジェンガ」みたいに。それを「家族類似性」って言うんだけども、そう、ふらふら積み上がっているんですよ。そんなふうに俳句は今も続いているのかなと思います。
吉川●すごい生命っぽいですよね。なんていうか、そのふらふらしてる感じといい、こう残ったやつが今あるやつになっていく感じといい、なんかすごい生物の進化みたいなものを調べてる感じますね。
岡田●本当ね。進化の過程みたいだよね。私もそう思います。変に進化してんなって思います。
吉川●だから、私たちは後に残るかどうかなんてわかんないんですよね。今やってるから。
岡田●そうそう、わかんない。五七五で、本意、本情に則った季語使いで、余情のある、平明で、美的で典雅な作り方をしていたとして、それが残るかどうか不明。
吉川●そう、本当不明。
◆多様性・多元性のなかの流行
岡田●むしろ、無季が残るかもしれないし不明です。流行があって、その時の流行がドドッと来てボリュームゾーンの人たちが同じような作品を作るんだけど、それはただの流行であって複線もたくさんある。細々と流行らないことをやってる人もたくさんいて。で、時期、時代が変わるとその線が変わってくる。主線と複線が交代したりするので、流行によってね。それもなんか進化っぽいですよね。
吉川●進化っぽい。つまりいろいろ試みられてるのが大切だっていうのをめっちゃ思います。
岡田●そうなんですよ。だから「何をやったらダメ」とかって取り締まって言い始めると、多様性が削られる。
吉川●ご新規に文句言い出したら終わりっていうやつですよね。
岡田●よくありますけどね。その多様性、多元性の中で、こう、多少の流行を楽しみながらやっていくのがいい。いいというか、そんなふうにしてずっと続いてきたんだよね、という感じです。
吉川●ただ、私すごい欲張りなので、メインがあって複線があってって重々わかった上で。でもこの俳句っていうものの根本の構造の最小にして最大の仕組みは何だろうってどうしても考えてて。
岡田●メモを送ってくださって。俳句の「力学」のメモ。
吉川●そうなんですよ。今回の連載用のメモっていうか、構想のより前のアイディアノートみたいなやつなんですけど。今回時評で季語の話やって、「一物仕立て」やって「取り合わせ」やって最後「俳句本質論」書こうと思ってて。写生には行かない。そこは一物仕立てという形で書きました。やっぱり写生っていうと、もうなんか大混乱だなって思って。
岡田●「一物仕立て」ね。「写生」はわりと一物仕立て多いですよね。多いですしね
吉川●写生の「取り合わせ」とか。「や」で切るけど結局一物みたいなのも出てくる。写生って言っても色んな考え方があって。季語以外のフレーズの部分が写生とか。
岡田●必ずしも全部が写生であるのが写生とは限らないかもしれませんよね。
吉川●ああ、確かに。取り合わせた部分、季語じゃない部分が自分なりのその写生だってことですよね。
岡田●私、自分の句には結構あります。「取り合わせで写生」っていうのは。
吉川●今ありますよ。手元に『光聴』と『記憶における沼とその他の在処』2冊持ってるので。
岡田●ありがとうございます。その場の景色にあるものを書きながらその場の景色にあるもの取り合わせたりするから、「写生取り合わせ」みたいの結構あるかもです。
吉川●今例句ないかな。〈越中は湾深くあり芹なずな〉これ『記憶における沼とその他の在処』の方だ。『光聴』の方がいいかな。
岡田●懐かしいですね。
吉川●ちょっと前ですね。
岡田●『醒睡』は「無季」も入ってるので。え、よかったら無季どころじゃなくて五七五じゃないやつも入っています。
◆フリーズドライのスープみたいな?
吉川●私も無季とか五七五じゃない句も基本的に好きです。自分では力が足りないから作らないんですけど。かっこいいなって句をみます。『みつゆ』でも関灯之助さん。
岡田●うんうん。
吉川●結構無季の句書くじゃないですか。「うまいな」っていつも思うんですよね。あの季語じゃないんだけど季語的な働きをするような、つまり句に重みを出す言葉がきちんと展開されてて、うまいな、かっこいいなって思いながら読んでます。
岡田●かっこいいですよね。私もそう思います。かっこいい。無季も有季もあるんだけど。読み通したときにすべての音楽的な要素がね、ピタッとくるのがね、かっこいい。
吉川●だからこそ無季が成立させられるんでしょうね。
岡田●無季でも音楽的な要素が一つの姿として立ち現れるような感じになっているんじゃないですかね。
吉川●私は俳句はどうしてもギョムギョムしちゃうので。
岡田●え、何、何て?
