2014-06-08

今井杏太郎を読む3 麥稈帽子(3)

今井杏太郎を読む3
句集『麥稈帽子』(3) 
                                                                                
茅根知子:知子×生駒大祐:大祐×村田篠:

≫承前
『麥稈帽子』 (1)春 (2)夏

◆俳句以前の「前書き」俳句◆

篠●今回は『麥稈帽子』の秋の部を読みましょう。知子さん、お願いします。

知子●はい。

ことしまた秋刀魚を焼いてゐたりけり

実際にこういうことがあったんだと思うのですが、それを前提として俳句をつくるのがふつうだと思うのです。この句は、堂々と前提を詠んでいるのが、開き直りといいますか(笑)。

誰もが思うけれど誰も詠まなかったことを俳句にして、句集にまで載せてしまったところがすごいな、と思います。

篠●ふつうは俳句にしないことをしてしまったという、論点はそこですね。

知子●でも、結局、今年もここで秋刀魚を焼くことができる幸せ、ということなのかな、と思います。その幸せを詠むのが俳句なのに、その前段階を堂々と俳句にしてしまったところが、杏太郎らしいというか、面白いと思います。一句として読んでみると、とても感慨深く、実際に秋刀魚を焼く人はまずこう思うでしょうから、いい句だなと思いますし、好きです。

大祐●まだ読みが足りないのかもしれませんが、言っていることの希薄さがここまでいくとちょっと評価がむずかしいな、と思います。句の意味はもちろん分かるし、描かれているものが多幸感のようなものだというのも分かるのですが。

嫌いというわけではなく、まだ掴みかねている……この句が存在するモチベーションを掴みかねている、という感じです。

知子●何も言えない、ということですか。好きでも嫌いでもなく。これがもし食事だとしたら、お料理を出されて、箸を出すのをためらっている感じ?

大祐●そうです、そうです。熱いのかな、冷たいのかな、というところから分からない。

篠●掴みきれないから判断できない、と。

大祐●そうですね。でもひとつ言えるのが、型としての破綻は全くないですよね。言いたいことがあって、それを必要十分に五七五にまとめている、そのあたりの隙のなさは、杏太郎さんらしいなと思います。

モチベーションをあえて読み取るとしたら、ほんとうに内容が何もないことを言ったらどうなるんだろう、砂糖水をどこまで薄めていったら甘いんだろう、というような感じなのかな、とは思うのですが。

知子●生駒くんは手をつけない、箸をつけない料理ってことですね。面白い。

篠●この句、べつに秋刀魚のことを言いたい訳じゃないのかな、という気もしますね。ふつうは、秋刀魚を焼いていることを俳句に詠みたいから詠むわけですが、いつもやっていることを今年もやっているんです、ということが言いたいだけ、という句になっているようにも思えます。

知子●詠みたかった、というよりは、杏太郎がよく口にする「呟き」なのでしょうか。今年また秋刀魚を焼いて、さあ俳句を詠みなさいという、その前段階なんですよ。

大祐●前書き、ぐらいな感じですね。

篠●ああ、そうか。前書きなんですね(笑)。

知子●(笑)。前書き俳句。面白いですね。よくぞこの句を句集に入れた、という感じがします。

篠●「魚座」に入ったばかりの頃「今日こういうことがあった、こういうことをした、ということをとりあえず言葉にして、それを五七五に当てはめてゆくと俳句になるんです」と杏太郎から言われたことがありましたが、この句はそういう句に近いですね。

知子●「俳句以前」ということなのかもしれないですね。

篠●でも、俳句を始めたばかりの人は、こうはつくらないような気がします。

知子●避けるでしょうね、逆に。こんなのはつくっちゃいけない、と思うでしょう。これを出せるのはすごいですね。

大祐●そういう意味ではやはり砂糖水の比喩で言えば、おいしい砂糖水をつくろうと思ったとき、良い舌を持っていない人ほど砂糖をいっぱい入れてしまうと思うんです。良い舌を持っているからこそ薄味の領域でとどまっていられる、というのはあると思います。

