2009-12-20

きままな忠治 最終回 旅の終わり 斉田仁

きままな忠治
国定忠治の思考で仰ぐ枯野の空

最終回 旅の終わり

斉田 仁


初出『塵風』創刊号(2009年6月・西田書店)

忠治、一茶の生きた文化、文政時代を一部では化政時代などという。当時の社会状況はまえにも書いたが、ここではもっと詳細にそれを見てみたい。

八代将軍吉宗のおこなった享保改革。明和、安永、天明にいたる田沼意次の重商の時代。その反動としての松平定信の寛政改革。化政時代はこのような大きな三つの変動のあとの時代である。

農村では生産力が高まると同時に、当然そこに格差が生じる。豪農はますます富み、いわゆる貧農の土地までもみずからのものにしてゆく。現代と同じ格差である。

それに反して田沼意次の重商政策によって、江戸を中心とした都市はしだいに繁栄する。農村からあぶれ出す農民が増えていくのは自明である。

あぶれるということは、いままで閉じ込められていた枠の外に脱出することである。農村という衆の世界から個の世界へ出ていくということでもある。個人としての厳しい生活がひとり歩きをしてくる。現実は険しいが、やっと農民の一部にも自我や自由が芽生えてくる。

農村から落ちこぼれた人間はどこへ向かうか。一茶のように江戸へ入り、その片隅で自らの居場所を探すのが割合自然な生き方であろうが、反して忠治のように自身の産土にとどまり、そこに農とは別の生き方を模索しようとした者もいた。江戸という大都市のなかでいわゆる士農工商という身分制度の下で、社会の下積みとなって生きるのか、生国の隅で社会から弾かれた生き方を選ぶのか、忠治と一茶の分かれ目はこんなところではあるまいか。

私は忠治のなかに空っ風に抗う上州人の典型を見るが、一茶のような雪国では、その抵抗がもっと別の形であらわれたのではないかと思う。

雪国に暮らすことは雪に耐えることである。自然に抗ってもなんの得もない。ただひたすら耐えるしかないのである。

忍耐こそ反逆なのである。黙って自身や身の回りを見つめている。風と雪の国に住んでいたまさに不敵な二人の生き方であった。だから私はこの二人の立場にあるものは、同根であると思うのである。一見まったく別の世界にあるようだが、農村という昔からの世界からあぶれ、なんとか自身を浮かびあがらせようとしたそんな生き方に、まさに幕府崩壊の兆しを感じてしまうというのはいい過ぎだろうか。

ここまで書いて私は『享和二年句日記』のなかのつぎのような句を思い出している。

 ひとりなハ我星ならん天川   一茶

 

天保四年(一八三三年)。この年は天候が不順であった。春から長雨が続き、夏になっても冷夏であり、奥州を中心に甚大な被害をこうむった。

米の不作は翌年以後も続き、とくに上州では、天保七年(一八三六年)が未曾有の凶作となった。享保、天明と並んで、近世日本の三大飢饉と呼ばれる天保の大飢饉である。

全国の収穫高は三分の一に減少し、それによる米価は天保三年の一両で八斗八升三合五勺程度から、しだいに上がりはじめ、天保八年二月には、江戸で二斗六升二合と記録的に高騰した。この五年間で実に三、四倍の上昇率である。

ときまさに徳川十一代将軍家斉の時代、寛政改革の質素倹約の精神はしだいに忘れ去られ、文政年間の通貨の大量流通により、幕府財政は湯水のように浪費され、大都市を中心とした商人もまた富んでいった。そこには町人文化の花も開いていった。

しかし、平和ボケした武士が華美に走り、商人が力をつける一方、これらに搾取された農民、とくに零細な小作農はみずからの土地さえ失い、困窮の度を深めていった。

上州の農村は基本的には米作に適さない土壌である。浅間山の噴火による火山灰が風に乗って毎年降りそそぎ、土壌は痩せている。かろうじて平地に米を作り、山地ではわずかな野菜を栽培していたが、主要な生産物はやはり養蚕である。筆者の少年時代まで、まだまだ桑畑が多くあった。戦時中この桑畑を開墾し、畑作などに転向したが、どうしても自給を中心としたものから脱することができない時代が、戦後の昭和三〇年代まで長く続いたのである。

