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2021-12-11

優しい人 田邉大学 10句


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優しい人  田邉大学

麦の芽を何度も風のやりなほす
浮寝鳥ルーズリーフに穴一列
冬うらら松を支へる木の柱
月よりも雲の明るく十夜寺
煮凝のすこしく箸を押し戻す
少女来て少年の去る龍の玉
がくがくと冬蝶の飛ぶ日暮かな
盆地にも海の匂へる波郷の忌
白菜を真二つにして優しい人
落葉飛ぶなかを烏の跳ねてをり

2021-04-18

【週俳3月の俳句を読む】頭と身体の休息 田邉大学

 【週俳3月の俳句を読む】

頭と身体の休息

田邉大学


訳あって一週間ほど入院した。慣れない環境もあって句作は捗らなかったが、句集を読んだり、映画やドラマを観たり、のんびりすることができた。普段それほど忙しい生活を送っているわけではないが、一週間丸々のんびりするということは稀で、頭と身体のいい休息になり、心もすこしスッキリした気がする。今回の休息が、今後の俳句づくりにおいて生きてくることを期待したい。 


対岸の飛び地へ続くいぬふぐり  篠崎央子

市町村の境目は山や川を基準にすることが多いようだが、この場合は対岸にもこちらの町の飛び地があり、それを示すかのように犬ふぐりが群れている。川を挟んで同じ植物が群生することはよく見る光景で、いわば当たり前だが、飛び地という認識があれば、どこか特別なものに思えてくる。

やきそばは半額梅が枝は湾曲  篠崎央子

縁日が出ているような梅見の光景だろうか、一句の中の勢いと韻が心地良い。描かれている内容は至ってシンプルで簡潔だが 韻文の視点で切り取ることでどこか楽しげで賑やかな雰囲気までしっかり見えてくる。個人的には焼きそばのソースの茶色、梅の少し濃い桃色、といった、一句の中の色の掛け合わせの俗っぽさが好きだった。

笛吹きて猫の貌なる明治雛  篠崎央子

雛人形が猫の貌というのは言い得て妙。子供の頃はあの薄い目と小さな口がどことなく不気味で苦手だったが、猫の貌と言われるとどこか可愛らしくも思えてくる。 

苗木売雲の匂ひの荷をほどく  篠崎央子

作中主体はおそらく雲を嗅いだことはないし、僕自身もないが、苗木の瑞々しい感覚は、苗木の時期の雲にも繋がってくる。苗木売の表情や様子は直接描かれていないが、どこかゆったり、のんびりと作業をしているのだろうといった想像も働く。

山葵摺る夜や探査機の着陸す  篠崎央子

一見脈絡のない取り合わせにも見受けられるが、普段それほど馴染みのない作業と、探査機が着陸する非日常はどこかで響き合うところがあり、不思議な空間を一句の中に作り出している。料理に添えるだけの山葵を、わざわざ自分で摺るところから始めるこだわりも素敵。 


水温む机の脚を組み上げて  中西亮太

引越しか、模様替えか、新しく購入した机を組み立てている。まだ未完成で、脚だけがある机のフォルムが少し不思議で面白い。季語の水温むと木製の机のほんのりあたたかな雰囲気がよく合い、どちらも新しい季節、生活、静かな始まりの気分に満ちた句だ。 

永き日や黒鍵白鍵より軽く  中西亮太

黒鍵が白鍵よりも少し軽い、といった気付き、作中主体がひとつずつ鍵盤を押してみて確かめている様子もすこし浮かんでくる。鍵盤の黒と白のコントラストと、だんだん長くなっていく日中の時間との対比も素敵だと思った。

掃く人の椿壊してしまひけり  中西亮太

箒の先が当たったのか、それとも掃くうちに身体が椿に触れたのか、さまざまな様子が想像されるが、「壊してしまひけり」という表現がミソだと思う。散らす、落とす、ではなく壊す、少しわかりにくい表現にも思えるが、椿の複雑な造形や鮮烈な紅の色味を考えると、これくらいが適切なのかもしれない。 

祝祭のあとしづかなる春の村  中西亮太

村だから、何か伝統的な行事だろうか、インターネットや交通網が発展した今では、都会の暮らしと田舎の暮らしにそこまで大きな差はないように感じるが、それでもこの祝祭のときだけは、普段の日常から隔絶されたような、独特の雰囲気があるのだろう。それらが終わって、また村に普段の生活が戻ってくる。一句全体が雄弁過ぎないのが良い。 