知子●どこまで薄めていって味がするのだろう、ということなのでしょうか。

大祐●秋刀魚をとことん薄味で詠もうというコンセプチュアル・アートがあったとして、秋刀魚が泳いでいるのはあまり目にしない、特殊な状況だからやめるとすると、ふつうは焼きますよね。それで「秋刀魚焼く」という五文字が生まれます。それを引き延ばすと「秋刀魚を焼いてゐたりけり」となる。

これに「(地名)の」や「口あけし」など、秋刀魚の描写を付けると意味が強くなるから、抽象的なことを付けようとする。その抽象さを「ありふれた表現」という方向性にすると普遍的な言葉がつながりますから、自然と「ことしまた」ということになるんじゃないでしょうか。

秋刀魚を焼いていることについて最も特殊性のないことを言おうとすると、この句が必然性をもって立ち上がってくるのではないか、と思います。

知子●杏太郎は上五のことを「イントロは重要」とよく言っていて、ドカンと入らないでフッと入るのが良いと言っていましたが、その典型かな、と思います。「前書き」という言葉に納得しました。

篠●名言ですね。


◆生きているのは誰なのか?◆

篠●じゃあ、次、私がいきましょうか。むずかしい句だと思うのですが、

生きてゐてつくつくほふし鳴きにけり

です。

この句の「生きてゐて」というのがまず誰のことなのか。ここで軽く切れているので、生きているのはつくつく法師ではなく自分だと思うのですが、じゃあ、そのことと「つくつくほふし鳴きにけり」はどういう関係になるのかな、ということです。

「生きてゐて」についてどう思われますか?

大祐●ほんとうにつくつく法師が生きていることを言いたいのなら、「生きてゐる」にするでしょうね。「て」の軽い切れの効果というのはあると思います。でも、どちらともとれますよね。断定はできないような気がします。

知子●私は自分が生きていると読みました。

篠●私もそうなのですが、そうすると、今度は「生きてゐて」の5音で表される内容が多すぎるというか、伝わってくることが複雑すぎて、戸惑ってしまいます。人が生きていることを「生きてゐて」と5音で言ってしまうのは、潔すぎるというか、大変な冒険という気がします。しかもそのあとに、つくつく法師が鳴いていたという、全く別のことを言っているわけです。

知子●「て」で確実に切れているんですよね。で、下五は「鳴きにけり」なんです。これが、生きているつくつく法師の声を聞いたというのだったらすんなり納得できるかもしれませんが、つまらないと思います。そうではなく、まったく別のことを言っている。そこが面白いと思います。

篠●生きている自分と鳴いているつくつく法師が結びつくというよりは、別々に生きているんだ、ひとつにはならないんだ、という感慨なのかな、という気もします。

大祐●ちょっと面白いと思ったのが、「生きてゐて」の主体が蝉を聞く作中主体だとしても鳴いている蝉だとしても、そのどちらもが生きていないとつくつく法師の鳴き声は聞けないですよね。だから、両者のどちらにもゆるくかかる、という読み方もあるのではないでしょうか。「て」で切れることで「生きている空間」のようなものが形成されて、そのなかに自分もつくつく法師もいて、鳴き声を聞いた、というようなことでもいけるのかな、と。

篠●「生きてゐて」が「生きているということ」といった感じで抽象的に詠まれている、ということですか。

大祐●そうです。仕掛けという点から言うと、「つくつくほふし鳴きにけり」だけだったら先ほどの秋刀魚の句のように何もないんですけど、「生きてゐて」と付けると上に少し重心が掛かって意味が出てくるので、バランスが良くて秋刀魚の句よりも意味が強いのかな、と思います。

篠●なるほど。書き方はさらっとしているのに、何度も何度も最初に戻って読み直してしまうつくり方ですよね。一読して「なるほどね」とは思えない句です。そういうところも面白いです。


◆始まる前に終わってしまう◆

大祐●次は、僕ですね。秋刀魚の句に少し似ているのですが

本当によく晴れてゐて秋の山

です。これはすごい。素直に感心します(笑)。この句について話すのはむずかしいのですが…。

篠●この「本当に」は、さきほどの秋刀魚の句の「ことしまた」と似てますよね。

大祐●そうですね。ふつうの人なら、「よく晴れてゐて秋の山」または「よく晴れている秋の山」という部分ができたとしたら「本当に」とは言わないで、「○○や」というふうに、取り合わせてしまうような気がします。

