2026-06-28

季語とは何か〔前篇〕お神輿は誰が担ぐのか 岡田一実×吉川千早

季語とは何か
岡田一実×吉川千早

吉川千早と岡田一実が「季語とは何か」をめぐって対談しました。今回の対談は、吉川千早が『俳句四季』2026年5月号で執筆した時評(全四回の一回目)を出発点としながら、対談のなかで今まさに意見が形作られていくさまを体感していただくことを目指したものです。季語という俳句の基本的な問題を考えるきっかけとなれば幸いです。


〔前篇〕お神輿は誰が担ぐのか

◆季語はルール? バナナは季語?

吉川千早●こんにちは。吉川千早です。『俳句四季』5月号からの時評を担当させていただいております。今、お読みいただいた方も、いただいてない方も、このスペースを聴いていただいてありがとうございます。

今回は、岡田一実さんをお招きしてお話しできるということで、すごい楽しみにしております。まだちょっといらっしゃらないみたいなので、話しながら待ちたいと思います。

自己紹介、私は澤俳句会所属同人です。俳人協会にも属しております。俳句を始めた時に赤ちゃんだった子が中3になってるから、俳句歴は13、14年ぐらいになると思います。あ、岡田さんいらっしゃった。

岡田一実●よろしくお願いします。

吉川●岡田さんは私がTwitterを始めてわりとすぐにフォローしたんで、もう10年ほど名前とかは知ってるんだけど、ほぼ話したことがないという感じです。すいません。軽く自己紹介していただいていいですか?

岡田●はい。岡田一実と申します。『鏡』という同人誌にいます。それぐらいですかね。俳句はどれぐらい始めて20年ぐらいですかね。で、まあ句集を出したり、評論を書いたりしています。

吉川●よろしくお願いします。

岡田●よろしくお願いします。

吉川●最近、週刊俳句に浅川さんの「季語はルールか」っていう話が出てたりして、季語のことがちょっとホットな感じなので、今日なんかすごいタイミングいいじゃんと思ってます。

岡田●そうですよね。私もそう思いました。すごいタイミングいいなと思って。

吉川●そうそう。場が温まってるみたいな感じですよね。

岡田●そうですね。いい感じです。

吉川●「季語がルールか」っていうのは私も考えていて。今回の時評で「先生、バナナは季語に入りますか」っていう切り口から入ろうと思ったのは、ルールじゃないよねっていうのの一つのキャッチーな具体例として入れたんです。

岡田●うんうん。

吉川●でもまあルールじゃないっていうところは、まあルールじゃないだけなので。今回はどっちかっていうとその季語の働き、ダイナミズムみたいなものに注目したくて。岡田さんって、俳句1句1句ごとじゃなくて「俳句」全体を見たり、具体的にその俳句の構造を操作することで俳句を新しくしていこうっていうのを試みられてるっていう印象がすごいあるんですよ。

岡田●そうですね。俳句の構造はとっても興味があるところですね。

吉川●私も構造すごい興味があるので今回時評こういう書き方してるんです。岡田さんのその視点から見て、私の今回の時評ってこういう感じだな、みたいなのありました?すごいザックリお話渡しちゃって申し訳ないんですけど。

岡田●まず、まあ歳時記に載ってるからって「季語」というわけではないよね、みたいな話からあって、その話は「バナナ」の話があって本当そうだよねって。小澤實さんとかの話、本意、本情の話が伝統的共有イメージと作者の実感が、それが本意と本情が交差する時に季語はなるっていう主張ですよね。で、御輿となって、うねって行けば季語となり、担がれなくなったら絶滅季語になっていくみたいな話ですごく興味深く読みました。
バナナの話はね、キャッチーですごく面白かったんだけど、変遷の部分もあると、季語がいかにして生成されるかっていうのに、もう一つ軸が入る感じがしました。

吉川●まあそうですよね。そこまでできたら本当はいいなと思ったんですけど、文字数が無理と。

岡田●そうね。「バナナ」って、難しい季語で、バナナって「熱帯季題」として虚子が季題にしたんですよね。で、その「熱帯季題」っていうのは帝国主義との関係があって、南方に植民地を広げていく時に、「熱帯」と「夏」の季題として扱おうって言って、戦後「ホトトギス」の歳時記からは全面削除されたんですよ。

吉川●へえ、ちょっと帝国主義入ってるから歴史の反省みたいなところも踏まえてってことですね。

岡田●そう、だから、敗戦して、南方への植民地化っていうものが消えた時点で、虚子編の新歳時記からは削除されたんですよ。バナナって。パイナップルとか、あの辺の言葉って全部削除された。だから、「誰が季語を決めているのか」みたいなのがあると、「『季語となる』とはいかなる時になるのか」みたいなのが面白くなるかな、と。

吉川●ちょっと文字数が……。

岡田●だよね。

吉川●それやっちゃうと全4回の連載がバナナ連載になっちゃうと思うので、でもそれは面白いですね、確かに。


その空気を決めるのは誰か? 