勝てる気の全然しない猫柳  近恵

どこかぶっきらぼうな感覚が魅力。あくまで猫柳との取り合わせと受け取った。猫柳は普段見る植物とは一風変わったフォルムだが、猫柳ならではの親しみやすさ、穏やかな空気感があるように思う。全体のフレーズの中に猫柳だからこその心地の良い諦観が漂っている。 

牛乳を零し春泥おいしそう  近恵

歩きながら飲んでいたのだろうか、誤って少し零してしまった牛乳をポジティブに捉えている。おいしそうに見えるくらいだから、春泥はチョコレートかコーヒーか、いささかファンタジーの度合いが強すぎるようにも感じるが、あたたかくなり、外で牛乳を飲みたくなるような春の空気感があるなら、これもありだと思った。 

木蓮が光って海をひとが来る  近恵

木蓮が光ること、海から人がやってくること、それぞれがセットのように描かれている。日本人の祖先は、中国大陸や朝鮮半島といった大陸方面から海を渡ってやってきたようだが、この句の季語、木蓮も中国大陸原産だそう。シンプルな景だが、どこか神秘的にも読み取れる。 

雪柳墓石わずかにずれている  近恵

随分と時間が経ち、誰もこなくなってしまった墓か、正しい位置にあったはずの墓石がすこしずれている。とはいえ、さびれた墓地の悲しい雰囲気はこの句にはなく、雪柳が咲き誇るなかで、ゆっくりとした時間が流れ、春のあたたかな陽気まで感じられる。

ぬけがらの何処かで燃えている野焼  近恵

燃えているぬけがらが、いったいなんのぬけがらかなのかは示されていない。だが、野焼の静かに煙が上がる様子、すこし温かな空気、どこかさびしげな様子もあり、ぬけがらが燃えている、という捉え方は確かにわかる。野焼き自体は、新しい植物の成長のために行うもので、さびしすぎるだけの句に終わらないことが良いと思った。 


雪下ろす黄色の屋根は我が家のみ  須藤 光

雪が積もれば、屋根の色に関わらず、一面真っ白であるが、すこし雪を下ろすと、自分の家の黄色い屋根が露出する。白い世界にほんのすこしだけ、黄色が顔を出す描写がユニークで楽しい。わざわざ俳句に詠むぐらいであるから、作中主体はよほど黄色い屋根を気に入っているのだろう、そんなところまで想像が及ぶ。

夕燕雑木林に鳴るラジオ  須藤 光

雑木林とラジオの取り合わせが良い。どちらもすこし煩雑な雰囲気があり、濁音が調べのアクセントになっている。一日の終わりにラジオを聴きながら雑木林の道を戻る。身体は疲れていても、心は充足感がある、そんな雰囲気を感じることができる。

ただ一重一重に漆里燕  須藤 光

漆器の製造過程では何回かに分けて漆を上塗りする。現代では合成樹脂による漆器も多いようだが、この句では昔ながらの木製の物を想像したい。漆塗の伝統文化を受け継ぐ職人と里山に暮らす燕、どちらにも丁寧な空気感が流れている。朱色や黒色の光沢を持つ漆器と、つるりとしたフォルムの燕、どちらも相性抜群に感じられた。

米屋には亭主が一人春の雨  須藤 光

商店街だろうか、他の店舗には複数の店員がいるのに、米屋には亭主がただ一人居るのみ。店先に米の詰められた袋が沢山積み置かれ、中もやや薄暗い。一人でどっしりと構えているわけでもなく、かといって寂しそうでもない、そんな様子が、春の雨の季語から読み取れる。


第724号 篠崎央子 猫の貌 10句 ≫読む

第725号 中西亮太 祝祭 10句 ≫読む

第726号 近恵 どこかで 10句 ≫読む

第727号 須藤 光 故郷 10句 ≫読む

2020-11-22

【週俳10月の俳句を読む】俳句の調子 田邉大学

【週俳10月の俳句を読む】
俳句の調子

田邉大学


趣味で、パワーリフティングをやっているのだが、関節や筋肉の調子があまりよくないときに、意外と普段より重い重量が挙がるときがある。俳句にも少し似たようなものがあって、あまり良い句が作れない、俳句の調子が悪い、と感じているときに、ふと、とても満足のできる良い句を作れるときがある。どちらもこつこつ毎日取り組んでいればこそ、このような思いがけない報酬があるのだと思う。


夜寒なり手をつけて大学の門  郡司和斗

大学の重厚な門には、他の門にはない安心感がある。煉瓦造りだったり、大学名があしらわれた銅板も緑青で覆われていたりして荘厳だ。季節の移ろいの中で、夜寒を実感することは多々あるが、これが夜寒だ、と強い確信を持つことは珍しいと思う。この句は「夜寒なり」と強い言い切りを用いているが、大学の門はそれらの言い切りを十分に受け止められるスケールを持っているように思う。