吉川●なんかギューってギョムギョムって。広々しないんです。ギュギュギュってしちゃう、季語の力を借りないと開かれないのかもしれない。
岡田●あ、でもねそれは私も近いところがあって。私もわりと凝縮して書く方です。複合動詞とかが好きで、詰めて書く。
吉川●「ぬめり光り」とか使われましたね。
岡田●そう、そう。で、私の場合は一回凝縮して、読み終わった後に解放されてほしいみたいな意図があって。だから、句の中で広々してる必要は特にないなっていつも思っていて。読んだ後に解き放たれてほしいな、みたいな。
吉川●一回ギュッとするから後は読者が自分で解き放つ。フリーズドライのスープみたいな感じですか。
岡田●あ、「後は自分でお湯かけてね」みたいな。そんな感じ!笑
吉川●あれですよ、話を戻すと季語もそのフリーズドライのスープの素みたいなところありますよね。
岡田●それは本当にそう思いますね。私は「季語って、『香水』みたい」と比喩にしたりすることがあって。パッとかけてあげるっていう、そうすると句全体を包んでくれる、みたいに説明する時もある。「切字」は「アトマイザー」。上五の季語の時は、首近くに香水をかけて、最初から匂い立つようにして、下五の季語の時は、下半身の方に香水をかけて、下から匂い立つようにさせる、というふうにイメージしてます。
◆未来のバナナが変わる
吉川●あ、なるほどね、その説明分かりやすいですね。季語って、今、「過去から今への話」としましたけど、すごい未来の人のこと信じてる感じしません?
岡田●うん、それありますね、それ。吉川さんのそのランドスケープの中で、すごくすごくいい箇所だったなと思って。「未来へと、意図を繋ぐのです」ってところでしょ。ここ、すごい。
吉川●あ、嬉しい、褒められてる。
岡田●季語は常に過去、現在、未来、私たちと共に動き続けてる。ここ、すごくいいところでしたよね。
吉川●ありがとうございます。私、過去と未来を表現するのが今だっていう時間の考えでいるので。季語って常に今なんだけど、でもそれは過去のバナナだったら、その虚子とか熱帯季語とかだったっていうのを引き受けて、表現した上で、そのこれを私が今詠んだことで、未来のバナナが変わるわけじゃないですか。
岡田●うん。
吉川●足されるというか、分岐する。バナナっていう季語のこの句が詠まれた世界に分岐した先の未来のことを信じる。つまり未来ってきっとこうだよねっていうのの表現でもあると思ってるので。過去と未来両方信じてないと、「今」にならないなって思ってる。季語そうだよねなと思って書きました。
岡田●かっこいい。普通あの伝統とかっていうと過去ばっかりを参照するような感じがあるけども、これが未来への示唆まで開かれているっていう、このここが良かったね。
吉川●あ、嬉しい。褒められると本当ただただ嬉しい。お調子者なんですよ。今おでこを叩いていますよ、嬉しくて。
岡田●よかったよね、うん。
吉川●伝統って過去の伝統だけを見ることじゃなくて、未来を信じることでもあって。で、過去と未来をきちんとしたんだったら「今」を良くするしかないじゃないですか。さっきの俳句が生命の進化みたいだねっていうの。私たちが今をとにかくしっかり生きることによって、この先の分岐がどうなるかっていうのが本気でわかるじゃないですか。適当にあやふや今をやったから、分岐があやふやに消えたっていうのは、なんかこう、あんま納得できない。一生懸命やったけど無理だったっていうのは可能性を使い果たしてるじゃないですか。それだったらいいなって思ってるんですよね。
岡田●「読む」っていう行為が未来を含めている行為なので、季語にも未来があるし、俳句そのものにも未来があるなと私は思ってます。
吉川●ああ、本当にそう。
岡田●脳って予測しながら読んでるんですよね、文章というものを。その予測と自分の感覚との「差異」が起こることによって、新しいな、とか面白いな、とかって思う仕組みになっていて。それは音楽で例えるとよくわかるなと思うんだけど、メロディーが流れてくるとき、そのメロディー先取りして私たちは聴いているんだけども、その先取りしたものと違うものが提示された時に私たちは驚いて「新しい!」とか「すごいな!」って思う。これが読む行為でも全く同じ仕組みが起こっている。たとえば下五の季語とかは、読んでいて意外な季語がそこに配置されることによって脳がちょっとびっくりしちゃう。「予測と違うわ!」となるなる。そういう仕組みになっている。先取りするというのは「未来の先取り」なので。「未来を表現」するっていうところも、そこなのかも。季語が未来と共に動き続けているのと同時に、俳句を読む行為が未来と共に動き続けてるなと私は思ってます。
