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2018-11-11

【週俳10月の俳句を読む】息遣い 藤井あかり

【週俳10月の俳句を読む】
息遣い

藤井あかり


星祭一筆箋に二行書き  中岡毅雄

星祭だから恋の句と読んでもよいし、一年に一度大切に思いを馳せるような相手を想像してもよい。

その頃の贈りものの、梨や桃に添えるシーンを思うのも美しい。

ごく短く伝えることがあったのかもしれないけれど、「二行書き」という言いさしからは三行目を思ってもよい。

さりげない挨拶などでまず二行ほどをさらっと書き、三行目からその相手だからこその内容に入るのかもしれない。

とはいえ、改まって便箋にしたためるのとはやはり違って、さらさらと書けることに変わりはない。

iの音が導く調べが、そんな筆致を思わせる。

いずれにもしても、二行書いてからほんの一呼吸置いてみた、その息遣いがそのまま、句の息遣いになっているようだ。


なつはづき 自転車で来る 10 読む
市川綿帽子 横浜 10 読む
今井  いぶかしき秋 10句 読む
中岡毅雄 底 紅 10句 読む
ウラハイ  馬場龍吉 豊の秋 読む

2018-05-20

【週俳4月の俳句を読む】光の切なさ 藤井あかり

【週俳4月の俳句を読む】
光の切なさ

藤井あかり


うたごゑの天の高きを組み上ぐる  吉川創揮

歌声の高さが天の高さとなるまで。

蝶の脚たんぽぽの絮乱さずに  同

これ以上ないほどそっと。

かなしみの耳の熱しよ紫木蓮  同

目頭から耳へと伝わっていった熱。

春眠やあこがれて鳥降りてくる  同

空に憧れる人と地に憧れる鳥の夢うつつ。

牛りんと匂ひ立ちたる桜かな  同

りんと立ち、りんと匂い立つ。

割れて窓光なりけり燕  同

割れる前とは違う光の切なさ。



【対象作品】
三輪小春 行く春 10句 ≫読む

2017-12-17

【週俳11月の俳句を読む】さあらぬ 藤井あかり

【週俳11月の俳句を読む】
さあらぬ

藤井あかり


始まりはこんな呼びかけから。

栗の秋八王子から出て来いよ  西村麒麟

「出て来いよ」の気軽さと強引さに、つい出て行ってしまう。
行く先に広がるのは、栗の木々のゆたかさ。

林檎の実すれすれを行くバスに乗り  西村麒麟

バスの窓から手を伸ばせば捥げそうな林檎。
心はもう林檎を齧りはじめている。

虫籠に住みて全く鳴かぬもの  西村麒麟

鳴くものよりも、鳴かないものの方に心が寄ってしまう。
耳奥には沈黙が響いている。

蟷螂は古き書物の如く枯れ  西村麒麟

長い歳月のなか褪せていったかのような蟷螂の枯れ色。
胸中に捲ろうとするとき、枯れの深さは知の深さ。

焚火して浮かび来るもの沈むもの  西村麒麟

火や風の勢いにより、燃えながらふっと浮かんだり沈んだりするもの。
そんな景を超え、胸に浮かんでは沈む何かにもつながってゆく。


西村麒麟 八王子 10句 ≫読む 
小野あらた 対角線 10句 ≫読む
第552号 2017年11月19日
安岡麻佑 もらふ火 10句 ≫読む
第553号 2017年11月26日
柴田健 土の音 10句 ≫読む 

2017-04-09

【「俳苑叢刊」を読む】 第11回 石田波郷『行人裡』 行人とすれ違って 藤井あかり

「俳苑叢刊」を読む
11回 石田波郷行人
行人とすれ違って

藤井あかり




句集の最初の頁を開くとき、指が少し震える。最初の頁を読むと、その句集の世界に深入りすることになるかどうか、何となく分かってしまうからだと思う。

朝刊の冷きがごとく廈冷えぬ
外套を黝くぞみたるのみに寝る
雪の音外套壁に形為し

冒頭のしんと冷え切ったこの3句の景に、私はしばらくいた。
室内は静まり、雪の降る音だけが聞こえる。私は眠りかけている。薄目を開けると、壁に吊るされた青黒い外套が体の形にかすかな膨らみを保ち、不思議な存在感を放っている。
『鶴の眼』の冒頭〈バスを待ち大路の春をうたがはず〉〈煙草のむ人ならびゆき木々芽ぐむ〉〈あえかなる薔薇撰りをれば春の雷〉と比べてみれば、受ける印象は異なる。

『行人裡』は昭和15年刊。序文によれば、昭和10年暮れから昭和14年暮れまでの4年間の作がほぼ収録されている。概ね、波郷の(一般の理解における)第1句集、昭和14年刊『鶴の眼』の四季各章の後半の句が再録されている。

雪の嶺且つ褐色の木を蔽ふ
あをあをと雪の温泉は日を失へる
月食は駅の時計にたがはざる
スキー列車月食の野を曲るなく
スキー列車あさき睡を歪み寝る
雪降れり月食の汽車山に入り

2頁目以降はこう続く。
「スキー列車」とあるから、もっと弾むような句が並んでいそうなのに、「蔽ふ」「失へる」「歪み寝る」に見られる翳りや、「たがはざる」「曲るなく」に見られる捻れは、月蝕という特別な現象と相俟って、句集をある方向へと導いてゆく。
あえて個人的なことを言えば、冒頭の数頁には「冷感」、「身体の違和」、「否定」という私が俳句を通して突き詰めてゆきたいと思っている3つの事柄がすべてあり、この時点で脳裏には自ずと3つの章が浮かんだ。
そして、汽車が雪山へ深々と入ってゆくとともに、私もこの句集に深入りしていってしまうのだろう、という予感に包まれたのだった。