彫刻を映して汝(なれ)の眼のしづか  同上

誰かと美術館にでも来たのだろうか。彫刻そのものも静かであるが、それを見る相手の眼も静か、というのが面白い。句の中では描かれていないが、それを見つめる作中主体自身もどこか静謐さを湛えていて、彫刻と汝を邪魔しない。三者の静けさがそれぞれ少しずつ見えているが、しつこくない、美しい句だと感じた。

壁越しの嘔吐の声や秋の草  同上

全体のフレーズから読み取れるのは、俗な景だが、生の実感のようなものも確かに湧いてくる。秋の草が、春の草や夏の草にはない、生命としてのしぶとさ、経験してきたことの多さを感じさせる。嘔吐の声の主や、それを壁越しに聞いている主体も、同様に様々なことを経験して、ここにいる。シンプルだが、考えさせられた句。

目薬の眼より零るる赤蜻蛉  同上

眼の縁から流れていく目薬、その目薬で十分に水分を帯びて艶やかな眼球、赤蜻蛉が少し脈絡無く感じられるが、取り合わせとしてとても面白い。赤蜻蛉の群が、目薬を指すために上を向いた眼に、さっと映り込む、そういった様子まで想起させ、ミクロな視点の句。

秋の初霜を蛇行の兄と姉  同上

秋の初霜の降りるころの道や芝生などを想定し、兄と姉の二人がはしゃぎつつ霜の様子を眺めたり、触ったりしている様子を想像した。筆者も三人兄弟なのだが、意外と末っ子のほうが落ち着いていたりする。末っ子視点で見た兄と姉か、はたまた親の視点かはわからないが、年上二人がはしゃいで年下が穏やかなのは面白い。季節は冬へと向かっていくが、多分この兄弟は、一年を通してこんな感じ。


孤独の島みたいに浮かんでる水蜜桃  桂凜火

桃という果実の不思議さを言い留めていると思う。上五の字余り、切字を用いないことで、ふと思い付いた呟きのような雰囲気が演出される。水の上に浮かびつつも、表面の細やかな毛が水を弾く感じが、孤独さを裏付けているのではないか。

水っぽい午後のテラスや色鳥来  同上

午後の陽光がテラスの地面に当たって揺蕩う様子、周囲の樹の影などが穏やかに映り込む様子は、確かに水辺や水の中を連想させる。山や森に近い喫茶店をイメージした。色鳥も句のフレーズを邪魔することなく、うまく溶け込んでいて、どことなく安心感や懐かしさを覚える光景。

ぬすびとはぎいにしえびとの身軽さよ  同上

現代では、物を持ち歩くことが多くなったように思う。旅行に行くとなれば、スーツケースに衣服や日用品を詰めるし、少し出掛けるのにも携帯や財布、ハンカチなどを持ち歩く。交通の手段が徒歩か馬くらいしかなかった昔であれば、この句のように身軽だっただろう。盗人萩の不思議な形がよく響き合うし、昔の人の身軽な衣服に盗人萩の実がいくつも付いているかもしれない、そういったことまで想像が広がる。

くたばるとき盛装でゆくよ酔芙蓉  同上

「くたばる」の表現、「ゆくよ」の口語から作中主体との関係性が見えてくる。牡丹や百合ほど派手ではないが、かといって落ち着いた花でもない、酔芙蓉が丁度良い華やかさを句に与えていて、「くたばる」ともよく響き合う。


蜩や誰も笑ってはいない  田中泥炭

蜩の物悲しい声、笑っているように思えても、誰も笑ってはいない、淋しすぎる光景に思えるが、案外、これが日常生活の中に潜む真実であるような気もした。表面上は仲良くしているように思えても、実は心の中で嫌悪感を抱いていたり、さして面白くもないのに愛想笑いをしていたり、人間世界のドロドロした部分の悲しさがより引き立っていると思う。

狼の屍を分ける人だかり  同上

解剖か、狩りの後かはわからないが、すこし恐い句、それでいてリアルな空間が描かれている。誰も狼の屍体を積極的に見たくて群れているわけではないが、全く興味がないわけでもなく、見ないわけにはいかない。狼という季語だからこそ出せる、句全体の雰囲気、独特の世界観が魅力的だった。

