2010-12-19

岸本尚毅インタビュー(3)俳句はどこまで「馬鹿になれるか」の競争です

岸本尚毅インタビュー(3)
俳句はどこまで「馬鹿になれるか」の競争です(笑)


2010年11月6日 聞き手 上田信治 生駒大祐 

二次会のお店に席を移して、俳句の話はつづきます。こちらでは、主に生駒さんが質問を。



生駒:『感謝』ではリフレインが多用されていますよね。〈寒々と赤々と正一位かな〉など、対句表現が面白かったです。

感覚ってのは同時に来るものなのかもしれないけれど、認識できるのは一つずつじゃないですか。それが、俳句の一行の視覚性から、まとめて一度に来る。そこで、人間の視点から神の視点になっているように感じました。

岸本:それは俳句の短さの大きなメリットですね。

生駒:初寄席に枝雀をらねど笑ふなり〉は「笑ひけり」じゃない。自分が笑っているのかもしれないけれど、やはり視点が高いところにあります。

岸本:ちょっと度胸が付いてきているのかもしれませんね。爽波選がなくなって、のびのび作っているということもあるかもしれません。

でもリフレインはすでに「自家薬籠中」になってきて、これも……だんだん、手駒が少なくなってきていますよ(笑)。

生駒:指示代名詞が多いのは(〈その妻のこと思はるる不器男の忌〉)、信治さんがブログに書いていたように、句の入りがゆっくりになるというのを狙われているんですか?

岸本:指示語のメリットというのは3つあって、まず情報量が減らせること。次に指示語には「連結力」があって、「その」が上五中七とずっといってから「不器男」にかかって、句全体を一つにする。後の方まで次の指示の対象をさがすわけです。また、今、言われたように、柔らかく入ってごつごつ感を無くすという効果もありますね。

生駒:虚子の忌日の句について、虚子は露悪的であると書かれていますが、岸本さんの忌日についてはさりげない詠みぶりというか、〈裕明の初盆なれば迎鐘〉〈頼朝のこと思いつつ実朝忌〉〈口ずさむその句その名や爽波の忌〉など、露悪的ではないけれど無感動な感じがするんですけれども。

岸本:〈爽波の忌〉の句はうすっぺらですね。忌日の句はいえば言うほどうすっぺらになってしまう。不器男の句に関しては、堀内統義さんの「芝不器男」の本を読んだことがあって、不器男が亡くなる前に、ままごとのような結婚生活があった、ということが心に残っていました。



生駒:『鶏頭』に〈弁当に牛蒡うれしく笹子鳴く〉という句がありますが、最新句集の『感謝』には〈山深くなるがうれしき冷房車〉という句があって、〈牛蒡〉の句の〈うれしく〉と〈冷房車〉の句の〈うれしき〉には意識の違いがあると思うのですが・・・。

岸本:〈冷房車〉の句の〈うれしき〉は普遍的なことを詠んでいますね。皆が知っていることを新しい言い方で、言えたかもしれませんね。、でも、〈笹子鳴く〉の句も普通の句です。冬のあたたかい日に弁当を食べていて牛蒡が美味しいと。そこに笹子が鳴いているという、まさにありのままで。

上田:牛蒡と笹子の、地べたっぽい質感の連想があります。

生駒:ありのままの情景でも〈茸狩火傷の痕が首にあり〉などは、ありのままのままで変だと言う句で・・・。

岸本:〈茸狩〉の句は席題の句で、いわゆる違和感狙いの句なんですよ。爽波先生は割とそういう句を取ってくれた。爽波先生は三橋敏雄のようなべたっとした句に厳しくて、どうしても際どい方向に行ってしまうんです。

上田:季語との関係が、べたっとついているか、際どいか、ですね。

岸本:あのころは、田中裕明さんだけ悠然とした句を作って、山口昭男氏とか中岡毅雄氏とか他の人はこまかい所、スリッパが裏返っていたとか、そういう句を競っていた。

僕自身も『鶏頭』の句はトリビアリズムと紙一重で・・・。若者のころはそういうのを面白がれたんですが、今となっては、すこしあほらしい(笑)。

上田:年齢的に、際どいのが似合わなくなったというのもあるんですかねえ。

岸本:そうですねえ……逆に、爽波先生なんかは50、60になっても平気で違和感の句を作られた。爽波先生は、ほんとうの贅沢というものをご存じの世代で、若い頃は虚子に可愛がられてね、楽しいことをし尽くしたから、ということがあるかもしれない。爽波先生は京極杞陽などに通じる貴族的なところがある。私自身はただの勤め人で、そういう違いも(笑)、反映されているのではないですかねえ。