寒木にひとをつれきて凭らしむる
美しい花も、涼しい蔭も、鮮やかな紅葉もない、吹き曝しの冬木に人を寄りかからせて、何が出来ると言うのだろう。

ともに立てし外套の襟寒木に
一緒に襟を立ててみても、冬枯れの木に対するしかない2人。

冬霧のしろし相見る彼ぞ憂き
霧の向こうの人と見つめ合う。相手が物憂げに見えるのは、どことなく陰鬱な冬霧を通して見るからだろうか。だとすれば、自分も相手からはそう見えている。

くらき町外套の肩君は征くがに
暗い町を連れ立ってゆく人の、暗色の外套。その肩が不意に遠退いてしまいそうで、胸を突かれる。暗闇を進んだその遥か先には、戦地が広がっている。

凍る駅傷兵と共に降りし縁
偶然誰かと同じ駅に降りる際、一瞬繫がりを感じるが、すぐに別れるだけの縁だと気づく。別れた後、傷ついた兵を記憶の端に引きずっている。

相手に近づいたはずなのに、距離が縮まる気がしないのは、季語のせいだろうか。近づきかけても、真冬の季語によって冷たい現実に引き戻され、相手は遠ざかってしまう。



足袋脱ぐやわが瘦せし身を念ひいづ
足袋を脱ぐとき、それを身に着けてからせいぜい何時間かしか経っていないのに、自分がこんなにも瘦せていることを思い起こしてはっとする。

霧降れりその夜鏡にうつる四肢
被さるような霧の中を通り抜けてきたその夜の両手両足には、白々と霧の余韻が残っている。

昼の虫一身斯かるところに置き
澄んだ真昼、耳を澄ませば、秋の深まりを感じさせる虫の音が沁みる。「一身斯かるところに置き」は、何か言おうという気持ちが先走るばかりで、ほとんど何も言えておらず、寄る辺のなさだけが淡く残る。

酔の果冬霧胸に溢れ来る
酔いが回った頃に胸奥から溢れる霧。迷わぬように一歩一歩踏みしめながら進んでゆく。掲句は後に「浅草や冬霧胸にあふれくる」と改め『風切』に収められているが、半ば投げやりに「酔の果」とまで言ってしまっても良いのではなかったか。

スキー列車あさき睡を歪み寝る
雪霏々とわれをうづむる吾が睡

スキー場へ向かう列車の中、仮眠をとる。「睡を寝る」も「歪み寝る」も奇妙な表現だが、合わさると一層夢うつつな感じがする。歪んでいるのは体勢か、夢の中の景色か、時間の流れか。
雪が激しく降るにつれ深まってゆく眠り。昏々と埋もれてゆく自分。「われをうづむる」は「雪霏々と」に掛かるのか、「吾が睡」に掛かるのか。
きっと波郷自身にも曖昧になっている。

自分の身体なのに、時折、自分のものではないような感覚に陥る。Ⅰで触れた相手との距離感を、自分自身との間にも覚えるのだろうか。

額の花自を忘じたる日々多く
自分自身が遠ざかっていった最果て。梅雨空の下、遂に自己を忘れる。そんな禅を思わせる日々に、楚々と額の花が開く。



別れきて対ふ声無き扇風器
さっきまで語らっていた相手の代わりに、今、扇風機と向かい合っている。涼しい風の中、ふと喪失感が湧く。扇風機にも声があるべきとするかのようで、「無き」という語が淋しく響く。

人居ず日照雨の穂草ぬき帰る
居るはずの人がそこに居ない。折からの通り雨。所在なさに穂草を抜きとり、靡かせながら帰る。『鶴の眼』では上五は「人を訪はで」だが、推敲後も変わらず否定の形がとられた。

百合あをし人戛々と停らず
人々は立ち止まらない。まだ蕾の百合には誰もが無関心で、ただ足早な靴音だけが響く。

古郷忌を人にはいはず日暮れぬる
師の忌日を誰にも告げない。ただ、記憶の中の師と向き合って過ごす。まだ暑さは残るが日に日に秋らしくなっていく頃の夕が、心に適う。

落葉寒人を忘ぜず街ゆけば
ある人を忘れずにいる。歩いてゆくこの街にも思い出があるが、心を温めてくれるようなものではない。忘れたいのに忘れられない人……と思いつつ読み進めてゆくと、〈人を忘じ得しや十月百日紅〉という句に行き当り、やはりそうなのかと思う。そして、「忘じ得しや」ということはつまり、忘じ得ずにいる。

否定の語を口にするのは、黒鍵に指を置くときのようで、調べも気持ちもふっと沈む。この章で引いてきたそれぞれの句を、「静かな」「独り居て」「通り過ぎ」「黙っていて」「憶えていて」といった形に言い換えることは出来ない。
そして、忘れがたい句が生まれる。

椎若葉東京に来て吾に会はぬか
東京から遠く離れた地に、会いたい人がいる。けれど、会いに行くよという訳ではなく、どこかで落ち合おうというのでもない。「東京に来て私に会わないか」という呼びかけが印象的に響くのは、優柔や不遜の中に、相手への愛情が滲んでいるからだろう。
波郷の本心はむしろ、季語「椎若葉」に表れているのかも知れない。数頁前に〈独り見つつ椎の若葉をうべなへり〉があることを思えば、1人で諾った椎若葉を、きっと今度は2人で諾いたかったのだ、と想像しても許されるだろう。会いに来てくれれば喜んで迎えるという心が、初夏の椎若葉を瑞々しく映し出す。

Iでは相手が遠ざかり、Ⅱでは自分自身が遠ざかっていったが、否定について書いてきたⅢの最後に図らずも、その遠ざかった先で両者が出会えそうになった。



この句集に「人」とそれに準ずる語が頻出することは事実だが、それにしても人にまつわる評に終始してしまった。
単純に、私が人というものに興味があるからかも知れない。あるいは、「行人裡」という題に引き寄せられたのか。刊行前年の座談会で生まれた「人間探求派」という語が意識下にあったからか。その後の境涯性が深まってゆく句風に思いを馳せていたからなのか。それはもうわからない。

