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2020-12-20

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート 〔2〕外山一機によるイントロ

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート


〔2〕外山一機によるイントロ

中矢温◆では外山さんよろしくお願いいたします。

外山一機◆はい、よろしくお願いします。20分くらいお話します。中矢さんの方から先ほど念腹についてやその周辺について、いろいろ説明があったかと思います。私がそこらへんを補強するような感じでもう少し話そうかなと思います。先ほど増田恒河の動画が出てくるとは思わなくてびっくりしました。 haicaisitaたちが句会をしている様子は初めて動画で見ました。それでなんというか、対抗するではないんですが、自己紹介がてら私が普段どういうものをネットで見てるかっていうのを紹介しようと思います。


私がコロナのステイホーム中に何をしていたかというと、アラン・ナカガワという人の作品をずっと聞いていたんですね。この人はアメリカのLAの人で、俳句をやっている人ではまったくないんですが、haikuを地域の人に募集してサウンドコラージュを作ったという人です。すべて歌詞が出ているのでよかったら聞いてみてください。先ほど紹介のあったように、haicaistaたちの俳句は独特じゃないですか。そういうところに興味があってですね。最近だとこういうニッチなのを集めています。

では本題にまいります。佐藤念腹以前にhaicaiの系譜があって、それが増田恒河のところで佐藤念腹の系譜と最終的に繋がっていくので、ブラジルでのhaicaiの発生から簡単に説明していきます。haicaiというのは先ほどもありましたけど1919年にペイショットという人の『Trovas Populares Brasileiras』(ブラジルの民謡)という本がありまして、その中でhaicai(haikai)を紹介してるんですね。そこで、haicaiはいわゆる抒情諷詠詩で、三行詩で、515の17のシラブルだと言ってるんですよ。ペイショットがブラジルに俳句を紹介した、といわれることがあるのはこういうことをふまえているんですね。ただ、ペイショットは日本語から直に俳句をポルトガル語に訳したわけではなくて、クーシューによるフランス語の訳をはさんでいる。要は、「ジャポニスム」といわれたヨーロッパでの日本への関心の高まりを受け、一旦ヨーロッパを経由してブラジルに入ってきたわけです。ただし、ペイショットより少し前の19世紀末に、アルメイダが日本を紹介する中ですでに俳句・俳諧を紹介してるんだと指摘する人もいます。あるいはモライスのように(これはブラジルではなくポルトガルの方で流通したんですが)一応日本語から直で訳している例もあるんです。このあたりがhaicaiの系譜の発生にあたるところです。

少し余談になりますが、ヨーロッパには、クーシューを経由して俳句を知るパターンとチェンバレンを経由して知るパターンというのがあります。ヨーロッパのhaicai、haikuを調べていると、チェンバレン、クーシューという名をよく目にするんですね。チェンバレンはかなり早い段階で日本の芭蕉を中心に紹介した人として知られています。一方クーシューはチェンバレンより後になります。具体的には、子規たちが「蕪村句集講義」を「ホトトギス」でやっていましたけれども、それが終わったちょうど20世紀頭ぐらいに、クーシューが日本に来ました。そのときに日本では蕪村の再評価の流れがあったわけです。それをクーシューはヨーロッパに持ち帰っていくわけです。そこからさきほどのペイショットにつながっていく。その流れを考えるとブラジルの俳諧は蕪村系といえば蕪村系なわけです。でも先ほどの増田恒河の動画でやたらと芭蕉の話が出ていたように、ブラジルで芭蕉が軽視されているかというとそんなこともなくて、そこらへんが少し複雑です。それについては後で話します。

haicaiの系譜についてもう少し話します。これは増田恒河さんが書いていたことですけども、まず禅と結びつけて理解しているということが大きい(仏頂和尚と芭蕉の関係、鈴木大拙の著作などを介した理解)。ここのところで芭蕉とのつながりも見えてくる。次に、短詩として理解しているということ。先ほどの動画で3行で俳句が書かれていましたけれども、それだけじゃなくて、例えばアルメイダは、韻をどこで踏むべきなのかというあたりもかなり厳密に考えていたということがあります。(※アルメイダは上五と下五の末尾で同じ韻を踏み、中七の第二音節と最後の音節は同じ韻を踏まなければならない、とした。)この他に、季語を重視する詩、という仕方で理解している場合もあります。季語を重視するかしないかという議論ついては、増田恒河さんの功績が少なからずあると思います。

haicaiの歴史的なことを言いますと、まず1920年代に、あまり知られてないですけどモデルニスモというモタニズム運動がブラジルでありました。外の色々なものをどんどん取り入れていこうという、アーティストたちの意欲が掻き立てられていくような運動があったんですね。大きく見ると、俳句もその流れの中で取り入れられていった。モデルニスモはあくまでアーティストの側の動きなんですけれど、これをより文芸に寄せて見ていくと、ペイショットなどをはじめとする俳句のブラジル化、haicaiを作っていこうじゃないかという動きが見えてくる。その後発表された33年のシケイラ・ジュニオルの「HAIKAIS」、これが1番早めのhaicaiの本だと思います。さらに40年には、フォンセッカ・ジュニオルが日本に来て虚子と会っています。季語重視の詩としてのhaicaiという考え方は、この虚子との対面を通じてフォンセッカの中で高まっていった。季語を重視するという理解の仕方は、例えばこういう流れの中にあるわけです。そして、第二次世界大戦中、日本語の使用制限や日伯で国交断絶などががあってもhaicaistaたちは細々と活動を続けていました。

ちなみに最近の作品としてはコンクリート・ポエトリーというものもあります。haicaiというものはアーティストたちにすごく吸収される。なんだか興味あるみたいです。ナニコレ?というものと俳句のつながりは意外とある。

では次に、「日系移民の俳句」という、ブラジルの俳句のもう一つの路線について話します。ブラジルにはhaicaiだけじゃなくって移民の俳句もあるわけですよね。もちろん佐藤念腹はこっちのケースに入るわけです。私なりの理解ですけども、日系移民の俳句については念腹に重きを置きすぎると見えなくなってしまうものがすごくたくさんあるという気がしています。私見ですが、ブラジル日系移民の俳句は、初期移民の俳句、木村圭石系、佐藤念腹系、その他の4つに大きく分類できるだろうと思っています。まずは初期移民の俳句です。念腹がブラジルに来るのは1927年ですが、ブラジル移民というのはその20年近くも前から始まっていたわけです。念腹が来るよりも前にすでに俳句はあったのに、今はそこのところがあまり顧みられていないというか、なんか軽視されちゃってる感じがします。例えばこういう句があります。1924年ですので、これは念腹の渡伯より前ですね。その年の日伯新聞の俳句欄に掲載されたトランスヴァル俳句會の作品です。トランスヴァル俳句會の句会はブラジルで行なわれた句会としてはかなり早いものになります。その中に「徒々に犬と戯る春の猫」なんてのがあります。正直言ってナニコレというような感じです。あまりレベル高くないんじゃないのという気がします。ほかには「東風吹くや日毎にぬるむ水の脚」というものがあったり、一応題詠にはなっているんですけど、その題に「日永」と「猫」が並んでいたり、彼らの季語の理解は大丈夫だろうかと見ていて不安になります。 

1910~30年代のブラジルの日本語新聞・雑誌の文芸欄に着いては半沢紀子さんがまとめ等れています(「戦前期ブラジル・サンパウロ州ノロエステ地方と日本語新聞 ―香山六郎と聖州新報―」)。ここで気になるのは、念腹が「聖州新報」の選者になっている1933年です。先ほど中矢さんがすごく重要だと仰っていた年ですが、私もすごく重要だと思ってます。なぜかと言うとこの1933年に選者になって、念腹はたった2年後に、クビか自らかはわかりませんが、とにかく選者を辞めちゃっているんですよね。一体何が起きてたのか。「聖州新報」は香山六郎さんが作った日本語新聞です。香山さんは初期移民かつ知識人で自由渡航者です。ある程度自分のお金もあるし(※中矢注:渡航費用の援助などが不要だった)、何よりインテリ層です。念腹はこの香山さんと対立してしまうんですね。なぜかいうと、初期移民は自分たちの好きなように俳句を作っていたんです。「ホトトギス」で提唱されているような俳句を守るとかではなくて、もうちょっと自由な形で作っていた。一方の念腹は虚子の考えに基づいて厳密に行こうとしますから、そこで対立します。こうして35年で念腹は降りて、俳句欄もなくなるんですが、さらに2年後の37年には俳句欄が復活しているんですね。ただし「三水会便り」というものを掲載する形になっている。「聖州新報」と「三水会」という俳句グループとの関わりが出てきていることがわかります。この三水会で香山さんは素骨という名で活動しています。三水会についてはあとで触れますが、知識人の集まりのようなところがあって、念腹は三水会に誘われたんですけれども断ったりもしてます。そのような対立の中に念腹はあった。念腹はブラジル俳壇のヒーローではなくて、初期移民のインテリ層から見れば「新参者の超できるやつ」だった。それが私のイメージです。

次に木村圭石系について説明します。まず圭石とは何者か。彼は「ホトトギス」で念腹と一緒に仲良くやっていて、念腹の結婚の媒酌人まで務めた人です。歳は念腹より約30歳上です。1927年に、圭石は念腹との関係やブラジルに移る前後の念腹の位置がすごくよくわかる文章を書いてます。学生時代から私の大好きな本である「虚子消息」に載っています。「虚子消息」とは「ホトトギス」の消息欄だけを集めた本です。虚子は圭石から手紙を受け取ったとき、ここに載せている。「…唯先生から素十氏に御話ありたる御言葉に励まされ、先輩念腹氏も続て来航せられ、所謂俳句の国を彼地に建設すべき希望にのみ生きて、余生を送り度思ふのみです。…」とある。面白い点は二つあります。まず「畑打つて俳諧国を拓くべし」(虚子)に象徴されるような「俳句の国を彼地に建設すべき」という考えが、念腹と虚子の間だけではなく、圭石も含めたもう少し広いコミュニティにおいて共有されていたということ。もう一つは、歳は自分の方が30歳も上なのに、「先輩念腹氏」と言っているところです。てっきり念腹の方が年上かと思ったら全然そんなことはない。ここからもいかに念腹が「ホトトギス」の中で有力な人間と思われていたかがよくわかる。この圭石は渡伯後の1931年に「おかぼ」、37年頃に「南十字星」を創刊しています。「南十字星」は三水会系の雑誌です。三水会は市毛孝三というサンパウロの領事館のトップの人が主導して、圭石が選者となっていた。この三水会に念腹は入ってこない。先ほどあったように「ホトトギス」以外のメンバーが入ってくることに納得がいかない。ただ私の考えでは市毛孝三や木村圭石がアンチ「ホトトギス」だったのではなくて、明治時代の知識人にありがちな、さまざまな文学形式をどんどん取り入れて幅広く自分を表現していくのが当たり前、という考えのもと、三水会というグループを作ってみんなでやっていこうよという感覚だったんだと思います。ただ念腹はそこが気に入らなかった。そこに念腹という「新人」における、俳句に対するスタンスの新しさがちょっと見える気がします。ちなみに39年の『圭石句集』が私が知る限りでは移民の人が作った句集としては最初のものになります。でも圭石自身は38年で亡くなっちゃうんですね。

次に念腹系について。先ほど中矢さんのほうでだいぶ触れられたのでここでは念腹らしさがよくわかるものを軽くご紹介します。念腹は1937年に「ブラジルは世界の田舎むかご飯」を含む4句で「ホトトギス」巻頭をとるんですが、雑詠句評会で素十が「念腹君が巻頭を占めたとあつては一言挨拶せねばなるまい。どの句も立派な句であつて念腹君の俳諧を祝福した訳であるが、この句なども誠に面白い。…とに角私はかういふ念腹の旺んなる心意気を尊敬して衷心から君の健闘を祈る次第だ。」とあります。これは当時の念腹のいたコミュニティの雰囲気がよく分かる一文だと思います。念腹が 「ホトトギス」同人となったのが1930年で、その前に巻頭を取ったりとかしてるわけですね。その時代って昭和の初期で、4Sとか言われている人たちが同列で雑詠に並んで、有名な作品がどんどん生まれてる時期なんですよ。素十は念腹より5歳か6歳くらい上ですから、念腹にしてみれば教えを請うみたいなところがあるんですけど、素十からすれば一緒に雑詠欄をしている仲間なわけです。でそんな期待できる自分より若い「念腹君」がブラジルでがんばっていると。でそれを応援せねばなるまいという素十。素十はこれから念腹に様々なバックアップをしていくわけなんですけど、彼らの関係が非常によくわかる一文です。圭石からは「先輩」と呼ばれて素十から「念腹君」呼ばれてですね、「巻頭を占めたとあつては一言挨拶せねばなるまい。」というそういう同期のよしみみたいなフレーズが出てきちゃう。念腹がどんな人だったかよくわかります。

その他の日系移民の俳句としては「曲水」系があります。渡辺水巴の「曲水」にもともと投句していた、渡辺南仙子という人がいます。力行会を通じて1928年に渡伯し、49年に創刊した「青空」は、「木蔭」という念腹の作ったすごく大きな「ホトトギス」系のグループに対抗できるほぼ唯一の雑誌といわれていました。63年に創刊した「同素体」は2011年になくなりました。

あともう一点、スライドには入れられなかったのですが、日系社会には臣道連盟を中心とした勝ち組と負け組の対立がありまして、その中で様々な雑誌がつくられ、そこに載った俳句というのがあります。少しだけお見せします。私が20代前半に何をしていたかというと、こういう雑誌に載っていた俳句をひたすらエクセルに打ち込んでいたんです。臣道連盟は日本が負けたことを認めない1940年代半ばにあったグループで、テロリスト集団としても有名です。その機関誌の「輝号」だったり、その前は「光輝」といった雑誌でも俳句が作られていました。ここに載っていた俳句は、たとえば、「白南風や金魚の鉢の藻の緑り」、「昼静か金魚の鉢の一つあり」とか、およそテロリスト集団とは思えない普通の句が並んでいます。しかしこれは当たり前のことです。これは、日系移民のことを調べるとよくあるパターンなんですけども、調べてもたいして面白いことがでて来ないってことがよくあります。なぜかというと、いかにも「日本らしいこと」を好むのが日系移民だからです。ましてやめっちゃ右寄りの臣道連盟の俳句がなんかすごく自由律になっているとか、戦後の「海程」のように最新のテクニックを使ってるとか、そんなことはあり得ない。もっともっと保守的なものを好むわけです。初期移民がブラジルにやってきたとき、とりあえず不格好ながら俳句を作ってみたという感覚に近いものですね。そういった俳句に対する感覚が時代を経て敗戦後にはこういう形で出てきたわけです。

私の話はこの辺で終わりにします。まとめると、様々な俳句のありかたがブラジルにはあったと。大きくわけて言うとhaicaiと移民の俳句というのがあり、移民の俳句は初期移民に始まり、先に木村圭石が来て、その後にすごいエースとしてやってきた念腹が場を制圧していく。念腹としては圭石が亡くなったってこともちょっとラッキーだったんじゃないかなと思います。そういう流れの中で念腹は政治的には勝ち上がっていくわけです。そして念腹の周りに衛星誌が様々にできて、それに勝てるものってなかなかいなかったというのが実際のところかなと思います。そこには、俳句形式という「日本らしい」ものに思いをぶつけたいという移民達の気持ちもあったんだろうと思ったりもします。はい、私からは以上です。ありがとうございました。

中矢温◆はい、ありがとうございました。めちゃめちゃ面白かったです。なるほどなと思いました。私が今回資料を作る上で参考にさせていただいたのが、この今年出された『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』でした。著者は新潟にある結社「雪」の主宰の蒲原宏さんです。念腹とも句友でして、まあ蒲原さんの方が年下です。蒲原さんは1923年生まれで、ご職業はお医者さんです。 高浜虚子、中田みづほ、髙野素十、浜口今夜に師事していて、「ホトトギス」、「まはぎ」、「芹」に投句されていたそうです。で、私が何がいいたいかというと、この本は大変豊富な内容ですが、あくまでも念腹の味方として、念腹に寄り添った本であるということです。念腹の死後誰も本を出さないから僕が書くしかないと思って書いたというような温かく、同時に少し残念そうなお言葉が冒頭に書かれています。つまりこの本を読むだけでは念腹の外からの視点や評価は知り得なかったと思います。そういった意味でも外山さんの講演は大変ありがたかったです。どうもありがとうございました。