生駒:僕は、ついつい岸本さんの変化というものを探してしまうのですが、切れ字の〈かな〉の使い方も違ってきている。『俳句の力』に秋櫻子の〈かな〉の飛躍というのがありましたが、その飛躍の仕方も変化してきているのでは。

岸本:あの頃、ぽーんと離れたものを付けるのは、みんなやっていたんですよ。飯島晴子なんて最たるものだし、それに爽波先生。とんちんかんなものを、ぽーんと付けて、ぞくぞく感というか違和感を楽しむという風潮はありましたね。

伝統俳句の先が見えなくて、かといって季語は捨てられないと。そして前衛にも飽きたという人。その頃は、先行句がやっていないことばかりをやろうとする、袋小路に入り込んでいた。あの頃はニッチしかありえなかったのですよ。いわゆる「伝統派」において、大雑把にいえば、当時は龍太と澄雄しかフロンティアがなかった。虚子は実に巨大な独占的市場だったんです。

上田:虚子は、新しいものを見出したり、句風を革新していくことに意識的だったから、結果的に広大な部分を開拓済みにしてしまった、と。

岸本:句風もそうですし、新しいものを持っている作家を見出す眼を持っていました。



生駒:「虚子は月並を恐れなかった」と書かれていましたが、岸本さんご自身は、月並とどのように向き合っているのですか?

岸本:実作においては、月並的なものがたくさん出てきてしまいますが、句集を作る段階で落とします。虚子の『五百句』は・・・謎ですね。

上田:虚子は選句の手間を惜しむ人ではなかったはずですよね。ところが、『五百句』の選句基準は、ちょっと特殊だということを、岸本さんも書かれていて。〈バナナの皮〉の句なんか『五百句』に入っていなかったら、こんなに取り上げられなかったかもしれない。褒めるのに勇気がいります。それでも平畑静塔は褒めたかもしれませんが。

岸本:勇気ですね・・・。虚子自身が蛮勇というか無神経で、こんな句を『五百句』に入れてしまうのか、という句がある。『ホトトギス雑詠選集』なんかもユニークな句が結構ありますよね。

上田:庭に、雑草や変な木が生えていて、いいかんじになるということがあるように、色々な句があったほうが、景が良いと考えた、とかですかね。

岸本:それはそうだと思いますね。「ぬー」とか「ボー」とか理屈はつけていましたが。



生駒:白魚の句を思ひ出す訃報かな〉『健啖』なんか、仮に前書をつけたら句が大きく変わるじゃないですか。前書に対してはどのような意識を持ってらっしゃるのでしょうか?

岸本:前書きが無いのは、勝手に想像してくださいというところですね。どうしても前書は「句が汚れる」という意識がありまして……論理的ではないですが、こだわりですね。

生駒:虚子は詞書や前書が多いですが・・・。

岸本:虚子の前書はさりげなくて良いですよね。だいたい、前書が上手い人は、前書が文章として上手い。僕はそういうのが全然駄目なんです。前書をつけると読みが限定されますしね。

〈訃報〉の句は、実は、ものすごく無責任に、読んだ人によっては誰かの訃報を思い出して感動するかもしれないという(笑)、よこしまな心がある。もちろん、私自身も含め、人間は必ず死ぬわけですから、そのことに対する一種普遍的な悼み心は当然あるのですが。。

上田:特定の誰かじゃないんですか。あ、まさか〈今年また鰆の頃の忌日かな〉も……。

岸本:特定の忌日を対象に詠んだ句ではないです。「そういう忌日」を思い描いてみたい、という。

上田:うわー(笑)。



生駒:岸本さんは読む題材は変化していっているのですが、措辞の巧みさに最大限に気を使うという姿勢は一貫しているのではないでしょうか。

岸本:句の最適な句形を捜すのにはこだわりがあります。他人の句でも最適な姿にならないと俳句が苦しそうで自分も苦しくなるんですよ。句会のときには人の句も直したりもしますね。雑誌などで見てしまった場合は、もう直せないので、目に入らないようにする(笑)。

上田:一字変えれば、解決するという場合も多い?