そして、最後の頁に辿り着く。
冬で始まり、冬で終わるこの句集。そっと置かれていたのは、打って変わって素朴な温もりのある句だった。

行人裡炭送り来し母の上
集中の他の表題句、〈はたと寒く傷兵をみし行人裡〉〈南に没る冬日を見ずや行人裡〉〈歳晩の行人低し風吹き飛び〉に見られる翳りや捻れは消え去っている。
やや拍子抜けしつつも、この句が祈りのように灯って波郷の素顔を照らし出したような気がして、私はしばらく本を閉じることが出来ないでいた。

2015-08-23

藤井あかり 黙秘 10句

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週刊俳句 第435号 2015-8-23
藤井あかり 黙秘
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10句作品テキスト 黙秘 藤井あかり

黙秘 藤井あかり

みづからに百日紅の日々を課す
かたむきて翅青みたり糸蜻蛉
藪つ蚊を打つまでは目の澄んでゐし
牙生えてきて黙しをる夏野かな
秋蟬の声といふ鋲降つてくる
詰め寄るごとく花葛の正面に
洗ひたる手をまだ洗ひ秋の水
日を追つて前のめりなる瓜の馬
汝の声で聴きたし「秋の麒麟草」
落蟬をひとつだけ弔ひにけり


2015-07-12

【句集を読む】言葉を失う言葉 藤井あかり『封緘』を読む 福田若之

【句集を読む】
言葉を失う言葉
藤井あかり『封緘』を読む 



福田若之 



さつきまで日あたりゐしを雪螢    藤井あかり


句集の本編に相当する部分の冒頭に置かれたこの一句からして、藤井あかり『封緘』(文學の森、2015年)が投げかけるのは言葉に対する疑いである。それはまた、言葉による疑いであり、また、言葉自体がもたらす疑いでもある。たしかに、この冒頭の一句は、直接的には、言葉について何ら語ってはいない。だが、この一句がはじめに置かれているということが、句集全体に浸透している言葉についての考えを端的に表わしている。というのも、この句集においては、言葉がはじまるとともに生まれるのは光ではなく翳りなのである。明るかったはずの空間が、言葉によって暗くなるのだ。

翳りをもたらす闇は、いつでも死のかたわらにいる。言い換えれば、この句集においては言葉こそが闇なのであるが、それは死の淵にあり、死に仕えているのである。

言の葉は水漬いてゆく葉冬の鳥

帯に印刷されたこの一句は、言葉において言葉の死を物語っている。冬、言葉は冷えた水に浮かびながら死にかけている。「水漬く」という言葉は万葉の詩歌への暗黙の参照によって「屍」を想起させる。なにより、「水漬く」という言葉が、それ自体、今日では死んだも同然の古い言葉である。

言葉は死ぬだろう。言葉は永遠ではないだろう。言葉は今にも失われるだろう。言葉はもうすぐ水の中で朽ち果てるだろう――これらの認識は、言葉への根本的な不信を抱かせる。

これが、『封緘』における冬である。この句集は春夏秋冬の並びを崩して、冬から始まる。誕生から死へ向かうのではなく、死からはじまるのだ。それも、ただの死ではなく、言葉それ自体の死の季節からはじまるのである。

実際には、この冬において言葉が完全に死に絶えてしまうということはない。われわれは、この本に言葉が書かれている限り、この句集の内側に留まりながら言葉を失うことはないだろう。だが、言葉はここでは死を約束され、ある意味では死んだも同然であり、果てしなく死にかかっていると同時に、すでに死んでいるのである。しかも、そこから言葉がはじまるのだ。

寒禽の導く声のありにけり

句集のあらゆる言葉を導くのは、言葉をもたない鳥の声である。おそらく、この鳥は水漬いてゆく言葉を見つめていたあの冬の鳥なのであろう。この鳥は言葉ならざる声によって、言葉を、言葉の死の外へ、言葉を失うことへと導いていく。

丁寧に書けば書くほど悴める

言葉が完璧な丁寧さを実現しようとするとき、手は思うように動かなくなる。言葉を綴ることを身体が拒絶するのだ。そして、この拒絶は、言葉にとっては全く外的な要因である寒さによって引き起こされている。言葉は、それほどまでに無力であり、つねに不完全のままそこに書かれる。だから、語り手は次のように書かざるをえない。

言葉より蛇の髯の実が今は要る
 

たしかに、言葉はまったく要らないというわけではない。この句もまた言葉にほかならないのであって、言葉がなければ今を指し示すことも、蛇の髯の実を要求することもできない。それでも、蛇の髯の実のほうが言葉よりも欠くべからざるものとして必要なのである。そして、この必要を前に、語り手は言葉をほとんど失っているかのようだ。

だから、この句はたとえば佐藤文香『君に目があり見開かれ』(港の人、2014年)に収められた〈紫陽花は額でそれらは言葉なり〉とは根本的に異なった思想に基づいている。これは、どちらが良いとか悪いとかいう問題ではない。両者は、とにかく全く異なる二つの思想、全く異なる二つの世界なのである。

『君に目があり見開かれ』では、言葉はそれ自体として愛されており、必要とされており、肯定されており、信じられている。言葉を失うことは、ここでは終わりを意味するだろう。だからこそ、『君に目があり見開かれ』の語り手は、言葉にできないように思われるものに対してさえも、たとえば〈鳥の巣になんぞやはらかなもじやもじや〉というかたちで言葉にせずにはいない。この語り手は、あらゆるものを照らす光への信頼を〈冬木立しんじれば日のやはらかさ〉というかたちで表明することをためらわないだろう。

それに対して、『封緘』では、言葉はそのものだけでは拒まれ、放棄され、否定され、疑われる。『封緘』において肯定されるのは、言葉の外にあるものだ。言葉は、自らの外を指し示す限りで、はじめて、愛され、必要とされ、肯定され、信じられる。われわれは、ここでは、言葉を失ったところからでなければ、はじめることさえできないだろう。

