〔週俳10月の俳句を読む〕
上田信治 俳句の「正解」
夜 学 子 へ あ た ら し き 夜 の 来 て ゐ た り 齋藤朝比古
俳句はときにクイズやアンケートにも似て、一句が、季語という問のカイトウ欄に書き込まれた、答のようになることがある。クイズなら解答、アンケートなら回答ですが、もちろん、俳句に正解のあるはずもなく、そこは、その人なりの「回答」というのが正しい。
掲句。「夜学」とは、という問いに、まあ、みごとな答があったものです。泣かせる内容が、そのまんま秋の季感へつながるハナレワザ。〈夜学子〉を気の毒がってないところが、作者の人間性です。
秋 風 や 紅 茶 の あ と は 畝 傍 山 振り子
かねがね「紅茶」が秋の季語でないことを、残念に思っていました。6月に摘まれた新茶(セカンドフラッシュ)が熟成するのが秋頃だといいますし、色も温度も、じつに秋だなあと。〈小 鳥 来 て 午 後 の 紅 茶 の ほ し き こ ろ 富安風生〉
掲句。もちろん秋で、紅茶で、紅葉山なわけですが、一句の眼目は〈あとは〉にある。いびつにかわゆい形の畝傍山が、どうして紅茶の〈あとは〉なのか。それは読者の胸のうち。
ね じ 式 で 卵 う み た る 秋 の マ リ ア 大畑 等
「ねじ式(マリア頌)」と題された10句、うち6句が破調。その破調が、歌の、歌たるところか。俳句を書こうと始めたはずが、とちゅうで炸裂弾がはじけた、という風情の句もありますが、掲句は、バリトンの声量を抑え、静かに歌い収めた。いや、マリアというくらいだから、アリアかな、と。
鉛 筆 の 尻 噛 む 音 の し て 無 月 五十嵐秀彦
少年の自分が、大人の自分といっしょに鉛筆を噛んでいる。そのどちらも、明らかに、現在の認識主体である自分ではないという離人症的感覚が、いかにも〈無月〉です。→「モノの味方(1)鉛筆」
焦 く さ き 空 で は な い か 不 如 帰 柿本多映
〈焦くさき空〉とは、〈真 夏 日 の 鳥 は 骨 ま で 見 せ て 飛 ぶ〉(『夢谷』1984)の鳥が、かつて飛んだ空かもしれません。「ある日、ふと空を見上げると、懸命に翼を上下させながら西へ向って必死で飛ぶ一羽の鳥を見たのです。まるで骨だけで飛んでいるような。ああ、(赤尾)兜子先生そのもの、と思ったのです」(インタビューによる発言「俳句研究」2007/7)。
そのとき、鳥の「必死」に憧れた作者は、いま、声だけの存在〈不如帰〉にむかって、同じ空を共有する思いを、呼びかけているようです。
出 棺 に 真 昼 間 使 ふ 烏 瓜 岩淵喜代子
舞 茸 の 軽 し 芭 蕉 像 な ほ 軽 し
真昼間を〈使ふ〉のは、いったい誰なんでしょう。そして〈芭蕉像〉を、持ってみたりしているのは。〈ご み の 日 は ご み 出 し て ゐ る 椎 の 花〉(『硝子の仲間』2004)とも同様、そこに奇妙に「無責任な」主人公がいることが、これらの句の味わいのような気がします。
げ ん こ つ で ほ ぐ す 足 裏 蓼 の 花 津川絵理子
はじめの話にもどりますが、この作者こそ「季語という問」にみごとな回答を出すことに賭ける人、そう思っていました。〈雛 こ の さ ら は れ さ う な 軽 さ か な〉〈う つ す ら と 空 気 を ふ く み 種 袋〉(『和音』2006) 。「ねぐら」10句中〈秋 の 潮 し づ か に 船 の は こ ば る る〉などは、正にご名答といった佳什ですが、笑ってしまったのは、掲句。女性である作者名があって完成する作品と思います。こういう、よい意味で「厚かましい」書きぶりの作品を、また読んでみたいと思いました。
■齋藤朝比古「新しき夜」10句 →読む■振り子「遺 品」10句 →読む■五十嵐秀彦 「魂の鱗」 10句 →読む■大畑 等 「ねじ式(マリア頌)」10句 →読む■岩淵喜代子 「迢空忌」10句 →読む■柿本多映 「いつより」10句 →読む■津川絵理子 「ねぐら」10句 →読む
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2007-11-04
上田信治 俳句の「正解」
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