そんな土地を耕す上州の農民は、葛や蕨、野老(ところ。やまのいも科に属す救荒植物。髭根の多い根茎を食べた)、木の実などでかろうじて飢えをしのぐありさまであった。

さきにのべた関東代官羽倉外記はその状況を視察するため、下総、下野、上野の支配所の村々を回ったが、飢餓にすさむ農民を見て、心を痛めた。その状況を『済?録(さいしろく)』という名の巡回記録に残している。この書は現在京都大学付属図書館に蔵されているというが、私は未見である。

羽倉外記はのちにそのときのことを『劇盗忠二小伝』として別に書き残している。こちらはすでに多くのものに発表されていて著名である。

その一部につぎのような一文がある。
土人云ク、山中ニ賊有リ、忠二ト曰フ、党ヲ結ブコト数十、客冬来、屡孤貧ヲ賑ス、嗚呼我輩ハ民ノ父母タリ、而劇盗ヲシテ飢凍ヲ拯シム、之ヲ聞キ赧汗浹背シテ縫入ルベキ地無キヲ恨ムノミ
私の貧しい知識で要約すれば、「山中に数十人の子分とともに、忠治というおたずねものの賊が隠れている。昨年の冬以来、たびたび山を下りて飢餓の貧民に米銭を与え助けている。本来は代官のこちらが救助しなければならないのに、この劇盗のおかげで農民を飢えや凍えから救ってもらっている。恥ずかしさのあまり、赤面して背中まで汗でぐっしょりである」となろうか。

さきにのべた大惣代渡辺三衛門の克明な日記のなかにも、忠治が「窮民ニ金一両ニ米一俵麦一俵ツツくれ遺し候事、人は知処なり」と記されている。

忠治伝説は現代の歌や芝居ブーム以前に、すでにこのころからはじまっていたのである。さらにはこの付近にあった磯沼という沼の浚渫までもおこなったふしもある。

江戸時代末期から明治初期に遊女の間に流行った「くどき節」にもつぎのような一節がある。
其や悪事ハかずかさなれど、あのやいぜんのききんの年に米が三合わり五合で、其日ぐらしのなんぎなものへ、うばい取りたる其大金を、なんぎくるしむ其人々へ、忠治のこらず皆わけくれる
実際に忠治が飢饉の農民に米などを贈ったのか。上にあげた倉外記の文章も、また聞きであり、忠治を美化しているふしがあって、その真実は不明である。しかし、そういう伝説が伝わるところに上州という地の意味がある。

あくまでも権力に盾突き、たとえ博徒であっても民衆の側に引き寄せようとする心、これこそが上州人なのである。

さきにのべた空っ風に向かって抗う上州人、同じ土地に生まれたものとして私にはこの気持ちがよくわかる。

関東取締出役、いわゆる関八州廻りや火附盗賊改などにたいする批判が農民の間にもすでに芽生えていた。徳川幕府を単純に受容してきた農民の意識がやっと壊れはじめたいってもよい。幕府の崩壊は直接的には薩摩や長州の力ではあろうが、底流にはこんな衆愚の心がこめられているのではないか。

これこそが東国人なのである。

 

前節では、忠治の名が大衆の間に浸透してゆくきっかけのようなものを書いた。ここでは同じ意味で一茶がなぜ今日でも不思議な人気を持ち続けているのかを考えたい。

一茶が江戸に丁稚奉公し、俳諧を覚えていくいわゆる化政期は、最盛期の川柳の名残がまだまだ生きている時代であった。そしてそこから派生した狂句が流行し、題目に従って句を作る発句作りもまた盛んであった。

前句付けなど、大衆の雑俳も流行していたが。このころになると、それよりも一句題詠のほうに人気が移っていったようである。一句題詠とはひとさまの句に付けるのではなく、終始をみずからの責任で作るということである。

いうならば、幕府の圧政に押しつぶされていた庶民が自我に目覚め、みずからの精神を世に問おうとした時代といってもよいのではないだろうか。俳諧的には近世のはじまりといってもよい。ひとさまの尻馬に乗って遊ぶだけでなく、自我だけの世界に入っていこうとする初めての庶民の抵抗といってもよい。