言ひさして十一月を灯せる
 

おそらく、この句におけるように、言葉はふいに失われなければならないのだろう。言葉がとつぜん宙吊りにされたときに、その言葉の外で、ひとつの灯りが光をもたらすのである。言葉は万物を照らし出す光、紫陽花の彩りが花びらではなく額であることを明らかにしてくれるような光ではない。だからこそ、それは十一月の闇のなかで差し止められ、死に絶えるしかないのであり、おそらくは、そうなることが望まれてさえいるのである。

猫柳ほどには君を慰めえず
 

そう。言葉は君を慰めるに当たって猫柳ほどの力もない。だから、言葉は猫柳を指し示すことで、はじめて存在を許されるのである。

己が手のふと恐ろしき焚火かな
 

手はもはや言葉ではなく火に加担する。手は言葉を書くのではなく、何もかもを火にくべてしまう。手は、落ち葉を集めて火にくべる。とりわけ枯れた言の葉はよく燃えるだろう。だからこそ、言葉においてそれは恐れられる。言葉が手を恐れるのだ。

ペンをおくとき本当に春終る
 

手はここでも、言葉を終らせる現実そのものとして、そこにある。言葉の終わりが春の終わりと合致するのは、言葉が春をつまびらかにするからでは決してない。それは偶然にすぎないのであって、だからこそ、驚きがあるのだ。「本当に」。それゆえ言葉はこの句において肯定されている。偶然にも、現実を指し示したからである。

人々は、言葉の力がこれほどまでに弱まったところでは言葉によるいかなるコミュニケーションも成りたたないと考えるかもしれない。実際に、この句集においては、言葉こそがコミュニケーションを不可能にし、不明にし、それを暗がりへ追いやってしまう。

落葉道二度聞きとれずもう聞かず
 

この句の語り手は、それを聞きとれなかったことが分かっている。ということは、声は聞きとれているのだ。聞きとれなかったというのは、それを言葉として聞きとれなかったのだ。そして、言葉のこの二度の死産によって、コミュニケーションは破綻する。語り手は、もはや聞きとろうとしないだけではなく、何も聞かない。コミュニケーションは永遠に失われる。

だから、言葉はもはや、ひとりごととしてしか成り立たないだろう。

菜の花や人ゐなければひとりごと
 

人のいないところで、誰とわかりあうこともなく。この語り手にとって、言葉はそんなふうにしてしか、ない。

では、このとき、コミュニケーションはどうなるのか。

『封緘』においては、言葉を失うことではじめてコミュニケーションが可能になるのである。

二本の裸木のありわかりあふ
 

裸木がわかりあうのは、言葉によってではない。裸木にはもう言葉はない。言葉はみんな散ってしまったのだ。今や何もかもが光にさらされることになった。そのときはじめて、裸のコミュニケーションが可能になったのである。

青梅や傘畳むとは人悼む

 

人の死という現実に際して、語り手はどんな弔辞も述べることはない。人の死を前にして、この語り手は言葉を失うからである。それゆえ、この語り手は、人を、ただ傘を畳むという仕草でもって悼むほかないのである。

葛咲くと告げわたりたる峡の風
 

葛の開花という現実は、言葉によってではなく、風というもう一つの現実によって告げられる。

コミュニケーションは、言葉があるところでさえも同じようにあるだろう。

緑蔭の人の唇読みてをり
 

声を聞くことのない語り手は、言葉ではなく唇という身体の直接の読みとりによってコミュニケーションを回復するのである。茂った葉が、言葉が、語り手の視界を暗くさえぎろうとするのだが、そのなかでなお、身体によるコミュニケーションが模索されている。言葉があるところで、語り手はその言葉に耳を傾けることなく、唇を読む。

秋冷の唇の堰く言葉かも
 

唇の力は言葉を発することにあるのではなく、言葉を堰きとめることにあるのだ。そこにコミュニケーションがある。人は言葉を失う。

書かれた言葉についても同様のことが確かめられる。

印刷屋すずしき音を立ててゐて
 

印刷物になにが書かれていても、語り手にとっては何の意味もないだろう。その作業が、現実において、すずしい音を立てていることのほうが重要なのである。語り手が読みとりまた聞きとるのは、話された言葉ではなく話す唇であり、書かれた言葉ではなく文字を刷る機械の音なのである。

手書きの文字についても同様である。

もの書けば余白の生まれ秋隣
 

あたかも余白こそが書くことによって生み出される唯一のものであるかのように、この句は書かれている。語り手にとって、書くことは言葉を生み出すのではなく、余白を生み出すのである。言葉の外がひらかれることで、はじめて、言葉は許されるのだ。そのとき、コミュニケーションは、言葉が失われた場所できっと展開するだろう。

だが、このようにかろうじて認められる言葉もまた、歴然と言葉である。だから、言葉で語るかぎり、語り手はつねに語りそこなう。言葉ではないものを語りそこなうのだ。

鵙のごと鳴けざることの悔しかり
 

語り手は、本当は言葉ではないコミュニケーションを求めている。言葉を越え、言葉の死を越え、言葉のかばねを越えて、声をあげたがっている。それは、言葉の死産を越えた何らかの産声なのだ。だが、語り手には、厳密にいって、言葉しかない。だからこそ、鵙のように鳴くことはできないということを語り手は言葉において悔しがるほかないのである。

なるほど、ときにはあらゆるものに翳りをもたらす言葉がやさしく思えることもあるだろう。

言伝といふやさしさに木の実降る
 

こんなふうに、言葉がもたらす翳りが人を守ってくれることもあるのだ。だが、このやさしさは、もしかすると本当の優しさではなく、ただの易しさかもしれない。この語り手にとっては、言葉でなにかを伝えることがやさしさだと主張することは、それ自体、イージーな考えなのかもしれない。木の実が降るとき、現実が、言葉の外で、言葉のやさしさを問いただしているように思われてならない。

肯へり枯蔦を引く力もて
いいえとふ金水引の散りながら

 