凍凪や心拍を肺迫り上る  同上

風がなく、静かで寒い空気の中だと、自分の身体の中の感覚が研ぎ澄まされる。心臓と肺、生命の維持に欠かせない二つの臓器を関連付けて描くことで、自分以外に息づく生命のない凍凪の厳しさがよりいっそう強調される。お互いがお互いを補い合い、支え合うような、季語とフレーズの作り。

白昼の植民地より黒蝶来  同上

白昼と、植民地と、黒蝶、それぞれの名詞が互いに影響を及ぼしあって、それぞれを引き立てる、そんな句であると思う。植民地と黒い蝶の取り合わせが、植民地の置かれた厳しい状況やこれまでの歴史などに想像を及ばせ、白昼の白と黒蝶の黒が、それらを裏から補強するように後から遅れて現れる、読んでいてそんな印象を受けた。


花梨の実鞄の闇の甘くなる  藤原暢子

花梨の実が甘くなるのは単純だが、鞄の闇が甘くなるのは意外性があって、それぞれの落差が面白い。闇が甘くなる、という表現は少々難解な気もするが、辛くなったり、苦くなったのでは納得がいかない。甘いという言葉の持つ独特の感性が、鞄の中の薄暗い闇に丁度良い。「花梨の実」「鞄の実」で韻を踏んでいることも、句の不思議な世界観を醸し出すのに一役買っている。

毬栗のたくさん当たる石仏  同上

棘のある毬栗が、硬い石仏にいくつも当たる、言うまでもなく石仏に感情はないが、穏やかな表情であるはずの仏像が、だんだん無愛想で不機嫌にも見えてきてコメディチック。句の中の時間経過も、石仏の感情の動きまで想像させる余白を引き出していて楽しい。

仰向けを空へ見せれば小鳥来る  同上

実際は、自分が仰向けになっただけで、小鳥も多分少し前から渡って来ているのだろうが、空側の視点に立って描くことで、より気持ち良さが増す。秋の、爽快で楽しい気分が伝わってくる。

爽籟や伐り出されては薫る木々  同上

「伐り出されては」が面白い。何本もの木が、伐られては運ばれていくが、その度に匂いを残していく。「爽籟や」で、切れてはいるが、作中主体は何度も何度も爽籟を感じているだろう。読者としても繰り返して何度か読みたくなる句。

コスモスを揺らせる息のいつか風  同上

吐息の小さな空気の流れがやがて大きな風になる、という把握が新鮮である。普段何気なく起こしている空気の流れ、本のページを捲ったときや、服を勢いよく脱いだとき、机の埃を払ったとき、などの流れも、降った雨が川になり、やがて大きな海に繋がるように、いつか大きな風になる、スケールのある句だと思う。コスモスが息で揺れるほど、顔と近い位置にあることも、映像として面白い。


【対象作品】

郡司和斗 夜と眼 10句 ≫読む

桂凜火 盛装でゆくよ 10句 ≫読む

田中泥炭 風 狂 10句 ≫読む

藤原暢子 息の 10句 ≫読む

2019-09-15

【週俳8月の俳句を読む】爽快さ 田邉大学

【週俳8月の俳句を読む】
爽快さ

田邉大学


俳句は俳句として完成されてるのに鑑賞それを別言語で言い換えるからな…

この文章を書く数日前、友達とそんな話をしていた。確かに俳句のなかには、言語化するのが難しい魅力を持つ句や、言語化すると陳腐になってしまう壊れやすい詩性を持つ句もある。それでもその句にしっくりあった鑑賞を発見すると、句のそれまでどう言えば良いかわからなかった魅力的な部分がするりと紐解けて見えてくることがあり、その句をもっと好きになることができる。数学の問題を解くような爽快さが鑑賞という行為にはある。その爽快さを味わうためにこれからもどんどん鑑賞して、じっくり言語化していきたいと思った。


しなやかに猫の重心なつやすみ  菅原はなめ

ネコ科のしなやかさは動物の中でも有数のものだろう。あえてネコの「重心」にまで注目することによって、さらにしなやかさに補正が入る。縁側で丸まって休む猫の身体つきのしなやかさ、ブロック塀や屋根などを渡り歩く様子のしなやかさ、様々な「しなやか」を想像させてくれる。不思議なのは、なぜ「なつやすみ」がこの句に合うのかだろう。単に漢字の「夏休み」ではいけない。開かれてひらがなの「なつやすみ」でないと休暇の自由な感じ、のびのびとした感じを演出できない、そして何よりしなやかさが演出できないのだ。そう思うと、「なつやすみ」の文字が何だかたくさんのしなやかな猫のようにも思えてきた。

