2011-02-20

〔週俳1月の俳句を読む〕近恵

〔週俳1月の俳句を読む〕
壮大な蕎麦湯物語
近 恵


青い眼の人が福袋を買つた    茅根知子

北欧あたりからの留学生とかだろうか。昨今の正月の福袋戦線は女子がしのぎを削り年越しで福袋の列に並ぶほどの加熱ぶりのようだが、その中に青い眼の人も混じっていたのだろうか。なんだかちょっとした違和感だ。福袋というシステムは外国にはないそうだからものすごくエキサイティングな経験だっただろう。しかし、この句はただ青い眼の人が福袋を買ったという事実しか書いていない。しかも、その福袋戦線のなかに作者も混じって見ているのだ、多分。詠まれていることは一瞬の事実なのに、女達の汗と熱気と阿鼻叫喚の福袋売場が見えてくるから俳句っておもしろい。



テレビに半裸の男ゐて雑煮    山下つばさ

お正月番組っていつからバラエティ番組ばかりになってしまったんだろう。これが深夜だったら半裸の女とかヘタしたら全裸の男もありそうだけど、半裸の男ってことはやっぱり昼、しかも午後。年越しで朝寝して、昼過ぎにのそのそと起きてきてお雑煮を食べる。テレビにはにぎにぎししくも意味のない番組、そのなかに半裸の男。目出度くも気だるい炬燵で過ごすお正月、的な。これがお節料理だったら気だるさはない。雑煮だから見えてくる日常の延長のお正月。実も蓋もないような句だけど、多分これがお正月の正直な姿なのだ。不要な告白だが、まるで我が家の正月を覗き見されたようで恐ろしくもある。



初空に赤玉ポートワインかな     廣島屋

赤玉ポートワインって日本のワインの走りだったような。あの日の丸を想像させるような赤いまん丸のラベルが懐かしい…とか思っていたら、まだ現役で販売されているそうだ。これが初空に。まさかの初空に初日?ベタだなー…などと思うも、初空を詠んでいるはずなのに赤玉ポートワインがこの上なく目出度いワインのようにも思えてくる。いや、あれ呑み過ぎると翌日頭ガンガンなんスよ。そのあたりも含めて、この句の脱力するような微妙な破壊力、まさに赤玉ポートワイン級だと断言しておく。



年越し蕎麦の蕎麦湯暗渠に合流す   池田澄子

去年の暮は蕎麦屋に年越し蕎麦を食べに行ったのだが、そこの蕎麦湯もきっと合流したんだろう。晦日は日本中の蕎麦屋から大量の蕎麦湯が発生し、さらにはご家庭からも蕎麦湯が発生する。そんなあちこちの蕎麦湯たちが暗渠で合流し、やがて川に出て大きな蕎麦湯の流れとなって元旦の海を目指すのだ。なんとも壮大な蕎麦湯物語。これは年越し蕎麦ならでは。平素ならそこまでは思わないだろう。いろんなものが合流しそうに思うけど、実は年越し蕎麦でなければこうはいかない。そして、こんなばかばかしいようなことを壮大な物語として読み手に想像させてしまうところ、全く持って俳句ってすごい。



絵馬にある訂正の文字春を待つ   高橋透水

いわゆるあるあるネタっぽいけれど、絵馬を見ていてはっと思ったのだろう。大事な願い事だけど、買い直すのも勿体ない。間違えた字を塗りつぶして、いいやそのまま書き直しちゃえ。そんな絵馬を描いた人を想像し、そんな絵馬を見つけてちょっと笑ったりしてしまったかもしれない作者を想像する。なんていうこともない写生なのだけれど、読み手が景を二重に想像させられるところが面白い構造になっている。春を待つという季語もそう思うと納まりがよく、ほのぼのとした気分になる。



松に雪文字の小さな大辞典   赤間学

最近とみに国語辞書の字が判別しにくくなってきて、そろそろ虫眼鏡が必要かもとか思う今日この頃。大辞典といっても文字が大きい訳ではないから、たしかに文字は小さい。この小と大をもってきたところにあざとさを感じるけれど、松に雪なんて大仰なものを置いたところで、自分は暖かい部屋の中で大辞典を前に見難い小さな文字にし四苦八苦し、一方窓の外には松に雪なんて寒そうだけどどっしりと風情のある景色が広がっているという内と外の違いようなものの対比も見て取れる。入れ子のような構造なのに一読明解。となると大小の置き方も効果的で読むほどに面白い。



池田澄子 感謝 ≫読む
岸本尚毅 窓広く ≫読む
清水かおり 片肺 ≫読む
山田耕司 素うどん ≫読む
杉山久子 新年 ≫読む
新年詠68人集 ≫読む
齋藤朝比古 大叔母 ≫読む
新年詠63人集 ≫読む
須藤徹 理髪灯 10句 ≫読む
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