【西川火尖『サーチライト』評】
2022-03-13
石原ユキオ 西川火尖『サーチライト』の一句(動画)
Posted by wh at 0:07 0 comments
Labels: 西川火尖, 西川火尖第一句集『サーチライト』特集, 石原ユキオ
2020-08-09
【週俳7月の俳句を読む】 甘く切ない愚行 石原ユキオ
Posted by wh at 0:05 0 comments
2016-07-10
〔特集 BARBER KURODA〕アーモンドバター 石原ユキオ
〔特集 BARBER KURODA〕
![]() |
クリックすると大きくなります |
アーモンドバター 石原ユキオ
天然の月代ですねと言うてくれる薄毛の軍師バーバー黒田
開店を告げる法螺貝とどろいて本日パンチパーマ半額
モノレール廃線したる悔しさに夜毎ふるえる高尾アパート
★★★★★ヘッドスパ最高でした。また来年きます。(おさかべ・年齢ひみつ?)
アーモンドバターひと瓶費やして結い上げられた甘やかな髷
手柄山展望喫茶回転が速まりついに消えてしまった
賛美歌なのか念仏なのか髪の毛を掃き集めつつごきげん黒田
今週も乱世を生きる俺たちはバーバー黒田で月代を剃る
Posted by wh at 0:53 0 comments
Labels: 石原ユキオ, 特集BarberKuroda
2015-02-22
ぼんやりを読む ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって) 柳本々々
ぼんやりを読む
ゾンビ・鴇田智哉・石原ユキオ(または安心毛布をめぐって)
柳本々々
毛布から白いテレビを見てゐたり 鴇田智哉
(「瞼」『句集 凧と円柱』ふらんす堂、2014年)
この句に対して、こんな問いから、始めてみたいと思います。
「白いテレビを見て」いるとはいうものの、この語り手は、ほんとうは《なにも見ていないことをしている》んじゃないかと。
「白いテレビ」とは、なんでしょうか。画面でしょうか、番組でしょうか、それとも白い筐体のテレビそのものなのでしょうか、あるいは語り手の脳内が雪原のようにブランクな状態にあるのでしょうか、もしくはこの世界そのものがこの世ではない〈彼岸〉なのでしょうか。
わかりません。
この〈わからない〉が実は大事なのではないかと思うのです。〈ぼんやり〉した〈見る〉という不分明な状態にあることが大事なのではないかと。
近森高明さんが『無印都市の社会学』において、ベンヤミンの〈気散じ〉という意識の集中の対極にある概念を、〈身散じ〉として身体レベルにまで接続させながらこんなふうに語られています。
どこにでもあるジャンクな消費装置を〈身散じ〉的に享受している私たちは、ある意味でゾンビ的であるだろう。思考のスイッチを切って、漫然と習慣にまかせながら、店内をうろうろする姿。店内空間のアフォーダンスにまるっきり操作され、空間設計者の意図どおりに翻弄されるがままの姿。どこからともなく同じ場所に集まってきて、互いに意志疎通をはかるでもなく、それでいて何となくつかず離れず一緒に空間を共有している姿。思考のスイッチを切り、なんとなくぶらぶらと空間を占有するゾンビ的存在。たとえば『スピカ』にてゾンビ小説/ゾンビ俳句の連載をされた石原ユキオさんの『HAIKU OF THE DEAD』(http://spica819.main.jp/tsukuru/tsukuru-ishiharayukio)においてもこんなふうなゾンビの〈内面〉が語られていました。
いや、そう考えると「無印都市」にぼんやり浸っている私たちは、まったくゾンビ的である。
(近森高明『無印都市の社会学』法律文化社、2013年、p.18-9)
「美味しい。世界全部がぼんやりときれい。朝焼けかな。山火事かも。」
「ぼんやりときれい」。おそらくこの言葉は、鴇田さんの句の「白いテレビ」とつながっているのではないかと思うのです。それは〈気散じ〉のままの〈見る〉ということであり、「毛布」をかぶったままのリラックスしたうつろなゾンビのような〈身散じ〉からの〈見る〉という行為です。
石原さんのゾンビ俳句には、〈身散じ〉=〈ぶらぶら〉ならぬ、実際に身体が散っていくようなゾンビ俳句がゾンビ・テクストのなかで語られていきます。
野犬ガクハフル我ガ左手ヤ盛爪 石原ユキオ
下半身ナクテ愛ヅル 〃
鴇田さんの句が観念的〈気散じ〉の様態から世界を見つめることをあらわしている句であるならば、石原さんの句は身体=モノのレベルにおいて〈身散じ〉から世界を見つめている句なのではないかと思うのです。
そしてどちらも自らの主体を散らせつつ、その意味で〈ゾンビ〉でありつつ、「白いテレビ」=「ぼんやりときれい」の場所に行き着いている。
「見てゐ」ることが、〈なにか〉を見ることにも、〈どう〉見るかも、〈どこ〉を見るかも、問題にはならないような場所で。それは〈見る〉ことがベクトルをもった〈見る〉こととして組織化されない場所です。
むしろ〈見る〉ことがそのまま同語反復的に〈見る〉ことであるような、〈見る〉ことにしかならない、現実も虚構も意味も非意味もない〈触感〉としかいうべきことばをもたないような〈見る〉こと。
けれども、その〈触感〉としての〈実感〉は「毛布から」と鴇田さんの句に語られているように、〈横〉になる身体として、或いは石原さんの奪われ散り喰われていく身体のように、身体が十全であることの機能をやめた状態での〈非-身体〉として〈見る〉ことがたちあげられている。
だから、それは、《ぼんやり》している。強度のある《ぼんやり》であり、ある意味、積極的で戦略的な《ぼんやり》です。
身体が身体であり損ねること。江戸川乱歩の小説の語り手たちが這ったり、腹這いになったり、体育座りをしながら、いびつな世界を語りつづけるように、身体とは、いうまでもなく、〈見る〉ことと強い結びつきがあります〔*〕。
近代的な〈見る〉こととは、おそらくは、〈歩く〉ことでした。きちんと目的をもって、姿勢よく立って、目的地までずんずんと歩くことだった。それは小説の語りや描写とも関連しています。〈歩く〉ことが〈見る/語る〉ことであり、〈語る/見る〉ことが、〈歩く〉ことだった。武田信明さんが夏目漱石の『草枕』を例にとりながらこんなふうに指摘しています。
「余」の歩行には、いくつかの意味がある。プロットを排すること、そして歩行の軌跡によって作品を縫い合わせること、そして眼そのものを移動させることである。つまり歩行は観察と不可分の関係にある。見ることには刹那的な時間しか流れないのに、観察者の移動は時間の継続を補填し続けるからである。それゆえ「草枕」において求められたのは、画工が観察することではなく、彼が歩き回って観察し続けることだったのである。けれども、毛布をかぶった観察者は、身体が朽ちていく観察者は、ぼんやりとしたゾンビ観察者は、近代的な〈正しい〉観察者にはなれない。毛布をかぶったままひとは歩かないし、アキレス腱をかじられたあとで、誰も吟行には行こうとはしないだろうから。
(武田信明「「写生」と「歩行」」『岩波講座 文学7 つくられた自然』岩波書店、2003年、p.238)
つまりそこには正しい直立の歩行する観察者としての〈写生〉の挫折があり、〈写生〉の挫折からの、〈ぼんやり〉の提唱がある。
〈ぼんやり〉を俳句領域でたちあげること。
それが、鴇田さんや石原さんがゾンビ的ぼんやり身体でなしたことなのではないかと思うのです。
それをたとえばドゥルーズにならって、〈運動イメージ〉から〈時間イメージ〉への転回といってもいいかもしれません。
時間イメージにおいては、登場人物の行動とは全く無関係に空虚な時間がただ流れていく。ここにあるのは、その中で起こることとは無関係に《ただ流れていく時間》を《直接に提示する》イメージである。意味を剥奪された純粋なイメージという意味で、「光学的-音声的なイメージ」とも呼ばれている。「白いテレビ」=「ぼんやりときれい」はドゥルーズ=國分功一郎風に言い換えれば、「意味を剥奪された純粋なイメージ」である。身体の運動や行動が意味をもたず、だからこそ、そこには独特の時間の磁場が生成されていく。そんなふうに、おもうのです。