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート〔1〕中矢温によるイントロ

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート

〔1〕中矢温によるイントロ

ブラジル移民・佐藤念腹の視点から、「ホトトギス」の信念がいかにしてブラジル俳壇に普及し、また同時に反発を受けたかという歴史の理解を試みた。

前半は中矢と外山一機氏によるイントロダクションを行った。後半の読書会では、参加者それぞれの五句選を基に鑑賞を深めた。

佐藤念腹(さとう・ねんぷく)
本名・謙二郎。明治31(1898)年に新潟県生れ。大正2(1913)年より「ホトトギス」に投句開始。昭和2(1927)年ブラジルに渡る。昭和54(1979)年に永眠(80歳)。
読書会テキスト:
参考文献:
細川周平『遠きにありてつくるもの 日系ブラジル人の思い・ことば・芸能』(2008/みすず書房)
栗原章子『俳句&ハイカイ~自然探訪~ HAIKU&HAICAI Descobrindo a Natureza』(2014)
蒲原宏『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』(2020/大創パブリック)
2020年10月31日(土)13時~17時 俳人による佐藤念腹読書会をzoomにて開催。
参加者:
生駒大祐、岡田一実、小川楓子、樫本由貴、木塚夏水、ぐりえぶらん、黒岩徳将、西生ゆかり、外山一機、中矢温、三世川浩司、ゆう鈴(五十音順・敬称略)

中矢温◆初めに挨拶がてら、この読書会に至った経緯をお話します。私は現在学部3年生なのですが、そもそもブラジルという地域を専攻するというところも入学直前に決まりまして、何かビジョンがあったわけではありませんでした。そうなんですけれど1年生の2月に大学主催の1ヶ月の短期留学でリオデジャネイロを訪れました。リオデジャネイロはサンパウロより日本人移民の数は少ないのですが、ICBJ(日伯文化協会)という日本の文化センターとコンタクトを取ることができました。そこを訪れたときに、ブラジルと俳句のアウフヘーベンの先にブラジルでの俳句っていうのがあるのかなと意識しました。

あとはそこで出会ったペドロくんという友達が、去年の夏に日本を本当に縦断・横断するような長い旅を日本で一か月以上しました。そのときに東京で句会をしようとなって、外山一機さんに来ていただいたりだとか、あと私が東京にいないときにもう1回句会をした際に西生ゆかりさんが主催してくださったりとか、ペドロ君が松山に訪れた時には岡田一実さんが案内してくださったりとか。日本とブラジルの俳句というのをぼんやりとずっと考えていました。今年大学でゼミの方に入って12,000字ぐらいでゼミ論(プレ卒論)も書かなきゃいけない時に、なんかこう自分だけで考えて書くよりも、皆さんに読んでもらって一緒に考えていただけたら私も嬉しいし、ブラジルの俳句の紹介にもなるのかなというふうに考えて、今回企画したというところです。資料を探す中でサイニーで外山さんの文章(※児島豊 氏著:「勝ち組」雑誌にみるブラジル日系俳句--日本力行会資料調査から--)を見つけたりしてこれは外山さんにお話いただいたり、お誘いもしようというところなども思いついて、こんな形の読書会となりました。

はい、では早速ではありますが私の方からお話をさせていただこうと思います。画面共有します。私の作った年譜を見ながら、30分ぐらいに収めたいんですがお話の方をしたいと思います。

(※以下の大部分は蒲原宏氏著『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』(2020・大創パブリック)に拠る)

念腹は1898年に新潟県北蒲原郡笹岡村で生まれました。次男として生まれたんですが長男が早世しているためほぼ実質長男のような形で育ちました。で、突然さしはさみますが、1908年に神戸港より笠戸丸が出航して、日本人が初めてブラジルに移住した年になります。移住の経緯としてはそもそもブラジルに移民する前に例えばアメリカだったりとかカナダだったりハワイだったり移民の形があったんですけど1924年にいわゆる排日移民法っていうものが発令されてアメリカへの移民ができなくなったっていうところで次の場所としてブラジルが考えられました。なんで排日移民法が起きたのかっていうところはちょっとあの私も十分に調べきれてはいないんですが、だんだんと現地で日本人移住者が増えてくることによる、侵略ではないですけど黄禍という、黄色は肌の色のこと言ってるんだと思うんですけどそういうのもあったりして。それでも日本の中では例えば土地を相続しない農家の次男三男や、都市の失業者対策としての出稼ぎっていうものが考えられたりして。日本からの移民の需要はあって、でも行き先がないところで次はブラジルというところを国を挙げて注目するようになりました。

念腹は15歳の時(1913年)に尋常高等学校を卒業してそのまま家業を継ぎます。ここでは「稼業の傍ら」と書いてるんですが傍らどころじゃなく本当に俳句ばかりをしていると言うか、文学青年でありました。実家は海産物商だったようです。この頃から「ホトトギス」に投句し始めて俳号も自分で名付けたもののようです。21年に初入選します。

22年に中田みづほという、今でいう東大医学部で、東大俳句会の主要メンバーであったみづほが新潟の医科大学に赴任してきました。そのことを念腹は「ホトトギス」の名前のところに「新潟 みづほ」って書いてあるを見て知りました。そして封筒の宛名に「新潟市俳人醫學士 みづほ様」とだけ書いて、この時は郵便局員が頑張ったのかわかんないんですけど、無事みづほに手紙が届いて面会を果たし、師事することになります。みづほはこの時医学部の方の仕事が忙しかったのもあるし、東京から離れちゃったというところもあって俳句に対しての情熱もちょっと落ちていたんですが、念腹からの熱い手紙があったりして、24年に二人で虚子を招いて、虚子が来越、越後を訪れることになります。その際に句会に「眞萩会」と命名してもらいます。

ちょうどこの年の12月からみづほはドイツ留学に出かけてしまいます。で、26年にはキヨ、確か5歳年下ですね、と結婚して、この年にちょっとまた新しい登場人物なんですけど、「ホトトギス」の木村圭石が渡伯(※ブラジルに渡ること。)します。木村圭石も新潟の人なんですけど、歳は念腹より31歳年上で、「ホトトギス」に投句を始めたのは念腹より後という。歳としては念腹より年長の先輩なんですけど、俳句では念腹の方が先輩っていうお互い尊敬し合うような間柄だったということが書かれていました。

圭石の渡伯理由というのはちょっと本によって異なっていて、例えば歳をとってから日本に迷惑をかけることを心苦しく思って渡伯したともあるし、勤務先の新潟水力電気会社が合併のときに人員整理、リストラを行ったから困窮により渡伯したともあってそこは色々なんですけど。圭石はこのとき虚子に手紙を残していて、文化や風土の違いを心配していることを書いていたり、成功は望まないけど後生のために役立てたらなというようなことを書いたり、で出発します。どちらの理由が本当とかではなく、両方少しずつ真実なのかなとか。

翌年27年に念腹も渡伯を決意します。念腹の渡伯の裏には家業の失敗と言うか、 念腹の父も俳句が好きだったりまた商売下手だったりしたんですけどそれに加えて父親の要作が政治活動を始めて、選挙に出ては落ちてというところで、 選挙費用などもかさんで念腹は家を手伝うよりも、東京にしばしば上京して「ホトトギス」の出版所で雑用をしたりするの方が楽しいしというところで、ちょっと家の傾きっていうのがあったそうです。後は弟の彰吾というのがいるんですが彼がブラジル移民の講演会みたいな、「みんなも移民しよう。」というような成功者講演会のようなものに出席したことで触発されて「我が家も行こう。」ということを持ちかけたというのは結構大きな要因としてあるようです。念腹の渡伯はお父さんとお母さんと妻のキヨと後は妹と弟とを連れて、一人だけ弟は新潟に残して出発しました。

横浜港から出港だったのでその直前には東大俳句会の、多分今の東大俳句会とは違うんですけど、秋櫻子とか素十とかと一緒に句会をしてから渡伯したようです。年譜の渡伯が3から6月となっているのは、当時の船旅だとこれぐらい時間がかかったというところですね。 なんですけどさっき念腹一家に渡伯を持ちかけた彰吾が、ブラジル到着直後の列車事故で死んでしまうんですよね。彼はその働き手という意味もあったし、実の弟でもあったんですけど、農学校を卒業したてで、これからブラジルで農業するっていう意味ではとそういった農業の知識としても念腹たちにとって重要な人でした。そのまま一家は埋葬を済ませ、1年前に渡っていた圭石を頼って彼の近くのアリアンサというところに入植するんですが(※圭石は第1アリアンサ、念腹は第2アリアンサ)、「おかぼ会」を作っていてそこで句会をともにしました。「おかぼ」は陸稲のことですね。 念腹と圭石そろって、「ホトトギス」と新潟の「まはぎ」への投句を続けました。

で、念腹は28年の3月号に初めて巻頭を飾ります。この句は後半の選評会の方で年腹句集の方に掲載があるのでそこで紹介するんですが、ここでなんかちょっといいなと思った話があります。みづほがドイツ留学してる間に念腹は渡伯を決めて行くことになってしまったわけなんですけど、みづほが初めて巻頭をとったのもドイツ留学中で、なんかその時の手紙に「次は君の番だ、海外から肱を伸ばして、ぎゅっと巻頭を握る気持は何とも云へないよ」っていうのをもらっていたんですけど、それを自分もブラジルという地で初めて巻頭をとってという。みづほはドイツから、念腹はブラジルから初めてお互い巻頭をとった。念腹はみづほが言ってたこの「肘を伸ばして肱を伸ばして、ぎゅっと巻頭を握る」という感覚がすごく分かったっていうのを嬉しく手紙に書いています。30年に「ホトトギス」同人となって、31年に「おかぼ会」から離脱します。これは後の37年のところで話そうと思います。

で、突然年譜の33年のところに上塚瓢骨(※瓢骨は俳号で本名は周平)という名前があるんですが、彼について説明しようと思います。最初の日本人移民はブラジルで奴隷解放令があったことでコーヒーの摘み手がいなくなったというところを労働力を補充したいっていう話でヨーロッパからの移民もしていたんですけど、奴隷として扱われるっていうところからヨーロッパ諸国はそのブラジルへの移民っていうのすごく危惧し、禁止していました。そこで日本から試験的に移民が渡ったんですけど、その年はちょうどコーヒーも不作だし、船が着くのも遅れてほとんど摘めないから収入もあげられないし、ブラジルに行ったらこんなに稼げるという宣伝文句は嘘だったのかっていう移民による暴動もあったり、 現地で病気にかかったりっていうところで、ほとんどの移民がコーヒー農園から逃げ出してしまいました。それは1908年とかの話で、27年に渡伯した念腹はそういう契約移民ではなくて、わたる前に日本から土地を買ってから渡っていて、小作農ではなく自作農として渡伯していました。で、話を戻すと上塚瓢骨は最初の移民とともに移民会社のお世話役として渡伯した人で、「ブラジル移民の父」と呼ばれるようなブラジル移民の中で認知度もありました。そういう功労者なんですけど、上塚が念腹の弟子になるんですよね。上塚のコネクションというか紹介によって念腹は選者になるんですけど、私結構33年は大事な年だなあと思っています。なぜかっていうと、虚子に師事していた、誰かに師事していた弟子である自分じゃなくて、選者としての選ぶ自分であったり弟子がいる自分っていうような形で、念腹が先生になった年とも言えるんじゃないのかなと思っています。35年に農耕ではなく牧畜に転向したことで生活が安定したようです(後記注:『念腹句集』跋文によると、ここでの「牧畜」に豚は入らず牛のことだったよう。)。

で、年譜の中でも一番大事かなと思うのが37年なんですけど、先輩であり後輩でもある圭石とのここで対立というのがあるんですけど、圭石が「南十字星」という雑誌を作ろうとしたときは、ブラジル移民の中に「アララギ」からの歌人(※岩波菊治)がいたりして、短歌もするし「ホトトギス」だけじゃなくてもいいし、俳句や詩を書きたい人は皆ここに投句していいことにしようって言ったんですけど、 師系のない師匠のいない雑誌に違和感というか反発があって、てか反発があって創刊の時のメンバーだったんですけど、創刊前に抜けちゃうんですよね。そのまま圭石は翌年死去してしまうんですけど、なんというかブラジル俳壇って一枚岩ではなかったのかなっていう、お互いにブラジルに俳句を広めたいっていう気持ちはあったんですけど、その師匠がいるいない、何を是とするかというところでちょっとずれが生じてたんだなっていうのがここでわかるかなと思います。

41年からは戦争色っていうものが濃くなってきて、外国語新聞が発行できなかったり公共の場での日本語の使用が禁止されたりということで、俳句を広めるだとか句会をするっていうことがどんどん難しくなっていきます。ちょっと勝ち組負け組については後で外山さんからお話いただこうと思います。この日本語での新聞が許可されていなかったということもあって、ラジオで終戦を知ったんですけどその時に日本が負けたっていうのが上手く電波が入ってなかったのか、日本は勝ったというデマが流れます、で、勝利を信じている人を勝ち組、負けたと思ってる人が負け組っていうことで日本人移民の中に対立が生まれてしまいます。念腹は負け組に分類されたようなんですが、弟子の中には勝ち組の人もいて、その人はしばらく疎遠になったりもしていました。日本の勝ちを信じないっていうことで負け組は非国民扱いされる。でもだんだんと情報が入ってくると勝ち組の方が間違えているとわかってくる。勝ち組が負け組の人を殺した事件もありました。これは傾向としか言えないんですけど、負け組の人は情報を得られていた人で、 情勢を理解出来ていた人というか、割と教養のなる移民たちのまとめ役のような人、あるいは新聞記者だったいうような傾向はあったかと思います。あくまでも負け組は少数派です。私が念腹自身の書いた『念腹俳話』を手に入れられてないこともあるんですけど、念腹自身があんまり戦中のことを書いてなかったりもして、念腹にとっての勝ち組負け組がどうだったのかっていうのは想像でしか私は言えません。ですけど念腹にとっては戦後の民主化によりもう一度俳句の行脚ができるっていうことの方が大きかったのかなという風に想像しています。 

48年に俳誌「木蔭」を創刊して、題字は確か虚子が書いています。『ブラジル俳句集』を刊行したりして、この年に各地に40回の俳句指導の行脚をしたりしています。ちょっと地図をね作ったんですけど、(グーグルマップを見せながら)点の数が40ないのは、念腹がカタカナで訪問地を書き残しているのを見ても、私がそれをブラジルの地名の綴りに頭の中で変換できなくって…。わかった地名を点で打ったという感じです。かなり手広く行脚していたことは見えるかなと思います。で53年に今回皆さんに選句していただいた『念腹句集』っていうのが刊行されて、この年に星野立子も来伯していたり。戦後になってから今までは手紙や句のやりとりだったのが、人の移動っていうのもできてきたんだなあと思いました。

61年にはとうとう念腹が虚子三回忌に訪日することになります。訪日中に『念腹句集第二』も刊行されます。で、63年には髙野素十も来伯します。素十について全然話していなかったんですけど、みづほと東京時代から友人だったことから、念腹とも深い交流がありました。念腹にとっての師匠はみづほと素十と虚子という感じでした。

ちょっと私も資料を読んでいても意味がわからなかったんですけど、64年に念腹は日本の俳人協会創立創設に異議を唱えていました。何でこれを年譜に入れたかというと、私は現代俳句協会青年部の勉強会にお世話になることが多くて、ここら辺の歴史も知らなきゃなという自戒を込めて入れたところがあります。ちなみに私は特に結社とか入っていないので念腹からしたら師系のない人間にはなりますね…。

68年に俳句仲間・門下の寄附により念腹庵が改築されたりしていますね。73年は日本最後の移民船が出航されて、以降の移動は飛行機になります。そもそもここら辺で日本の高度経済成長期と重なっていて、送り出す要因の一つである働き口のなさそのものも減っています。なので1908年に始まって、戦時中に途絶えて戦後再開されるんですけどそれと同時に日本に高度経済成長期が訪れるので移民の数も減っていくというのがざっくりとしたグラフになるのかなと理解しています。

78年7月に念腹が発病して、『移民七十年俳句集』刊行されます。ここらへんは実はちょっと繋がりがあって、念腹が発病する、高齢を迎えるということは移民全体の、その移民1世の日本語ネイティブの人たちも同時に高齢化を迎えてくるっていう中で、ちょっとお金の話になるんですけど「木蔭」の運営っていうのもどんどんメンバーが減っていくというところで困難を迎えていくわけですね。 ブラジルは結構物価の変動が激しく、紙幣も何度も変わったりしています。この時にかなりインフレが起きていて、年会費もすごく高騰してしまって、そもそもメンバーは高齢とか持病とかで亡くなっていくなかで、ブラジルも物価が上がってしまって。内憂外患というか。念腹はブラジルに俳諧王国は築けたんですけど、それと同時に終わりも見えてきてしまっているというところかなと思いました。