しかし単純には喜べない。そんな端的な事柄だけでこの時代まで続いた月並みを抜け出すことができなかったことは、俳諧の歴史が証明している。

具体的に一茶までの俳諧は、たとえば、一定の日に宗匠の元に集まり、連句を巻くという座であったが、蕪村の時代から一句の発句の会がおこなわれるようになっていった。そして、一茶の時代になると、「月並の集句」とか「月並句合」といったものがいろいろ工夫されていった。

月並という言葉は、もともと「月次」と呼ばれ、たとえば「月次連歌」などとして王朝時代からあったというが、これが月並に変わって頻繁になってくるのはやはり江戸のころである。

井原西鶴の『物種集』のなかに、「大阪中俳諧月次日」などという一項目が見られるが、こんな用い方はこのころが最後なのではあるまいか。一定の日を決めて宗匠の下に集まり、句会をやる、文字どおり「月並」である。

「月並の集句」とか「月並句合」というのがこのころから盛んになってきている。催主が神社の献額、寺のご開帳などに合わせて句合わせを催し、宗匠のなかから選ばれた点者が題を出す。そして花代とともに句を募集し、それを宗匠が選をして天、地、人などといった順位に従って賞金や賞品を出すといった方法である。なんのことはない、現在の新聞や雑誌やイベントでおこなわれているものの原型なのである。

ともかく、こんな方法のなかから庶民の間に俳諧がひろがっていったのである。

江戸ばかりでなく、地方へもこれがますます浸透し、奥州路あたりの村の入口には、「俳諧師入村おことわり」といった立札もあったという。わずかな金を求めて、庶民を食い物にする輩も当然いたわけである。

こんな状況のなかで、当時の一茶はなにをしていたのか。

彼の十六歳から二十歳の江戸にあったあいだの消息は不明である。しかし、このころ奉公した馬橋の油屋大川立砂の影響で一茶も上記のような句会へ顔を出していたことは当然考えられるのである。この立砂の紹介で天明五年(一七八五年)には今日庵森田元夢の門に入り、さらに天明七年には、葛飾派の宗匠二六庵竹阿の門人ともなっている(のちの寛政一二年〈一八〇〇年〉、一茶はこの二六庵を襲名する)。

こののちの一茶は、上総をはじめとして、遠くは京阪、西国、四国、九州に旅をするなどいわゆる宗匠の道を着々と歩んでいくわけだが、私がここでいいたいのは一茶の今日でも衰えない人気はそんな土壌を基として築かれているということである。

さきにのべたように、俳諧が俳句と変わり、そのなかに盛り込む内容もしだいに現代的なものに変わってきてはいるが、方法としての俳句は、現代でもあまり変わっていない。庶民のなかに生きている俳諧の根本は、いつの時代でもある意味で同じなのである。

しかしこの時代の月並俳句はほとんどが今日では生きていない。正岡子規に「天保以後の句は概ね卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調という」(明治二十八年『俳諧大要』)と一刀両断されてしまっているが、私はこのころの俳諧を、とくに地方にあった俳諧をもっと丹念に拾うことによって、ただたんに「月並」として捨て去ることのできぬ、一茶ともちがう別のものが見えてくるはずだと思うのだがどうだろうか。

ともかく一茶が月並俳諧に埋もれなかったその原因は、みずからの身辺のか弱いものに目を向け、それを平俗なる表現で詠んでいくという方法にあるのだが、私はその背景の一つとして、一茶に自然に備わっていたアニミズムを挙げたいのである。

アニミズムといっても日本独自のアニミズム。

雪深い信州のなかに育ち、偏屈で吝嗇であった一茶独特のものである。学んで会得できるものでもなく、生い立ちや環境のなかから自然に備わってくるものであろう。

私は国定忠治にもそのアニミズムを見る。それは生国のなかで痛めつけられた者の共通な精神が生んだひとつの世界であろうと思う。

そのアニミズムは誰でも感受できる素朴でリアルなものだ。忠治や一茶の今日的意義はまさにそこにある。

 

稗史(はいし)という言葉がある。

歴史のなかで、勝者でも支配者でもなく、ただそれに翻弄されながら、しぶとく生き続けた民衆、庶民の歴史である。本当の時代とは、いわゆる教科書にあるものではなく、こんな民草の奥底にあったものなのではないのだろうか。