(國分功一郎「思考と主体性」『ドゥルーズの哲学原理』岩波現代全書、2013年、p.108)
わたしはいま毛布をかぶりながらこれを書きはじめ、毛布をかぶったままこれを書き終えようとしているのですが、そういえば太宰治というひとがかつて〈女生徒〉というやはり都市を〈気散じ〉=〈身散じ〉のままぶらぶらする語り手をとおしてこんなふうにいっていました。
人間は、立っているときと、坐っているときと、まるっきり考えることが違って来る。坐っていると、なんだか頼りない、無気力なことばかり考える。私と向かい合っている席には、四、五人、同じ年齢(とし)恰好のサラリイマンが、ぼんやり坐っている。そうなんです。
(太宰治「女生徒」『走れメロス』新潮文庫、1998年、p.87)
人間は、毛布をかぶってると、いつもとちがう身体の状況では、ちがうことをかんがえる。ちがうものを、みはじめる。「テレビ」だけじゃない。身体を〈横〉にさせる「毛布」もまたメディアだったのです。安心毛布(セキュリティ・ブランケット)を見出した毛布のスペシャリスト、スヌーピーのライナスも、そういっています。
人生ってのはびっくりすることだらけだっていうね。何もかも見つくしたって思ったちょうどそのときにそうじゃなかったことを思い知らされるのさ ライナス
【註】
〔*〕たとえばルキノ・ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』(1971)を思い出してみましょう。これは、大ざっぱに要約すれば、アッシェンバッハ教授が想いを寄せる少年をえんえんと〈見つづけ〉る、ただそれだけの映画です。ここで注意したいのが、少年を〈見〉つづけるアッシェンバッハはつねに〈立って・歩行して・ストーキングして〉少年を見つづけていたのであり、アッシェンバッハが座った瞬間、へたりこんだ瞬間、アッシェンバッハはなにも見えなくなる、あるいは〈死〉にむかうという〈見る〉ことと身体の姿態の関係性です。むしろこのときアッシェンバッハは少年をストーキングしつづけている自分自身をみているといっていいかもしれません(座り込み、身体を円環へと近づけたことで)。そしてアッシェンバッハが少年をみることをやめるとき、つまり、座ったままの姿勢をとりつづけるときは、死ぬということなのです。そんなふうに、立つことと、歩くことと、見ることは結びついている。この『ベニスに死す』の逆をいくのが、アッバス・キアロスタミの映画『桜桃の味』(1997)です。カメラは車の内部から固定され、車の外には出ない。主人公である自殺志願の男がえんえんと車を走らせながら、自殺を手伝ってくれる人間を《車から》さがす。ある意味、車の内部が外の風景を、ひとを、えんえんと《見る》映画がこの映画です。『ベニスに死す』の《立》って《見》ていたアッシェンバッハと違い、『桜桃の味』の主人公は車の運転席にたえず《座》って世界を《見》ている。ところがある人間から「桜桃の味」をめぐるエピソードをきいたとき、男にふいに転機が訪れます。男は車から飛び出し、落ちる夕陽をみてしまう。男ははじめて車の外で《立》って世界を《見》たのです。『ベニスに死す』のアッシェンバッハ教授は《座り》ながら死にましたが、『桜桃の味』の無名の男は《立》って生きる決心をしました。おそらく、男は、そのときはじめて〈見る〉ということを知ったのです。その映画を観ていた〈この・わたし〉も。
2014-04-20
俳句警察24時〜『遊戯の家』に潜入せよ!〜 石原ユキオ
俳句警察24時〜『遊戯の家』に潜入せよ!〜
絵・文 石原ユキオ

警視庁捜査第575課、通称俳句警察。ここでは事件性のある俳句について日夜捜査が行われている。
山さん「今回の被疑者は金原まさ子『遊戯の家』(金雀枝舎、2010年)だ」
インバネス「ゆうぎのいえ? 目が回りそうな題字ですね、山さん」
山さん「ゆげのいえと読む。遊戯(ゆげ)ってのは仏教用語で『心の赴くまま自在にふるまう』って意味だ」
インバネス「あやしい! 法令を守ろうという気持ちが感じられない!」
山さん「さっそく捜査だ」
入国す女掏摸花虻団一行 金原まさ子(以下同)
インバネス「『入国す』で切れています。5・5・10の変則的なリズム。季語『虻(あぶ)』が虻そのものではなく犯罪組織の名称の一部にカモフラージュされています。一息に詠まれた『女掏摸花虻団一行』の字余りは、女掏摸が何人も列をなして姿を現す様子のようにも思えます」
山さん「どんな組織か推理してみろ」
インバネス「国際犯罪組織ですね。国籍はわかりませんが日本語に訳したら『花虻団』になるんでしょうか。同じ組織が蛇頭と呼ばれたりスネークヘッドと呼ばれたりしますから。構成員は全員女性……ああ……」
山さん「どうした! しっかりしろ! インバネス!」
インバネス「う……春の日差しの降り注ぐ空港……。スカーフを風になびかせて飛行機のタラップを降りてくるサングラスの美女たちを想像していたらうっとりしてしまいました……!」
山さん「なるほどな。花虻の透ける羽からスカーフを、複眼からレトロかわいい大ぶりのサングラスを連想したのか」
インバネス「レトロかわいい……山さん、言うことが女性ファッション誌みたいですね!」
山さん「うるせえ。年頃の娘がいるから言葉遣いがうつるんだよ」
インバネス「花虻は花から花へ蜜を吸いながら移動していきます。主な被害者は華やかな富裕層ではないかと思われます」
山さん「これがもし『牛虻団』だったら印象がまったく変わってくるな」
インバネス「掏摸じゃなくて強盗団っぽくなりますね」
山さん「やっぱり花虻団じゃないとな。虻は植物の受粉を促す存在でもある。財布を抜き取るかわりに何か幸運をもたらしてくれそうじゃねえか」
インバネス「だからって犯罪組織の暗躍を許しておくわけには……」
山さん「しばらく泳がして様子を見るぞ。さあ、次の句だ」
連翹の根もとに腕のようなもの
指一本挿してありライムジャムの壺
インバネス「二句まとめて死体遺棄容疑がかかっています」
山さん「レンギョウってどんな花だったかな」
インバネス「そう言われると思ってWikiっておきました! こんな花です。春に開花します」
山さん「春先はこういう奴が増えて困るんだよ。桜の木の下に死体を埋めたり連翹の根元に腕置いたりな……」
インバネス「飽くまで『腕のようなもの』です。『バールのようなもの』は『バール』とは言い切れません。この件も断定するには証拠不十分です。しかし、血の色を失った腕が満開の連翹の下で黄色い光を浴びているところを想像すると……あぁん……」
山さん「どうした! しっかりしろ! インバネス!!」
インバネス「はっ……またうっとりしてしまいました!」
山さん「大丈夫か。二句目を推理しよう」
インバネス「ライムジャムを再現してまいりました。こちらです」
山さん「ほう」
インバネス「『壺』と書いてあるのを尊重して、金属の蓋付きの『瓶』ではなく樹脂製の蓋付きの『ジャムポット』に入れてみました」
山さん「うーん。どれどれ。ゲッ! 指が入ってる!」
インバネス「暴力団から押収したものです」
山さん「気持ち悪いもん作るなよ!」
インバネス「大丈夫です。暴力団から押収した証拠品の中に紛れ込んでたジョークグッズの指です。ロフトとかで売ってるやつ」
山さん「心臓に悪い……。こんなふうに細かく刻んだライムの皮も一緒にジャムにしてあると、中に多少変なもん入ってても一瞬気付かないな」
インバネス「そうなんです! ライムジャムの中に挿してあるものは犯人以外知り得ない。この句は犯人の立場から詠まれたものと言えます」
山さん「ひんやり冷えたジャムに指突っ込んでみたくなる気持ちをシュルレアリスムっぽく言ってみただけなんじねえかって気もするけどな……」
インバネス「だとしても衛生面で問題があります。食品衛生法違反で逮捕できますよ。そうだ、山さん。ここ見てください。殺人未遂の句があるんです」
裸寝の父は鳥葬にしてやらん
山さん「やさしい娘じゃねえか」
インバネス「えっ。そうでしょうか。父親が死ぬ話してますよ」