「木蔭」は念腹の引退とともに休刊して、79年には末の弟、念腹と15歳が離れてるんですけど。牛童子が「朝蔭」として引き継ぎます。79年に念腹は死去します。84年に妻のキヨが『念腹俳話』を刊行します。これすごく読みたいんですけど、日本の古本屋で永遠にリクエストを出して待っているという状況です。2011年には牛童子も死去して、17年には牛童子の後妻の佐藤寿和が『朝蔭』を継承というところです。すごく駆け足で話したんですが大体こんなところで念腹の一生をざっくり話終えたかなと思います。

ここで外山さんにバトンタッチする予定だったんですけど、私がリオに短期留学した時に、ICBJでポルトガル語の動画を見せてもらって、この動画どう?って言われたんですけどさっぱりわからなかった動画があって。それを今ならちょっとわかったりして、文字起こしも出来たりしたので皆さんと見ようと思います。虚子の弟子である念腹の弟子である増田恒河という人のドキュメンタリー動画です。 ブラジルの俳諧についても話しています。せっかくなのでそれを見ようと思います。恒河の孫のフランシスコ・マスダのユーチューブチャンネルに載っていました。同時通訳めいたものをします。

≫Masuda Goga - Um discípulo de Bashô
https://youtu.be/qdj_mIEm09k

[A nossa vida, inclusive todos esses acontecimentos naturais, nunca fica no mesmo lugar, ao mesmo tempo, sempre tá mudando. Essa mudança é o espírito do haicai.]
私たちの生活・人生は、自然に起きる全てのことを含め、同じ場所に留まることは決してなく、同時に常に変化しているのです。この変化が俳諧の魂です。

中矢温◆恒河の書いている短冊に「動くとも動か」くらいまでは読めますね。続きが気になるところです。画面に「増田恒河 芭蕉の弟子」と表示されました。haicaistaたちが句会をしていますね。

[Hoje escolhi oito haicais, todos bons. Número 17: 
Vento na folhagem
responde ao cantar do inseto
um galo estridente]
今日は8句選びました。全てよかったです。17番
葉に風や虫に答へて鳴ける鶏(※おそらく恒河の句。中矢が無理やり五七五にした)

[Esta cena é muito interessante e haicaístico.
この場面はとても興味深く、俳諧的ですね。
Porque um cantar do inseto esse delgado muito quietinho, mas contra este o galo gritou estridentemente.]
何故なら虫の歌がか細く、とても静かなのに対して、雄鶏はけたたましく鳴いている訳ですから。

[À noite...sozinho...
me deixam mais pensativo
os cantos de insetos]
夜…孤独…
私はさらに考えるのを止める
虫たちの歌
→夜の孤独思考を止めて虫の声

[Haiku é o poema mais curto do mundo com 17 sílabas que canta a natureza. Por isso, pra mim, o haiku é universal.]
俳句は17音と世界で1番短い詩で、自然を詠うものです。なので私にとっては俳句は世界的なものです。

[Número 8:
O outono chegou
mais distantes e azuladas
as mesmas montanhas]
8番
秋が来た
さらに遠く青い
同じ山々
→秋の来てより遠く青き同じ山
(後日注:少なくともこの句は後に登場するパウロ・フランケッチ氏の句のようです。恒河訳は、「秋来る山なほ遠く青く見え」でした。)

中矢温◆改行のタイミングでポーズをおいて詠んでいるのが興味深いですね。

[Este autor está observando bem todo dia as montanhas em ao redor da sua vida. E qualquer um não descobre esse fenômeno.]
この作者は生活の周りにある山々を毎日よく観察しています。どんな作者(俳人)でもこんな現象を発見はしないでしょう。

[Flores silvestres
pequeninas e sem brilho
à espera de abelhas...]
野生の花
小さくて輝きがない
蜜蜂を待っている
→野の花小さし輝きもなく蜂を待つ

[Observa bem a transitoriedade de natureza. Só, nada mais que isso aí. Quem não sente nada, não há haicai.]
自然の儚いものをよく見ること。それ以上のことはなく、それだけです。全くなにも感じない人に、俳諧はありません。

[Libélula voando
pára um instante e lança
sua sombra no chão]
飛んでいる蜻蛉
一瞬で向かう
地面の自分の陰に向かって
→一瞬に蜻蛉の己が影に飛ぶ

[Eu nasci no dia 8 de agosto de 1911, meu lugar do nascimento é o Zentsuji na província de Kagawa. 
私は1911年の8月8日に生れました。私は1911年の8月8日に生れました。出生地は香川県の善通寺というところです。
quando era criança, idade de 12 anos Eu já tinha o sonho de para vir para o Brasil, 
12歳の子どもの頃私は既にブラジルに行くという夢がありました。
agora esse sonho foi completada quando eu tinha a idade de 18 anos. 
今ではその夢は叶えられました、私が18歳のときです。
Assim para mim o Brasil não é um o país estranho, desde criança eu estudava bastante sobre o Brasil.]
なので私にとってブラジルは外国ではありません。子どものときからブラジルについて十分に勉強してきたのです。

[A serra lá longe
dá ares de minha pátria:
névoa transparente]
はるか遠くの山は
私の祖国のように見える
透明な霧
→遠き山祖国のごとし霧透けて

中矢温◆「:」を使うのは日本語の俳句と違って面白いですね。これが切れを示しているのではと睨んでいます。

[O Porto de Santos era um lugar bem sossegado, eu gostei muito. Tranqulidade e hospitalide. Os funcionários da alfândega também eram muito bonzinhos pra mim.]
(入植した)サントス港はとても静かな場所だった。私は大変気に入った。落ち着いていて、親切だった。税関の職員たちも私にとってはとてもよい人たちだった。

[As nuvens douradas
Flutuam no pantanal
- florada de ipê]
続く雲が
大きな沼地に浮かぶ
イッペイの花

[Eu comecei a escrever haiku em japonês em 1929. 
私は1929年に日本語で俳句を書き始めました。
Na viagem para o Brasil tem alguns registrados no meu diário. 
ブラジルへの旅の中でいくつか日記に記録する。
Em 1935 encontrei com o mestre Nempuku Sato. 
1935年に佐藤念腹先生にお会いしました。
Eu comecei a escrever o haiku tradicional. 
伝統的な俳句を書き始めました。
Jorge Fonseca Júnior já fazia haicai em português, importado pelo Afrânio Peixoto.]
ジョルジェ・フォンセッカ・ジュニオルはポルトガル語での俳諧を始めました、アフラニオ・ペイショットにより持ち込まれたものです。

中矢温◆次に話すのはカンピナス大学の文学評論科のPaulo Franchetti (パウロ・フランケッチ)教授です。

[É preciso ver que o haicai entrou no Brasil de duas formas diferentes. 
俳諧が異なる2つの形でブラジルに入ったことを見るのが必要です。
Uma forma foi a forma de importação de um objeto exótico no fim do século passado e começo desse. 
一つの形は前世紀の末(19世紀末)に外のことの輸入の形で、始まりました。
Em toda a Europa aumentou muito o interesse pela "Japonaiserie", pelas coisas ligadas ao Japão,
ヨーロッパ中で「ジャポネズリ」、日本に関するものへの強い関心が高まっていた。
e pela "Chinoiserie", as coisas ligadas à China, também. 
中国に関するものへの強い関心「シノワズリ」
E o haicai veio assim para a França e da França para o Brasil como uma forma importada de uma poesia minúscula, delicada, uma coisa exótica.
そして俳諧がフランスに来ました。フランスからブラジルへ小さな(些細な)、丁寧な(繊細な・洗練された)、外国の詩が輸入されました。
Mas no Brasil há uma coisa que é um pouco diferente.
しかしブラジルでは少し違うものがあります。
É que nós tivemos também na mesma época uma a enorme imigração de japoneses e esses japoneses trouxeram para cá uma prática cultural que incluía a produção de poesia entre elas o renga, o tanka que é um poema amoroso, e o haicai.
私たちは同様に同じ時代に膨大な数の日本人移民を得ました。そして彼ら日本人は文化的習慣、連歌や愛の詩である短歌、そして俳諧を持ち込みました。

Mas esses dois lados da produção do haicai no Brasil, o lado digamos assim ocidentalizado, exótico e o lado oriental e digamos assim, mais próprio mais legítimo da cultura ficaram separados.]
しかしブラジルの俳諧のこれら二つの側面、西洋とエキゾチックな東洋的と言ってみましょう、これら文化のより適切で正当な二つの側面が分離されてしまった。

[Em 1936 quando eu conheci o Jorge Fonseca Júnior, já aqui no Brasil tinha o haicai, já bem divulgado, mas diferença grande é o sem o kigo. O kigo é o termo da estação do ano, esse é o espírito do haicai.]
1936年に私がジョルジェ・フォンセッカ・ジュニオルに会ったとき。既にブラジルに俳諧はあり、既に普及された。しかし大きな違いは季語のないことだ。季語は1年の季語のテーマで、俳諧の魂です。

(中略)

[O nosso haikai
tem sabor maravilhoso
qual caqui bem doce!]
私たちの俳諧
素晴らしい味がする
どの柿もとても甘い!
中矢温◆柿も日本から持ち込まれたもので、caquiは発音もそのままカキです。

[Primeiro: amar a natureza. Segundo: observar bem a natureza. Terceiro: não colocar o sentimento barato de cada pessoa. Agora, quarto: escrever o haiku com as palavras fáceis e simples. O haicai é o poema não artificial, por isso depende da sensibilidade do haicaísta. Nasce o haicai, não fazer o haicai, nasce o haicai.]
最初は自然を愛する。次に自然をよく観察する。3つ目に一人一人の安っぽい感受性に重きを置かないこと。4つ目にシンプルで簡単な語彙で俳句を書くこと。俳諧は人工的な詩ではなく、俳人の感覚による。俳諧は生まれる、俳諧を作るのではなく、俳諧は生まれる。

中矢温◆日本で売られている句作の入門書と通ずるものありますよね。

(中略)

[Em cima do túmulo, 
cai uma folha após outra.
Lágrimas também...]
墓の下
他の葉の後に葉が落ちる(葉が続いて落ちる)
涙も同様に

中矢温◆登場した中で1番美しいなと個人的に思った句です。

[Eu gosto do haicai. Namoro o haicai. Fazendo todo momento fazendo o haicai. Bons, maus, isso não tem importância. Minha vida é o haicaística. Como mostrei, eu sempre tá carregando um papel com lápis. Todo momento quando é o tenho transitoriedade, fixa aqui agora um verso com kigo.]
私は俳諧が好きです。俳諧を愛しています。全ての瞬間、俳諧を作っています。よい、悪い、それは重要なことではありません。私の人生は俳諧的でした。さっき見てもらったように、私は常に紙に鉛筆を走り取ります。一過性の全ての瞬間は季語と共に韻を見つめます。

(中略)

[A natureza muda sempre, igualmente, a minha vida também muda a todo o momento. Então como o haicaísta fixa aqui e agora, estou vivendo aqui e agora.]
自然はいつも平等に変わり、私の人生も全ての瞬間変化しています。そして俳人が今ここに見つめるように、私は今ここに生きています。

[O ano fenecendo...
preocupação nenhuma: 
só penso em haiku !]
年の暮
何の懸念もない
ただ俳句のことを考えている

中矢温◆「…」、「:」、「!」とか使うのは日本の俳句との表記の違いとしても楽しいですね。

[Amigos me tratam de mestre, mas eu não tenho capacidade para ser o mestre. Apenasmente sou discípulo fiel de Bashô.]
友人たちは先生として私を気にかけてくれたが、私は師匠でいるだけの能力はありませんでした。私は芭蕉の忠実な弟子でしかありません。
[Muito obrigado]
ありがとうございました。

中矢温◆念腹ののちは日本人移民自体も減っているし、移民2世にとってきっと日本語っていうのは俳句としてやるものではなくなってしまっていたんですけど、このようにポルトガル語での俳句とつながり、haicaiとなることによって系譜として今にいたるのかなっていうのが私のざっくりとした理解でした。長くなってすみません…!


佐藤念腹

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート 〔3〕佐藤念腹100句

ブラジル移民佐藤念腹読書会レポート


〔3〕佐藤念腹100句


中矢温◆それでは100句抄に移ろうと思います。句集全体は移民文庫に電子化されています。1953年に暮しの手帳社から出ていて、どれも虚子の再選を受けた選りすぐりの俳句たちです。渡伯してからの俳句なので、最初の方の前書きありの俳句は行きの船で詠まれたものですが、それ以降の舞台はブラジルと考えていただいてよいかなと思います。皆さんに選をしていただいた句一覧と違う点といたしましては、それぞれの句の前に詠まれた年号を振りました。


1927年(念腹渡伯)

01 強東風のわが乗る船を見て来たり 小川楓子選

中矢温◆早速1句目お取りの楓子さん、いかがですか。

小川楓子◆「強東風のわが乗る船を見て来たり」はこれからブラジルに向かう意気込みみたいものがぱっと分かりやすく詠まれていていいなと。全体として移民とわかる句はあまりなかったように思いますが、その中でもこれから出港するぞという気持ちがみえていて、いいなと思いました。

中矢温◆ありがとうございました。たしか百句抄出をする上で、最初と最後の2句は削らずに載せたので、この句からこの句集は確かスタートしています。

小川楓子◆これから強東風が逆風となっても頑張っていくよという意気込みみたいなものを感じました。

中矢温◆なるほど、ありがとうございます。ちょっと話変わっちゃうんですけど、3月出発で6月到着の移民船は、移民俳句の中ではほぼ季語のように使われています。多分コーヒーの収穫期に合わせて移民してたっていう初期移民の名残があって、どの時代になっても3月出発だったのかしらと推測します。

(註:念腹は渡伯時に虚子から以下の3句を餞別として贈られていました。東風の船着きしところに国造り/鍬取って国常立の尊か/畑打って俳諧国を拓くべし この中では特に3句目が有名だが、この句は1句目への返句なのかもしれませんね。)

02 シンガポール
日曜や扉に凭れ昼寝人

03 印度洋
むらさきの流星垂れて消えにけり 木塚夏水選

中矢温◆次はその道中のインド洋での俳句です。こちら木塚さん、いかがでしたか。あ、自己紹介をお願いするのを忘れていました。併せてお願いします。

木塚夏水◆木塚夏水と申します。現在は特に結社などには所属せず活動しています。句会は中矢さんが幹事をしていらっしゃる東大俳句会の方にお邪魔させていただいています。句歴は2年弱で、皆さんと比べるとまだまだ初学者ですが、本日はどうぞよろしくお願いいたします。この句は「むらさき」という言葉が効いているなと思いました。俳句の入門書で「むらさき」は句に使いづらい色とされていたのをふっと思い出しましたが上手い使い方だと思います。船上の星々の輝きと波の音があるだけの静寂が想起されます。実際の流れ星の色はむらさきではないんでしょうけれど、あえてこの色を持ってくることで美しいだけでなく、無事船が到着するんだろうかといった作者の不安も見えてくるようでした。

中矢温◆ありがとうございます。私や外山さんが前半いっぱい念腹や移民俳句について話しましたけど、念腹の句はあまり背景を踏まえなくても良くも悪くも読めちゃうなと思いました。あまりブラジルらしさを自分の句の強みとして詠んでいないなと。この句も船乗りや船の旅行の句として詠めますもんね。

04 土くれに蝋燭立てぬ草の露 小川楓子選

小川楓子◆ただ「地面に」とかではなくて、 「土くれに」とあるのが効いていると思いました。「土くれに」と言われると、ちょっと手触りのある感じがして、そこに白い蝋燭が立ててある。ブラジルだっていう意識があるのかもしれないけど、なんとなく乾いた土のような感じがする。そんなに湿っていない気がするけれど、それを「立てぬ」と切ってそこに「草の露」を持ってくる。乾いた土に露が湿るのか、もう濡れていた土くれなのかはわからないけれど。私の中では乾いたところにしみこんでいくようなのが見える気がしてよいなと思いました。

中矢温◆この句は弟の彰吾が到着直後の列車事故で亡くなったときに詠んだ句だそうです。それを言われると「露」が和歌でいう「涙」のようにも読める気がしました。

小川楓子◆最初読んだとき蝋燭を置いてきたという印象を受けたので、何か意図があるのかなと思っていたんですが、そうだったんですね…。

中矢温◆「弟彰吾死す」とか前書はないんですけど、そのようです。

05 八方に流るる星や天の川

〔参考〕1928年3月号
雷や四方の樹海の子雷 伯國 佐藤念腹
八方に流るゝ星や天の川 同
井鏡やかんばせゆがむ晝寝起 同
食卓をとりわけ父母の日燒たる 同
八方に假の戸口や夕立中 同