肯定することは言葉によってはなされえず、ただ否定だけが、「いいえ」という言葉になる。というよりむしろ、『封緘』において、言葉は本質的に「はい」ではなく「いいえ」なのである。ここでも、『封緘』は『君に目があり見開かれ』と実に好対照をなしている。『君に目があり見開かれ』では、語り手の愛の対象とされる言葉が同時に愛そのものでもあるとみなされる(〈手紙即愛の時代の燕かな〉)。『封緘』の言葉は、それとは逆に、言葉それ自身に突きつけられた無数の「いいえ」である。このことによって、『封緘』は言葉それ自体を薄暗闇の中に封じるだろう。

落し文開きしことを責めらるる
 

その封を気安く開いてはいけない、言葉があふれだしてしまうから。言葉は、封じられた闇のなかに閉じ込めておくべきものだ。たしかに、落し文の包んだ葉それ自体には、どんな文字もなく、ただ卵があるだけかもしれない。しかし、落し文のこの文なき文を開封することは、第三者による果てしない責めの言葉を引き出してしまうのである。

追書に大切なこと虫時雨
 

追書、すなわち手紙の追伸は、それ自体のありようにおいて、言葉の余白を指し示すだろう。本文の余白で、それは大切なことを語る。だが、この追伸もやはり言葉である。それは、偽の余白であって、コミュニケーションに翳りをもたらす。

追伸に大切なことが書かれているということは、第一に、手紙の本文を不可解なものにするだろう。大切なことは追伸のほうに書かれているならば、本文はいったい何を伝えようとして書かれたというのか。第二に、それは追伸に書かれたことが実際には大切なことではないのかもしれないという疑念を引き起こすだろう。それは読んだ人間が勝手に大切なことだと思い込んでいるだけのものかもしれないではないか。第三に、それはもっと大切なことがいまだ書かれずにあるかもしれないという疑念を引き起こすだろう。追伸に大切なことを書くような手紙の書き手を、読み手は信頼できないだろう。もしかすると、本当の余白に、なにか大切なことがあるかもしれないのだ。こんな風にして、コミュニケーションはやはり成り立たなくなって、最後には余白へと押しやられてしまう。

書出しのインクを垂らしたき泉
 

一見すると、この句は言葉を書くことの肯定に見えるかもしれない。しかし、よく考えてみれば、この句もまた、書くことを否定しようとする言葉なのである。この句の語り手は、ペンのインクで言葉を書き出すかわりに、それを泉に垂らしてかぎりなく薄く溶かしさってしまいたいと述べているのだ。語り手は、インクを言葉ではなく、現実に還元することを望んでいるのである。

さて、僕に語ることができるのはどうやらここまでのようだ。僕はいま、この句集について語る言葉を失いつつある。正直なところ、言葉に対する根本的な懐疑を主題としながらなおも言葉を書き続けるということが、作者をこれからいったいどのようなところまで推し進めていくのか、僕にはまるで見当がつかないからだ。とはいえ、いずれ、何かしら僕のものではない言葉が、おそらく作者自身のさらなる句集が、つねに余白を残しながらも、この余白をいくらか埋めることになるだろう。そして、僕はこうした予想を書くことで、結局のところ、言葉の余白よりも言葉それ自体をずっと強く信じているということを告白してしまっていることになるのだろう。僕はいま、句集の語り手と違って言葉それ自体を信じてしまっているがゆえに、ひとまず、ここで言葉を失うほかないのだろう。

2011-10-29

角川俳句賞受賞作「ふくしま」他5作を、ハイクマシーンが読む ……佐藤文香・上田信治

【落選展を読む】プレ企画
第57回角川俳句賞受賞作「ふくしま」他5作を、ハイクマシーンが読む

……佐藤文香・上田信治


11/10/28 17:01 から 11/10/28 19:44 まで、skype上で行われた会話

a8ca:佐藤文香 shinji ueda:上田信治)


a8ca
いつでもどうぞ。

shinji ueda
ちょっと待ってね

a8ca
はい。

shinji ueda
お待たせしました。えー、では、「俳句」に50句掲載の予選通過作5作をアタマから行って最後「ふくしま」としましょう。

a8ca
はい。選考座談会の発言の扱いはどうします?

shinji ueda
まぜましょう

a8ca
了解です。


織田高暢「塔」

shinji ueda
いかがでした?

a8ca
〈アウトドアいちぶつ〉、という印象です。

shinji ueda
これ○が3つついてるんだよね

a8ca
わかりにくい句はない気がします。
中本真人さんの作品と近いつくりかたかな、と思いました。

shinji ueda
はじめの「低く来し蝶またぎけり駅へ急く」で、お、と思ったんですけど、

「急く」で、面白くなくしてしまった、と思って・・・蝶をまたいだところが、おもしろさのピークなのに、

結局それを超える句は、あったかな、、、というかんじ

a8ca
私は「リレー走者黄菊の鉢へ倒れ込む」をいただきました。

shinji ueda
あ、ぼくも、それ。

でもさ、これ、校庭?

a8ca
そうなんですよ、
マラソンならまだ、わかるんですけど。

shinji ueda
校外マラソンとか、町内マラソンとかなら、分かるけど。「リレー」がね、
グラウンドだとしたら、鉢植えまで、けっこう距離あるぞ、と。

a8ca
黄菊だと鉢が小さそうで、全然耐えられなさそうなのは面白いです。

あと、これは類想があるかもしれませんが、「花降らす一樹へ花を浴びながら」は好きでした。

shinji ueda
うーん。なんか、ちょっと俗っぽくない?
「降らす」「一樹」「ながら」・・・言葉使いにちょっとポーズがある。

「一滴にほふ」とか「一羽一羽に」とか、

a8ca
ああ、数詞「一」はとても気になりました。

さきほどの句、「花降らす一樹へ」と言っているときは、落ちてゆく花々は視野にあって、わりと平面、絵画っぽいんですが、「花を浴びながら」と、その内へ入るときに、自分をとりまく世界として立体感が出る感じ。一度目の「花」と二度目の「花」の知覚の仕方が違うというか。

shinji ueda
なるほど、身体性と空間性。さっきの「蝶」とか「黄菊」にも、そういう要素ある

でも、これ、選考委員の○3つって、どうなの

a8ca
吸収率が高かったんじゃないでしょうか。

shinji ueda
え?

a8ca
んと、ほら、おなじくらい栄養のあるもの食べても、それを体がどんだけ吸収するかどうかって、ものによって違う。

で、栄養価が高くても人体が吸収しにくいものとか、そこまでじゃなくても、よく吸収するものとか、ある。

shinji ueda
何を何にたとえているのですか、その場合(笑)

a8ca
栄養=詩性? 人体=選者?