山さん「いやいや、これは愛だよ。仕事に疲れてお風呂上がりに裸のまま眠ってしまったパパ。大好きなパパ。パパももう結構な歳だ。こんなおだやかな寝顔のままいつか死んでしまうのだ。つらい。さびしい。パパが死んだら大自然に還っていけるように鳥葬にしよう。鳥と一緒に大空へ還っていったパパはやがて千の風となって……わぁたぁしぃのぉぉぉぉ〜♪」
インバネス「山さんだめです。JASRACが怖いのでそれ以上言わないでください」
山さん「泣ける話だろ」
インバネス「鳥葬ってどうやるかご存知ですか」
山さん「山の上に遺体を運んでいって鳥に食わせるんだろ? チベットの葬送の方法だよな」
インバネス「その際に、専門の職人に頼んで遺体を切り刻んでもらいます。食べ残しがあったら成仏できないと考えられているからです。細かく刻んだ肉をハゲワシっていうでっかい鳥につつかせます。画像は自己責任でググってください」
山さん「……ウッ……。けっこう手間がかかるんだな」
インバネス「俺が『鳥葬』と聞いたときにもっとも生々しく想像してしまうのは、鉈で人間のからだを分解している段階なんです。『裸寝』から『鳥葬』を連想するのはわかります。しかし、生きているひとをそのまま鳥葬にすることはできません。息の根を止める必要がある。『してやらん』という言葉には自ら手を下そうという意志が込められています。暑苦しい夏をより暑苦しくしている裸寝の父。もう嫌だ。我慢ならん。出刃包丁でギッタギタに解体してやる! そして鳥につつかせてやる! ああ! この強い強い殺意……!」
山さん「落ち着けインバネス! お前さん、父親になんか恨みでもあるのか」
インバネス「そんなわけで俺はこの句を殺人未遂と考えます。ちなみに日本でおこなった場合、鳥葬も死体遺棄です」
山さん「『遊戯の家』、死体遺棄率が高いな」
インバネス「青蜥蜴をなぶったり、モグラを剥いたり、動物虐待の句も目立ちます」
山さん「ううむ。動物虐待は猟奇殺人に繋がるからな。要注意だ」
インバネス「あっ……山さん」
山さん「なんだ」
インバネス「被疑者はすでに捕まる覚悟ができているのかもしれません。こんな句が見つかりました」
流氷を視ており牢屋へ入る前
Posted by wh at 0:38 0 comments
2014-03-16
【週俳2月の俳句を読む】石原ユキオ トイレットペーパーの使い方
【週俳2月の俳句を読む】
トイレットペーパーの使い方
石原ユキオ
瀬戸正洋氏の俳句を読むと脳内にやくざ映画のテーマが流れ始める。
『俳句と雑文 B』でまとまった数の瀬戸正洋作品に触れて以来、そんな現象に悩まされている。
パナマ帽義理人情を守りけり
復活祭徒党を組んでゐたりけり
新涼のもぬけの殻の事務所かな
拳銃を撃つや春月落つこちさう
サンダルと人とプールに浮びけり
(瀬戸正洋『俳句と雑文 B』より)
いかがだろうか。
パナマ帽をかぶった田宮二郎が着流しの勝新太郎にもたれかかり、
ムショ帰りの松方弘樹が親分子分に労われながらベンツに乗り込み、
誰もいない組事務所で菅原文太が途方に暮れ、
ものすごい引きの画でビートたけしが拳銃を撃つと、
次のカットで死体となってプールに浮かんでいる中野英雄。
そういった映像がみなさんの頭の中にも浮かんでくるはずだ。
しかし本来、俳句を読むときは作者名に左右されず、まっさらな気持ちで一句一句と向き合っていくべきである。
瀬戸正洋さんだからといって、いつもいつもやくざ映画みたいな俳句を書くとは限らない。
よし、新鮮な気持ちで読もう。
そう思って「週刊俳句」第356号掲載の瀬戸正洋作品「軽薄考」を開いた。
ジャララーンッ! ジャララーンッ!!
はい、駄目でした。
やくざ妄想が止まりません。
寄居虫やめくら滅法てふ手もある
やどかりのもがき苦しむような動きを見ながら、めくら滅法やってみたらなんとかなるのではないかと考えたのだろう。おそらく対立組織を襲撃する話である。めくら滅法撃ちまくって一般市民に被害が及ぶのではないか。心配だ。
美熟女に手を握られてゐる遅日
「美熟女」という言葉の週刊誌的な俗っぽさがいい。流行語としてすぐに消えていきそうな「美魔女」より普遍的なところもいい。暮れかねる春の夕方、ベテランホステスにぎゅっと手を握られて寿司屋へ向かう。手も財布も情も一緒くたに握られているという諦念が漂っている。
駐在さんの顔殿様蛙と同じ顔
「駐在さん」のまじめくさった顔が思い浮かぶ。カエルのように目をぱっちり開けて無表情。ちょっと偉そう。「殿様蛙」にユーモラスな雰囲気があるからか、馬鹿にしながらも親近感を持っているように感じられる。
(ところで駐在所はいまも現役で存在するのに『駐在さん』という響きが懐かしいもののように思えるのはなぜだろう。金田一耕助シリーズのイメージが強いからかもしれない)
商人や革の手袋革かばん
非合法的な火器を取り扱う商人ではないだろうか。
狡賢いボス猿狡賢い春風
これは親分の悪口に違いない。「仁義なき戦い」で言うと狡賢いボス猿が山守組組長山守義雄(金子信雄)。ボス猿にこびへつらいながら吹き回る狡賢い春風が槇原政吉(田中邦衛)だ。『俳句と雑文 B』では槇原的な人物を見つけることができなかったので、ここで読めて嬉しい。
鳥曇りトイレットペーパー三個抱へ
西原天気さん曰く"トイレットペーパーを抱えるに「3個」という数は、空前絶後の中途半端感"。
なぜ三個か。
きっと必要に迫られて手近にあったトイレットペーパーを咄嗟につかんだらたまたま三個で、それを抱えて走ったのだ。
というわけで、どういう状況か想像して描いてみました。ご覧ください。
第354号 2014年2月2日
■内藤独楽 混 沌 10句 ≫読む
第355号2014年2月9日
■原 知子 お三時 10句 ≫読む
■加藤水名 斑模様 10句 ≫読む
第356号 2014年2月16日
■瀬戸正洋 軽薄考 10句 ≫読む
第357号 2014年2月23日
■広渡敬雄 ペリット 10句 ≫読む
■内村恭子 ケセラセラ 10句 ≫読む
Posted by wh at 0:03 0 comments
2014-01-12
【週俳12月の俳句を読む】石原ユキオ それでも愛し愛されて生きるのさ 小津夜景「ほんのささやかな喪失を旅するディスクール」について
【週俳12月の俳句を読む】
それでも愛し愛されて生きるのさ
小津夜景「ほんのささやかな喪失を旅するディスクール」について
石原ユキオ
三白眼のおとめごころや寒プリン 小津夜景
たいていのひとは上目遣いをすると三白眼になる。「上目遣いでおねだり」なら単なる媚びだが、「三白眼でおねだり」に言い換えてみると途端に怖くなる。三白眼のおとめは鋭い目線で何かをたくらんでいる。寒のプリンの冷たさと甘さが歯にしみてくる。
とこしえと賭しあい冬のシェスタかな
「とこしえ」は「愛」と結びつきやすい言葉である。「とこしえと賭しあい」と言われてイメージするのは結婚だ。永遠の愛を誓いますか。誓います。永遠が勝つか愛が勝つか。ウェディングドレスと燕尾服の真っ白な昼寝。
前半の俳句十句のあとに詩が置かれている。
そこで語られるのは、ロラン・バルトの『恋愛のディスクール・断章』を再読していること。
おそらく
実らなかった恋の果てに
終わってしまった愛の果てに
わたしは
言葉で人を愛するすべを学んだのだ
と、筆者は書く。そして
(ついでにいえば
わたしは言葉で人を愛すってのも
実はほとんどジョークなんだけど)
とも。
言葉は曖昧な関係性に輪郭を与える。たとえば「愛」。そして人は日々お互いの関係を言葉によって確認し、補強する。ゆえに「言葉で人を愛する」以前には、愛なんてなかったと言うこともできる。
けれど、かつて言葉も何もなく親しく寄り添う瞬間もたしかに存在していた。だからこそ、
そして今のわたしは
人さえ言葉で愛すのだ
(下線引用者)
と言わねばならず、「わたし」の述懐はユーモアを交えながらも感傷の色を帯びるのだ。
前半十句には「溺死」という言葉が登場した。後半の十句には、死を連想させる言葉がさらに多い。「喪(ほろび)」「メメント・モリ」「殯」「血だまり」。
もがりぶえ殯の恋をまさぐりに
虎落笛(もがりぶえ)のさびしい音を聞きながら、死んでしまった恋に触れにゆく。「まさぐりに」という言葉は性的な接触も想起させる。