06 井鏡やかんばせゆがむ昼寝起 三世川浩司選

中矢温◆では六句目にまいります。ちょっと調べても読み方がわからなかったのですが、「井鏡」は「いかがみ」かしら。三世川さんこの句いかがでしょうか。

三世川浩司◆三世川と申します。現在「海原」に所属しております。この句ですが、井戸水に映った映像と同時に、昼寝から目覚めた時の生理感の写生でもあるのが面白くて頂きました。

中矢温◆私も井戸に映った水面を鏡と呼んでいるのかなと思いました。隣の句も1928年の巻頭五句の一つなんですが、「流るゝ」が「流るる」になっていたりと表記は揺れがありますね。

07 雷や四方の樹海の子雷 木塚夏水・ぐりえぶらん・黒岩徳将・西生ゆかり選

中矢温◆では7番の大人気句に移ります。ゆかりさんお願いします。

西生ゆかり◆西生ゆかりです。よろしくお願いします。この句は旅をしているとか、ブラジルとかを差し引いて単体で読んでよい句だなと。「雷や」と切ってからもう一回「子雷」と畳みかけるような句のつくりは寡聞にして知らないので。でも奇をてらっているとかではなくて、景のイメージもありありと見えてきていい句だなと思いました。以上です。

ぐりえぶらん◆はい、とてもスケールの大きな句だなと思いました。「雷」って言うと雷を集中して見ちゃいますけれど、これだけ広い視野の中にいっぱい雷が落ちている様子って向こうらしいと言えば向こうらしいし凄いなあと思いました。以上です。

黒岩徳将◆黒岩です、よろしくお願いします。「雷」が鳴ってから、「子雷」もなるという連続的な動きの強さとかざわめきとかちょっと不安になる感じとかが出ていて。「子雷」という言葉は初めて聞いたと言うか、オリジナルの言葉なのかもしれないなと思って独創的かつ雄大だなと思いました。以上です。

木塚夏水◆「子雷」という独自の表現と、「子雷」が樹海に広がっていくスケールの大きいブラジルらしい景がよいと思いました。

中矢温◆皆さんありがとうございます。少し蒲原さんの本を読みますね。
「ホトトギス」四月の雑詠句評会(第二十九回)に念腹の巻頭句「雷や四方の樹海の子雷」が取り上げられた。評者は虚子・素十・秋櫻子の三人。
 各人の評価は次のようであった。
秋櫻子「念腹君が近来しきりにつくりつゝある南米開拓事に関する句の中でも特にこの句は優れてゐると思ふ。大森林の中の僅かな土地が墾かれたのみで四方は悉く樹海と稱してもよい程の木立である。南米のことだから気像は今が夏にあるらしい。大きな雷が一つ鳴りはためくとその谺が四方の樹海にこもって多くの雷がいつまでも喚いてゐる様な気がするといふ句である。雷の谺を子雷と云って小雷と云はなかった処など非常に面白い。一句を全体としても誠に雄渾な叙法で頭から強い力で押しつけられるやうな気がする。他の四句の内「父母」の句や、「夕立中」の句などは多少生活に対する同情によって牽き付けられる処もあるが、此句に到っては眞向から文句なく芸の力で押される。」
素十「秋櫻子君の説で十分だと思ひますが、一言付け加へて置きます。大きな雷が凄まじい勢で鳴った。それにつゞいてしばらくの間四方でごろゝと鳴り渡ってゐる有様が南米の大きな天地を背景としてよく描き出されてゐる。南米の天地はかくもあらうかと思はれるほど雄大によく景色が出てゐる。その他のどの句も日本のこせゝした景色とは全然違った大きな所が見える。かういふ句を見せられると私達も南米へ行ってかゝる自然に接したいといふやうな気が頻りに起る。」
秋櫻子「いよゝ行くか。」
素十「行かんともかぎらんね。」
虚子「秋櫻子君の言の如く、子雷とはよく言った。実際の景色は大きな雷がなって、それが四方の樹海に反響するのであるか、または大きな雷が頭上に鳴って、それから小さい雷が四方の樹海でごろゝと鳴るのであるか、どちらであるかはわからないが、然しいづれにしても子雷といふ言葉を捻出したのは念腹君の作句の技倆が著しく進歩したことを證明する。」
皆さんの読みは素十寄りでしたが、秋櫻子の読みもありそうですね。あと「南米のことだから気像は今が夏にあるらしい。(秋櫻子)」とあるように、「ホトトギス」3月号に夏の句が載っていて、しかもそれは船便で送るので2-3ヶ月ぐらい遅れているというのが面白い。雑詠欄には「伯國 佐藤 念腹」と載っているようですね。巻頭五句の中で「四方」が1句、「八方」が2句あるので好きなワードだったのかもしれないですね。

1928~29年

08 渡り鳥わが一生の野良仕事 ゆう鈴選

中矢温◆欠席評のゆう鈴さんがお選びです。評を代読します。「空の渡り鳥を見上げて、空を飛んで行ける自由に想いをはせ、「わが一生」は「野良仕事」で終わるのか…と想う。その一方で自分自身で何か夢も持ちたい、持たねば、と思っていると感じて選びました。」との選評をいただきました。この句に限らず、お取りでない方もどうぞコメントお願いします。

外山一機◆では一言だけいいですか。さりげない句ですけど、「野良仕事」から自分の忸怩たる思いがちょっと感じられますよね。弟さんが亡くなって、自分も働かなきゃいけなくなってしまうという予想外のことがあったんだけども、それを引き受けようとしているというところ。「渡り鳥」というところで自分が移民であって、永住への意識がこの句からはどこまであったのかなというところを感じます。

中矢温◆ありがとうございます。地面に留まる自分と、空をゆく渡り鳥の対比があるように思いました。そうだ、どんな風に百句抄出をしたかお伝えそびれていたのですが、とりあえず虚子が序で引用しているものは全部入れました。あと念腹の生涯を調べる前に私が好きな句を入れて、残りは調べてから入れてという風にバランスをとったつもりです…笑。では九句目まいります。

1930年

09 湯浴みして今日の日焼の加はりぬ 西生ゆかり選

西生ゆかり◆すごく実感のこもっている句だと思いました。この句もさっきの「雷や」の句とちょっとだけ似ていると思うのは、「加はりぬ」として、例えば「雷」を提示して「子雷」を畳みかけるところが構造的に似ていると思いました。もともと「日焼」をしていることを提示して「今日の日焼」がそこに加わるという少ししつこい感じの把握が面白いなと思いました。

中矢温◆ありがとうございました。「今日」とあると、昨日や明日の日焼のことも思いますよね。このころはいろんなことをやって失敗しながらの毎日を暮らしてた年代ですね。農業のこと詠んでいるか、牛のこと詠んでいるかで念腹の生活の安定度合も少しは測れるかもしれませんね。あんまりそういうの匂わせる人ではないんですけど。

1931年

10 霜害や起伏かなしき珈琲園 ゆう鈴選

中矢温◆では、ゆう鈴さんの選評に参ります。「自分が育てている珈琲の木が霜害にあうが、自然を相手ではどうすることもできない。「起伏かなしき」に害を受けた珈琲園の様子と念腹自身のやりきれないこみ上げる悲しみが表れていると思います。園を目の前に肩を震わせて泣いている様子が浮かびます。」との評をいただきました。私いまいちこの「起伏」が読めていなくて、「珈琲園」そのものの起伏なのか、「霜」の起伏なのか…。お取りではないですが、生駒さんいかがですか。

生駒大祐◆はい、この句に関しては「起伏悲しき」はその「霜」の起伏というよりは「珈琲園」自体に起伏があって、その起伏を見ていると「霜害」であることが悲しいという感じだと受け取りました。冒頭に言いかけたんですけど、念腹の句を読んだときにその三つぐらい面白がり方があるなと思っていて、一つは句自体の客観的テキストを見たときの面白さと、二つ目にその生涯性を反映させて加味した上での面白さと、三つ目に異国情緒の物珍しさにとどまっているもの。この句は最後の三つ目に当たってるような気がしちゃって、例えばこれ日本の茶畑だとしたらあんまり面白くないなーとか思ったりするので、そういう意味では僕の中で面白がりのステージがちょっと低かったので取らなかったという感じです。

中矢温◆ありがとうございます。なるほど、句自体と人生を反映させたものと異国情緒があるわけですね。私がさっき「土くれ」の句でしたコメントとかは2つ目の人生を反映させると、下五の「草の露」の重みが変わってくるんですね。

1932年
11 瓜盗人野獣ならめとうそぶきぬ

中矢温◆これは特に誰もお取りではなかったですが、瓜を盗んだ奴が知らんぷりして野獣だと嘯いているぜ、という句ですね。他の人が句に出てくるのは念腹の句では少し珍しいかもしれない。

12 野良煙草してひまな手の虻を打つ

1933年
13 雨期あけや地面の黴びの大模様

14 森暑し花仙人掌に雨降れど 

15 又丘の現れて月低くなる 岡田一実選

岡田一実◆はい、「又丘の現れて月低くなる」ということで、生駒さんが先ほどおっしゃった面白がり方3ポイントは私もかなり賛成しています。向こうの雰囲気がよくわかる点で生涯性と異国情緒に惹かれる点はありましたが、個人的には句の面白さで今回選出しました。念腹の句はあまり意味のわからないような句はなくて、順番に読んでいけば意味が順番に通じてくる句が多いんですけど、この句の場合は詩的な逆転があるように思います。月が見えて丘が現れたというのが常識的ですが、丘が現れてから月が低くなるという逆転の発想が不思議だと思いました。「また」ということは再度ですよね。そして月が低くなるという。不思議な展開だなと思ってそこに詩心を感じました。

中矢温◆ありがとうございます。列車とかでいいんですけど移動しているときに、低い丘だと月は低く見えるけれど、高い丘があると相対的に月が低く見えるということかなあと個人的には想像しておりました。先ほど岡田さんが言ってくださったように、何か選句ポイントがある方は教えていただけると、私も楽しいのでよろしくお願いします。

16 豚の群追ひ立て移民列車着く 外山一機選

外山一機◆向こうの雰囲気がよくわかるなというところが一つあります。「移民列車」ってあんまり聞かない言葉ですけれど、あちらは基本的には鉄道で移動する。先ほど中矢さんの方で念腹行脚地の地図がありましたけれど、あれも鉄道の路線沿いに普及していくような動きをしていくわけです。そしてその路線それぞれに日本人のコミュニティがあって、そこでいろいろ活動をしている。その「移民列車」が着きました、そしてそこに「豚の群」がいるって本当にいろんな意味で開拓がまだな部分というのがあるんですよね。また1933年、昭和でいうと8年の「ホトトギス」を念腹が読んでいたということを同時代的に考えたとき、山口誓子の句も読んでいたわけです。誓子にはなれないが自分は何になれるだろうということはもしかして考えたんではないんだろうかというような想像もしました。「移民列車」という機械的で少し古びたものとその動きに注目していくというような眼差しもあり方っていうのは、誓子と全然違う句のように見えますけど確かに同時代の書き手らしいなと思います。(註:夏草に汽罐車の車輪来て止る/山口誓子・初出昭和8年「かつらぎ」誌)

中矢温◆ありがとうございます。移民船で来てからでどうやってコロニア(コロニー・植民地)まで移動するかというと、列車で移動していたんですね。なのでその新しい移民の移動の道中の句かもしれないし、外山さんが言ってくださった普段の移動かもしれません。

17 汽車へ来て菓子購へる枯野かな
 
1934年

18 木蔭より人躍り出ぬ野路夕立

19 投槍に飛びつく犬や蜥蜴狩

20 蜥蜴狩びつこの犬も勢子のうち

中矢温◆事前の質問で、「蜥蜴を狩る目的は害獣から畑を守るためなのか後で食べるためなのかが気になりました。」といただいていました。蜥蜴は害獣ではなくて、むしろ畑の虫とかを食べてくれる存在だそうで、おそらく犬が蜥蜴を追うのが好きで捕まえて遊んでいるのを詠んだのかなと思いました。私の伝え方も悪かったのですが、「蜥蜴食べる?」と聞いたら「まさか!」と言われました…笑。

21 秋蚕飼うて俳書久しく借りにけり 樫本由貴・三世川浩司選

樫本由貴◆よろしくお願いします。私はむしろ全部異国情緒があるような、ブラジルでのことを強調して書いていたり、そう読み取れるような句をあえて取りました。なぜかと言うとその俳句としての良さみたいなのももちろん大事なんですけれど、移民の文学としてみたときに俳句形式では一体何が記録されているのかなというのが私自身の研究の関心事でもあったからです。俳句としてはイマイチだけれども、この言葉が使われていたりこの情景が書かれていたりするということはどういうことなのかが気になるような句を取りました。なのでそういうのを選ぶと詠んでいる人のオリエンタリズムであったり、念腹自身のオリエンタリズムであったり、私たちが読むときに出ているオリエンタリズムであったり作用の作用のようなものが見えると思います。で、21番についてですが最初に取った時は日本人コミュニティの中で「俳書」の貸し借りできる場所、例えば定例句会があってというのを思いました。季語の「秋蚕飼うて」の労働は、開拓とはまた別のもう一つ持っている仕事ですよね。その農業の休耕期にも働かなければならない、暇がない感じかと思いました。でも「俳誌」を借りるってもしかして日本から借りてきたり、送ってもらったりしたものを返すのが久しぶりになっているとも読めるなと思いました。どういう風に本がブラジルでや日本で流通していたのか、本だったり「ホトトギス」をどうやって手に入れていたか、回し読みだったかもしれないですよね。そこらへんが気になって話したいなと思ってとりました。以上です。

三世川浩司◆生活に忙しくて、本を返しそびれているのですね。でも生活の感慨にふけっていながら、どこか余裕のある心情みたいなものが感じられて、それで頂きました。

中矢温◆ありがとございます。圭石と念腹が住んでいたアリアンサ植民地はかなり特殊で悪口とも羨望とも取れるんですけれど、「銀ブラ移民」 と言われていたそうです。銀座でブラジルのコーヒーを飲む、でしたっけ。ピアノを持ち込んだ人がいたり、多数の蔵書を持ち込んだ人がいたりとか、日本人の中でも資産や教養があっていう人が住む傾向にあったようです。なのでコミュニティ内での貸し借りも十分ありえるなと。彫刻や絵画や演劇の指導があったり。アリアンサ内にある弓場農場という自給自足の日本人だけのコミュニティもあるそうです。「秋蚕」についてですが、養蚕をしようと思って持っていったら、税関でかなりお金を取られたという話をどこかで読みましたね。なので、蚕も俳書も日本から持ち込んだとも十分読めそうです。

22 顔のせて芭蕉葉食めり親子山羊 岡田一実選

岡田一実◆先ほど外山さんが誓子を読んでどうだったのかという話がありましたが、私もこの当時の「ホトトギス」にあっての念腹というのがすごく気になっています。この時代は大正13年ぐらいから高浜虚子が「客観写生」を言い始めた頃で、俳句を勤めた人は「写生」をどういう風に受け取っていたんだろうというのは読んでいて興味があるところでした。どのあたりで写生として極めたのかなと思うと、この「顔のせて」という特殊化、特定化、具体化みたいなところに、この異国情緒や記録とは違う技を感じました。具体性を帯びさせて俳句を作るという気配がかなりあります。「親子山羊」に若干の異国情緒もあるかもしれないですけれど、当時の素十もそうですが「顔のせて」が写生を目指した人たちの句だなと思っていただきました。

中矢温◆ありがとうございます。そこらへんの文脈をわたしがまったく押さえていないので、コメントいただけると大変助かります。あちらで芭蕉葉というかバナナはよくあるのでそれを食べているんだなあと私は思っていただけでした…。

23 日雇いの乗り来る馬も肥えにけり

24 雨来とて犬すり寄れど棉を摘む

25 処女林の紅葉の下に耕せる

26 豚の親春霜の藁くはへ居り 生駒大祐・小川楓子選

生駒大祐◆先ほど言った分類の中では、普通に句として面白かったですね。「親」が若干ノイズというか、「子」を出す中で「親」を出すんだったらわかるんですけれど、この句の中で豚の子は登場しないので、ノイジーに働くとはいえちょっと大きめのまるまるとした豚が想像されました。「春霜の藁」もうまいというか、春の寒さを描出するのに藁を持ってくるのもどこかブラジルらしさもあり、「くはへ居り」という収め方も全うで上手いなと思いました。後はウの段の頭韻も響きが綺麗だなというところで頂きました。

小川楓子◆そうですね、「豚の親」ってやっぱり面白い言い方だなと思いました。「親豚の」にはしないんだとか思って笑。「豚の親」とくると、その豚の顔がよく見えてくるような効果があるのかなと思いました。親と言うからには周りに子供がいるんだなと思って、賑やかな感じなのですが、「春霜の藁くはへ居り」にはちょっと寂しいような感じもありました。豚の鳴き声が聞こえるような賑やかで、でもちょっと儚くて、あえかな感じがそこにあるという。4番の「草の露」のような日本的な情緒を加えたかったのかなと思いました。