岸本:それは、もう、ちょっと直すと、俄然良くなります。

生駒:措辞を直すということは、極論すれば、結局内容も変えてしまうことになると思うんですが、措辞とは切り離された景というものがあるとお思いですか?

岸本:句会で、句の状況の説明を聞くと、それだったらこう言ったほうが、という、元ネタのようなものがありますよね。夾雑物も見えてきますし。根っこに戻って句を再構成することができますから。俳句は、措辞にこだわらないと、こだわるところがないですからね。



生駒:虚子には俗な句がある、という印象があるのですが、岸本さんはあまり作られないですよね。

岸本:自選のときに、落としているのかもしれませんね。句集を編むときにこだわりがあって、自分以外の人が作りそうな句は、句集に入れないんですよ。俺しか作らない、という句を入れたい。俗な句は、他の方が作るし、そういう句が得意な人に馬力負けしそうだから、というのはあるかもしれませんね。

上田:鳥の恋ペリカン便も急ぐなり〉の句なんかは、岸本さんしか作られない。

岸本:あれなんかは、もしかするとそうかもしれませんね。

上田:〈鳥の恋〉と〈ペリカン便〉は、雑さを演出したような付け方ですよね。ペリカンだから鳥だと。あるいは鳥だからペリカン。

生駒:論理をわざとつけて、それを逆説的に楽しむという。

岸本:そうやって人を煙に巻くのが好きだという(笑)。でも、いわゆる「面白俳句」には、なっていないと思うんですよね。

上田:ペリカン便のお兄さんが恋してるみたいでもあって、すごくいいです。

生駒:僕は〈園長先生梅雨の遺影となられけり〉なんかは、笑ってはいけないんだけど面白いですよね。

上田:あ、あれは面白い。〈園長先生〉という言葉にめでたさがある。

岸本:あれは、じっさいに昔子供が御世話になった先生が亡くなられたと聞いて、作りました。そういう句は、わざと面白くなさそうに作るんです。虚子の句もそうなんですよ。虚子自身が、面白くもない顔をしている、というのが絶妙の楽しさで。

上田:「面白くもない顔」って言葉、いいですね。虚子よりも時代が下っているので、すこしギャグ寄りの句に、可能性があるとも言えそうです。〈テキサスは石油を掘つて長閑なり〉とか、おかしいし、しみじみします。

岸本:あれは自分では、私の真骨頂だと思います(笑)。本には書きませんが、俳句はどこまで「馬鹿になれるか」の競争だと思いますね(笑)。



生駒:虚子がいたときはみんな虚子に向けて一句一句を書いていたと思うのですが、岸本さんは誰に向けて書いているんでしょうか?

岸本:普段はやっぱり句会です。今の課題はいままで尊敬していた選者の高齢化ですね。そうなると自選は最大の問題になってくる。この人に任せれば良いというのは、田中裕明さんで終わっちゃって。人の選句は参考にしますけれど、やっぱり最後は自分だとここ数年は思うようになりました。

上田:はじめから、ご自分しか信じていないタイプ、だと思っていました。

岸本:そんなことはなくてね。作り手の自分と読み手の自分が分け切れなくて、作り手が面白いと思っても読み手として良い句ではないのではないかという不安がある。作り手である私が読み手である私に「この句ええやろ、ええやろ」と囁くんですね。それが独りよがりではないかという心配は消せない。そこをふっきらないと次に進めないという自覚はありますが、まだその勇気が無いんですね。読み手がまだ自分について来てないんじゃないか、という、非常に傲慢な思いもありますしね。

上田:それは、本質的に新しいものがでてくるときには、常にあることだと思います。

岸本:綺麗に言うとそうなんですが……。自分の句の選句というのは実務的に迷っているところです。もう自分が選者になったつもりでやるしかないというのが、一番正しいんではないかと思います。自分で責任を持つと。しかし、過去の自分、過去の先人を思うとなかなか責任が持てない。