しろながすくじらのようにゆきずりぬ
シロナガスクジラは最大で三十メートル超(Wikipedia情報)。ゆきずりにしてはずいぶんと長いゆきずりである。「とこしえと賭しあい冬のシェスタかな」と対になって、二人にとっての永遠の時間がたっぷりとした量感で存在している。
この作品に登場する俳句は、多くが言葉遊びの要素を持っている。「三白眼」と「寒」、「もがりぶえ」と「殯(もがり)」と「まさぐり」等々。
音の類似性から言葉を選ぶことによって、言葉は日常言語における意味から解放され、論理では到達できない組み合わせで配置されることになる。いったん意味から離れて言葉を選ぶことは、言葉にならない領域を指し示そうとすることであり、「言葉をしらないわたし」に近づこうとする試みなのかもしれない。
性懲りもなく愛という煮こごりを
冷えて固まった「愛」を箸の先でつつき、口に運ぶ。
それが舌の上でとける瞬間、わたしたちは言葉をもたないだろう。
第345号 2013年12月1日
■石 寒太 アンパンマン家族 10句 ≫読む
■高崎義邦 冬 10句 ≫読む
第346号 2013年12月8日
■五島高資 シリウス 10句 ≫読む
第347号 2013年12月15日
■柿本多映 尿せむ 10句 ≫読む
■小津夜景 ほんのささやかな喪失を旅するディスクール 20句 ≫読む
第348号 2013年12月22日
■奥坂まや 海 原 10句 ≫読む
Posted by wh at 0:03 0 comments
2013-09-01
【週俳8月の俳句を読む】石原ユキオ 彼女について……
【週俳8月の俳句を読む】
彼女について……
石原ユキオ
花粉愛隠すマスクか慰安婦か 井口吾郎
彼女は花粉を吸うとエクスタシーを感じる特異体質であり、花粉症でもある。ぐずぐずと鼻をすすり涙を流しながらも花粉を吸うのがやめられない。マスクは花粉を吸わないためではなく、花粉の吸い過ぎで爛れた鼻を隠すためのものなのだ。そんな彼女を娼婦ではないかと噂する者もいる。
冷蔵庫板に死にたい楮入れ 同
ある日、なにもかも嫌になって死ぬことを考えた。一人暮らしでは発見されるまでに時間がかかるだろう。いっそ冷蔵庫に入って死のうかしら。冷蔵庫の仕切りのプラスチック板を外して製紙工場から盗んできた木の板を入れてみたら棺のようになった。
蟬鳴きて瓶底ゾンビ的な店 同
彼女のいきつけは、度の強い眼鏡をかけた老人がやっている居酒屋。青ざめてむくんだ老人と傷だらけのカウンター越しに向き合うと、不思議と心が安らぐのだった。まだ蟬が鳴いている。夜なのに。夏も終わるというのに。
まあなんて暗い恋楽天な海女 同
彼女の恋人は船乗りで、港々に女がいるような男だ。いつ会いに来るともわからない。彼女は海に潜り雲丹や若布をとって生計を立てている。インターネットでも売っているが、手数料も広告費もかかるし、思うようには稼げないのだった。
第328号 2013年8月4日
■彌榮浩樹 P氏 10句 ≫読む
第329号 2013年8月11日
■鴇田智哉 目とゆく 10句 ≫読む
■村上鞆彦 届かず 10句 ≫読む
第330号 2013年8月18日
■井口吾郎 ゾンビ 10句 ≫読む
第331号 2013年8月25日
■久保純夫 夕ぐれ 10句 ≫読む
Posted by wh at 0:16 0 comments
2012-11-18
2011-04-24
交差点―石原ユキオ『俳句ホステス』評― 澤田和弥
交差点―石原ユキオ『俳句ホステス』評―
澤田和弥
灯りもない部屋で一人こと終えて、いつものように煙草をふかしていた。
ふと閃いた。「『俳句ホステス』の評を書いてみよう」と。
深い意味や何か関連性がある訳ではない。どうして今頃と思われる方もおいでだろう。申し上げたように閃きである。私は理論よりも閃きで動くタイプである。先の読めない男だと怖れられたことがある。先の見えない男だと交際を断られたこともある。
つまり、閃いたのだから書かない訳にはいかない。作者にも読者にも誠に申し訳ない理由ではあるが、どこの馬の骨とも知れない私の『俳句ホステス』評をお読みいただき、できることならば石原ユキオさんというサファイアの原石を心から愛していただきたいと思う所存である。サファイアの石言葉は「無意識下の悪意」。
もちろん嘘である。では、私の駄文をはじめさせていただきたく思う。
まず表紙である。よくも見事にパク、おっと失礼。某著書の表紙を引用しながら、自らの世界をうまく表現している。ただ心配なのは文字である。
おそらく筆で書いたものではない。擦れ具合等、筆とは思えない。では何か。そこが心配なのである。噂によると作者は以前体の一部を用いて、書をものしたらしい。今回も。そしてその一部とは。まあ、杞憂というものか。さて、次へ。
全体を通して表現しているものは「ホステス」である。
男の視線と男の喜びを己れに問い掛けながら常にそれを意識しつつ、同時に男におもねるのではない、確固とした女性であることを高らかに表現しようとしているものの、何か見ていてとてもハラハラするような不安定さに満ちている。しかしその不安定さが無意識なのか、意識的なのか、それとも天然か、それが分からない。それゆえ視線を注いでしまう。その視線を意識しつつという、まさに「ホステス」なのである。
さらに言えば「地方の一本路地を入ったところのホステス」である。香辛料としての下ネタがかなりキツめという辺りにそれを感じる。よってこの作品において、作者=話者=作中主体と安直に考えることはきわめて危険である。それは作者の思うつぼである。
この「作中主体」とは短歌や俳句においてもそうであるし、朱書きで書かれたイラストにおいてもそうである。
事実と虚構との境目を失なわせたなかから、石原さんは一つの真実を生み出した。それゆえなにゆえに『俳句ホステス』なのかと言えば、この書全体をもってして一人の「俳句ホステス」を見事に表現しているのであり、そして一流ホステスのように行き届いたサービスを作者は著書全体に施しているのである。それが『俳句ホステス』なのである。
一つ一つの作品について触れるのは読書の楽しみを奪うものであり、売れ行きを下げ、作者を路頭に迷わせてしまうかもしれないが、そんなことは知ったこっちゃない。というほど、私はサディスティックな人間ではない。マゾである。それもかなりのマゾである。ナース姿で鏡を蹴り破る椎名林檎に惚れて以来、そのような道を歩んでいる。「初期の椎名林檎が好き」というと同志がいるのに、「『本能』のプロモーションビデオをビデオテープが伸びて、なんだかよく分からなくなるまで何度も観た」というと同志が得られないのはなぜであろうか。
話が逸れた。閑話休題。作者が著書に施したものとして、イラストの流れと短歌・俳句の流れの交差点についてだけ触れておきたく思う。例えば
にんげんは服を着ますね裸だと転んだときに痛いからです
の頁。頁中央にこの歌。歌の向かって右側に、右斜め下へ向かって流れるように「言わば、あてこすりです。」、頁左上に怒りマーク。左下には「(もしくは/やつあたり。)」と二行書きにしてやはり右斜め下に向かって流れるように記している。歌は黒のゴシック体。それ以外は朱書き。
ここから分かることは、おそらく作者の背骨は若干右に歪んでいるのだろう。そうすると行が右斜め下に流れることが多くなる。ではなくて、これだけを見た方はこの歌自体へのコメントととるだろう。
「あてこすり、やつあたりで言ってんの。何が『裸の君はステキだよ。いつまでも裸でいておくれ』だ。人間は服を着るの。裸だと転んだときに痛いですよね。分かりますかぁ~、ボク。おっさん、頭の毛、全部剃って出直してきな」というコメントと考えられる(いや、考えられない。明らかに言い過ぎた)。
しかしこのコメントは3頁前からの発言の一部なのである。
曰く「俳人を自称しておりますが」「短歌のほうが上手いって言われます。」「なので短歌を冒頭にもってきました。」「言わば、あてこすりです。(もしくはやつあたり。)」と。
これは別の頁、それも多くの頁で指摘することができる。
