2008-05-11

俳句とは何だろう 第8回 鴇田智哉

俳句とは何だろう ……鴇田智哉

第8回 俳句における時間 8


初出『雲』2007年8月号(改稿)


前回までは、「俳句一句が、一目で見通せる長さをもっている。」ということを見てきた。これは、連載の第4回で箇条書きにした時間の、「6」にあたる。

6 十七音という形式の時間…俳句の十七音は言葉の形式として、人が一目で見通すことのできる絶妙の長さであるという意味において。

「6」を先にしたが、次に1の時間について考えたい。

1 俳句を作るもととなる時間…俳句のもととなる体験の時間。例えば「陽炎」の句であれば、作者が陽炎に佇んでいた時間。例えば、風景とか心象風景とかが生まれる、生とか思いとかの時間。阿部(完市)氏のLSDの実験では、この時間が強調された。

この「1」の時間について書く、ということは、俳句がどのように生まれるか、そのはじまりを記述する、ということになる。その方法として例えば、吟行に行ったときに俳句をどのように思いついたかについて、自分の体験を書くというのがある。「見たもの」からどんな言葉を思いついたのか、或いは「見て」いなくとも、その場でどんな言葉を思いついたのか、に注目するのである。

ところで、言葉には「意味」というものがあるけれど、言葉を思いつくとき、私たちは必ずしも「意味」を意識していないように思う。俳句には特にそういうところがあると思うのだが、あとからふり返ってみると、なんでこんな言葉を思いついたのだろうと思うことがあるはずだ。あのとき自分は何をしていたのだろう、という「?の時間」。それがこの「1」の時間である。

ただ、その「?の時間」そのものについて突っ込んで考えたり、記述したりは、普通はあまりやらない。阿部完市氏はそれをやったのであるが、彼の実験は、LSDという外的要因を加えたところが特殊である。できるだけ「意味」というものにしばられない状態に身をおくために、その一つの方法として外的要因を加えたということだ。

あの実験に似たことを私もできないか、と考えた。外的要因を加えずにすることも、もちろん可能である。吟行であれ何であれ、俳句はいつでも、意味にとらわれない「?の時間」から生まれてくるのだから。ただ、私はせっかくなら、阿部氏を真似て、何か外的要因を加えた実験をしてみたいと思ったのだった。いい方法はないか。

もちろん、薬物を使うわけにはいかない。となると、当然のことながら、まず思いつくのはアルコールの使用である。だが、飲み過ぎは身体が心配である。もっと健康的な方法はないか、実は私には思い当たることがあった。

私はふだん夕方か夜、いわゆるジョギングというものをしているのだが、あれは身体が乗ってくると、気持ちよくなってきて、意味というものにしばられていない、何も考えない状態のときがある。私は、そこに目をつけてみようと考えたのである。走っている途中で、頭が空っぽになる。そこでうかんだ言葉を覚えておく。そして家に帰ってそれをノートに書きとめる、という方法である。

ルールとして、必ず季語は入れる。もし五・七・五になるなら、ひと息で五・七・五にしておく。「ひと息で」というのは、考えずその場の呼吸とともに、ということである。推敲はしない。私はさっそく実験を始めた。

一日目。

走っている。右の耳の方に月の光を感じる。月の光が右耳を照らしたままについてくる。丁度真っ直ぐな道だったから、その状態がしばらく続いた。走りながら、これを何か言葉にしようと考える。走っているから、普通のときよりは、頭の働きが悪くなっている。季語を入れるのがルールだったな、と思い出す。そこで、

  右耳と春満月がおんなじに

とできた。せっかく面白い状態を経験していながら、出て来た言葉はどうだろう。あまり面白くない。季語をどうしようかなどと頭を使うからだろうか。〈春満月〉という熟語からしても、理があるように思う。また〈おんなじに〉という言葉も、きわめて常識的な感じである。

その日の夜中、落ち着いてから、机で推敲してみた。この「推敲」という行為は、連載第4回での時間の分類では、「2」の時間にあたる。

2 俳句を言葉として組み立てるのに要する時間…俳句を実際に文字として書き留めるのにかかる時間。推敲の時間など。

机でもう一度、走っていたときのことを思い出してみる。心の中で、「1」の時間を再現してみる。句を推敲し書き換えていくという「2」の時間の中にあって、心は「1」の時間の再現を試みている。あのときどんな感じだったか。月がついてきたんだよな、と思い出す。

  右耳に春満月がついてくる

なるほど、こんな感じではあったな、と思う。でも、「ついてくる」というのは、まだ理屈っぽい。

そこで、心身をさらに「あのとき」に持っていく。すると、走っていたときの、右耳に何かが「はりついている」という感覚が蘇ってきた。それが月だということよりも、耳の感覚の方が強い。耳にぼんやりとしたあたたかさも感じる。ここに焦点をあてようかと考える。すると耳がもっと大きくなり、風景が溶解しはじめ、私中心の景色となって広がってきた。

  右耳に春の日がはりついてゐる

結果として、現実に自分が見た「月」の風景ではなく、「日」の風景として句になった。まだ、どこかに理がついているようにも思えるけれど、この句は、どのみちこのくらいにしか行けないような気がした。

或る句が潜在的にどれだけの力を持っているかということ、即ちその句のポテンシャルというものは、その句が生まれるもとになった「1」の時間にゆだねられている。私がその日体験した「1」の時間は、よきにせよ悪きにせよ。そのくらいのものだったということになる。

また、「1」の時間は、かならずしも実際に見た風景と正確に一致するわけではないということもわかった。この句が実際の「月」(夜)の風景から、最終的には「日」(昼)の風景に転換してしまったように、「1」の時間は、「何があったか」ということよりも、「何を感じたか」ということに支配されるものなのである。

ともかく、一日目はこれで終わった。

(続く)



第1回 俳句における時間 1 →読む
第2回 俳句における時間 2 →読む
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第7回 俳句における時間 7 →読む

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