やわらかくて、かみやすかったとか、飲み込みやすかった、とか、みたいなのもあるかも。

shinji ueda
撰者に、はまったってことか。

すいません、私、これ、もひとつでした。ところどころ俗っぽいし、常識的だし。座談会では「番台に預けし蝉の鳴き始む」が、高評価だったですが、これも「鳴き始む」が、超やりすぎだし

a8ca
青年はライフセーバー日焼けして」が入っていて、がくっときました。

shinji ueda
次行きましょうか。

a8ca
次、行きましょう。


●兼城雄「水母」

shinji ueda
好きだったのは

風鈴や睡れる人の目の動き
みづくらげ倉庫ぽつかり空いてをり

a8ca
私もそれ好きです。>風鈴

葱を切る闇夜が家に入つてくる

shinji ueda
その句つげ義春みたい

夜遅く、一人で、葱を切ってるんだね

a8ca
つげっぽい。
この句、でも、浮いてるんですよね。句の中では。

ぜんたいは、〈うすい安堵〉という印象。

shinji ueda
あ、たしかに他の句はすこし優等生っぽいです

a8ca
沖に出て波の分厚き大暑かな」とか。

shinji ueda
「光」関係のが、だいたいそう。多い。

a8ca
誘蛾灯いのち湧き次次に死ぬ」は、ちょっと……

shinji ueda
あ、これ虫が湧いて見えるっていうんじゃないのか
誘蛾灯で切れてるのか。うーん。それだと、ちょっと、だね。

a8ca
でも、あまりおおきなキズはない、ですよね。

shinji ueda
えー、でも常識的なことって、キズじゃないのかな

a8ca
ああ、そりゃそうだ。

shinji ueda
あ、この人けっこう若いんだ

a8ca
同世代にこんな人がいらしたんだと驚きました。

s61年生まれなんで、同学年か、ひとつ下。「鷹」に。

shinji ueda
へんなところを強化していってほしいです。選評は、どんなかんじだっけ。長谷川さんが、強く否定してたよね。

a8ca
「観念の世界」と。それは、×ということなんですかね。長谷川さんにとって。

shinji ueda
観念と言われてた「うす青き月光の射す扇かな」の句は、弱いってことでしょう。つまらん、と言われてた「月涼し潮匂ひたる町の川」は、たしかに当り前かも。

でも「風鈴」の句が当たり前っていうのは、ちょっと、違うんじゃないかな。風鈴と、まぶたの下の目玉がころころ動くのに、相同性を見出してるっていうのは、面白いですよ。

a8ca
池田澄子がこれを◎にしたのは「?」です。◯なら、まぁわかる気もしますが。

shinji ueda
うーん、今年も、選ぶの苦労した、って声が出てたですね。審査員から。

a8ca
われわれが苦労するかどうか、「落選展」が楽しみです。

shinji ueda
ふふふ。では、こんなもんで。「みづくらげ」と「風鈴や」はいいよね。

a8ca
葱も。


●谷口智行「海の蛾」

shinji ueda
どうでした

a8ca
〈海辺土着のやさおとこ〉という印象です。

shinji ueda
どのへんが優男でしょう

a8ca
あしたよりゆふべ稲穂の垂れしるき

ゆきひらにたぎる白粥昼ちちろ

shinji ueda
「ゆきひら」は長谷川さんに反対されてた句だけど、あやかさんの評価としてはどうですか

a8ca
ゆきひら、って、鍋ですよね。(広辞苑参照)

shinji ueda
はい、いちばんふつうの

a8ca
まぁ、粥には、ゆきひらなんでしょうが、「ゆきひら」という言葉から、湯気の雰囲気とか、あと、在原行平のこととか、感ずるのが、わりと好きです。

shinji ueda
ああ、そっかそっか え、行平ってそういう人なの

a8ca
え、歌人です。能とかになってる

shinji ueda
業平の子孫? 

a8ca
兄じゃなかった?

shinji ueda
ああ、、意外と位の高い人だ wiki参照
まつとしきかばいまかえりこむ
の人か

a8ca
さよう、「立ちわかれいなばの山の峰におふるまつとしきかば今かへりこむ」(百人一首)

shinji ueda
よく考えたら、たぎる白粥ってすごいな。貴人の意外な情熱。

a8ca
昼ちちろ、がどうかは、わからんですけど。関係ないけど「体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ (穂村 弘)」が思い出された。ゆひらと白か。

shinji ueda
穂村さんは関係ないな、たぶんw

a8ca
全体に、漢字ごつごつつかってるわりに、こまやかな感覚だなと思いました。

shinji ueda
鹿網に雄鹿立ちたるまま死にき」は、エロい。あの矢がいっぱい刺さってる聖人の絵のようだ。

かと思うと「春光へ海老刺網を投じけり」いいよね。こんな繊細なことを言う漁師さんはいないだろう。

a8ca
エンジンの音きさらぎのわだなかの」「バルコンに漁夫のにほひの椅子ひとつ」あたり好きです。

shinji ueda
永き日の戸籍係でありにけり」とか

a8ca
それはどうかな……

shinji ueda
そうか。そうだな「戸籍係」は、いま、目に入って言いました。

長谷川さんの評(「全体として見るとすごく緩んでいるというか、たるんでいる」)、、、、どう?