本当に選者は大変だと思いますね。名前の入った句を選句するのが選者の一番大変なところだと思うんですよ。お弟子さんの名前が見えている状態での選句は、ほんとうに大変だと思いますね。飯田龍太は「人を見ないで句しか見ない」と言う。そういうところで、中途半端な精神論を言わずに、実践的な龍太が好きですね。

生駒:虚子の句は、写生と諷詠とを縫い合わせた句である、と書かれています。〈春泥の砂かぶりしはあはれなる〉『感謝』などは、虚子のそういうところを意識して、詠まれてるんでしょうか。

岸本:春泥が砂かぶった、で、それ以上言うことがなくなっちゃうんですね(笑)。馬力があると、そこを掘り下げられるんですが、〈あはれなる〉は逃げです。虚子を読んでいると、逃げても良いという気持ちになるんですよ(笑)。

上田:でも、逃げているうちに〈物の命〉が出てくるかもしれない。

岸本:そうなんです。逃げているうちに、思わぬ拾い物をするかもしれない。エクスキューズですけどね。素十は絶対そこはやりませんから。本当は、踏みとどまってがんばるべきなんでしょうけど。



上田:岸本さんが、さっき言われた「考えることが好き」というのは、方法の可能性を早期に極めつくしてしまうということに、つながりませんか。

岸本:性格的には気をつかわずに、頭をつかう方なんですね。余計なことを考えずに。割と理詰めなのですよ。

上田:先々のことは、そんなに考えずに、と(笑)。

生駒:句と論理ではどちらが先に来るんですか?

岸本:作句ありきですね。俳句の中の、言葉がふっと浮かんでくるときのここちよさは何物にもかえがたい。理屈抜きの楽しみがありますね。

または読み手に出会ったとき。無責任に作った句を、他人がありがたく読んでいるときの快感。感情移入してもらって、句が成仏するということがありますからね。一方、自分が自分の句の純粋な読者になれないという寂しさは確かにあります。本当は、他人の脳みそでモノを考えるというのは楽しいのですが。



上田:諷詠ということを考え始められてから、ずいぶんこう、虚子のようになってきたということは、ありますか?

岸本:虚子に倣うとかは全然考えてなくて、自分が自分になるために、虚子に「照らしてもらう」ということなんですよ。人の俳句を見ていると、自分の共通の部分もあるし学べる部分もあるし、逆に真似できないことを悟るんでしょうね。

この人には無いものを自分は持っている、ということを、最後につかむためのプロセスなんですな。やっぱり自分探しになってしまうんですね。

上田:じゃあ、個人崇拝を経てしか伝わらない物があるというようなことは……。

岸本:それはまったく考えないです。書かれたものだけが、対象です。

上田:すっかり「俳句人生」になってしまったということについて、どういう風にかんじてらっしゃいますか。

岸本:僕は俳句に向いていたと思いますね。釣りは好きですが。俳句やらなかったら園芸やるかお笑い見てるか。絵画なんかは純粋な消費者ですからね。

自分は、良い俳句を一句でも作って、人様に提供していくのが天命であるということを、やっと悟りました(笑)。

もっとも作者は限界がありますが、読者は無限の可能性がありますからね。良い読者となることは良い作者になるより何倍もハッピーですね。

(中座があって)

岸本:僕はどうしても秋櫻子に冷たいんですね。どうしても面白くないんですね。『葛飾』だけは好きですが。

上田:形式の可能性を十分に使っていないとかですか?

岸本:俳句を、何かを伝達するための道具にすることで、貧しくなってしまった、としか言いようがないんですね。『葛飾』には、結果的にかもしれないけど、新しいものをはらんだ句は結構あるんで、それは評価するんですが。

俳句は伝達の手段でなく、言葉自体として生れてきたと考えるべきなんですね。それが前書きはいらないということと繋がってくる。

どなたかが、webで、俳句は媒介ではなく、それ自体だというふうに書かれていて(俳句的日常2010/10/142010/10/15)、あれはその通りだと思いました。

上田:自分は最近、反動的かもしれないけど、俳句には内容とか、向こう側があるなと思うようにもなりました。俳句は、壺のように、それ自体としてある、でも、その壺を成り立たせている向こう側はあるような気がするんです。