岡田●季語として担がれる瞬間っていうのは、どこで発生するか、みたいなものに興味があって。

吉川●あー、なるほど。私が担がれる瞬間みたいなのがここってあるわけじゃないと思うんですよ。なんか空気みたいなやつだと思うんですよね、やっぱり。

岡田●うん。

吉川●で、その空気を決める人はいないんだと思うんですよ。落語の逸話を昔なにかで読んだことがあって。落語家が真打になるのってどう決めるかって、お師匠さんが決めたんじゃなくって、常連さんが「そろそろあいつは真打でもいいんじゃない?」みたいな話を常連さんがし始めたら、「おお、そうか」みたいな感じで真打の検討が始まったみたいな。なんかそういう世界かなって思ってます。

岡田●たぶん両方あって、「万緑」みたいなやつは草田男がバーッと押し出して、「お、いいじゃない。みんなで『万緑』使おうぜ」みたいな雰囲気になったのが、今の真打の話に近いやつだと思う。もう一つは、虚子みたいな権力者が「これを季語として詠んでいきましょう」って上から言って決めて、題詠で募集してみたらなかなかいい季語になったので残ったというパターンがある。何パターンかある感じがするんですよね。

吉川●確かに。「いい感じだから使っていこう」っていうところが、私が今回、お神輿で例えたところです。季語使おうって言っても担ぐ季語と担ぐ人がいないお神輿はお神輿になんないっていうところです。季語を「場」として、発想したんですよ。みんなが「ワッショイ」ってする場ですよね。西田幾多郎的な。

岡田●うんうん。

吉川●季語の成り方は色々あるけど、「場」として設定した時に、じゃあどういう仕組みで駆動してるかっていうと、この季語御輿をみんなで「ワッショイ」するっていうのが成立した瞬間が季語だと思ったんですよ。で、これは今後の連載でどんどん書いてく予定なんですけど。その本意と本情が季語になるみたいな動きが、たぶん一番象徴的で、俳句のあらゆる所に全部ガシャン、ガシャン、ガシャンっていう、フラクタルっていうか入れ子構造みたいなのでいっぱいあって。その一番わかりやすい綺麗にできてるのは季語だなって思ったんですよね。

「挨拶」と「符丁性」

岡田●うん、なるほどね。お神輿はなぜ、季節の言葉じゃないといけないと思いますか。

吉川●何冊か季語についての本、参考にしたんです、筑紫磐井さんの『季語は生きている』(2017年/実業公報社)っていうのとか、あと、川本皓嗣さんの『俳諧の詩学』(2019年/岩波書店)とか。その中で述べられてる、中国の式次第みたいなやつで題詠ができて、それが和歌に入ってきて、題詠で反映されて、それがみんなすごく気に入ったっていうところ。気に入ったって言うとザックリした言い方になっちゃうんだけど、遊びっていうか、そのルールで繋がってきたところがあって。みんなでそこを「ワッショイ」しているうちに、いろんなものが混ざってオリジナルになったみたいな印象を持ってます。

岡田●日本では和歌が最初に題詠としてあったわけですよね。でも、季節もあったし、恋もあったし、挽歌もあったし、題としては色々あったはずなのに、いつの間にか季節の言葉だけが使われるようになっていったっていうのは何なんですかね。

吉川●何なんですかね。本を読んでも絶対にこれだっていうのがあるは思わなかったんです。だって歴史的な真実はあるけど、それがなぜかっていうところは推測するしかないじゃないですか。絶対これだって言えなくて、私の感じ方でしかないですけど、連句の発句だっていうところがやっぱ大きかったんだと思うんですよね。で、そこでそういうもんだっていうところがあった。あとはみんながやっぱ四季を「ワッショイ、ワッショイ」して盛り上がったから、他の言葉があんまり「ワッショイ」されなかった。なんで担がれなかったかっていうところまでは、私は正直わかんない。