中矢温◆ありがとうございます。豚は肉という意味もあったり、それ以上にオリーブオイルなどもなかった時代は、風味付けというか食用油としての役割も大いにあったとか、何かの本で読みました。

27 春の風耕馬を叱る口中へ 岡田一実・小川楓子選

岡田一実◆偶然の発見への感動を感じました。耕馬を叱っている場面に「春の風」が差し挟む余地を感じたというか、自分が耕馬を激している中に、「春の風」という詩が突然挟まったみたいな感じがして、その偶然を書き留める思考が良かったと思いました。

小川楓子◆この句も「春風や」じゃなくて「春の風」なんだなというところにこの人の書き方を感じました。農耕馬を口汚くは叱っていたのかもしれないんですけど、それを「春の風」で浄化してくる。さっきの句の豚ももしかしたら汚れた泥んこの豚かもしれないんですけど、それを「春霜」でプラマイゼロにするのと似た思考かもしれません。面白いのが「口中へ」って叱っている言葉ってそんなに長くないはずなんですけど、少しだけ開いた口の中にひゅっと入ってきた春風の具合みたいな短さ、延々と叱ったとは思えないので、その短さに春の風が来たよっていう感じなのかなと思っていただきました。

中矢温◆ありがとうございます。そうか、叱っていた作中主体の口に入ってきたんですね。叱っているのに穏やかな句で私も好きでした。

小川楓子◆馬の口もぱくぱくしている感じがしますよね。

28 夫婦して稼き餓鬼なり野良遅日

中矢温◆これも誰もお取りではないですが、あくせく働くことを「稼ぎ餓鬼」という自虐性を思いますよね。
 
1935年

29 足裏を砥め去る豚や庭昼寝

30 切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な 黒岩徳将・西生ゆかり・ゆう鈴選

黒岩徳将◆動物が二つ出てきていて賑やかな感じがしました。「木菟」が木の上ではなく「切株」にいるんだと思って。「耕馬」を耕すところに連れて行こうとしたときにちょっと予想外の出来事として見つけたのかなと思いました。「不機嫌な」という言葉が無造作に入っていて、「耕馬」だけじゃなくて「木菟」も「不機嫌」だろうというところがユニークで、不思議な句でした。

西生ゆかり◆なんだかとにかくかわいいなという印象でした。「木菟」がいることによって「耕馬」が「不機嫌」になったとも読めるんだけれど、「耕馬」は何にも考えていないかもしれない、ほかのことで「不機嫌」かもしれないし、因果関係をにおわせつつもこちらでいろいろ想像できました。「不機嫌な」で止めるのも余韻が豊かでいいなと思いました。

中矢温◆ゆう鈴さんより、「荒れ果てた農園での仕事なんて馬にとっても大変で、最初から不機嫌だったに違いない。木菟がいて更に不機嫌だと感じるという、念腹の気持ちの面白さと仲間のような馬に対する優しい想いを感じました。」との選評をいただきました。この句が詠まれた1935年あたりに念腹は農耕から牧畜に転向して、生活が安定したそうです。牧畜すなわち生活の安定にはならないと思うのですが、出来不出来がすくなったり、市場での価格がこちらの方が安定していたりしたのかもしれませんね。

31 煉瓦工みな少年や春の風 生駒大祐選

生駒大祐◆全体的に大人の自虐が多いように感じた中で、若々しいと言うかそんなに嫌味がないような。少年時代への憧憬みたいなものはあるかもしれないですけれど、ただ賑やかに少年の煉瓦工たちが働いている所に春の風が吹くという清々しい句だなと思っていただきました。

中矢温◆ありがとうございます。外山さんいかがですか。

外山一機◆確かに叙情的な感じもあって、ただその抒情の方向性がさっき言われたような大人な感じでもなくって、もうちょっと別の方向にいっているのが面白いかなと。念腹に限らず移民俳句が自虐的という傾向はある気はしてるんですよね。「煉瓦工」がみんな少年だったところに悲しさはあるんですけれど、最後に「春の風」という風に流してるところに、ちょっと違う歌い方を感じて、これはこれでありなのかなと思います。

中矢温◆ありがとうございます。キラーパスすみません…。確かこの句は虚子が序文で引用はしていなくて、私が最初に念腹句集を読んだときにいいなと思った句だった気がします。

32 春雷や二人乗ったる馬に鞭 小川楓子選

小川楓子◆ 「二人乗ったる馬に鞭」の韻律が気持ちいいなと思って頂きました。「二人」というのが絶妙で、のどかな感じを思いました。これ一人だとかなり急いで頑張って鞭を入れていて雷が鳴っていてっていう感じになりますし、四五人だったらまた別の意味で何かせわしない印象になるのかなと思ったり。「二人」だからそんなにシリアスな状況じゃないと思って、それも「春雷」に似合ってるのかなと思いました。

中矢温◆ありがとうございます。これは先ほどの耕馬ではなく移動の馬の句ですね。面白い。

1936年

33 野路夕立乙女に走り越されつゝ 三世川浩司選

三世川浩司◆野道で夕立に遭って慌てているのでしょうか。偶然出会った少女たちの、キラキラした青春性みたいなものがとても魅力的でした。

中矢温◆ありがとうございます。「野路夕立」という言葉の縮め方も面白いなと思いました。

34 瓜盗むみちはるばるとつけてあり

中矢温◆これも誰もお取りではないですが、「みちはるばると」にブラジルらしさも思って私は百句抄出に入れたんだろうと思います。

35 日雇いと短き昼寝覚めにけり 黒岩徳将選

黒岩徳将◆中矢さんが句を読み上げるときにちょっと悩まれたように私も最初「いと短き」かと思いました。日雇い労働者の人と自分が短い昼寝を覚めたよということを一人称的に言っているのかなと思います。確信はないんですけれど。先ほど牧畜に転向したという話があったので、たまたまちょっと昼寝をして休憩するかみたいな時に日雇い労働者の人が近くにいて、一緒に寝て起きて自分たちの仕事にそれぞれ向かうという。これからのことが目覚めたところだけ切り取られていて、ぽっかりした気持ちになりました。少し物寂しい感じもあるかなという気がしたんですけれど、「日雇いと」の「と」の読みがそれでいいかどうかちょっとわかんないです。

中矢温◆念腹が雇用していたのかなと思いますが、近くにいた日雇いとも読めますよね。日本人の可能性もありますし、37番も関係しますが「異人」の可能性もあるのかなと。ここらへん外山さんいかがでしょうか。

外山一機◆雇っている人種がどうこうということではなくて、多分見るべきは37番もそうですけど、経済的に下の方にいる人たちに対する共感の意識ではないかなという気がするんですね。日本人かどうかっていうところはあまりこの句に関してそんなに重要じゃないのかなと。その下層の人たちに対する眼差しを感じます。「短き」とわざわざ言うのはしつこいんですよね。「短き昼寝」ってすごくメッセージ性が強くて、また働かなきゃいけないっていうような。ここで貧しい人たち共に生きている自分というものを句の中で打ち出しているような感じがあります 。

中矢温◆ありがとうございます。少しすっきりしました。「昼寝」についてもう少し言うと、あっちの昼はすごく暑くて、場合によったらスコールも降るような感じでして。「昼寝」の意味も少しブラジルと日本では違うのかなという気がしました。

36 開墾もその日暮しよ秋の風

37 雇ひたる異人も移民棉の秋 樫本由貴・ぐりえぶらん・ゆう鈴選

ぐりえぶらん◆「異人も移民」というリズムも良かったと思いますし、労働のためだけに集まってきた人たちという人間関係だと思うんです。それを念腹がどう思ってたか分かりませんけれど、本当は使う側で楽しかったのかもしれません。それでもやっぱり働かなくては仕方ないわという潔さみたいなのもあると思いました。以上です。

樫本由貴◆そうですね、「雇ひたる異人」に階層性が見えますよね。外山さんが仰ったように、言わなくていいじゃんみたいなことも言いますよね笑。現代から読み取る私にとってはありがたいことなんですけれど。「わた」の秋と読むと思うんですが、異人と念腹にとっては少しずつ意味合いが違うと思うんです。念腹は単に豊作を喜べばいいんですけど、雇われ側にとってはあればあるだけお給金はでるけど労働は厳しくなるというのとで。季語の受け取り方に多層性があるなと思っていただきました。以上です。

中矢温◆ありがとうございます。棉を雨に濡らさないように手早く摘むための日雇いでしょうね。これも事前質問でいただいていました。

「異人」ということは、日本人ではなかったはず。日本人コミュニティとその他の人種のコミュニティの関係性は? また、階級の差がある。」これについて、この異人が何人かは断定できないが、代表的なブラジルへの移民というとドイツ、イタリア、ポルトガルなどでしょうか。また『移民七十年俳句集』に掲載されていたのですが、サンパウロの羽瀬記代さんの俳句に「韓国の新移民とて葡語達者」という句がありました。「葡語」はポルトガル語という意味ですね。韓国からの移民もいたようです。これが詠まれた年を手元に控えていないのであれなんですが、日本の統治下というか侵略下にあったものかもしれないので、現在の韓国とはまた違うかもしれません。あとは、念腹がどうかはわかりませんが日本人移民は少なくともブラジル人を、また黒人を下に位置づける傾向にあったことはいえると思います。(※もちろんブラジル人=黒人ではありません。)

ゆう鈴さんから、「異人は開墾に来た日本ではない国の人だと思うけれど、どこの国の人が来ていたか知識にはない。ただ、「棉の秋」からはその人達へ寒くなるからお互いに身体に気をつけて、過ごそうというようなことを感じるのは私だけでしょうか。雇い雇われるだけの、主従関係だけよりも温かいものを感じました」との評をいただきました。他にこの句にコメントある方いらっしゃいますか?

外山一機◆黒人に対しては移民の俳句では「ニグロ」という表現を使うことが多いので、この「偉人」が黒人でないことはわかる。おそらくイタリア系かもしれません。あとは「異人「も」移民」という表現ですよね。

中矢温◆さっき35番の句を話すなかで「日雇いと」の「と」に仲間意識を感じるというような話ありましたよね。「偉人も移民」の「も」に共通性や仲間意識があるのかもと、読みすぎかもしれませんが、読めるかもしれませんね。

38 森の雲なくなりしより朝寒し 中矢温選

中矢温◆これは生駒さんのお言葉を借りると、句の巧さでとったつもりです。ただ、この「森」がどういうものかを考える中で異国情緒もあるかもしれません。ブラジルの熱帯の森という感じがするので。森にかかる雲が「朝寒し」の合図だとわかるのは、この地域にずっと暮らして何周も何周も季節が巡った人だからだろうと思います。

39 冬蝿や乞食よぎる汽車の窓

中矢温◆これも誰もおとりではないですが、「乞食」が自分には乞うことなく窓辺をよぎったというプラットフォームの様子が描かれています。

40 四方より攻むるが如く樹海焼く

41 少し降る雨あたゝかし珈琲畑 生駒大祐・木塚夏水・ぐりえぶらん選

生駒大祐◆はい、この句は正岡子規の「あたゝかな雨がふるなり枯葎」のような雨が暖かいっていう発想、この辺りを踏まえているかと思います。「少し降る」というのはすごく長雨だと寒くて冷たいけれど、少し降る場合は暖かいんだよってところでちょっと差が出ています、またコーヒー畑にとってはその恵みの雨であり、珈琲が水はけがいい方が育つ気もするからその辺はどうか判別つかないんですけれど、ともあれ畑にとっては雨は悪いものではないと思うので、その辺のところも「あたゝかし」にちゃんとついているなと思い、異国情緒だけでないと思っていただきました。

木塚夏水◆私も「あたゝかな雨がふるなり枯葎」を思いました。ちゃんと調べていないので曖昧ですが、ブラジルには雨期があって、雨期の間はブラジルでも寒くなるようです。その寒い雨期が明けた後の少し降る雨に対して、日本の春に感じるような「あたたか」を見出したものだと思いました。

42 汲み終へし深井にもたれ春惜む 木塚夏水選

木塚夏水◆ブラジルという日本とはまったく違う気候のなかで、日本の繊細な季節感を感じ取った句だなと思いました。井戸から水を汲むという重労働による疲れの中、鋭敏になった感覚でブラジルにいながら日本の春の空気感を感じ取ったのだと思います。

1937年

43 ブラジルは世界の田舎むかご飯 樫本由貴選

中矢温◆念腹の句の中では一番著名かなと思うのですが、「ブラジルは世界の田舎むかご飯」。樫本さん、いかがでしょうか。

樫本由貴◆私がこれを取ったのは著名だからであって、この句の何が俳句的によいかとかはさっぱり分からなくて、なんでこれを当時の人は取り上げたんだろうと思って取ったんですよね。「ブラジルは世界の田舎」といったときにそれを受け取った読者自体は分かる!分かる!というワンダーとシンパシーがあったはずで、そのワンダーとシンパシーは危ないけれど当時のブラジルはどういうものだったのかが気になりました。かつ「むかご飯」っていうものを手元に見ながらこれを言うのはどういう意識があるのかがあんまり分からなくて議論に乗せたくて。逆にコメントある方いたら伺いたいです。奴隷がいて、開拓されてという場所だったことはわかるんですけど、それを日本の側からいうことにどういう意義があったのかが疑問です。

中矢温◆ありがとうございました。私の方でこの句に対する素十の評を読みます。これが答え合わせではないのですが、議論の参考になれば幸いです。
このむかごの句は早速「ホトトギス」の雑詠句評会(一三七回)にとり上げられた。担当評者は素十。
素十は次のように評している。
「―世界の田舎といふ言葉は勿論世界中の未開なところ、世界中で一番文化に遅れ遠ざかってをる所といふのであるが、「ブラジル」となると益々面白い。世界の田舎といふ言葉に対しても、又逆にブラジルといふ言葉に対してもこの位適切なつながりは外に見当らぬやうな気がする。―(中畧)こゝではいつかの句にあつたやうに稼ぎ餓鬼といふやうな日本特産の人達も住んでゐやうし、又、近頃は日本の田舎でも餘り食べさうにないむかご飯といふやうなものも時には食べるのであらう。成程世界の田舎に違ひない。(中畧)然しこの句は貧しい移民生活を送つてをる念腹の単なるセンチメントではない。
 又、単なる旨い句といふのでもない。
 之等の句に籠つてをる念腹の精神力といふものは全く凄まじいものであるといふものを見逃してはならない。念腹ははる〴ブラジルから、来年ホトトギス五百号祝賀会には何とかして列席して唱へたいと云つて来てをる。―念腹の境遇では或は実現せぬかも知れぬ。実現せんでもいゝ。ブラジルでも東京よりも盛大なのをやればいゝ。とに角私はかういふ念腹の旺んなる心意気を尊敬して衷心から君の健闘を祈る次第だ。」
(「ホトトギス」四十巻十一号34-35頁 1938年8月)
最初の「―世界の田舎といふ言葉は勿論世界中の未開なところ、世界中で一番文化に遅れ遠ざかってをる所といふのであるが」くらいで既にひっかかりがありました。「こゝではいつかの句にあつたやうに稼ぎ餓鬼」は28番の「夫婦して稼き餓鬼なり野良遅日」の句のことだろうと思います。

外山一機◆今そうやって聞くとすごいコロニアリズムとも、すごい美しい友情の話とも捉えられますね。でも真ん中の方をよく読むと、ブラジルへの見方にやっぱり差別的なものを感じる。でそんな中で頑張っている念腹君という、そういう見方もできるのかなと思います。念腹の方もそのことに自覚的であえてこういう風に振舞って見せているところにお互いの幸福な関係が出来上がっている。でもそこで誰かを抑圧してないんだろうかということはちょっと思いましたね。

樫本由貴◆「世界」という意識があるのが面白いなと思っていて、ブラジルに俳諧国を築きたいというのは「ホトトギス」の念腹や圭石の中で虚子とのやり取りの中で出てくる。虚子は戦前も戦後も一貫してこういう意識があって戦略的に生きていると思うんですけど、戦争にかかわらず虚子の中ではこの意識が途切れていないとわかりますね。戦後に虚子や立子があちこち出かけるのも、ソ連とアメリカの間の文化戦争に加担して、海外に行くお金が出ているわけですから。虚子って一貫した態度をとっているんだなと、そして念腹がそれに忠誠を誓う様子も興味深いなと思うんです。俳句の出来も、抑圧されている人のことも置いておいてですが、その意識は面白いなと思いました。以上です。

中矢温◆61番の「虚子門に無学第一灯取虫」でも話そうと思っていましたが、日本の俳壇とブラジルで頑張る念腹君とブラジルという土地に三段階の格差に似たものがあるのかなという気がしていて、そこらへんをしっかり見ていきたいなと思っています。