岸本:俳句を散文に書き換えたとき、それが向こう側にあるとされる内容と等価であれば、それは俳句固有のものではないんじゃないでしょうか。

言語表現である以上、言葉は意味を持つので、抽象絵画のような俳句以外は内容を持ちます。それは必然的にそうなんだけど、五七五の俳句を散文に置き換えたときに同じになるものであれば、それは俳句の要素ではない、というのが今の僕の意見。

上田:「何を」書くか「どう」書くか、の、どちらでもないものがある。俳句や芸術の価値というのは、そこにしかない。〈何を〉を〈どう〉書くか、しかできないんですが、それが、直接の価値を生むわけではなくて、第三項というべきものがある。

岸本:古池にかはずとびこむ水の音〉マイナス「古池に蛙が飛び込んで水の音がしました」という、「韻文の価値」マイナス「散文の価値」は、定型や季語、いわゆる形式の価値しか残らないはずだというのが非常に単純な考えですが……でもそこに何かがあるんだと考えるかどうか。

上田:定型にした瞬間に生れる、新しい価値がある。

岸本:それは非常に素直な考えであるとも言えますね。それは俳句の翻訳不可能性という問題になるんでしょうか。

上田:とりあえず、そうなります。その形で、結びついたことによって生まれている価値なので。ただ、さいきん「詩は翻訳可能だ」ということを書いた若い詩人がいて。

岸本:表面的な翻訳はできないけども、根っ子まで遡って再構成できるんじゃないかと。

上田:はい。佐藤雄一さんという人で、その人は美術とのアナロジーで行くんですけども(『書籍「組立」-知覚の臨界-』所収「さらに物質的なラオコーンに向かって ―「固有値(Eigenwerte)」としての支持体を自己生成する」)、

粘土とかキャンバスという支持体があると。粘土は形を与えようとすると抵抗する。その抵抗する力と、形を保つ力は同一であると。それで、表現が形になるっていうのは、未確定な内容が未確定な支持体を掴まえようとする、力の均衡の結果なんだってわけですね。粘土も、その都度新たな形で、その支持体としての性質をあらわす。

それで、詩は自身を保持する支持体を自分で作れるっていうんですよ。その上で、支持体が成立していれば持って歩けるし、曖昧な形で伝達しても伝わる、つまり翻訳も可能であると。

佐藤さんの構想に、なかなか十全な理解は及ばないのですが、言語表現でいえば、内在する形式感覚を掴まえるみたいなことを、言われているのかな、と。

岸本:それは、たいへん、頭のいい方ですね。

上田:そうなんですよ。俳句は定型がある。毎回、形式感を一から作る自由詩の苦労はないですが、でも、一から作ったのと同じだけの、がっちりした関係を定型との間に築いているのでなければ、定型詩の価値は無い。

そこに、内容にも措辞にも還元できないものが実現されていて、それで初めて芸術であるということじゃないでしょうか。ばらしていくと、措辞がこう働いてこうなっているというふうに還元できますが、そこにはまた、偶然のように選ばれた言葉が、引き連れてくるものがある。

岸本:波多野爽波の〈老人やどこも網戸にして一人〉のね、老人という言葉のニュアンス。

上田:そういうことだと思うんです。「この」形の言葉の塊になって、はじめて「この」ニュアンスが生れるんですよね。どうして爽波が、一行を書き始める前に、それが書けると思えたか。書いた瞬間こういった俳句というものが生れたのかもしれませんが、その書き始める前のもやっとした方向感覚の中に、俳句の内容がある。



岸本:翻訳の可能性についてはまだ疑問なんですがね。翻訳ではなく同じ価値のものを別な形で実現することができるといえば分かります。

上田:『鶏頭』はすごく翻訳しやすいと思いますよ。

岸本:内容にも形式にも還元できない何か、俳句になった瞬間に生れる付加価値ってのは確かにあるんでしょうね。それは、内容と措辞との関係性かもしれない。この内容にこの措辞をつけたという、割れ鍋に綴じ蓋という価値がでてくる(笑)。それは一回性という言葉に近いのではないかと思います。起こってしまったことの一回性というのはね。小林秀雄の〈無常〉というようなことかもしれませんね。