吉川●あ、そうですね。俳句によって未来と過去が常に、出会って、そこに新しさが生まれてるっていうイメージあります。
岡田●そうなんです。私もそう思います。
吉川●多分そこ意見一緒だろうなと思ったんです。岡田さんって「ズレ」っていうのにすごく着目されてるっていう印象があって。そのズレのできる仕組みみたいなところは私が今回考えてたお神輿と人と二つのものが、ぶつかるっていうところと一緒かなと思ってた話をしてるんです。岡田さんのその考えてるズレっていうのは、未来予測をしている、いるんだけど実際は違うっていうズレ。私なりに言うなら過去と未来の接点。接点がくっついてるんだけどズレてるっていうのが発生してるっていうところと、考え方が近いなと思って。今回話したらきっとそこはきっと同意できるぞ、二人で仲良くできるぞとは思ったんです。
岡田●そうですね。ズレの話とお神輿の話。
吉川●未来予測と実際がズレてるところに「詩」があると言ってもいいし、新しさがあると言ってもいいんですけど。
◆「強度」がないと更新は起こらない
岡田●そうですね。「認識の更新/ベイジアンサプライズ」と言ってます。「ズレ」でも構わないと思います。認識が新たになっていく。私はやっぱり「写生」のことを考えてしまうので、「写生」をしただけでは、いわゆる報告的に書いただけでは新しさは起こらないから。語順みたいなこともあるし、いかに認識を更新させるかってところに私は興味があって。だからあんまり季語派じゃないんですよ、私。認識さえ更新されていれば季語はそんなにそこまで興味がなくて。
吉川●実はですね。予告みたいになっちゃうんですけど、今回季語書いた次の「一物仕立て」に書いてるの。まさにその話を書いてるので次回もよかったらお読みください。
岡田●読みたいです! あ、でもね、私、吉川さんと読書範囲すごい近い感じがする。いつも読んでいる本が私の読んでいる本と似てるなって思って。
吉川●たぶん知りたいことが似てるんですよ。それか、世界に対して不便を感じてるところがちょっと似てるのかも。
岡田●似てる。吉川さんが読んでらっしゃる本で、「あ、それ私も読んでるわ!」とか「持ってるわ!」とか、よくあるんですよね。
吉川●そうだと思います。次の「一物仕立て」の回で、まさにその認識が更新されなければ「一物仕立てじゃない」、みたいなことを書いてるので、今話が出た時に「なんてちょうどいいんだろう」って思っちゃいました。
岡田●でもそこに行きますよね、季語の話してるとね。
吉川●行きます、行きます。
岡田●俳句って何が面白いんだろうってなった時に、認識が更新するところ、吉川さんは違うこと書いてたよね。「強度」って書いてた。そう、そう。でも私は更新派。吉川さんの「強度派」と私の「更新派」は微妙に違うのではないかとか。
吉川●「強度」が強いことによって更新されるっていう感じです。
岡田●あ、そうなんだ。
吉川●そう、だから「強度」がないと更新も起こらないから。更新これぐらいされましたねって測るのがちょっと難しいから、そのメモの「強度」だったら多少語りやすいから、そっちの「強度」で語った上で更新。「更新」というか私は「ひらかれている」っていうフレーズにしようかと思ってるところなんですけど。
岡田●うん。
吉川●その「強度」っていうのは、今説明してもちょっとややこしいんですけど。本意と本情とか取り合わせであるとか一物仕立ての、今まで読まれてきたものと今私が発見して新たに発見して更新する分。私と季語。過去詠まれてきたものと私。その向かい合いがきちんと起きていると「ひらかれ」が大きくなる、っていう形でいる。なんかこの辺ややこしいんで「連載読んでください」としか言えないんですけど。笑
そう、だから更新が大事っていうのは完全に同意です。「ひらかれ」なければ「強度」が強くても意味がない。
「ひらかれる」とは何かとなると、それは更新部分っていう話になるんじゃないですかね。ここは用語の違いでもいいんじゃないかな。
硬い言葉にすると使われづらそうっていう印象があるので、詩的な言葉にしたほうが、ちょっとかっこつけた使いやすい言葉にしたほうが、みんなに少しでも使ってもらえるんじゃないかと思って。「ひらかれ」にしました。だから更新っていう言葉のほうがみんなが使いやすいんだったら全然更新でも。ただ「ひらかれ」のほうがフワッとしてる分使いやすいんじゃないかなと思っています。
岡田●なんか少しズレてる気もするけどね。なんか、うん、「ひらかれ」と「更新」は完全には一致してない感じ。