(註:これは果たして昔の話と言い切ることはできるのだろうかと内省しました。俳句は日本の文化であり、日本の俳句こそ正統という価値観は、現在も漂っている気がしています。)

生駒大祐◆さっき冒頭の方で異国情緒だけの句の完成度は少し落ちるねみたいな話をしたと思うんですけれど、この43番に僕の違和感が凝縮されています。単純に差別意識というかブラジルを下に見るっていうものもあるとともに、日本の情緒みたいなもの、つまり「むかご飯」みたいなものでブラジルを言いおおせてしまうとするところに非常に侵略的な思想を感じました。日本の言葉でブラジルというものを全て言い表せるんだよという、日本語でブラジルという土地を矮小化というか同質化するぞという意識が非常に感じられました。この辺がやっぱりその戦争というものの前後の侵略的な意識に近しいのかもしれません。

中矢温◆ありがとうございます。どなたかが事前質問でこの「むかご飯」は本当のむかご飯かな、別の何かをむかごに見立てているのかしらという質問があったのですが、恐らく本物のむかごだと思います。ただ大きさとかはもしかしたら違うかもしれませんね。で、その日本的なむかご飯を目の前にした上での上五中七ということなんだろうと思います。

44 陽炎へる線路へ汽車を降りにけり 

45 深井汲む女かはりし蝶々かな
 
1938年

46 稲妻や隠れ家に似て移民小屋

47 日雇も天下の職や月の秋

中矢温◆これはどなたも取られていないんですけど、「日雇」もひとつの立派な仕事なんだよということは逆にいうと一般にうしろめたさのある仕事だということなんだろうなと。念腹はこの句を詠んだときにはきっと「日雇」ではなくて、雇用側から詠んだ句としたときに、励ましなのかもしれないんですけど何だか微妙にもやっとしました。

48 彼の背我を睨める焚火かな 

49 毛布背負ひ目覚時計さげてゆく

50 誤字多き移民の投句瓢骨忌 樫本由貴・外山一機選

樫本由貴◆43番とかなり似ているのですが、上手い俳句の中にこういうのが紛れているのが大事で、上手い俳句を書いているときも選句しているときもこういうことを思いながらしてるんだよねと思うんです。この「移民」も「異人」なのかなとも思うし、92番には「新移民」も出てきて、92番は戦後の俳句だから朝鮮の人かはわかりません。でも俳句を学び始めてすぐだとか、日本人でも学がない人間の投句は「誤字」が多いなあと、わざわざ「瓢骨」の忌日を持ってきていうという。この念腹の意識のありようは、念腹を読む上では捨てたらだめだよなと思う。時代背景というか、この意識のありようにうーんと引っかかるものがあったから取りました。

外山一機◆これを見て思ったのは正岡子規の「三千の俳句を閲し柿二つ」でした。この時点で念腹はブラジルにおいてこうやって投句を見るような立場になっているという意識がある。これは句の良し悪しとは別の問題になりますけどね。それと同時になんで「瓢骨忌」なんだろうことは思いました。瓢骨というと本名は上塚周平で、 移民にとっては恨みもあるような人物なんですよね。笠戸丸に乗っていった移民会社の重要人物で、(待遇も奴隷同然で、稼げもせず、現地の病気が流行った)初期移民にとっては話が違うじゃないかと、ひどい人としての評判もあると思うんですよ。それと同時に(移民のために東奔西走した人として)尊敬もされている立場である。この句を見たときに念腹は瓢骨側に立っているのだなと思いました。自分は瓢骨側にいて、「誤字」の多い「移民の投句」を見ているのだという自意識がそこはかとなく見える。私は鼻持ちならないなという気もしました。でも本当にそれだけかなとも思うんですよ。そういうただ馬鹿にするみたいな意識だけだろうか、いやそうじゃないとも思う。瓢骨が死んでもう何年も、何年もという程ではないんでしょうけれど(註:瓢骨は1935年没)、移民たちは初期移民の意識や苦労みたいなものからどんどんどんどん離れていく。けれど念腹はその頃のことも知っているという中で、そこらへんを背負っていこうとする「瓢骨忌」なのかなっていう気がします。だから「誤字」が多い「移民」というもののだらしなさみたいなものが気になるという。日本人なのに振り仮名を振らないと読めないのかみたいな、そういうナショナリズムとも繋がってくるような気もします。一方では、自分は昔からのものも知っているのだし、そのあたりを自分か背負わねばというような、ただの差別意識ではない悲しみや使命感もある気がします。

中矢温◆ありがとうございます。これも事前に質問をいただいていました。「何故誤字が多いのか。ブラジル移民2世ならば第一言語がポルトガル語だから? 念腹が句会指導していたコミュニティの広さが伺える。」との質問でした。たしかに1908年に最初の移民が来て、これが1938年の句であることを思うとたしかに2世の投句の可能性も十分あると思いました。ただ私の考えとしては移民1世という日本語を正しく書けて使えて当たり前の人たちの「投句」に「誤字」があって、普段使わないから・学がないからもあるかもしれませんが、念腹含めての謙遜というか卑下いうか自虐としての表現かと思いました。念腹自身が「誤字」をした訳ではないでしょうけど、自分たちを下げて日本俳壇に見せてみるというポーズかなと。で、瓢骨先生ならそんなことないのになあという。今がこういう現状ですというのを嘆くような。

1939年

51 日焼子の日臭き頬よ頬擦りす 西生ゆかり選

西生ゆかり◆しつこい言い方で、もともと日焼をしているんだろうけど、またその日も日に当たっていたから「日臭」いという臭いになっている。また「日」という字も重なっている。「頬」と言ったあとに「頬」擦りが来る。このしつこい言い方が子どもへの愛情。余りある愛情が出ている感じでよいなと思いました。

52 凶作や此処いらいつもバス迅し

中矢温◆凶作の句が3つ並んでいたのですが、この年は本当にひどい凶作だったようです。1句引いてきました。

53 耳削ぐも風邪の牛の手当てとや

54 移住して東西わかず道落葉

55 犬居りて牛喜ばず牧焚火

56 息白く言葉短かに気むづかし

57 夜逃せる教師に延びし冬休

中矢温◆このように子どもたちにとっての教育体制が不安定であることも、念腹がアリアンサからバウルー市に引っ越しをする一因でもあったそうです。勿論俳句行脚の交通の利便性もあったんですけれど。さっくり書いている割には深刻な内容ですよね。

58 どやしたる耕馬かなしく鼻取りぬ
 
1940年

59 夏草や投縄牛を獲つつ行く

60 旱魃や牧馬も斃れはじめしと

61 虚子門に無学第一灯取虫 生駒大祐・外山一機選

生駒大祐◆『念腹句集』の序文で虚子が引いているように、この「無学」の者は誰なのかという議論は多分あると思う。基本的には念腹自身の事を言ってるんだろうなと思いつつ、虚子門の「ホトトギス」に載る句としてはメタ的な要素を含む気がします。さらに「灯取虫」というところで気後れの意識みたいなものも出しつつ、しかし逆にそれを誇るみたいなところもあるんじゃないかなと思いつつ。これも含めないと上手い句だけ取っていたら念腹らしさというものは出ないと思って、こういう句も鑑賞しようと思いました。

外山一機◆これはもう既に自分がある程度名前が知られているという前提で作っている感じがしますね。内輪ウケじゃないですけれど、それを狙っているような感じがありました。自分はブラジルに行っていろいろ苦労が多いので、勉強ができない、勉強をする暇ないキャラなんだろうなと。それをあえて言ってみせるという。「虚子門に無学第一」って開けっ広げですよね。もうちょっと幅広く俳句の歴史を知っていたら虚子もだいぶ無学じゃないのという気もしますけれど、そういうのはナシなんでしょうね。本当に幸せな感じですよ。作った方も幸せだし、読む方も幸せという、「ホトトギス」の内部で流通する幸せな句じゃないかなという感じ。だからこの人はそういう形で日本と繋がっていたんだなという気もして、ちょっと面白いと思いました。

中矢温◆ありがとうございます。念腹が渡伯前に虚子や素十やみづほや圭石と関係があったのは本当に幸福なことで、それがブラジルで俳諧国を作ることにも繋がるんですけれど。念腹には確かに師系は必要だったし、信じていくべきものだったんだろうなと。上塚も素十もみづほも圭石も皆今でいう東大出身なんですよね。これも自虐的だなと、あの天下の「虚子門」に「無学」の者がいるんだぞという。周りのいわゆるエリート層の人々に対する学歴への引け目はきっとあって、でも同等に俳句をやれているという矜持もあって。

62 汗寒く恐怖なしつゝ争へり

63 開拓のはてが籠編む夜なべとは 外山一機選

外山一機◆これってどこで編んでいるんだろうなというのがちょっと気になったんですよね。家で編んでいるんでしょうけど、どういう家なんだろうと。移民俳句で「夜なべ」の句って時々見るんですけれど、結構夜空を取り合わせることが多いんですよね。そして思いを馳せていくような。このようにイメージの膨らませる定型はあるんですけれど、この句はそういう風にもなっていないよなという。ただ、これまでの来し方に思いを馳せているのは分かる。「夜なべとは」の「とは」には大見得を切っている感じもありますけれど、こういう想像力の方向性は念腹を念腹らしくしているのかなと思います。変にロマンチックになりすぎない、そういう方向の典型を求めないというか。そうじゃなくって「夜なべとは」なんて言っちゃうそういう言い回しで諧謔味に触れてみるというか。そのような舵の切り方が念腹なのかなという風にも思ったんですよね。

1941年

64 馬にのる拍車結へし跣足かな

65 枯野より犬這入り来ぬ汽車の中 三世川浩司選

三世川浩司◆まるでモノクロ映画のオープニングシーンを見るかのようです。何とも乾いたドラマ性に注目させられました。

中矢温◆停車中の汽車に犬が駆け込んできたようなドラマチックさはよくわかります。いい句ですよね、ありがとうございます。

66 花珈琲門入りてなほ馬に鞭 中矢温選

中矢温◆門に入ってあともう少しだけ馬を歩かせたいときに「なほ馬に鞭」をするという。句の出来だと一番上手い気がしていただきました。この「花珈琲」というのもあちらだと珈琲の収穫に向けて最初の時期なんだろうなという感じがして美しいと思いました。

67 野焼人沼をわたりて集ひけり
 
1942~44年

68 騎初を追ふ子伜の裸馬

69 信あれば文は短し秋灯下 黒岩徳将・中矢温選

黒岩徳将◆さっきの61番の「無学第一」と繋がるところがあると思いました。この「信」は虚子門にいてブラジルで、虚子の教えを追いかけながら、俳句を写生しながら作っているというものかなと。そんな「信」があるので誰かに、あるいは虚子に出す手紙を書くときも短くていいんだみたいなんか自分での中での決意があるのかなという風に読みました。そして、『念腹句集』の虚子序文の最後はこれで締めくくられていることからも、虚子は念腹のこの思いに答えているところはあったのではと。でも句の中でそれは言っていないので、「秋灯下」を使って普遍性をもたせるようにして、懸命に文を書いてる人みたいなのを思わせるつくりかなと思いますね。「無学第一」よりはもう少し幅のある句ではないかなと。どうなんでしょうか。

中矢温◆黒岩さんありがとうございます。この時代の「文」って日本と繋がる唯一の手段だったと思いますが、それでもわざわざ文字にしなくて通じ合う「信」用や「信」頼が、この句の「信」なのかなと。だから短くていいんだっていう強い気概に心打たれた次第です。

(註:移民俳句で手紙の句もたくさんあって、これと逆の内容で例えば「なほなほが裏に返って続くなり」とか、「無心より外には用のない手紙」とか。かなり川柳チックですね。)

1945~46年

70 朝酒のあとの腹減る喜雨休

71 乳しぼる牛にさし来し初日かな

72 蛇蜥蜴からみ搏つなり草の中 黒岩徳将選

黒岩徳将◆「搏つ」は戦うという意味だと思うんですけど、そうすると「蛇」と「蜥蜴」が戦っているという風に読みました。これも虚子序文にあったかな。「蜥蜴」がブラジルのものだと思うと我々の蜥蜴とちょっと違うというようなことを書いていたかと思います。本当に蛇と戦っているんだったら「蜥蜴」すごいなと思って。最後「草の中」でワイドになるのもいいんじゃないかなと。

中矢温◆ありがとうございます。日本で古くから季語だけれど、ブラジルにも存在していて、少し日本とはサイズなど含め想起されるイメージが異なる場合はたくさんあると思います。蛇の暮らす環境の野趣性とか、蜥蜴の大きさとか。移民俳句に限らず海外で詠まれた俳句は、もしかしたら季語に限らず、〇〇という土地で詠まれたと思うと××な印象を受けるとかはある気がします。

73 腹這うて犬も飽きたり蜥蜴狩
 
1947年

74 汽車に会ひ牡蠣飯に叉日本人

75 毛糸編んで昨日の如しベンチ人 中矢温選

中矢温◆この句は一番不思議だなと思ってとりました。ベンチで毛糸を編む人の佇まいが昨日と同じだから、この光景が昨日のように思えるよという句かしら…?ベンチに人がいることを、「ベンチ人」というなんて、無理やり過ぎないかと思うんですけれど、その縮め方も独特でちょっと面白かったです。

76 クリストの弟子の祠や冬木立

中矢温◆アリアンサには僧侶がいたなんて記録もありますけど、教会もあったそうで。圭石は日本にいるときからクリスチャンだったそうです。実際ブラジルは今は福音派も増えていますけれど、カトリックが多数を占めます。実施あにアリアンサ内に祠があったんでしょうね。異国情緒に分類される句かしら。

77 投かけて四方の窓に布團干す

78 酔うて脱ぐ大きな靴や春灯 岡田一実選

岡田一実◆念腹は記録としての俳句を書いてきた方だなと思いました。俳句は記録の側面も多くあると思ったときに、何を記録するかということになってくると思うのですが、この句の場合は自分の驚きを記録して写生しているな、と。この「大きな」に念腹の感動を感じる。この「おっ」という見過ごしそうな驚きを記録することに成功しているなというのがいただいた大きな理由の一つです。季語の「春灯」というものが、ちょっと理屈っぽさもあるのですが、その「春灯」のちょっと潤んだような明かりが「大きな靴」にも影を作るような雰囲気があって、「大きな」という感動をちゃんと書き留められていると思いました。以上です。

中矢温◆ありがとうございます。ちなみに念腹は酒豪だったそうです。

79 移民妻わらびを干して気品あり ゆう鈴選

中矢温◆ゆう鈴さんより、「わらびを干して気品があるなんて、その人はとってもステキな人だという印象。ただ美人とかではなく、自分自身の生き方をしっかり持っている気がする。その人への尊敬を感じるので少し年配の所作の美しい人だと思う。」との評をいただきました。この「移民妻」が念腹の妻のキヨとは言い切れませんね。せっかくですので、キヨの人柄を話そうかと思います。念腹が俳句にかまけて新婚の自分を放って、東京やらあちこちに出かけていても、きちんと家を守っていたそうです。この言い方はあまり好きではないですが、本当に古き良き妻だったとか。キヨはブラジルに渡ってから俳句を始めたそうなんですが、そこからはより深く念腹を、そして俳句の面白さを理解して添い遂げたといえるのかななどと思います。
 
1948年

80 没収を免れし和書曝しけり 西生ゆかり選

西生ゆかり◆気持ちは何も書かずただ事実を書いているだけなんですけれども、「免れし和書曝しけり」そこに読者の方で色々とその背景の事情とか気持ちとかを察することができて、このドライな書き方がいいなと思っていただきました。

中矢温◆ありがとうございます。これはゆかりさんが言ってくださったように事実として、ブラジル政府が外国語新聞の発行を禁止したりする中で日本語で書かれた「和書」も「没収」の対象になっていくんですけれど、家のあちこちに隠したりだとかで「免れし和書」を今日のもとに晒すよという。虫食いを防止するものでしたっけ。この句の発表自体もタイムリーに行うことはできず1948年と遅れるんですよね。もしかしたらこの「晒されし和書」は念腹自身の比喩でもあるのかなとか。戦争中に逮捕もされずおとなしく籠って、今はまた無事に外に出て俳句の行脚ができるようになったよという。

81 ブラジル陋巷はなし新豆腐

82 襟巻きや神父と競ふ拓士髯

83 墓参して和語を話さぬ移民の子 ぐりえぶらん選

ぐりえぶらん◆今回を念腹のどの句をを取るかでいろいろ見ていたんですけれど、多分異国情緒に一番惹かれたのかなと。これが句としてどうなのかっていうのはよく分かりませんけれど、この絵葉書のようなブラジルでしか読めない句って面白いなと思いました。これは2世がもう出てきてるんでしょうね、1948年だから。2世となると日本語を喋らないのねという話なんだろうなと思いながら、これも彼の地でなければ読めないだろうと思って取りました。以上です。

中矢温◆ありがとうございます。皆さんお分かりだと思いますが、「和語」は日本語で「葡語」はポルトガル語のことです。外山さん、日本語の継承において何かコメントいただけますか?