上田:一回性はまさにそうだと思います。まぐれ当たりがあるという要素もある。

岸本:頑張れば頑張るほど上手くいかない(笑)。向きになれば逃げていく。人間の努力を相対化無力化すると言う意味ではね。努力は必要条件だけど十分条件ではないということにおいては俳句は冷たい。全ては運かもしれない。60億人いればウォーレン・バフェットは生れる。

上田:どういうことですか。

岸本:それだけの数の試行が行われて、つぎつぎ人が敗れていく中で、確率的には全戦全勝の人が現れるという意味です。

上田:(笑)人類的な試行の一環だと考えると、さっぱり当たらないことも、悲しからずやと思いますね。

岸本:しかし、作者の方は努力に左右されない面も大きいけれど、読むほうは頑張れば上手くなりますね。



上田:率といえば、さいきん自分の書き抜いたノートに、さらに大名句という印の◎をつけてみたんです。意外と、永田耕衣が打率高かったですねえ。

岸本:耕衣はベスト5は凄い。〈近海に鯛睦み居る涅槃像〉とか。〈夏蜜柑いづこも遠く思はるる〉もいい。〈夏蜜柑〉の句は解釈が難しいですけれども、幸せのようなもの、夏蜜柑がここにあったらいいよ、そのほかは遠くていいよ、というように読んでいる。

上田:郷愁の場所も遠いし、今自分が属するはずの現在まで、この場からすーっと遠くなるような…。

岸本:ものすごく甘いけれども、人口甘味料の入っていない甘さですよね。

上田:でも、そうやって探して行くと、虚子は段違いに凄いんですよ。耕衣で10句くらい付くとしたら虚子は30句くらい楽に付く。〈旗のごとなびく冬日をふとみたり〉とか。

岸本:虚子の名句は不思議。隙だらけだけど名句といわざるをえない。

上田:普通の言い方と語順が違うじゃないですか。それで幻想の側に持ってかれる。〈日凍てゝ空にかゝるというのみぞ〉もやっぱり凄い。

岸本:虚子はそれほど「凄いぞ」という感じがないんですよね。国宝が無造作においてあるようなね。耕衣は俳句形式の機能を存分に使っている。虚子は俳句形式を2、3割しか使っていない。6、7割残してあれだからすごい。

上田:岸本さんは、句の「空間」ということを言われますよね。〈ポポポポと〉の句などに対して、もちろん良い句だけど、擬音が目だって、季語が働くべき空間が窮屈であると。そのデンでいくと、言葉が充分に働く空間を、句がもつことを、虚子は好んだ。

岸本:虚子の場合は、句に言葉が満ちていない。割とつまらない言葉が自由に立っている。言葉が走り回って寝そべっている。耕衣の句は額縁の中にきっちり描き込んであるかんじ。石鼎も蛇笏もそういう行き方。

虚子の句は遺跡みたいでね、殆んどくずれてて存在してないんだけど、残りの3割で屹立している。だから、虚子の句って完成を感じないですよね。不完全なところは、次の句によってどうなるか、乞うご期待という感じで。

ベスト3句だと耕衣が勝って。ベスト10句だと石鼎が勝って、ベスト200くらいだと蛇笏が強い。しかし無作為抽出20句だと虚子が勝つ(笑)。俳句たることに全然未練がないように見える。俳句であることすら忘れていて、結果的に俳句になってましたねと。失敗を恐れないことに関しては虚子は抜群ですね。失敗も芸のうちというところまで持っていきましたから。

上田:片端から俳句になっていくメカニズムの中で、とんでもないものが生まれてくる。虚子のような俳句は目指して、狙っては、作れるようなものではないですか。

岸本:無造作に見えて、何でも俳句にしてしまう強靭なテクニックって必要ですよね。構えずに何でも俳句に取り込めるというのは異様です。俳句がくだらないのではなくて俳句の内容がくだらない。

上田:それは平凡にして偉大な観念ではないかという、つまり『俳句の力』で言われていたことですね。あのご著書で提示された認識は、やはり、非常に新しいと思います。

今日は、ほんとうにありがとうございました。

岸本:失礼いたしました。



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