地球また宇宙の一部飛び込みす  同

上五中七の大胆なフレーズに大胆な飛び込みがよく響きあう。飛び込みの一瞬、宇宙から地球を俯瞰しているようなそんな印象すら受け、地球や宇宙、プールなどに共通する青さまでも鮮明に感じさせる。「地球また」の「また」に思うのは、飛び込んでいる作者自身も宇宙の一部であるということ。どこにいても変わらないだろうその事実に少し安心感を覚えた。

海獣の皮膚の手ざわり水着脱ぐ  同

海プールから上がった後の水着のざらざらとした感触がおしゃれに描写されている。「手ざわり」「水着脱ぐ」の間に何も言葉を挟まないことによって、句全体にむしろリアリティが出ているように思う。水中では身体を包み込み一体感のあった水着も、水から一度上がってしまえば海獣の手ざわりの別のものになってしまう、そのような中に、儚さにも似た穏やかなエロシチズムを感じた。


ひぐらしの声しあはせに耳小骨  倉田有希

耳小骨は中耳内に存在する、鼓膜に音を伝えるための小さな骨。そんな小さな骨が「しあはせ」になるまでひぐらしの鳴き声が届いている。夏の日中、煩く聞こえるセミの鳴き声も秋の夕方の涼やかな時間ともなれば心地良く聞こえる。一方で、作者の耳小骨の心地良さとは対照的にひぐらしの鳴き声特有の哀愁、ひぐらしという蝉自体の生命はかなさにも想像が及ぶ。そんなふうに思うのも旧かなの「しあはせ」の効果か。

百舌鳴いて鳴いて単焦点レンズ  同

今回、特に鑑賞の難しかった句。「鳴いて」の繰り返しを単に二回鳴いたと取るだけでは面白くない。ここはあえて鳴いたのは一回で、ひとつ目の「鳴いて」、とふたつ目の「鳴いて」は同じものと取ってみたい。始めの「百舌鳥鳴いて」と次の「鳴いて」の間に一呼吸置くことになる。そうすると、この一句の中で「鳴いて」の繰り返しが切字の「や」のような効果をもたらしてくれることに気付く。「単焦点レンズ」まで読み下したあとにまた「鳴いて鳴いて」に戻ってきたくなるような、そんな面白さがある、不思議な句だと思った。

写真機は嘘をつきます秋桜  同

カメラは見たものをそのまま写すことができる。一方で、カメラによって切り取られたその瞬間は必ずしも真実であるとは限らない。悲しい気分のときでもカメラを向けられれば笑わないといけなかったり、またその逆もありうる。そのような写真機の残酷さを「嘘をつきます」の口語表現で和らげ、嘘をつくということすら愛せるような気持ちにさせてくれる。そのような印象を受けるのは秋桜という、明るく、それでも秋特有のふわりとした淋しさを持つ季語ならではだろう。


真白き豪雨宵山の四条  玉貫らら

宵山のときの四条の賑わいは凄まじい。山鉾を始め、露店などが立ち並び、周囲は観光客でごった返している。そんなときに豪雨に遭った。観光客が一斉に地下や周囲の建物に避難する。筆者は人混みがあまり得意ではないので実際に遭遇したいか、と問われれば微妙だが、浴衣の人々の早く雨がやむことを期待する会話や、露店のテントに当たって弾ける雨粒の音などまでが想像される。宵山の京都ならではの光景だと思った。

弾痕は維新の名残青蔦葉  同

京都に暮らしていれば、明治維新に限らず、様々な歴史を感じることがある。教科書に載っている史実がそのまま私達の生きる時代にまで繋がっていることを思い知る。ここでいう「維新の名残」は禁門の変の際の蛤御門の弾痕や、鳥羽伏見の戦いの際の魚三楼の弾痕などであろう。「青蔦葉」はそのまま、歴史的建造物自体の様子でもあり、これまでもそしてこれからも途切れることなく続いていく私たちの歴史のメタファーとまで受け取って良いかもしれない。

保護犬と籠いつぱいの玉ねぎと  同

玉ねぎには独特の哀しさと力強さがあると思う。玉ねぎにしかないフォルムと、生のときは辛味があり加熱すると甘くなるという変化、さつまいもやかぼちゃとは異なる温もりと安心感があるように感じる。そんな野菜が籠いつぱいにあることと、「保護犬」が取り合わされることによって、保護犬が持つ孤独と、保護されたという安心、ふたつの部分が響き合ってくる。似たような部分を持つふたつの名詞だからこそ「と」で結ばれて、次に繋がる余韻が残るのだと思う。。


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642 2019811
倉田有希 単焦点レンズ 10句 ≫読む
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