吉川●私と岡田さんが違う人な以上、思考も違うルートをたどってるからニュアンスも違っちゃうと思う。
◆ひらかれていること
岡田●そういうことは、あるかもしれないんだけど。なんか「ひらかれ」のほうが空間的な広がりを持っている感じがして、「更新」はもうちょっと読者に閉じてる感じがする。
吉川●ああ、なるほど。確かに私すごくその物事を考える時に、アニミズムからスタートしてるからか、人間だけっていうより、読者と作者だけじゃないもっと広い空間みたいなところで考えてるかもしれません。考え事する時にいる場所がそうかも。あ、本当だ、今言われてみて気づきました。
岡田●確かに。そんな感じがするよね。
吉川●本当だ、本当だ!「更新」っていうと本当に、なんかきち、きちんとしてるっていうか読者の認識が更新されるってなります。
岡田●そうそうそう。
吉川●でも「ひらかれ」だと「この句はひらかれている」みたいな感じで主語がもっとふわふわされますね。
岡田●あ、そうだ。だから必ずしも読者を必要としてなさそうな感じもする。
吉川●本当だ。きっとこれって、その句の話だけじゃなくて、例えば師弟関係の話とかで、弟子から師の方にひらかれてるとか師から弟子にひらかれてるとか、そうやって主語を変えても使える言葉だと思いま、きっと。
岡田●空間だけじゃなくて時間的にもね、こう膨らみのある言葉な感じがします。
吉川●確かに。俳句の中で、過去から未来へもひらかれるし、今の句が過去の句を変えることもあるし。そういうのもなんかひらかれてるっていうふうに感じてるかもしれません。未来からの呼びかけもあるし。
岡田●未来からひらかれてるっていうのもありえるよね。
吉川●おー。いや、人と話すっていいですね。ほら自分だけで考えてると限界がどうしてもあるじゃないですか。
岡田●あります、あります!
吉川●本って他者だからある程度考えがひらかれるし、うちの娘とか息子にチラチラっと話してみるんですけど。やっぱりちゃんと私よりいろいろ分かってる人に話すと、いいですね。導いてもらってる感じする。
岡田●面白かったね。お神輿。お神輿っていうね、こう比喩が実に、良くて、「お祭り」なんだよね。
吉川●そうそう。だから俳句ってなんだかんだで「お祭り」なんですよね。
岡田●吉川さんの記事の比喩だとお神輿ばかりに焦点が合いそうだけど。実は「俳句そのものがお祭りである」っていう考え方が、実に面白いよね。
吉川●面白いなと思って。お祭りじゃない時に「ワッショイ」してても変ですからね。お祭りっていう場があって、お神輿っていう、伝統があって。そのお神輿の作法も含む伝統があって、そこで「いっちょやったるか!」っていう人たちが、頑張って自分ので精一杯の力で「ワッショイ」した時に、初めて成立するっていう感じ。
岡田●あと、他人にとっては、つまり、このお祭りの最中にいない人にとっては、「何やってんねん」って感じも俳句って感じがする。笑
吉川●それは、でも何でもそうですよ。生きるのに必要でないことは全部そう、多分。
岡田●そうそう。それが、俳句って感じがするよね。で、私はそういうところが好きですよ。
吉川●私もそういうとこ好き。こう、別に実用じゃないことをこうみんなで「ワッショイ」するのは楽しいし。で、それがね、いつの間にか伝統とか呼ばれるようになっちゃってね。
岡田●ずっと「ワッショイ」してきたんだよね。
吉川●そうそう。で、次の人たちも「ワッショイ」してくれるって信じて「ワッショイ」してるんですよ。
岡田●面白い。
吉川●だからきっと若い人が俳句始めましたとかっていうと、すごく嬉しくなっちゃうんでしょうね。
岡田●なるほどね。ただ、「伝統がないお神輿は、神の入れ物になりません」というのは、でも新しい季語ができた時は伝統がないお神輿かもしれないよ。
吉川●だからそのつど子供が工作で作るお神輿とかも想定してて。子供神輿ってそうじゃないですか。その都度子供がなんかダンボールで作ったりして、でもそれがお神輿になるっていうのは、お祭りっていう場と今度は反対に「ワッショイ」があるからだと思うんですよね。
岡田●うん。お祭りっていう場の中で「ワッショイ」があれば、それはお神輿だね。
(つづく)
【次回予告】
地名は季語になりうるのでしょうか。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」はなぜ名句なのでしょうか。季語・地名・取り合わせをめぐる議論を通して、二人の俳句観の違いと接点がより鮮明になっていきます。
0 comments:
コメントを投稿