〔東人俳句を読む〕
散歩者のまなざし・断章
さいばら天気
東人俳句のツボは、例えば、この句にある。
カーテンのはさまつてゐる扉かな 東人(以下同)
こんな句を書いてしまうこと、こんな句から極上の「読む喜び」を受け取ること。後者の主体である私は、喜びを味わいながらも、うっすらとした悪徳の気分がある。「こんな句をおもしろがっちゃって、いいのだろうか?」といった罪の意識。
季語がない。「季語がなくても季感があれば」といった俳句的クリシェ(紋切型)については、どうだろう。強いて言えば「春」か。とも思うが、季感など、ない。さらにいえば「感」さえもない。
「感」さえもない……。この境地は、俳句にとって恐怖である。辺境どころではない、極北どころではない。なんだか、わけのわからない地点だ。「なんなのだ、この句は?」という地点。
詩もない。
あるのはカーテンと扉である。この点、かなりしっかりと、カーテンと扉が存在する。
●このカーテンの句は、「俳句」全体を凍てつかせるかのようだ。ついでに、「詩」にまつわる諸々の所業を凍てつかせるかのようだ。
俳句の一句一句が、季題というテーマのもと演奏される固有のパフォーマンスだとしたら(岸本尚毅『俳句の力学』「季題を演じる」)、言い換えれば、俳句より先に季題があるものだとしたら、どこにも季題(テーマ)を見出せないこの句は、俳句とは別の場所からやってきて、「俳句」のような顔をしてまぎれこみ、いつのまにかそこに坐っている「よく見たらヘンな人」なのか。あるいは、いったんは俳句たろうとして中途でその意思を放棄した「蕩児」なのか。
一方、詩性など、それそのものに価値があるわけではないから、備えていようが、皆無であろうが、詩と親しくあろうが、疎遠であろうが、読み手にとってさしたる問題ではない。それにまた詩性のどまんなかに位置するテクストと、はるか遠いテクストと、詩性を強く意識させるという点でしばしば同じ強度の愉楽をもたらす。
のであれば、それが俳句であれ、俳句ではない何かであれ、語を一行に連ねて書くという意義に対する揺さぶりとも読めてしまうのだ。「カーテンのはさまつてゐる扉かな」という句は。
●ある種の俳句的感興(因習的な感興の誂えと、それに即した読み)の忌避が、東人俳句にある。擦り切れた感興と描写に退屈し、実は何処にもない(絵葉書のような)風景に退屈する。だが、かといって、それを詩的な処理によって免れようとはしない。
イメージよりもブツが優先される。
肌寒やセーラー服を吊るす家
山口東人は、俳人であるまえにリアリストであり、観察者である。
馬喰横山見知らぬ国の毛皮吊る
●あざとい句もある。
春の山太田トラなる仲居ゐて
太田トラ。これだけでおもしろがっていいものかどうか。おもしろがってしまうのだが。
「春の山」の包容力のなかで、太田トラも仲居も素材として生きる。このあたりは「俳句の力」だろう。俳句をうまく利用することも大切なことだ。
●ブログ「
東人雑記」はトポフィリ(場所への愛)に満ちたブログだ。東人さんは民俗、とりわけ産業史に興味をお持ちで造詣の深いが、その産業を語るときも、場所(土地)との繋がりが色濃い。
この30句のなかにもトポスがある。若狭湾、杉並区、平和島、馬喰横山。あるいは、ヒゲタ醤油、伊藤仏具店、ブリキ屋、帽子屋、原発といった事物からも、トポス的な感触が伝わる。
山口東人は、感じるよりも先に歩く人なのだろう。別の言い方をすれば、「感じるには歩くほかない」という人。吟行という因習から遠く、場所を見、事物を見る散歩者。
散歩者が網戸のそばを通りけり
この句の散歩者こそが東人さんであるような気がしている。東人さんの怪しく執拗なまなざしが行き過ぎるのを、私たちは網戸越しに見る。
執拗の果ての恬淡、執拗の果ての「投げ出し」感もまた、東人俳句の特徴のひとつなのだ。
●30句を通して読むと、幅広く多様な〈脱力〉〈ばかばかしさ〉〈諧謔〉〈風狂〉が繰り広げられているが、そのどれもが「東人流」であることに惜しみない拍手。
だが、マニアの常として、この喜びを他の人たちと共有したくない。お願いだから、この30句を読んで、かるがるしく「おもしろい」だなんて思わないでいただきたい。「どこがおもしろいの? つまらない」という読者が多ければ多いほど、私は嬉しくなる。
だったらなんで週刊俳句に載せたのか?ということになるのだけれど。
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