外山一機◆これはあまりにもメッセージ性が強すぎる感じがして、それ以上のことはなかなかなかったんですけれど、ただこれが戦後のものだったと考えるとちょっと感慨深いものもあるかと思います。戦時中に日本が公的の場で使うのは禁じられていたけれど、そもそももう子どもたちは話さなくなりつつあったよねという。蓋を開けてみたら苦しんでいたのは自分達だけじゃんみたいな、そういう辛さみたいものもちょっと感じるかなと。「墓参」の墓の中に埋まっている人に肩入れしてるんじゃないかなと思いました。

中矢温◆なるほど、ありがとうございます。

生駒大祐◆少しいいですか。移民だから先祖代々の墓はないわけですよね。だから子供がいて「墓参して」ということは、わかりませんが、親が早くに亡くなっていて、だから「墓参」しうるというか。あまり上手く言えないけれど、あまり普通の「墓参」じゃないよなと思って、ドラマチックに作られている感じがしました。

中矢温◆ありがとうございます。一時の出稼ぎだと思っていた暮らしが、永遠にこの地に眠ることを受け入れていくということですかね。出稼ぎだと思っていたら、なかなか稼げなくて、いざ稼ぐことができるようになったら、手放しがたい生活基盤がそこにあるという。あるいは子どもがもうポルトガル語の方が上手に話して、帰りたくはないと言っているという。時を経れば経るほど経済的要因や子どもが自分をブラジルに引きとどめる絆しとなるわけですよね。もう少し2世について話すと、自分たちに必要なのは日本語教育ではなくてポルトガル語をちゃんと話せるようになって、現地の大学を出て弁護士や医者や技術になって、親の面倒を見ていくし、稼いでいくし生きていくんだということを親に主張するんですよね。この話は俳句についてではないところで見たんですけれど。子と親にはやっぱりいつの時代も何かあるなと、確執というか衝突というか。

(註:たしかに「墓参」する、「墓参」できるというのはなかなかに条件が必要で。ます出稼ぎでなくて永住を決めて墓を建てたということ。そしてあちこちで職を求めるのではなく、ブラジル内で定住する安定した稼ぎ口があって、墓守ができているということ。また、冒頭で話した出稼ぎが永住になるのはトルコからドイツへのガストアルバイターとか、世界各地の移民でみられる現象ともいえますよね。)

1949年

84 瓜漬を食ひ結飯食ひ珈琲飲む

85 ズボンの娘モンペの母と井戸端に

86 肉馬車を追うて地を翔つ秋の蠅

87 干布団野飼の牛の戻り初む

88 病人も腹減りしとぞ草の餅

89 貰ひ水朝寝の窓に声かけず ぐりえぶらん選

ぐりえぶらん◆はいさっき異国情緒と言ったんですが、これが異国情緒なのかどうかはよくわからないところも実はあるんですけれど、でもすごく明るい光のある国というか地域の一コマだろうなと思いました。何だかここら辺からすごく穏やかな句が並びますよね。それで不思議な感じがして取りました。以上です。

中矢温◆ありがとうございます。加賀千代女の「朝顔やつるべ取られてもらひ水」以外に「貰ひ水」の句を見たのが初めてでつい百区抄出に入れてしまいました。

90 老いてゆく夫に朝寝の妻若し 中矢温選

中矢温◆この句は念腹自身のことなのかなと思いました。念腹とキヨは5歳差なので、めちゃめちゃ歳の差があるというわけでもないんですよね。こう自分のことを「老いてゆく」と自嘲するのは自虐的でなんとなくわかるんですが、妻のことは身内だからと照れることもなく朝眠る妻の若々しさを詠むという。念腹の方が先に起きたんですよね。若い=美しいなんて言ったらただの問題発言ですが、なんというか慈しみのような愛を思ったんですよ。子どもとか妻をあまり詠まなかった念腹の、自分にずっとついてきてくれたキヨへの挨拶句のようにも思いました。

1950年

91 柿の影さして障子といふものぞ 岡田一実選

岡田一実◆ずっとブラジルらしい句を取らずにここに来て、一番ブラジルらしくない句かもと思っていたのですが、さっき温さんや外山さんのお話を聞いて、あ、そうか、ブラジル移民にとって「柿」は大切だったんだなと今思いました。頂いたときはこれも先ほどの15番の「丘」の句と同じような逆転として描いているなと思っていました。「障子」があって「柿の影」が「さして」いるけれど。その「柿の影」が「さして」いることによって「障子」を発見するという詩心だと思いました。虚子の「帚木に影といふものありにけり」をもしかしたら押さえてあるのかもしれないなと。「障子といふものぞ」の持って回った言い方が、詩を作っているなあと思います。ずっと何で念腹は俳句だったんだろうなと思いながら読んできたんですけれど、記録以上の詩が書けるから俳句だったのかな、などとも思いました。以上です。

中矢温◆ありがとうございます。「障子」はそこにあるだけじゃだめで、「影」が「さして」こそだというのは、ブラジルにもう一つの小さな日本を見出そうとしていた、人数が多いからこそそれが可能だったブラジル移民らしさが出ているような気がします。

1951年

92 井戸掘つてゐるを見に来し新移民 樫本由貴選

樫本由貴◆「新移民」に対しては、ちょっと今までの句で見てきた他の移民に対する眼差しとちょっと違うなと思いました。「井戸」を「掘つてゐる」のを見に来た「新移民」に恐らく堀り方を見せながら掘っているんじゃないかなと思って。淡い期待をこめてなんですけど。戦後になって移民に対して、例えば1世2世の断絶であったり敗戦であったりによって思うところあって意地悪をしなくなったとうか。やり方がわからなかったら見せながらするというようなところが、少し視点が変わったかなと思っていただきました。

中矢温◆これも事前質問いただいておりました。「新移民」は自分より後に来た移民のことを指す語だと私は思っていて、相対的な言葉かなと理解しています。「見に来し」は物珍しそうにしているとも取れるし、樫本さんの言ってくださった教えている・示しているという感じもしますね。

93 移民船隈なき月に沖がゝり

中矢温◆『移民70周年俳句集』では「移民船」もひとつの季題としてワンセクション設けられていました。これは「月」が季語かと思いますけれど。

94 倖せとは世知らぬことか木の葉髪

中矢温◆うーん、でも「世」を多くの日本人移民が「知らぬ」状態だったから、戦後勝ち組・負け組闘争は起きたよねとか思っちゃったんですよね。そういう「世」ではなく、もっと一般性が高いのかもしれませんが。虚子が亡くなってからの俳壇の混乱みたいなものを知らずに済んで、虚子としっかりと話を交わせた時代だけを知っている「倖せ」なのかなとか。…あ、すみません、51年は虚子はご存命ですね…。

95 糸瓜忌を明日に俳句の旅終る

中矢温◆この「俳句の旅」は線路沿いに幅広く長年行われた俳句普及の行脚の旅のことでしょうね。

96 春夜行くポ語を知らねば聞ながし 外山一機選

外山一機◆ドラマチックな感じがあるなというのがひとつ。あとはそういう資質っていうのもあるんだろうなっていう気はするんですよね。7番の「子雷」のなんかは空間的に上手く構成していく力が力みたいなものがありますけれど、「子雷」の句で評価されてるポイントって、句評とか見ていると当時の秋櫻子だったかが、小さいの「小」ではなく、子どもの「子」にしたのが上手いと書いてあったんですけれど、そこに空間的に構成すればよいというのではなく、ドラマチックというか。「雷」にも家族的なニュアンスをつけてみるみたいな。そういうドラマ性を求める人だったのかなと思います。加えて、この人は結局ポルトガル語がわからなかった、あるいはわからないという風に自分は思ったということですよね。「聞ながし」てなんとか暮らしていくという。自分の愚かさに対する言い訳ではないですが、だいぶ歳をとってきて、そこは自分なりに自分の生き方として、なんとか受け流していくようなそういうような言い方をしている気はしますね。罪深いような気もしますけれど。でもそういうような意味ではなくって、もっと自分の中のこれまでの生き方をなんとか肯定しようとしているような気がします。もう一点。確か念腹は戦後に「パウリスタ新聞」の選者をしますよね。「サンパウロ新聞」だったかしら…。それは負け組の側の新聞という風に言われてるはずです。当時の日系社会の人たちはやっぱり多くが勝ち組に回ってしまった。その理由の一つとしてはポルトガル語がほとんど分からなくて、日本から情報があまり来ない中で混乱してしまった。一部のインテリ層が負けだということが総合的に分かっていて、それで勝ち組負け組抗争が起きていくと。念腹はポルトガル語がよくわからないながらも、負け組の方に足を踏み入れていて。微妙な立ち位置ですよね。この状況がこういう自意識を生んだのかなとも思いました。

中矢温◆ありがとうございます。「パウリスタ」は「サンパウロの人」という意味ですね。この前横浜のJICAでしていた熊本移民展にいったときに「パウリスタ新聞」の紹介があった気がするんですよね。どこにメモしたかしら…。このメモだと「サンパウロ新聞」になっていますね…。ちなみに負け組派は認識派、勝ち組は信念派という別称もあります。で、はい、「サンパウロ新聞」は負け組派が作ったとも言えますが、この勝ち組負け組闘争の混乱の終息を願って作ったものであったと思います。創業者の水元光任さんは熊本出身だから、先の移民展で紹介があったんですね。ちなみに読者の減少により2019年に「サンパウロ新聞」は終刊しました。

97 転耕を見迭るや馬とばしつゝ

98 馬の脊の籠にあたりて燕来る 木塚夏水・三世川浩司選

木塚夏水◆まずブラジルに「燕」は「来る」のかなとは思ったんですが、いずれにせよ「馬の脊」に「籠」が当たっているリズムや触覚という所に「燕来る」を感じとるのが日本人の繊細な情緒が現れている気がしていただきました。

三世川浩司◆日常のなにげない出来事の中での、まるで春の神に祝福されているかのような情感が、とても好ましいです。

99 耕や廿五年の切株と 生駒大祐選

生駒大祐◆最後の方の句としてはかなりシンプルな構成で、ただ年表によれば1927年にブラジルに移民していると考えると、自分が最初に切り倒した木の「切株」と共にこの「廿五年」を過ごしてきたよ。そして相変わらず耕しているよ、という風に考えると境涯詠としては嫌味がなく質が高いように思いました。歴史の自分の人生の「廿五年」がこの「切株」には詰まっているんだという。有り体に言えばそういう考えをシンプルに呼んでるなと思ってすっきりとした句だなと思っていただきました。

中矢温◆ありがとうございます。たしかに1927+25ってここらの年ですよね。この「耕」は念腹が現在も自分で鍬をふるっているかどうかというリアリティはおそらく必要なくて、昔の記憶とかも入れてのものなんでしょうね。

虚子が序文で引いているが句集に掲載はないもの

100 蚊食鳥ニグロ嫁とる灯の軒に

中矢温◆最後の句は虚子が序文で引いているが句集に掲載はなくって。すっごい探したのになくって、もう!という感じなんですが笑。この句は正確には女性なので「ニグラ」となるかとは思うんですけど、黒人という意味ですよね。息子たちが結婚するときに日本人と結婚するかそれともブラジル人と結婚するかという問題は、特に一世からするとかなり大きな問題で、でも二世からすれば自由な結婚を認めてくれよというところだと思うんですよね。多分この句が言いたいのは、あの家は黒人の女性を「嫁」に「とる」んだ、とったんだというのはコロニア中で周知の事実、もしかしたら噂の的かもしれませんよね。コロニアの閉そく性というか、結婚、血筋ってなんだろうと思わず考えました。

当初の予定時間を大幅に超えて、大変遅くなりました。最後に皆さんから一言ずつ感想をいただければと思います。では五十音順でお願いします。

生駒大祐◆僕の普段の好みから言えばあんまり読まないタイプの句が多かったんですけれど。とはいえ最近俳句を純粋なテキストとして読むことの限界も思っていたところでした。俳句のポテンシャルを考えたときに、その辺も加味しないとどうしても拾えない部分があるなと常々、特に最近感じていたので、ほぼそれから成っているような句を今のタイミングで詠めたことは僕は非常に面白く感じましたし、勉強になりました。あと準備がすごくされていて、貴重なお話もうかがえました。ありがとうございました。

岡田一実◆俳句を読むとは、俳句を書くとは何なんだろうと思いながら読んでいました。私も多分普段の俳句を読む傾向としては避けがちなところかもしれないけれど、人生の記録的俳句から私は何を読んでいるのだろうとずっと考えながら読みました。あと温さんが送ってくださった事前資料(※https://www.ndl.go.jp/brasil/ ブラジル移民の100年 国会図書館)もすごく興味深く拝読しまして、ブラジル人移民に対する先入観があったことも気づいて、事実はこっちだったんだと。しっかりその辺りは背景として興味深く拝読して、それをどのくらい俳句に反映させて読んだらいいのかを考えながら読みました。貴重な体験をありがとうございました。

中矢温◆ありがとうございます。差支えなかったらで構わないんですが、ブラジル移民に対してどんな先入観があったのか教えていただいてもよろしいですか?

岡田一実◆国が最初から移民に対して積極的だと思っていたのですが、日本は最初は移民の出稼ぎに対して奨励しない態度をとっていたというのが私の中では勉強不足でした。日本はもっと積極的に移民を送り出していたのだと思い込んでたのでちょっと送っていただいた資料では意外でした。

中矢温◆なるほど、ありがとうございます。そうです、年代やどの国かなどによっても少しずつ態度を変えていますよね。私もまだまだ勉強不足です。

岡田一実◆途中から国が積極性を帯びてくる、そのあたりの歴史性も今回学ばせていただきました。

小川楓子◆貴重なお話をありがとうございました。移民についての勉強会をアルゼンチン移民の崎原風子についてやったのが今年の5月でしたっけ。
それと比較してだいぶ違うなという印象を受けました。勿論個人個人によって違うかとは思うんですけれど、その比較としても面白かったなと思います。やっぱり私はテキストで読みたいなというのはありましたかね。歴史的なものはむしろ好きな方なんですけれど、必ずしもそれを踏まえて読むのはしたくないなというところがあって。あくまでテキスト派なのかなと思いました。念腹の句に現れている日本やブラジルは本当の日本でも本当のブラジルでもないのではと思います。俳句がそもそもどこにもない何かを書くものなのかもしれないけれど、より移民の俳句だと日本でもブラジルでもないどこかを描くのかなという風に思いました。あとは日本の「ホトトギス」に対して見せたい姿というのがすごいはっきりしていて、その世界を提示してくる書き方があるのかな。でも垣間見える素朴さはとても好きでした。

中矢温◆テキストとして読むか、生涯性を加味するかは難しい問題ですよね。でも一回生涯の方にいってテキストに戻るのと、最初からテキストなのはやっぱり深みが違うと思うんです。

樫本由貴◆私は今回は実作者としてではなく、俳句を勉強している院生枠で来たと思っています。普段俳句としてよいかどうかで読んでいる方たちが、念腹などの移民の俳句をどう読むかを聞けてすごく面白かったです。私はこういう俳句を読むときに俳句としてよいかどうかを抜きにして基本的に読んでいるので、すり合わせのよい機会となりました。ありがとうございました。

木塚夏水◆貴重なお話をありがとうございました。皆さんの鑑賞も興味深く拝聴しました。今回念腹の俳句を読んで、ブラジルという日本とはまったく異なる環境の中においても、花鳥諷詠の教えにしたがって、最期まで季語を捨てずに俳句を読み続けたところが面白いなと思いました。季語をいれなくてはならないということは、ブラジルのような環境では縛りのようなものにもなるのかなと思うんですよね。その中でブラジルにも季節があるんだというアンテナを立て続けたという姿勢が、同時代には新興俳句などの無季俳句もあった中で、おそらくそういった情報も入ってきたのではと思いますが、そのあたりに左右されずに貫いていったところにこの人の個性があるのかなという風に思いました。以上です。

ぐりえぶらん◆私はまだ俳句を始めて4、5年で、句集もそんなにたくさんは読んでいないんですけれども、読むたびにこんな俳句があるんだ、こんなのもありなんだと驚いたり面白がったりしています。そういった意味では佐藤念腹の俳句はとっても面白かったです。ちょうど季語の種類が増え始めた初心者にこういう俳句があるんだよって紹介するのは刺激になるような気がしました。個人的にもとても面白かったです。ありがとうございました。

