2008-05-18

上州の反骨 村上鬼城 第8回(最終回) 孤独へのまなざし 斉田仁

上州の反骨 村上鬼城
第8回(最終回) 孤独へのまなざし


斉田 仁



大正四年(一九一五年)『ホトトギス』に、鬼城はひとつの評論を発表した。「杉風論」である。蕉門俳人の作家論として出色のものであると、私は思っている。

杉風(さんぷう)とは杉山杉風(一六四七~一七三二)のこと、延宝から元禄にかけて芭蕉一門として活躍した「芭蕉十哲」のひとりでもある。幕府ご用達の魚問屋「鯉屋」として、経済的に芭蕉を支えた。芭蕉が延宝八年(一六八〇年)に移り住んだ第一次芭蕉庵は、杉風所有の生簀の番小屋を改装したものだといわれている。

さらには、「おくのほそ道」の旅のあと、芭蕉が住んだ第三次芭蕉庵も、杉風が同門の枳風とともに建立したものであった。芭蕉の口述遺書には、この杉風に宛てた一章もある。

現代でいえば、芭蕉の最有力のパトロンともいえようが、いわゆる当時の知識人として、根強く芭蕉の活動を支えたひとりである。ふるさとの伊賀より江戸に下った芭蕉が、その後、俳諧の道を確立した影の人ともいえる。ただ晩年は耳聾に苦しんだようである。

村上鬼城が、作家論にこの杉風をとりあげたのは、耳聾という同病を持つもののためでもあろうが、この「杉風論」をよく読んでみると、単純にそうとばかりはいえない。

文中の一部をあげてみる。

三五の月か、十六夜か、天高く気澄む処、一輪懸って漸く西に傾き、万戸清賞に飽き、宵を徹し燈を滅するの時、杉風独り、膝を抱へて、寂然動かず、家人来たりていふ。夜深く夜気やうやく寒し、寝ね給はずやと。此時、杉風何の状ぞ。月を忘れ、我を忘れ、天地の間、月なく我なし、希くは、彼を以て、只管打坐して、月の清光を惜むものとする勿れ。 常住坐臥、寂々寥々として、独往の客たり。古へ、芭蕉のいへることあり。淋しさに居るものは、淋しさを以て、主じとすると。実にや、淋しさは、淋しさに居り、淋しさを満喫し来って、而後に、僅かに淋しさを忘るべけんなり。つくづく月の淋しさを思ふの時、月こそ我が友なり。我笑へば月笑ひ、我泣けば月も亦泣く。

句読点の多い、鬼城独特の文章である。この原因を聾のためというむきもあるが、私はこれこそが、上州人の持っている特性のひとつであると思っている。

同じ上州人内村鑑三はこれをうたって、「上州無智亦無才 剛毅木訥易被欺 唯以正直接万人 至誠依神期勝利」といっている。

ともかく、鬼城はこの「杉風論」の中で、真の孤独を見ようとしたのではないか。若き日の溢れるような思い、さまざまな理由からこれを喪い、結局最後には俳句に生きていった己の中の、本当の淋しさをいいたかったのではないのだろうか。

杉風の活躍した同時代の蕉門には、たとえば、嵐雪、其角等のもっと著名な俳人も多い。しかし、鬼城はあえてそれらの人々でなく、もっと地味な、地道に俳句を支えた杉風という俳人をとりあげたのである。そんな地道の中にあるものを追求したかったのではないだろうか。

新しいものに乗り遅れた近代日本人の苦悩を、私はそこに見たい。

鬼城が生まれたのは、慶応元年、大きな理想をもって俳句の世界に入っていった明治、名声を得て活躍した大正から昭和初期、この国に激動の時代がすぎていった。

そして、現在ただいま、境涯の俳人という名を残してはいるが、次第に、歴史の中に埋もれていこうとしているインテリゲンチャとしての一人の俳人、その人の持っていた、あの時代の心の軌跡に私は少しでも近寄れたのだろうか。

そして、青年の持つ純粋感性や知性を、俳句という型式で純粋に受け止めるには、どうしたらよいのかとも思う。


(了)

※『百句会報』第119号(2008年)より転載

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