岡田●連歌とか連句とか巡行したので、本州を巡行した時にね、連句なり何なりで挨拶をする時に、一番たぶんそのみんなが共有している和歌世界を引っ張ってくるのが便利だった。その場の雰囲気、その今、この秋であるとか春であるとかっていうのとリンクさせて、「今ここのは秋ですが、秋といえば和歌世界のあの秋ですよ」みたいにして引いてくるのに便利だったのかなっていうのが私の仮説なんですけどね。巡行での開催の時期、そこの場に来た時期みたいなものとリンクさせるのに都合が良かったから季節の言葉が選ばれたのかなっていうのが私の仮説です。

吉川●確かに。あなたは今恋してますか、なんて聞くわけにいかない。

岡田●でも、連句の式目の中には恋があるんですよ。

吉川●あるある。

岡田●連句、連句も連歌も恋については別に立項がある。他の部分で恋はやればよかったから、季節になったのかな、ってその部分が俳句としては正岡子規が独立させたというのが私の仮説ですね。実際、初期は無季の発句も沢山ありましたしね。

吉川●いわゆる手紙の一番初めの時候の挨拶とか、あんまりよく親しくない人と今日暑いですね、みたいな話すのとかともちょっと繋がってますよね。

岡田●近いと思いますね。同じな体感、気候感を共有し合うことによって円滑に進めていくみたいな感じなんだと思うんですよね。

吉川●挨拶っていうと、逆に深くなりすぎちゃうじゃないですか。挨拶って生きてる人同士でするだけじゃなくて、それこそご先祖様、死者に対してとか、物に対してとか、自然に対しての挨拶とかもあるので。なんかそこなんかめんどくさいから、なんか挨拶じゃなくて語れるときっともっとすっきりしますね。

岡田●「符丁性」っていうのをやっぱり考えているところがあって。「あなたも知ってますよね」っていう感じ。「皆さんご存知ですよね」っていう感じ。「挨拶」という言葉をのけたら、湧き上がってくる「符丁性」が、「本意」ってやつじゃないですかね。

吉川●いまどきのっていうか、雑な言葉で言うなら「ミーム」に近いですよね、ネットミームとか私とあなたは共有してます、ってところからスタートして、そのミームから会話が転がっていくみたいなニュアンスにも近いです。

岡田●吉川さんのこの論で言ったら、堀切実さんが書いてらっしゃったあの、「先人の作品が積み重なってき伝統的に共有されてきた本意」、小澤實さんの「本来あるべきもっとも詩的な状況」ですね。ここの「本意」の部分が言うなればその「符丁性」。
 積み重ねてきただけではなくて、それをみんなが符丁として使ってる。「みんな知ってるよね、あれだよね」って言いながらやってるのがまあ季語の「本意世界」かなって。

吉川●そう、私が今回書いたとこに寄るなら、お神輿はみんなに見えるっていうところですよね。みんなに見えるし、今までどうやってその神事をやってきたかっていうのを共有してるっていうところですよね。

岡田●うん、そうですね。実にとってもいい比喩ですよね。まさに。

吉川●これね、我ながら思いついた時に「やったー」って思いました。

岡田●ご自分の比喩なんですか。

吉川●はい。

岡田●あ、吉川さんの比喩なんですか、お神輿。

吉川●はい、私のオリジナルです。オリジナル比喩です。

岡田●そう、でもいい比喩ですよね。

吉川●我ながら、使いやすいと思って。今回は季語だけど、私、思想のバックボーンがわりとアニミズムで。文化人類学の最近のアニミズムとか。西田幾多郎のすごいめんどくさい、なんか絶対矛盾的自己同一性とかも、このお神輿の比喩で行けるんですよ。

岡田●わからないよ、わからない。

吉川●「世界」があって、その中で自分が頑張って「ワッショイ」することで、時間が生まれる、自分が限定されることによって今があるんだみたいな。わりとそうすると西田幾多郎の話が説明しやすくて。俳句もそっちと繋げちゃえるだろうなって。でも私にはまだその力はない、とか思ってます。

(つづく)


〔次回予告〕

季語はなぜ残り、なぜ変化し続けるのでしょうか。子規・虚子・碧梧桐をめぐる議論から、話題はやがて俳句そのものの構造へと及びます。俳句はなぜ俳句として認識されるのか。「強度」と「更新」というキーワードを手がかりに、二人はその根本的な仕組みを探っていきます。

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