中矢温◆多分テキストとして読める句は単体で十分に面白いから独り立ちして読めるんですよね。「やっぱりテキストとして私は読みたいな」という感想を楓子さんからいただいて、今ぐりえぶらんさんにも面白かったといっていただいて、それは念腹の俳句の「巧さ」を裏付けているような気もしました。

黒岩徳将◆貴重な機会をありがとうございました。純粋に百句を読みあうということで、自分が持っていなかった視点、移民の立場あるいは人を見る立場みたいな視点を捉えながら読んでいくっていうことの発見をたくさん感じられたかなという風に思います。私は69番の「秋灯下」の句から意固地で頑固な念腹を想像して読みました。何かを守るというか、何かにしたがって読むというか極めるんだというか。その意志があるということは逆にそれ以外のものにはNOを突きつけながら戦っていくんだと思って。岸本尚毅さんが『畑打って俳諧国を拓くべし』の蒲原さんの著書を『角川俳句』11月号の「新刊サロン」のコーナーで書いているんですけど、虚子について「自分は公平な立場に立つという人は公平という二字を振りかざして安心しているが、畢竟何もわからないという自分の不明を表明している。」と念腹を擁護しているという一文があって、虚子怖いなと思ったんですね。何がいいたいかというと今回念腹を取り上げてみたところで、一体新興俳句とどう対立していったのか、史実としてメンバーを抜けたみたいなところはわかるんですけど、念腹が自分を守るために許せなかった俳句的価値観は何かってことを具体化・言語化していきたいなと思って。次は木村圭石の俳句を見てみたいなと思いました。

中矢温◆ありがとうございます。この前の東大俳句会で岸本さんが念腹の「ブラジルは」の句を引用されて、すごくびっくりしたのですが、今合点が行きました。11月号またじっくり拝読します。

西生ゆかり◆改めて「季語って何だろう」と考えました。例えば「雷」という季語を見て、我々の多くは日本の雷を想像すると思うのですが、ブラジル移民の句だと知った上で「雷や四方の樹海の子雷」という句を読むと、特に違和感なくブラジルの雷が想像される。日本の雷とは全然スケールの違うものかもしれないのに、「雷」という季語が使われ、作品として成立している。季語って不思議だなあ、言葉って不思議だなあ、と思いました。

外山一機◆ありがとうございました。自分が移民俳句に興味を持ったのも、もう10年くらい前なので、だいぶこの10年間で色々変わってきているなというのを感じています。事前質問にも新興俳句との絡みがあって、自分も興味のある分野ですので少しここで話させていただければと思います。新興俳句を移民の人たちは知らなかったのかというとそんなことはないんです。勝ち組雑誌の「旭号」というのがあって、昭和も終わりの29年に西東三鬼や石田波郷の句が紹介としてばーっと載っているんです。これを読んでいくと、選者をしていた石井青泉という人が結構俳句に詳しいことがわかります。1つ謎があって、これが分かったらすごいんですけど、昭和23年の「光輝」の細谷源三って誰?ということです。あと同じく「光輝」に載っている神屋洋史って誰?細谷源二、神生彩史ではなくって?ここらへんは謎でして、本当にわからないんです。それから、「馬酔木」を新興俳句に入れるんだったら、読んでいたと思います。ただ向こうの本の流通の仕方を考えると、大衆雑誌『キング』などは買えたでしょうが、俳句雑誌を本屋で買えたかというとなかなか難しいと思います。新興俳句の雑誌を読める人は稀だっただろうとは思いますね。そんなところです。本日はありがとうございました。

三世川浩司◆自分が普段触れない俳句に触れることができまして、どうもありがとうございました。新鮮であって興味深くもあって勉強になりました。ついでなんですが、ブラジルの俳句についてネットで探すなかで、こういった力作の論がありまして、児島豊 氏著:「勝ち組」雑誌にみるブラジル日系俳句--日本力行会資料調査から--です。ご興味のある方はぜひ読んでいただければと思います。

中矢温◆ありがとうございました。私も1年生の頃にサイニーの存在を知ったとき、知り合いの俳人の名前をどんどん検索欄に入れてみるという狂気じみたことをやっていたのですが、そのときにこの論を見つけて、拝読した次第です。今回一人で読書会を開くのは知識不足など不安でしたが、外山さんが補強や修正をしてくださるだろういう安心感から無事読書会開催にこぎつけました。私から最後に一言挨拶します。まずブラジル俳壇が一枚岩でなかったことを知れたのはよかったなと。じゃあ二枚かといわれたらそうでもなくて、なんだかずれてしまっている。念腹の強い光の下では見えないものも多いだろうと思って、もっと調べたいなという次第です。次に私が結社に入っていないこともあるかとは思いますが、また、師匠がいる人の中でも濃淡はあるでしょうが、何かを信じることの強さと恐ろしさは、俳句に限ったものでもないですが、とても感じました。3つ目はもし念腹が日本に残っていたらどんな句を詠んだのだろうと思いました。でも実はそんなに変わらないものを残したかもなとか。念腹にとって大事なのは「ホトトギス」の教えであって、荒っぽい言い方をすればブラジルは舞台装置だったのだろうなとことです。こんなところかな。

小川楓子◆一つ気になっていることがあってよいですか。景気のいいときに前衛俳句は絶頂を迎えて、景気の後退とともに保守的になるという傾向があると思うんです。それは美術の方でもあって、民藝という古い柳宗悦の価値観が不景気のときには流行って、景気がよくなると下火になって、また不景気になると流行るらしくて。こういうことは移民の世界の中でも同じような傾向はあったんでしょうか。そこらへんを教えてほしくて。あるいは、景気もそうだし、前衛俳句もそれほど貧しい人はいなかった。ある程度インテリ層だったイメージがあるので、自分の財産のあるなしは作品の保守的か自由的かの違いがあったのかが気になりました。高度経済成長期にばーんと自由なものが出て、今景気が落ち込んでいる中であまりそういうものは見ないなと。移民の世界でも、国が違ってもそういうのはあるのかな。

外山一機◆あまり考えたことがなかった話なのですが、そもそも俳句形式に携わるということ自体保守的なんですよ。何故向こう側においてはわざわざ一般的でない日本語を、失われゆくはずの日本語を、半ばなくなってしまうことが決定づけられている日本語を使うというのは、過去を振り返ってそこに自分の居場所を見つけるためですよね。どうしたって保守的なふるまいになる。中には「海程」に投句している人もいますけれども、それは珍しいというか、金子兜太が好きなんでしょうね。でも金子兜太のあり方にしたってそれを郷愁と結びつけることもできると思うんです。もし前衛というものがあるとしたら、おそらくhaicaiのポルトガル語の方です。そっちに行くならまだあり得るかなと思います。ただ増田恒河みたいに、「ホトトギス」からhaicaiに抜けていくという方向性だとそこまでは突き抜けられないのかなという風には思いますね。例えば完全にポルトガル語を使っているような人が、最初からhaicaistaたちと交わる中で、日本の俳句とは縁を切るかたちで作っていくならば伸びしろはあるような気がします。

小川楓子◆二世以降の人がポルトガル語で俳句を作ることはなかったんですか。

中矢温◆どうなんでしょうね…。ポルトガル語で俳句を書いている人たちは、俳句に興味があるというよりも、まずは漠然と日本文化への興味があってそこから俳句に行きつくのかなという印象があります。

外山一機◆私もそういうイメージです。よくのど自慢the worldみたいなのをテレビでやっているじゃないですか。で移民の子孫が出てきて、おばあちゃんが聞いていた演歌を歌うとみんなが喜ぶので、私も好きになっていって私も演歌を歌うようになります、歌謡曲歌っちゃいますという方いますよね。そういう感じのものとして日本語の俳句は共有されているのかなと思います。

小川楓子◆ありがとうございます。だから日本のありかたとは全然違うということなんですかね。

中矢温◆次回の課題ということで、持ち帰らせていただきたく思います。俳句というか作品と景気の関係はすごく興味深いですね。はい、では最後になりますが、私はポルトガル語だと同級生の中でもあまり成績も振るわず、俳句でも何かを成し遂げたわけでもなく。けれどこのようにかけ合わせることで自分が大事に調べたいと思うことを見つけられた気がします。ここらへんをこれからも掘り下げたいなと思います。では皆様、大変長丁場となりましたが、本日はありがとうございました。また何か機会ありましたら、誘ったり誘われたりで句会や読書会でお会いできたらと思います。

註は中矢温による。

〔 了 〕

佐藤念腹・年譜

佐藤念腹・年譜

中矢温作成(参考:蒲原宏『畑打って俳諧国を拓くべし-佐藤念腹評伝-』
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佐藤念腹100句:中矢温抄出

佐藤念腹100句:中矢温抄出


1927年
01 強東風のわが乗る船を見て来たり 
02 シンガポール
  日曜や扉に凭れ昼寝人
03 印度洋
  むらさきの流星垂れて消えにけり
04 土くれに蝋燭立てぬ草の露
05 八方に流るる星や天の川
06 井鏡やかんばせゆがむ昼寝起
07 雷や四方の樹海の子雷

1928~29年
08 渡り鳥わが一生の野良仕事

1930年
09 湯浴みして今日の日焼の加はりぬ

1931年
10 霜害や起伏かなしき珈琲園

1932年
11 瓜盗人野獣ならめとうそぶきぬ
12 野良煙草してひまな手の虻を打つ

1933年
13 雨期あけや地面の黴びの大模様
14 森暑し花仙人掌に雨降れど 
15 又丘の現れて月低くなる
16 豚の群追ひ立て移民列車着く
17 汽車へ来て菓子購へる枯野かな

1934年
18 木蔭より人躍り出ぬ野路夕立
19 投槍に飛びつく犬や蜥蜴狩
20 蜥蜴狩びつこの犬も勢子のうち
21 秋蚕飼うて俳書久しく借りにけり
22 顔のせて芭蕉葉食めり親子山羊
23 日雇いの乗り来る馬も肥えにけり
24 雨来とて犬すり寄れど棉を摘む
25 処女林の紅葉の下に耕せる
26 豚の親春霜の藁くはへ居り
27 春の風耕馬を叱る口中へ
28 夫婦して稼き餓鬼なり野良遅日

1935年
29 足裏を砥め去る豚や庭昼寝
30 切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
31 煉瓦工みな少年や春の風
32 春雷や二人乗ったる馬に鞭

1936年
33 野路夕立乙女に走り越されつゝ
34 瓜盗むみちはるばるとつけてあり
35 日雇いと短き昼寝覚めにけり
36 開墾もその日暮しよ秋の風
37 雇ひたる異人も移民棉の秋
38 森の雲なくなりしより朝寒し
39 冬蝿や乞食よぎる汽車の窓
40 四方より攻むるが如く樹海焼く
41 少し降る雨あたゝかし珈琲畑 
42 汲み終へし深井にもたれ春惜む

1937年
43 ブラジルは世界の田舎むかご飯
44 陽炎へる線路へ汽車を降りにけり 
45 深井汲む女かはりし蝶々かな

1938年
46 稲妻や隠れ家に似て移民小屋
47 日雇も天下の職や月の秋
48 彼の背我を睨める焚火かな 
49 毛布背負ひ目覚時計さげてゆく
50 誤字多き移民の投句瓢骨忌 

1939年
51 日焼子の日臭き頬よ頬擦りす
52 凶作や此処いらいつもバス迅し
53 耳削ぐも風邪の牛の手当てとや
54 移住して東西わかず道落葉
55 犬居りて牛喜ばず牧焚火
56 息白く言葉短かに気むづかし
57 夜逃せる教師に延びし冬休
58 どやしたる耕馬かなしく鼻取りぬ

1940年
59 夏草や投縄牛を獲つつ行く
60 旱魃や牧馬も斃れはじめしと
61 虚子門に無学第一灯取虫
62 汗寒く恐怖なしつゝ争へり
63 開拓のはてが籠編む夜なべとは

1941年
64 馬にのる拍車結へし跣足かな
65 枯野より犬這入り来ぬ汽車の中
66 花珈琲門入りてなほ馬に鞭
67 野焼人沼をわたりて集ひけり


1942~44年
68 騎初を追ふ子伜の裸馬
69 信あれば文は短し秋灯下

1945~46年
70 朝酒のあとの腹減る喜雨休
71 乳しぼる牛にさし来し初日かな
72 蛇蜥蜴からみ搏つなり草の中
73 腹這うて犬も飽きたり蜥蜴狩

1947年
74 汽車に会ひ牡蠣飯に叉日本人
75 毛糸編んで昨日の如しベンチ人
76 クリストの弟子の祠や冬木立
77 投かけて四方の窓に布圏(ママ)干す ※布団の誤植か
78 酔うて脱ぐ大きな靴や春灯
79 移民妻わらびを干して気品あり

1948年
80 没収を免れし和書曝しけり
81 ブラジル陋巷はなし新豆腐
82 襟巻きや神父と競ふ拓士髯
83 墓参して和語を話さぬ移民の子

1949年
84 瓜漬を食ひ結飯食ひ珈琲飲む
85 ズボンの娘モンペの母と井戸端に
86 肉馬車を追うて地を翔つ秋の蠅
87 干布団野飼の牛の戻り初む
88 病人も腹減りしとぞ草の餅
89 貰ひ水朝寝の窓に声かけず
90 老いてゆく夫に朝寝の妻若し

1950年
91 柿の影さして障子といふものぞ

1951年
92 井戸掘つてゐるを見に来し新移民
93 移民船隈なき月に沖がゝり
94 倖せとは世知らぬことか木の葉髪
95 糸瓜忌を明日に俳句の旅終る
96 春夜行くポ語を知らねば聞ながし
97 転耕を見迭るや馬とばしつゝ
98 馬の脊の籠にあたりて燕来る
99 耕や廿五年の切株と

(虚子が序文で引いているが句集に掲載はないもの) 
100 蚊食鳥ニグロ嫁とる灯の軒に

佐藤念腹読書会参加者5句選

佐藤念腹読書会参加者5句選

生駒大祐選
豚の親春霜の藁くはへ居り
煉瓦工みな少年や春の風
少し降る雨あたゝかし珈琲畑
虚子門に無学第一灯取虫
耕や廿五年の切株と

岡田一実選
又丘の現れて月低くなる
顔のせて芭蕉葉食めり親子山羊
春の風耕馬を叱る口中へ
酔うて脱ぐ大きな靴や春灯
柿の影さして障子といふものぞ

小川楓子選
強東風のわが乗る船を見て来たり
土くれに蝋燭立てぬ草の露
豚の親春霜の藁くはへ居り
春の風耕馬を叱る口中へ
春雷や二人乗ったる馬に鞭

樫本由貴選
秋蚕飼うて俳書久しく借りにけり
雇ひたる異人も移民棉の秋
ブラジルは世界の田舎むかご飯
誤字多き移民の投句瓢骨忌
井戸掘つてゐるを見に来し新移民

木塚夏水選
印度洋
むらさきの流星垂れて消えにけり
雷や四方の樹海の子雷
少し降る雨あたゝかし珈琲畑
汲み終へし深井にもたれ春惜む
馬の脊の籠にあたりて燕来る

ぐりえぶらん選
雷や四方の樹海の子雷
雇ひたる異人も移民棉の秋
少し降る雨あたゝかし珈琲畑
墓参して和語を話さぬ移民の子
貰ひ水朝寝の窓に声かけず

黒岩徳将選
雷や四方の樹海の子雷
切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
日雇いと短き昼寝覚めにけり
信あれば文は短し秋灯下
蛇蜥蜴からみ搏つなり草の中

西生ゆかり選
雷や四方の樹海の子雷
湯浴みして今日の日焼の加はりぬ
切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
日焼子の日臭き頬よ頬擦りす
没収を免れし和書曝しけり

外山一機選
豚の群追ひ立て移民列車着く
誤字多き移民の投句瓢骨忌
虚子門に無学第一灯取虫
開拓のはてが籠編む夜なべとは
春夜行くポ語を知らねば聞ながし

中矢温選
森の雲なくなりしより朝寒し
花珈琲門入りてなほ馬に鞭
信あれば文は短し秋灯下
毛糸編んで昨日の如しベンチ人
老いてゆく夫に朝寝の妻若し


三世川浩司選
井鏡やかんばせゆがむ昼寝起
秋蚕飼うて俳書久しく借りにけり
野路夕立乙女に走り越されつゝ
枯野より犬這入り来ぬ汽車の中
馬の脊の籠にあたりて燕来る

ゆう鈴選
渡り鳥わが一生の野良仕事
霜害や起伏かなしき珈琲園
切株に木菟ゐて耕馬不機嫌な
雇ひたる異人も移民棉の秋
移民妻わらびを干して気品あり