時代にうまく取り入り、その潮流に乗った者が、成功者として歴史に残り、忠治のように時代に逆らった者は、単なるアウトローとしてしか名をとどめていない。

時代はすこし下るが、上州のさらに北の村から明治十七年(一八八四年)に起こった蚕民の決起、群馬事件なども今日では公式な記録はほとんど残っていない。わずかの資料からその輪郭はうかがえるが、これも権力に葬り去られてしまった稗史である。東国である上州はいつもこんな宿命のなかにある。

忠治の時代、博徒は普通十手も預かっていた。いわゆる二足の草鞋である。権力にうまく取り入りながら、その権力をまた利用していた。

しかし、忠治だけはこれに反発した。生涯二足の草鞋を履くことはなかった。オカミに逆らったのである。当然、権力からすれば罪人となっていった。

すこし立場はちがうが、一茶もまた権力の側に立つことはなかった。往時の俳壇はいわゆる宗匠俳句、神格化された芭蕉の名を使って、宗匠として弟子を集め、自らの名声と保身を保っていた。

この状況は今日でもあまり変わらないのではないか。俳句の形や方法は多少異なっても、そのときどきの流行に乗ったものを作り、仲間内での名を売っているのはまったく同じである。

一億総中流、総白痴化という幻想に酔っているといってもよい。ここからちょっと外れた人間の怨念などは誰も見向きもしないのである。

一茶は忠治のようにじかに権力に刃向かうことはしなかったが、つねにここから落ちこぼれた弱いものに目を向けていた。俳諧という形式と方法を使って。

忠治も一茶もその根っこは同じである。

周辺という社会から疎んじられ、屈折した心のなかに独特のアニミズムが生まれていった。

二人とも風の強い、あるいは雪の深い国に生まれ、いったんは生国を離れた。すこしそこを離れることによって、もう一度、故郷を見つめなおしていた。そのことに私はなにか奥深いものを感じるのである。すこし遠くから見ることによるさらに熱い思いを。しかし、二人とも最後には、またそこに戻ってきた。

一茶は最後にそこで病み、そこで死んだ。

そして忠治は………。

 

国定忠治の実録が残っている資料は私の知るかぎりつぎのものだけである。

忠治像のほとんどがのちの大衆芸能のなかに埋もれてしまっているが、それを軽視してはいけないことはすでにのべた。大衆芸能のなかに生き残った原因をもうすこし丹念に探ることによって、その実像がおぼろに見えてくる場合もあるのだ。

ともかく私の駄文となった資料を列挙しておく。

『劇盗忠二小伝』顎軒文庫三至録付録  国会図書館
『赤城録』我為我齊叢書        旧高等師範
『赤城録』旧高等師範蔵書印      筑波大学
『赤城録』(版本)簡堂遺文       吉川弘文館

この資料自体ものちの人聞きのもの、あるいは類想のものもあり、本当に真実を伝えているのか不明な点もあるが、ともかく往時の風潮を色濃く伝えていることはまちがいない。

このすくない資料から、生国を同じくする者として忠治の実在像を組み立ててみたのである。

江戸末期という時代を背景としての忠治像、これは多くの普遍的な見方である。これは上記の資料からも十分読み取れる。

しかし私はさらにその上に生国の血というものを深く感じるのである。そのために、わずか十数年の重なりではあるが、ともかく同時代に生き、上州と信州という隣り合った地に生まれて、中百姓を継がずに己の道を歩んでいった小林一茶を登場させたのである。

平成のいま、忠治や一茶はどんどん忘れられていく。一茶の作品は別の意味で残っているが、泥臭いそのアニミズムは語られることはない。明るすぎる近代というもののなかでは、権力に反抗したり、社会に拗ねたりした実像は、あまり思い出したくないのだ。

万葉集にある防人の時代から、忠治の江戸期、そして絹産業を支えた養蚕の明治、大正、昭和初期、上州はつねにその底流にあった。支配される者の側にあったのだ。当然そこに抵抗も生まれる。この地の民衆の歴史はまさにそんなことのくり返しである。そしてそれこそが上州人の血なのである。