このように短歌・俳句作品と朱書きのコメントが別々のように進みながら、ときに直接的に、そして間接的に多くの交差点をなして、複雑に進行、または逆走、停止しているのである。
このような話題の振り方は一流のホステスに往々にして見られることである。「地方の一本路地を入ったところのホステス」と前述してしまったが、これはあくまでも表面的なこと、仮の姿である。カリの姿などと書けばきっと作者が喜ぶに違いない。この場合は「仮」のときよりも強いアクセントを「カ」に置くのが望ましい。この内面は一流ホステスのおもてなしである。奔放なようで随処に散りばめられた気遣いが真にこころにくい。
以上、かなり誉めてみた。ここで終わってしまっては、こいつは作者の気をひこうとしているだけだ、点数稼ぎだと思われても仕方がない。点数を稼いだところで何の得があるかは知らないが、とりあえず素直なことを書かせていただこうと思う。
石原さんは未完成である。これは作者が蜜柑姿で描かれていることにかけたものではない。何が未完成かと言えば、短歌、俳句、文章の安定した完成度である。
あまりにも山がありすぎる。評価とは個人的判断でしかないので、好き勝手に書かせていただくと佳いものはすこぶる佳い。とても佳い。しかしそうでないものは全く心に響かない。正直なところ「で?」となってしまう。面白さがわからない。
それは私自身の読解力と鑑賞力のなさに起因するものであることは間違いないのだが、大多数の読者(俳人に限らず、もっと広い範囲での「読者」。この本はそういう意味での読者を対象にしたものだと思う)の読解力と鑑賞力も私と似たか寄ったかであろう。そう考えればもっと磨き上げた作品のみを掲載すべきだったように思う。少なくとも「この作品を掲載する」と相談されれば私は「No」と答えるだろう。(相談されるはずなど、全くないのだが。あくまでも家庭の話。いや、仮定の話として)例えば作者には
水鳥は溺死できないぼくできる
という句がある。「週刊俳句」第1回落選展応募作「不合格通知」50句の最後の作品である。この句はとても佳い。死で詩を遊ぶことのできる人間は死を思想化できたものだけである。死を現実レベルの中でしか捉えることのできない人間にはこういった作品はつくれない。
文芸は肉体ではない。思想である。そのなかを軽やかに舞うことのできるものだけが、想像力という大いなる翼を手にすることができる。軽やかなこの一句に私はそれを感じるのである。こういった佳句を外してしまったことが残念でならない。そしてこのレベルのものばかりであればよいが、読み進めていてそうは思えなかった。その部分が玉に瑕であり、完璧と呼べない理由である。
しかし完璧でないからよいのかもしれない。例えば100点満点の皿ばかりが来るフルコースを考えていただきたい。1つ1つは確かにたいそう美味である。しかし食べ終わったときには「これでもか!これでもか!」というエゴイスティックに辟易してしまう。
コースのなかで波をつくる。もしくは一品一品に少しばかりの瑕をつける。それによって食後の満足感は100点にも200点にもなる。もしくは少しぐらい物足りない方が、また寄りたくなる。
だからこの点が作者は意識的なのか、無意識なのか、それとも天然か。そこがよくわからない。しかし男性とは不安定感に魅了される。なぜならばそこに男性は「かわいさ」を感じてしまうから。
ゆえに石原さんが築き上げたこの一書という真実はきわめて「かわいい」のである。
作者自身がどうかはまた別の機会に。また電子図書として出版されたことについても別の機会を持たせていただければと願う。
●
Posted by wh at 0:30 0 comments
2008-11-02
〔週俳10月の俳句を読む〕石原ユキオ お姉さんの妄想
〔週俳10月の俳句を読む〕
石原ユキオ
お姉さんの妄想
週刊俳句高校生特集の中で、とびぬけて「高校生キャラ」の作り方が上手いのは福田若之さんではないでしょうか。「海鳴」は、ブレザー姿の今時の男子高校生を主人公にして読みたい作品でした。男子高校生に「合鍵」という組み合わせで、欲求不満気味のお姉さんの妄想はノンストップでした。以下、その妄想のごく一部を書いておきます。
高校二年生の彼には、年上の恋人がいる。年上といってもまだ二十歳をいくつか過ぎただけの会社員。彼にしてみれば彼女はおとなで、かっこよくて、たまに頼りなくて、すごく愛おしい。
学校では真面目君ってことになっている。恋人の存在は、誰にも知られていない。首のぐるりをキスマークだらけにして寝ぼけ眼で登校してくる同級生を、彼はガキっぽいと思っている。
合鍵は銀河に浮いてゐるらしい 福田若之
彼女の部屋には何度も入った。合鍵をもらえる気配はない。帰り際に玄関で見るのは、彼とのデートでは決してはくことのない黒いブーツ。ブーツキーパーなしで不思議に直立している。(家で見る母親のブーツは変なぬいぐるみ付きのブーツキーパーを突っ込まれて、よっこらしょと立ち上がっているのに)
硬いレザーの内側に漆黒の闇がある。神秘とか、謎とか、彼女の奥にある届きそうで届かない領域みたいに。
長靴に闇がすつぽりある夜寒
ある日、彼は唐突に彼女の婚約を知らされる。ここで私の頭の中に鳴り響くのはKinkiKidsの『硝子の少年』だが、若い人はきっともっと新しくてぴったりの曲を流すのだろう。
彼は、彼女のウェディングドレス姿を想像する。明るい空の下で、彼女の華奢な手が花束を高く投げ上げる。
豊年のブーケの高く上がりけり
花束の描く放物線を思いながら放り投げてみたナッツは、ほっぺたを打って、地面に転がった。
■ 高山れおな 共に憐れむ 詩経「秦風」によせて 10句 →読む■ 越智友亮 たましひ 10句 →読む■ 馬場龍吉 いざ鎌倉 10句 →読む■ 福田若之 海鳴 8句 →読む■ 加藤光彦 鳥の切手 8句 →読む■ 三村凌霄 艦橋 8句 →読む■ 小野あらら カレーの膜 8句 →読む■ 鳥居真里子 月の義足 10句 →読む
●
Posted by wh at 0:11 2 comments
2008-09-07
石原ユキオ ありありと
〔週俳8月の俳句を読む〕石原ユキオ
ありありと
その方の場合、作品も作品ながらポートレートにものっすごいインパクトがあったのでした。
といっても、ゲイ雑誌のグラビアが飾れそうな目元の愛らしい髭熊だとか、ゲイ雑誌のグラビアが飾れそうな精悍なラガー風マッチョだとか、腐女子向け雑誌に捕捉されそうな鬼畜系美少年だとかいうわけではありませんでした。(麗しい殿方を見かけるとついつい『ゲイ雑誌の……』と考えてしまいます。ゲイでもないのにごめんなさい。)
私の腐女子アンテナにひっかかった前述のお三方は、ご本人がルックスに気を遣ってキャラを立てているタイプ。彼らの写真からは「おっしゃ、男前に写っちゃるぞ!」という気迫が感じられます。
対してその俳人は、特別な服装や髪型をしているわけでも、特別にポーズを決めて写っているわけでもありません。それでもなお、その方の写真からは、じわりじわりとただならぬ雰囲気がしみ出しているのでした。
身体はやや斜に構え、顔を正面に向けてこちらを見据えています。後ろへ撫で付けた漆黒の髪。肌は雪のように白く、薄い眉に整った目鼻立ちはまるで化粧を落とした歌舞伎役者のよう。口元は一文字に結んでいます、が、写真から目を離せば、片方の口角がにゅっと上がって薄笑いを浮かべる表情がありありと浮かんでくるはずです。
鏡には映り阿部完市話す 関 悦史
そうなんですよ。私も阿部完市さんは鏡に映るとか映らないとか、そこらへんが微妙な存在なんじゃないかと疑ってたんです。関さんの俳句を読んで、阿部さんのただならぬ感じが気になっているのは私だけじゃなかったんだって、安心しました。
シュールでゴスな「皮膜」の作品群。その最後に顔を出した阿部完市さんは、奇妙な物語を語るストーリーテラーのようにも見えます。あの、あんまりにも阿部さんが気になりすぎてどんどん脱線しますけど、阿部さん、精神科のお医者さんなんだそうです。「三十歳の頃に自らLSDを服用してその様子を自己観察し、同時に俳句も作る実験を行った」って本※に書いてありますが、なんかもう、なんか……ねぇ!?
