2009-05-03

〔週俳4月の俳句を読む〕鈴木茂雄 「し」と「す」のあいだ

〔週俳4月の俳句を読む〕
鈴木茂雄
「し」と「す」のあいだ


俳句について書くということは、少なくとも、例えばこの『週刊俳句』に発表された作品についてなにかを語るということは、わたしの場合は、俳句とはなにかという問題について考えることでもなく、秀句とはなにかといういわば俳句創造の秘密に迫ろうと試みることでもない。まして「どれだけ豊かに読み込めるか、どれだけ上手く書けるかの勝負」(【「~を読む」のコーナーに辟易 ……谷 雄介(『週刊俳句』第104号2009年4月19日)】をしようなどと思って書いているわけではない。そのようなことは到底わたしの力のおよぶところではないことは、わたし自身がすでに承知しているからである。

誤解を恐れずに言えば、わたしの関心はそんなことよりむしろ秀句の収集にある。依頼されて書き始めたとはいえ、わたしが「週俳~を読む」を書いているのは、あるいは書こうとしているのは、わたしが採り上げた作品が、なぜこのわたしをこれほど感動させるのか、その感動が語りたいからであり、もし許されるなら、わたしが掲出した作品の一句一句が自ずから一冊の「秀句アンソロジー」に仕上がることを願っているからである。

俳句を読むということについては『週刊俳句』の第15号第19号で触れたが、再度、「俳句を読む」ということは、その俳句の核になっている詩をつかむということだ。散文のように意味を読み解くことではなく、作品が醸し出す情感を肌で感じることだ。そう思っている。それゆえ俳句は、少なくとも「詩」は講評を嫌う。なぜなら講評された時点で詩は詩でなくなるからだ。

俳句という詩形もまたそうだろう。初心者に俳句の技術を語るならともかく、「週俳~を読む」の対象作品を読み解き、そしてそのことについて語ることは、その俳句の作者の追体験をすることである。そしてそこから感じたことを自分自身でも見てきたことのように語ることである。風景の共有から感覚の共有へと作者の記したコトバの跡をたどる。直感的に把握した共有感覚を語るとき、いつももどかしい思いをしているが、ただ、未熟ではあるが本稿は読者を想定して書いている。拙文のどこかに教師的物言いを感じ取られたとしたら、それはわたしの不徳の致すところ、自戒としたい。

また前置きが長くなった。今月の週俳作品を読ませていただくことにしよう。なにしろ『週刊俳句』は俳句の現在進行形だ。ここから俳句という詩形の豊穣な奥行きを把握して、出来ることならいつかは宝石のような詩の核をつかみ出したいものだ。


春の夜はあざらし すきまなく抱く  江口ちかる「ぽろぽろと」

くしけずればおたまじゃくしがぽろぽろと
 
七三に分けたらたんぽぽ咲いていた
 
惨劇の跡はイチゴの匂いして


身体感覚の句。連作に「りかちゃんのように関節曲げられる」という句があるからというわけではない。「ぽろぽろと」を一読した印象だ。

「春の夜」の句。「春の夜のあざらし」のなかに「あざ」がある。「夜のあざらし」のなかに「あらし」がある。春の夜の嵐。嵐のような夜。そんな夜があったことが、こめかみに赤い「あざ」のように記憶に残っている。「すきまなく抱く」の「すきま」は時間なのか、それとも空間なのか。この作者にとって「春の夜」は「あざらし」の皮膚のような「ざらざら」感が伴う。隙間なく、そして絶え間なく相手を「抱く」のだが、その「すきま」はいっこうに埋まらない。「あざらし」の「し」と「すきま」の「す」のあいだ、つまり「しす」のあいだに空白を見せたのは、じつは空白ではなく、こころの思いを記号として表白しているのである。

「くしけずれば」の句。これを詩では禁句の意味で読み解くなら、髪を梳くうちに悲しみがこみ上げて「おたまじゃくし」のような涙が「ぽろぽろと」流れた、となるが、この句の「おたまじゃくし」は、その連想からたどっていくと、「おたまじゃくし→両生類→変態→蛙」となり、その蛙がまた卵を産み「卵子とも精子とも見える形の両性類→変態→蛙」を繰り返す。つまり童謡「おたまじゃくしは蛙の子」から春の夜のエロティシズムへと舞台は暗転する。「くしけずれば」という自慰にも似た行為は両性への憧れの表れなのだろうか。それとも愛撫されて頭髪から「ぽろぽろと」抜け落ちる「おたまじゃくし」は卵子なのか、それとも精子なのか。ここまで書いたとき、あるいは妄想にふけっていたとき、ちょっと待てよと我に返る。ひょっとしてこれはあのスタジオジブリのアニメ作品「おもいでぽろぽろ」の「ぽろぽろ」かも知れない、と。すると、「愛は花、君はその種子」「私はワタシと旅に出る」というフレーズがBGMのように流れ出した。

「七三に」の句。「七三に分けたら」も「たんぽぽ咲いていた」もそれだけの景ならきわめて日常的な構図に過ぎないが、「七三に分けたら、たんぽぽ咲いていた」という発見は非日常の世界。ここに詩的スパークの花が咲く。俳句という構造は単純に見えるが、単純だから内蔵するコトバも単純明快というわけではない。単純をバネして想像力が飛躍する。

それにしても「七三に分ける」というのはそれ自身懐かしいコトバだ。ひと昔前の典型的なサラリーマンの整髪の仕方ではないか。だが、話は「くしけずれば」に続いている。女が七三に分ける仕草は、おそらく、いやきっとかわいいに違いない。「たんぽぽ咲いていた」という、字余りなのになぜか舌足らずな喋り方さえ愛しく思えてくるのは、もうすでにつぎの句に続こうとしているからだろう。

「惨劇の」句。とどめはこの「惨劇」というコトバだ。このコトバもまた異質な感じがする。それは、例えば本来「オイシイ」という場面で現代の若者は「ヤバイ」というコトバを口にするが、そんな感覚に似ていないだろうか。「惨劇の跡」と言いながら「イチゴの匂い」がしているのだ。この惨劇こそ春の夜の愛の嵐の跡に違いない。


つぎの作品も印象に残りました。

初蝶のニクロム線の匂ひかな 山口昭男「花札」
春愁のポップコーンの黒き莢
花札の裏は真黒田螺和へ

黒板に散らかる声や桃の花 小川軽舟「仕事場」
鳥の恋革の手帳の角潰る

誰彼の朧となれば繋がつて 麻里伊「誰彼の」
入口が出口桜の苑閉ぢる

竹の秋五目ごはんのくらきこと 川嶋一美「春の風邪 」


江口ちかる ぽろぽろと 10句 ≫読む
山口昭男 花 札 10句  ≫読む
小川軽舟 仕事場 10句  ≫読む
麻里伊 誰彼の 10句   ≫読む
川嶋一美 春の風邪 10句  ≫読む
南 十二国 越 後 10句  ≫読む
寺澤一雄 地球儀 10句  ≫読む

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