a8ca
わからなかったです>長谷川さん

shinji ueda
だよね。谷口さんは、それこそ、傷とか弱点を指摘されるようなレベルの人じゃない。50句の中に、高低、好き嫌いはあると思うけど。

a8ca
そうですね。50句である必然性も、作家性も、感じられます。ひとめ見ただけだと、ちょっと仏頂面な句ですけど。

きらきらしてないというか。

shinji ueda
「すごく緩んでる」? この人の口語の感触をまじえつつばっさばっさ書いてく感じは、個性だしな

a8ca
ゆるんでるというよりは、しまってる方じゃないですか。

次いきますか。

shinji ueda
はい。


●藤井あかり「一羽」

shinji ueda
えーと私の番か

a8ca
どうです?

shinji ueda
じつは、自分には、この人も、すごく常識的に見えてしまってですね。

どう?

a8ca
〈きらきらシフォン〉という印象です。

shinji ueda
同意。

工房のはちみついろの冬灯」とか「林檎剥く母にも母のありしこと」とか、感性的には、すこし幼いくらいのカンジの人なのに

「さを鹿」とか、「いらへ」(答へ)とか、谷間(やつあひ?)とか

a8ca
たにあいでしょう。タニマです。

shinji ueda
あ、たにあいか これは私が悪かった。

でも、なんか、そういう、むずかしい言葉を使ってみたりするのが、逆にすごくファンシーに見える。

a8ca
女子のモテる秘訣!みたいな、ゆるふわなんだけど古典的情緒でギャップ萌え、というか。

shinji ueda
いじわるだなあ

a8ca
でも、座談会でも好評価だった「この部屋や窓から枇杷の実を捥げる」はかなりヒットです。

shinji ueda
あ、それは。あと「石ころの粗くなりゆく蛍かな」は、すごく

a8ca
すごく?

shinji ueda
いい

a8ca
はい。ふわ系では「ふつつりと蝶ゐなくなるはこべかな」が好きです。

shinji ueda
あ、いいですね。「雨雲のもちこたへたる紫苑かな」も、いい。

a8ca
わりと、句の構造がパターン化していて、そのあたりも常識的に見えるのかもしれません。

shinji ueda
そうだね、いまの「かな」3句、作りが同じだね

a8ca
12音+季語とか、完了の「ぬ」のつかいかたとか。

shinji ueda
池田さん以外3人が○(さっきの織田さんと同じ)

a8ca
ちょっと、今年の角川短歌賞の受賞作とちかい雰囲気があります。

shinji ueda
そうなんだ。

a8ca
「おさなさ」があかるく見えて、そこに混じる「(俳句や短歌)らしさ」に安心するのかも

shinji ueda
なるほど。


●藤田哲史「朝の声」

shinji ueda
どうです

a8ca
〈とても切なくてだいぶ変〉という印象です。

shinji ueda
うん。
変さと、抒情性がぴったり一つのものになってるよね

a8ca
掲載された50句ではいちおしです。

shinji ueda
萍の青き面あり瓶の中
葱越ゆることなく卵転がれる

a8ca
嗚呼、ひとりぼっちだなぁ。
さすらへる夏や秋呼ぶこともせず

shinji ueda
あ、それは、夏の擬人化なの?

a8ca
まあそうでしょう。

shinji ueda
へんだな。それは、かなりへんで、しかも、なにその孤独感

a8ca
夏という季節が、われわれの現世から離れて、さすらっている。
われわれは、いや、ひとり、とりのこされている。

shinji ueda
とりのこされつつ、夏に感情移入だね

a8ca
そうです。

shinji ueda
つばくらめ失せて再び雲流る
秋冷やトルソー白く窓くらく

情報量が多い。座談会で龍太って言われてたけど、蛇笏かもね

a8ca
両方じゃないですかね。

shinji ueda
かも

池田さんが、ここに○つけてたら流れ変わってた

a8ca
そう。

いろいろ読んでるからこそ、何が新しいか(変に見えるんだろうが)わかってつくっていると思う。

正木さんが「初々しい」とおっしゃってるけれども、句作力自体はとてもしっかりしている。

shinji ueda
疑問句すくない

a8ca
葡萄ありおちつくことも灯の効果
終に寝ぬ蜜柑の皮のひとつながり

泣ける。一句目が違えば、受賞してたんじゃないですか。

shinji ueda
またダブルでならね

a8ca
ああ。そりゃいかん。

shinji ueda
じゃ、問題の


●永瀬十悟「ふくしま」

a8ca
いかがでしたか。

shinji ueda
なんか、ひどいことが起こった

a8ca
私は、〈選者がひどい〉という印象です。

shinji ueda
まあ、すけべごころだよね 長谷川さんは

正木さんは、自分の泣いたのを信じちゃった

a8ca
震災を詠むということに関して、いろいろ議論があるので、私の立場を示すと、

shinji ueda
うん

a8ca
当事者であろうがなかろうが、詠む人はいていいし、その作品がよかろうが悪かろうが、別にいいんですけど、それを自作として「発表する」、もしくは選者が「選ぶ」、雑誌に「掲載する」といったときに、幾重にも「待った」がかかる必要があるというか。

shinji ueda
必要、と言いますと、その待ったは、どういう待ったでしょう。

………

自分が、鈍感で失礼な人間じゃないかっていう疑い、という「待った」かな

a8ca
そうですね、震災ののちの立場がいろいろですから、思いを及ばせねばならない読者の種類が、あまりに多い

shinji ueda
ふむ?

a8ca
被災した、というなかにも、自分以外の家族が皆流されてしまった、という人と、家族は無事だが家業が壊滅、という人と、すべて無事だったが原発のせいで、という人と、一見瓦が落ちただけだがそこからの雨漏りをなおせず困っている、という人と……

shinji ueda
ああ、そっか読まされる身になれという。
誰にも、それは、なりきれないだろ、ということか。

a8ca
被災者として詠んだとしても、それが他の被災者をどういう気分にさせるか、というのは、やはり凄く考えねばならない。

shinji ueda
あ、うん、ぼくはねー

a8ca
はい。

shinji ueda
書かない、書けない、書ける、書く、とあってー

書けちゃったら、書く

衝動的に書いてしまう、人もいると思うし、書かずにいられないっていうこともあるだろうし
すっげえ、いいのができたら、やったーって思うと思う。

だけど、その自分は、すごく鈍感で失礼なバカなんじゃないか

a8ca
ふむ

shinji ueda
という疑いはもちつづけるだろうな

a8ca
さっきのつづきですが、その、読者に対する責任のようなものと、作品として立つかは別の話で、その両方を本気で考えないといけない、というのは、「衝動的に書いた」あとの作業というか、