※「現代の俳人101」2004年/金子兜太 編/新書館
■ 西川火尖 「敗色豊か」 10句 →読む■ 山口優夢 「家」 10句 →読む■ 津久井健之 「蝉」 10句 →読む■ 中原寛也 「あなた」 10句 →読む■ 小林鮎美 「帰省」 10句 →読む■ 山田露結 「森の絵」 10句 →読む■ 関 悦史 「皮膜」 10句 →読む
■ 田口 武 「雑草」 10句 →読む
Posted by wh at 0:14 0 comments
2007-09-02
石原ユキオ 無事にこの世に
石原ユキオ 無事にこの世に
お ん ど れ も を ど れ と お ら ぶ を ど り つ つ 谷口智行
俳句において「踊り」と言ったら盆踊り。盆踊りの輪の中にいる人が「おんどれも踊れ!」と叫んでいる。駄洒落ですが、素直に笑えない凄みがあります。「おんどれ」「をどれ」「おらぶ」「をどり」と重ねる事によってずんずん迫ってくる感じ。叫ぶ人がどんどん増えて、踊りの輪にいる全員が踊りの輪に入らない自分に対して「踊れ!」と叫んでくる感じ。やぐらの上で太鼓叩いてるおじさんも、テキ屋の兄さんやおばちゃん達も一緒くたになって「踊れ!」「踊れ!」と叫び始める。こんな踊りの輪に加わって無事にこの世に帰ってこれる自信がありません。日本の夏はホラーです。
石原ユキオ「空蝉レポート」はこちら↓
http://www.d-mc.ne.jp/blog/575/?p=204
津田このみ 空 蝉
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_2112.html
谷口智行 おんどれ
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/blog-post_26.html
中嶋憲武×さいばら天気 「一日十句」より31句×31句
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/3131.html
なかはられいこ 二秒後の空と犬
大石雄鬼 裸で寝る
http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/08/77.html
■■■
Posted by wh at 0:15 0 comments
2007-08-12
週俳7月の俳句を読む(下) 1/3
週俳7月の俳句を読む(下) 1/3
■ 媚 庵 「三 汀」10句 →読む■ 菊田一平 「オペラグラス」10句 →読む
■ 田中亜美 「白 蝶」10句 →読む■ 鴇田智哉 「てがかり」10句 →読む
■ 佐山哲郎 「みづぐるま」10句 →読む
■ 寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句 →読む
■ 村田 篠 「窓がある」10句 →読む■ 山口東人 「週 末」10句 →読む
■ 遠藤 治 「海の日」10句 →読む
…………………………………………………………………………
石原ユキオ
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る 村田 篠
夕立のあとの空にビルがあってビルには窓があるんでしょう。
それか、夕立のあとの空にビルがなくて、いきなり窓が浮いているんでしょう。
「窓がある」ってなんかひっかかるんですよ。
「窓がある」って響き、「バドガール」に似てません?
夕立のすぎた空。両手にジョッキ持って闊歩するバドガール。
まさに「高気圧はヴィーナスたちの交差点」って感じ!(c)桑田圭祐
夏だね! うほーい♪
サ ボ テ ン や 仏 の 顔 が 玄 関 に 山口東人
ガンダーラ様式の仏頭の置物とか、パーティグッズの大仏のかぶり物だったら面白い。
でもたぶん京都とか奈良のお土産の、能面状の仏の顔がついてる壁掛けなんじゃないかな。
サボテンと仏の顔がある玄関。なんていう趣味の良さなんでしょう! 不気味です! キッチュです! 最悪です! こういうお宅大好きです!
少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト 遠藤 治
やばい。少年かわいい。
少年、ふざけてて落ちるんだよw
少年っつうか、むしろ「男子」でしょ!
梅佳代ちゃんの写真みたい♪
別解)
その浜辺には伝説のゴムボートがある。
シーズンオフまでびっちり予約が入っているという。
予約するのは決まって少女だ。
なんでも、そのゴムボートに意中の少年と乗ると、必ず恋が成就するのだという。
「必ず落ちる」みたいな。(シャレかよ!)
心 臓 が 止 れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ 寺澤一雄
「心臓が止まったら死体だなぁ」っていうなんとなく中高年っぽい感懐なのかなぁ。
でもそれにサクランボを取り合わせてあるあたり、なにやら普通じゃない雰囲気。
死体にサクランボが添えてあるみたい。
「心臓」「死体」「サクランボ」って道具立て、ゴシックロリータ的でかわいくないですか?
ってか寺澤さんの句って、あったり前のことが書いてあると見せかけてどこか不穏なズレ方をしてて、面白いっす! ラブです!!
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り 田中亜美
花は植物の生殖器なわけです。
レディスコミックなどではいまだに花が外性器のメタファとして使われてたりするわけですが、この句は外性器通り越して臓腑。
エロス飛び超えていっそ爽快。潔い。
て が か り に な る 木 耳 が つ い て を り 鴇田智哉
あのぺっとりしたキクラゲならたしかに、どこかにくっついたりして手がかりとして残りそう。
って何のてがかりになるキクラゲがどこにくっついてるんでしょうか。
わざと書かなかないでおいたから、想像してね! っていうことですよね。
想像1「貝塚で発見された木耳が古代人の生活を知る手がかりになりました」
想像2「事件解決の糸口になったのは被害者の傷口に付着していた一片のキクラゲでした」
想像3「夫のYシャツについていたキクラゲで浮気を確信しました」
想像4「キリストとヨハネの間の空間がキクラゲの形を表しています」
なんとなく3が正解に近い気がしますがいかがでしょうか。
摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な 佐山哲郎
無理矢理口語訳してみました。
「なんて素敵 朝だから サラダも からだも 薔薇も 生まれたてのまっさらだ♪」
「あかさたなはまやらわ」をベーストラックに夏の朝の風景をサンプリングしてリミックス。
ぴこぴこひゅんひゅんしててかわいい。
箱 庭 の フ ィ ギ ュ ア 置 き 変 へ 太 宰 の 忌 媚庵
卒論テーマは太宰でした。誕生日が同じ、という理由だけで太宰を選んだのが間違ってました。太宰ばっかり読んでて鬱になりかけました。この「箱庭」って、絶対箱庭療法だと思う。
全国の太宰読者のみなさん、どうかお大事に。
啜 り た る 枇 杷 の 滴 が 枇 杷 の 上 菊田一平
もっときれいに食べてよ!