そんな立場からの国定忠治がはたして諸氏に伝わっただろうか。

忠治の晩節とその最後を書いて、責を果たしたい。

天保十三年(一八四二年)、老中水野忠邦は十代将軍家治を最後に中断していた日光社参を、六十七年ぶりに復活させようと企てた。おりから天保改革のまっ最中、やや揺らいできた幕府の権力を誇示するのがおもな目的だったという。ときの将軍は家慶、この権威をさらに高めるためには、行列の通る街道、とくに関八州の治安が非常に重要だったことは論を待たない。

日光礼幣師街道は、江戸からきた中山道を現在の高崎市倉賀野町あたりから分かれていくが、ここから忠治の本拠たる赤城山周辺はそんなに遠いところではない。幕府にとってこの地方の博徒は目障りであったろう。

水野忠邦はこの取り締まりと排除に乗り出したのである。

天保一四年の『続徳川実紀』には、「日光山御詣によて、関東在々の悪党どもめし捕らへぬべしと、其ほとりの大名廿九人に命ぜらる」とある。廿九人の大名とは、武州世田谷の井伊掃部頭を筆頭に、武州川越藩松平大和守、高崎藩松平右京亮、伊勢崎藩酒井出雲守等である。

幕府は総力をあげて、この取り締まりに乗り出したのである。そしてこのときから、国定忠治は反逆者、つまり悪党となってこの国の歴史に刻まれていく。

このころの忠治は皮肉にも、もう老いていた。みずからの力を誇示する機会はしだいに失われていた。跡目を子分の境川安五郎に譲り、妻と愛妾を同伴して、かつて逃亡したことのある会津にでも隠遁しようと考えていたふしもある。しかし結局それはできなかった。頭にひらめいたことはあっても、故郷を捨てることはできないのである。

そして嘉永三年(一八五〇年)七月二一日、突然彼を中風が襲った。

いったんは田部井村の名主宇右衛門の屋敷に保護され、匿われたが、それも長く続かず、その年の八月二四日ついに関東取締の手により捕縛されていくのである。

一〇月一九日、厳重な警備のもとに江戸へ送られた忠治は子伝馬町の牢に入れられ、やがて磔の刑が決まる。かつて信州に逃げるため関所破りをしたことのある、上州の最北大戸の関所がその刑場に選ばれた。

この付近の村々は大いに当惑したという。刑場の準備や警備に駆り出され、費用も負担させられたのである。農民への圧政はこんなところにまでおよんでいたのだ。たとえば、この付近六箇所の村だけで、処刑前日と当日、四百八十人の警護人足が駆り出されたほか、処刑自体の費用も村持ちになったようだ。

そして、一二月二一日、ついにそのときがきた。

『赤城録』はこのときの様子を次のように伝えている。
既ニシテ槍ヲ執ル者 鷺歩斉進 霜鍔鏗爾 面前ニ叉ス
忠囅然トシテ刑ヲ監スル者ニ謝シテ曰ク 此行 各位ノ費心ニ多荷ス 槍手声ヲ釣シ 槍ヲ引キテ左肋ヲ旋刺ス
鋒右肋出ヅルコト数尺 右者モ亦之ノ如シ 左右互ニ刺スコト凡十四ニシテ始メテ瞑ス 時ニ年四十一ナリ
四十一歳、まさに壮絶な最後であった。

権力によって悪の名を付けられた忠治は、このあといわゆる正史としての歴史には登場していない。大衆の間の虚像としては残っても、虐げられた上州の農民のアニミズムという観点からは遠い存在となっていくのである。

衆にこだわるあまり、自らを過信してしまったのである。力だけを信じた芯は弱い人間ではなかったろうか。同じ時代に生きた小林一茶はもっと個に徹していた。相続争いという身内との戦いはあっても、それをあくまでも自身に引きつけ、権力への反抗とはならなかった。同じような境遇に生きながら、それが一茶と忠治との大きな相違である。

ちょっと怪しいが、忠治処刑の前の辞世とやらが残されている。

 見てはらく なして苦敷 世の中に
     せましきものは かけの諸勝負
 やれうれし 壱本ならで いく本も
     かねが身に入る 年の暮かな

忠治の妾お徳が建立した「情心塚」の碑文に刻まれた文言はつぎのとおり。

 以念仏感得  衆辠悉徐滅
 甚深修行者  決定生安養

死して生れた村に戻った男の末路である。


( 了 )

養寿寺にある忠治の碑(写真:長谷川裕)

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