だからまぁ、信治さんとかなり近いと思うんですが。

shinji ueda
読者に対する責任のようなもの、と言ってしまうと、

一方にはげまされた、っていう人がいればいい、っていう言い方も成り立ってしまうよね、

コストとベネフィットみたいな、費用対効果みたいな。そういうことでは、ないわけでしょ。

a8ca
ああ、効果、ではないです。

shinji ueda
受け手主体に考えること、って、むずかしいな。方便としてはありだけど。

a8ca
私は震災当時、須賀川市で被災した人が身近にいたので、なんというか受け手主体の話に

shinji ueda
うむ。

それはそれとして

a8ca
それはそれとして

shinji ueda
避難大事恋愛大事チューリップ」「雁風呂と名付けて六日振りの風呂」「みごもるといふ知らせあり虹かかる」といった句には、耐え難い鈍感さがあると思った

a8ca
池田さんの言葉で言うと「切実さは感じない」ということですね。

shinji ueda
そう。あ、もう、すっかりお元気なんですか、っていう。長谷川さんが「そういうところに置かれると案外、人間は平然としているところがあるんです(…)そこにすごくリアリティがあります」って、言ってて、

そりゃ、そうだろうって思うよ。なにがあっても日常がつづく、っていうのは、たしかにリアリティだろうけど、
この人、ぜんぜん、それに驚いてないじゃない。

a8ca
それは、違う。>すっかりお元気

shinji ueda
そう?

チューリップだよ? 虹かかるだよ?

a8ca
作者が「鈍感な人」ではない、と信じたい。「案外平然としている」かどうかなんて、わからない。

ただ、切実に書く技量がないことは確かだと思う。平然としてたとしても、作品のその部分に、驚けない。

shinji ueda
作品の中に探したけどね、切実さ

パーソナルな、この人だけが感じたものを

だから、この人の俳句が、結果として鈍感だったというだけで、この人が鈍感とは言ってないです。

a8ca
それ、しっかり言っといた方がいい。人格攻撃に聞こえた。

shinji ueda
人格攻撃ではないです。

でも、言ってしまうと、俳句って人を鈍感にするものだ、ということを、見せつけられた気がするよ

a8ca
それも言わない方がいい気がする。

shinji ueda
うん……

品のない言い方だけど、さ

そういうものですよ、この50句は

a8ca
私がとれる句はなかったです。

shinji ueda
淡雪や給水の列角曲がる」は、うむ、と思った

a8ca
角曲がる、が稚拙では。

shinji ueda 8
んー、まー、そうか。
むかでみたいに曲がっていったみたいだよね

それにしても
素材の価値っていうのは、作品を構成するパーツでしかない、

なんて、常識の手前のことだと思うんだけどなー

a8ca
今回の場合、素材=震災に関すること、ということですよね。

shinji ueda
そうですね

震災を経験しているという、よだれの出そうな価値

a8ca
その言い方よくない。

shinji ueda
まったくだ 

いや、違う。言いたいのは、「売る側、選ぶ側にとっての、よだれの出そうな価値」だということ。

いや、ひどいこと言ってるけどさ。ちょっと、怒ってるのかもしれない、自分。

a8ca
もしこれを、沖縄の人が書いていても、いいわけですよ、池田さんの言うように。

shinji ueda
そうですね

a8ca
松山でもいいですけど。で、そういう人が書いていたときに、受賞取り消しにしたくなるようなら、選んじゃだめでしょう。

shinji ueda
そういうことなのかな、この句の問題は

a8ca
「今年だから」という話もありましたが、受賞する作品として、条件付きじゃないと受け入れられないようでは、だめだと思う。

10年後であっても、作者が外国の人であっても、これは凄い、と言わせるようでなければ。

shinji ueda
あの、なりすまして書いて、若い女性だと思ったら男だった新人賞受賞作品て(短歌だっけ)あったよね

あれ、けっきょく、その後、その作者の人ってなかったことにされてたんじゃなかったっけ

だから、その、フェイク俳句的なものだとしても評価できるだけの作品でないと、っていう判断基準は、現実的じゃないというか、

あ、それは、そういうハードルというか仮の基準として、ってことか

a8ca
作者名を伏せて選考するという場で、の話です。

shinji ueda
じゃあ、言うと、

震災をはなれても読める句が、この作家のアベレージだと思うんだけど「滝桜千年ここを動かざる」「風光る洗濯物を旗として」「再会を約す合唱雪解川」のあたり、けして水準高くないよね。作者が誰であろうと。

a8ca
はい。

shinji ueda
この作家を、新人賞受賞作家として押しだすことは、本人にとっても気の毒だと思う。

というわけで、今年の角川賞は、ちょっとざんねんな結果に終わったと

a8ca
名取の団体句集発刊 方言で震災体験詠む  これ、取り寄せてみようかな。

shinji ueda
では、今日はこんなもので

a8ca
はい。落選展、大いに楽しみです。

shinji ueda
お互い落ちてるしね

a8ca
出してたんだ。そっか、そうだった。

shinji ueda
じゃ、本番では、もうちょっと、口を慎みつつ行きます。

お疲れさまでした。どうも、ありがとう。

a8ca
こちらこそ。

shinji ueda
よろしくお願いします。おもしろかった

a8ca
はい。落選展いくつくらいきてます?

shinji ueda
15くらい 
a8ca
今日5つで2時間半だから、もっとぶっ飛ばしていかなきゃな。
あ、ふらんす堂HPの俳句日記、11月は30句連作「ふくしま」です。

shinji ueda
だははは

a8ca
乞うご期待。では!!

shinji ueda
では!!