あたしが食べれんくなるじゃろー!
お父さんのばか――――――――!!
…………………………………………………………………………
橋本喜夫
せ り あ が り く る や う 日 盛 り の 水 は 村田 篠
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る
10句を拝見して、この作者は簡明な言葉で、季語と自分の感覚をうまく取り合わせているように思う。したがって、一見とても簡単な俳句のようで、作者独自の皮膚感覚、温度感覚、聴覚などが従来の季語の捉え方と微妙にずれており、それが詩性を生み出している。逆に非常に簡明な表現ながら、具象の景色としてはきちんとピントが合ってこない。
一句めは中七までの句またがりで、夏の蒸し暑さが感じられ、日盛りの水が、夏の川なのか、海なのか、水道水なのかは作者の読みに委ねられる。いずれにしろ夏の水位が上がる体感感覚を表現したいのだと思う。
二句めは窓があるの座五の措辞でピントをずらしている。夕立のすぎた後の空のすがすがしさの体感感覚を、窓から見える光景なのか、ガラス窓の冷たさなのか、空そのものに窓があると捉えたのか、やはり独自にピントをずらしているのである。
レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏 山口東人
土 用 凪 木 の 電 柱 に 蓋 が あ る
10句を通じて、国籍不明、少し川柳的(川柳が悪いという意味ではありません)、現代俳句協会的(有季定型にこだわらず、花鳥諷詠もよしとせず、言葉の喚起力で勝負するという意)つくりの句が目立つと思う。
一句めは解釈が難しいかもしれないが、私は脳裏にある夏場の不快感ではなく、むしろ脳味噌の中を流れる涼しい感覚を詠んだと私は捉えた。左脳と右脳を分ける脳梁をレースのカーテンが挟まると捉えたという読みも成立して、面白い。
二句目は夏の蒸し暑さと、コールタールの匂いを彷彿させ、土用凪の季感がよくでている。昔の木の電柱の頂上には確かに蓋のようなものがあり、そこから電線が繋がっていたと思う。そういう意味では写生しているのか。それとも「蓋がある」の措辞は土用凪の感覚をメタファーしたのであろうか。
お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止 遠藤 治
苔 藻 な す ブ イ や 深 ま る 潮 の 色
すべて海に関連した10句で、テーマ性を守った句作りである。全体に重い季語を用いずに、季語そのものを題材にして、軽く、しかも揶揄的に詠むことがうまい作者である。
一句めは日焼止という新しく、あまり詠まれない題材を詠んでいることに着目した。世の中の甘さ、軟弱さ、それを使用する若者(男女を問わず)の甘さ、香りとしての安っぽい甘さ、すべてを俗っぽい日焼止が受け止めている。一級季語ではない日焼止がここでは堅固に機能していると思う。
二句目はブイが浮いているので、ある程度沖合いである。ブイに苔藻がついて、夏も深まった感覚がある中、潮の色も蒼く深まっていた。微妙な季節感覚も十分表現できている。
ざ り が に の 鋏 の 力 抜 い て を り 寺澤一雄
山 椒 に 舌 が 痺 れ し 祭 か な
扇 風 機 売 り 場 か ら い ろ い ろ な 風
大 蚯 蚓 伸 び 切 つ て を り 進 ま ざ る
理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な
心 臓 が 止 ま れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ
50句全体に、テーマ性は無関係な作り。それはそれでよいと思う。この作者は日常生活の中で、題材の切り取りかたがうまく、広い意味で社会性(政治的意味でなく)があり、ものの見方は少し川柳的かもしれない。作者なりの季語のずらした捉え方、作者ならではの写生もあり、楽しめた。季語の本意からすこしずらした句作りは、季語の焼き直しにすぎない句もみうけられ、それが少し残念である。
ざりがにの句は新しい写生とも言えるし、諧謔がある。祭の句も無理がない。扇風機の句も誰も気づいてはいたが、誰も詠んでこなかった景ではないだろうか。蚯蚓の句も「進まざる」の座五で、蚯蚓の今後の消息を不明にしたところが面白い。サインポールの句も新しい視点だし、西日が三丁目の夕日を彷彿させ、なつかしい。心臓の句は中七までの断定とサクランボの離れ具合がよく、サクランボの色、形がまさにハートに見えてくるのがおかしい。
し づ か な る 拳 緑 陰 過 ぎ る 鳥 田中亜美
息 止 め て し ま へ ば き っ と 踏 ま れ ぬ 蟻
季語を用いて現代詩的味付けをした10句である。ニ物衝撃(とり合せ)が主な手法であるが、全体に難解な句と思う。簡単に言えば離れすぎなのか。意味はわからなくてもいいのだが、12音までの措辞は喚起力があるが、季語とぶつかって化学反応をしていない感がある。
一句目は、緑陰にいてひそかに拳を握りしめている作者(発話者)がいる。そこを鳥が過ぎていった。それだけの句であるが、心に残る。
二句目はどこで切れを入れるかで、解釈が異なるかもしれない。一物仕立ての句と捉えると、蟻がいる。作者は蟻に同化して、息を止めて立ち止まっている。息さえ止めれば踏まれないですむ。自己の閉塞感を蟻に託したといったら句がつまらなくなってしまうかもしれない。この魅力は、息を止めてしまえば、踏まれないという不条理な論理であろう。
が が ん ぼ の ぐ ら つ き な が ら ゐ る ば か り 鴇田智哉
ま う へ か ら 滴 の 落 ち て 蛇 が ゐ る
この作者らしい世界を現出した10句である。骨格がしっかりしているわけでなく、テーマ性があるとは思えず、特異な文体があるわけでなく、平明な言葉で、季語を十分生かして10句すべてに読み手を首肯させる不思議な力を持っている。切字でいうと 「かな」、「をり」、があるが、「けり」、「や」と言った強めの切字を使用しないのが特徴か。とにかくこの不完全燃焼性が魅力の句なのだ。
一句目、ががんぼの見立てとしては決して斬新ではないが、座五の「ゐるばかり」がいい味を出している。
二句目は真上から滴が落ちているのがわかるのは蛇自身である。はじめは水滴が滴る木の枝、葉先でもいいが、そこにクローズアップして、突如カメラアングルは下から見上げた蛇の視点になる。その滴が真下の蛇の頭に垂れて、ことの一部始終を見ている作者が出現するというロングショットに切り替わる。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま 佐山哲郎
籐 椅 子 の を ん な 魚 の 卵 抱 く
俳句の新しい試み、たとえば無意味性の追求と、心地よい言葉遊びの追求などを感じさせる10句で、楽しく読んだが、口誦性という意味では成功していないのではないか。一句目はその中でも比較的口誦性も生じやすく、音調の整った句で、一見無関係に羅列した言葉がそれぞれ繋がるように意図されている。橋の上の涼風のすがすがしさも感じられ、それが内耳でも風が吹いているように読める。内耳→蝸牛管→渦巻き→みづぐるま と連想される。
二句目はシュールである。籐椅子のをんな で切れて、魚の卵抱く。これも女→人魚→魚卵→卵巣→女と戻ってくる連想。勿論、籐椅子に坐っている女が魚の卵(たとえばイクラ)を抱いているという奇妙な景を想像してもいいはずだ。
年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子 媚庵
度 の 強 き 眼 鏡 の 人 や 竹 床 几
猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な
10句全体に、よい意味で文人俳句の匂いがする。描く世界は独善的であり、文学的である。その中でも一句目は今が旬の句であるが、夏帽子のさりげない置き方がよい。サングラスならどぎついし、白靴なら怖いし、甚平なら作り過ぎだし、藍浴衣なら信憑性がない。
二句目はさもありなんという登場人物であるが、いままであまり俳句にされていないキャスティングではないだろうか。猫町も架空の町の名か、だれか有名な文人が住んでいた町かは知らないが、作者は猫町にさす西日になりたいのである。または猫町にまぎれこみたいのである。もちろん、猫→まぎれる と連想が起こり、重層性がある地名である。
ニ ッ ケ ル の 灰 皿 重 ね 太 宰 の 忌 菊田一平
つ ゆ 寒 の ひ け ば か た か た 厨 紙
さ み だ る る わ け て も そ ね さ き あ た り は も
10句ともそれなりに、楽しく、また私の狭量な俳句選句基準でも解りやすい句が多かった。解りやすいというのは、良い句であると自分が感じたという意味である。それをうまく説明できるかどうかは別であるが……。
太宰の忌の句はたくさんあるが、ニッケルの灰皿という小道具がうまく嵌った句と思う。いやみではなくうまい句。
二句目はつゆ寒のもの憂い感覚が共感できるし、紙が水分を吸って重くなり、ひくときかたかた鳴りやすい。これも何と信憑性のある句であろうか。信憑性とは事実かどうかは関係ない。
三句目、散文で言えば、五月の雨がふっている、特に曽根崎あたりでは……。ただそれだけなのであるが、やはりこの句の良さは曽根崎という地名の選択、すべてひらがなという技巧、音調の良さ、「わけても」と最後の「はも」の措辞の旨さにつきる。わけても曽根崎という読み手の頭の中のどこかにひっかかっているが、それほど有名すぎない地名を選んだ手柄であろう。
…………………………………………………………………………
中村安伸
●媚庵「三 汀」
「林房雄」「久米三汀」「太宰」「満州」といった「昭和初期」的なものを感じさせる固有名と「年金」「ビリー」「フィギュア」という現代風俗を代表する語がない交ぜになっているのだが、そこに違和感はなく、軽妙で飄々としたトーンは一貫している。
どちらかというと、ビリーやフィギュアが昭和初期の風景のなかにとりこまれてしまっているような感覚である。
季語の選択、とりあわせが順接的であり、意外性がないのがひとつの特徴だが、意図的に意外性を排除しているといったほうが当たっているだろう。
年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子
帰 省 子 の 渡 り 廊 下 を 渡 り け り
これら二句には実に淡々としたユーモアがあり、
猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な
満 州 の 佳 人 の ご と き 日 傘 か な
これら二句には、夏の爛れた光のなかに浮かび上がる懐旧の念がある。
●菊田一平「オペラグラス」
句のなかの作者の立ち位置という点に注目してみると「青水無月」「つゆ寒の」「啜りたる」といった客観的な句と、「さみだるる」「東京の」「南風」といった主観的な句がバランスよく配置されている。また音韻に対して繊細な目配りがある。
豆 ご は ん 厨 揺 ら し て 噴 き 上 が る
この句のなんとも痛快な誇張表現に惹かれる。
夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場
この句は舞台芸術を主題に、なかなか複雑な構造をもった句である。屋外にはボリュームたっぷりの夏至の光。それとは別に屋内のくらがりで展開される愁嘆場。その対比の妙。
月 見 草 お ー い お ー い と 手 を 振 れ り
さきに「太宰の忌」の句があることにひきずられたのか『富嶽百景』のラストを思った。人物が消え富士だけが映る写真。
この句には書かれていない富士がある。
●田中亜美「白 蝶」
非常にきっちりとした定型感に支えられた文体で、やや生硬に感じるほどである。
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り
白という色がもつ過剰な光量のなかに、自らを曝け出すということ、それは大きな痛みをともなう行為だろう。この句に代表されるように、自分自身の「臓腑」を晒しつつ、それを見つめ続けることによって、作者は強さと深さ(幅の狭さにつながっているとしても)を獲得していると思う。また、心の痛覚を研ぎ澄ますことと、情に流れることを拒む理性のはたらき。そのふたつのバランスがとれているかどうかによって、作品の出来、不出来が左右されているように感じる。
帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑
この句の「位置」という語のはたらきに、感性と理性のバランスを感じるのである。
白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な
白 日 傘 真 空 管 と し て あ ゆ む
これらの句の「真空管」「心臓にして金魚」といった喩には鋭利な感覚がはたらいている。
●鴇田智哉 「てがかり」
紫 陽 花 の 火 照 り が か ほ を う つ ろ へ り
繊細な皮膚感覚を発揮した作品である。
第一句集を読んで、この作者の作品には、文体のやわらかさに加え、独特の空気感があることを感じた。今回の作品群についてみると、昆虫やちいさな植物、それらの微細な動揺をとらえる視線、表記のバランスへの気配りなどに、作者の嗜好や特徴があらわれているといえるだろう。
しかし、空気感については、以前の馥郁としたものとは幾分違う、やや乾燥したものを感じる。その印象のよって来るところを考えてみると、理性的な表現が多いということに思い当たる。それは、ほとんどの作品が一句一章で仕立てられていることと無縁ではなく、「ほとんど」「のなかを(~来る)」「(昨日)のままの」「(ゐる)ばかり」「てがかりになる」といった抽象的な語の多用とも関連しているだろう。
●佐山哲郎「みづぐるま」
実験的要素の強い作品と、詩的な定型作品の両者がバランスをとって配置されている。
音韻的なつらなりによって引きだされた語と語のとりあわせがもたらす、詩としての衝撃というところを狙っていると感じる。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま
この句には、瞬発的なイメージの連鎖、あるいは断片的であると同時に全体的な景がある。そこには視覚だけでなく、音や匂いや温度までもが浮かび上がってきて心地よい。
摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な
この句を支配しているのはやはり音韻であり、それぞれの語は、踊りながら手を翻すダンサーのように、リズムに乗って意味のうらとおもてを見せてはかくす。
●寺澤一雄「銀蜻蜓」
多彩なアイデアに満ちた作品群である。アイデアとは、言い換えれば意外性ということになるだろうか。適量の意外性を含んだ句は実に魅力的である。余分な解釈を加えることなく、惹かれた作品を掲出するにとどめたい。
万 物 に 石 を 見 立 て る 夏 休 み
夕 空 は 気 ま ま な も の や 青 簾
戦 艦 に 無 数 の 漕 ぎ 手 い ま は 急 き
燃 え 尽 き て 蚊 取 線 香 渦 残 す
理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な
夏 草 が 土 俵 の 中 を 埋 め に け り
●村田 篠 「窓がある」
一句一章の文体で詩的なイメージを丁寧に叙述した句が多い。静謐な空気感のなかをかろやかに移動してゆくなにものかをとらえる視点と、ゆるやかな調子がマッチしていると感じる。
音 楽 の 流 る る ま ま に 浮 い て こ い
「浮いてこい」という季語の面白さ。浮き人形や物理の実験に使われる浮沈子のことだが、命令形の台詞が名詞に転化された珍しい語である。それをたくみに用いて独特の諧謔を実現した句は古今少なくない。この句の場合は、その浮遊感を音楽(ウインナワルツ等であろうか)の律動感にシンクロさせて巧みである。
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る
はげしい雨によって掃き清められたような夕空を窓越しに見る。「窓に空」でなく「空に窓がある」としたことによって、句の内包する世界がひろがる。空に窓枠を描いた、安いシュールレアリズム風絵画を想像してしまってはよろしくない。
●山口東人 「週 末」
景の明確な人事句が多いが、そのなかに
レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏
といったシュールレアリズム的な句が唐突にあるのが面白い。
分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り
「分身のやうな」という喩が「冬瓜」の独特な存在感を裏から描いたようで秀逸。
●遠藤 治 「海の日」
海水浴場の景を描いた連作だが、文体はなぜか、大正から昭和初期の俳句を思わせるところがある。
お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止
という句は、本歌取りと言えるかどうかは微妙だが、虚子の「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」をふまえてのものであろう。
海 の 日 は 母 の 始 ま り 天 使 舞 ふ
という句はなかでも印象的である。
中世の西洋絵画がひとつの静止画面に無理やり物語を埋め込んだように、俳句という瞬間的な詩形にひとつの物語を語らせようとしている。成否はともかく試みとしては面白い。
■■■