杏太郎さんの句には、「ここからどうひねるんだろう」と思っているとそのまま終わってしまった、ということがよくあります。いつ事件が始まるんだろうと思っていたら何も起こらなかった推理小説みたいなものです(笑)。すごい。

知子●すごい裏切りですよね(笑)。

大祐●例えば、冬の山や春の山だったら雨模様でもいいですよね。春の雨はしとしとと降ってあたたかい感じで情緒があり、冬の山に雪が降るのは自然です。でも、秋の山はやはり晴れている感じがいい。晴れていることに必然性があります。「秋」が動かない。

句の意味を薄めるときは、ひとつでも動くところがあるとたいがい崩れてしまうような気がします。そういう意味では、晴れている情景と「秋の山」を狙い澄まして付けたんだな、と思います。

多少は雲があっても晴れは晴れなんですが、単なる晴れではなくて「本当によく晴れて」とすることで「快晴」であることを言い表しているのが面白いなあと思います。

知子●いろいろと考えた結果、「本当に」という言葉以外ないと思ったんでしょうね。ふつうだったらここは取り合わせとか、何かかっこいいことを言いたくなります。

大祐●「雲もなく」とか、遠回しな言い方をしてしまいそうですね。

篠●「雲もなく」と言ってしまうと、雲はないのに、どうしてだか雲が目に浮かんでしまいます。

大祐●この句は本当に快晴と山しか目に浮かばないですからね。

篠●読んだ瞬間に笑ってしまうところもすごい。

大祐●笑えることを何も言っていないのに面白いというのがすごいです。俳句をやっていない人がこれを読んでもそこまで笑えないのかもしれませんが。

知子●でも、たしかに、俳句をやっていると笑ってしまいます。


◆五七五だけが韻律ではない◆

大祐●お訊きしたいことがあるのですが

しもふさの背高泡立草を刈りぬ

という句があります。けっこうな字余りで、しかも句跨りになっていてほとんど破調に近いのですが、こういうことに対して、杏太郎さんは何かおっしゃっていましたか? 例えば、字余りの句を句会で出したときに、これは定型にした方がいい、とか。

知子●むしろ上五の場合は逆で、六音にしてもいいから「の」を入れなさい、という指導はありました。ブツッと名詞で切れてしまうのを嫌がっていました。

この句もわざわざ「を」を入れています。「背高泡立草刈りぬ」でも意味は通じるし、理論的にも問題はないのですが。

大祐●「を」を入れるにしても、「背高泡立草を刈る」にしたら少しは字余りが緩和されます。

知子●そういう意味では、字余りだからダメ、ということはあまり言われなかったと思います。むしろ、定型に収めようとしてブチブチ切れてしまうことの方が注意されましたね。

大祐●俳句の韻律というのは、必ずしも「五七五」が定型のリズムではない、ということは考えとしてあって、この句もそんなに違和感はないんです。どう切っても中七と下五は余ります。

杏太郎さんは、定型というものに対して教科書的ではない捉え方をされているんですね。「五七五」というリズムにしても、必然的に決まったのではなく、「そのリズムが気持ちいいよね」ということで自然にできていったものだと思います。ですから、そこから逸脱していても気持ちのいいリズムもあるはずです。そういうところを初期の頃から攻めていた、というのはすごいな、とこの句を見て思いました。

知子●杏太郎は、音が多い分にはいいけれど、わざわざ短くするのはどうだろう、というところがありました。季語でも「春月」などのような縮めた言い方、窮屈さは嫌いでした。

大祐●たしかに音読みが少ないですよね。例えば

手のとどくところにさらしなしようまかな

も中八で字余りなのですが、「ところに」を「場所に」とすると収まるのに、訓読みにしています。漢語を使わないで日本の言葉を使うというところはありますね。

知子●熟語を使わないで、同じ意味の言葉を使っていました。それは大きな特徴で、熟語だとそれだけで意味を持ってしまうので使わない、というのもあったのかもしれません。

大祐●例えば「日没」というと日没というひとつの言葉のイメージしかありませんが、「日が沈む」というと「日」と「沈む動作」の両方が見えます。以前にも言いましたが、そうすると少し長いスパンの時間感覚が表現できて、ゆったりしたリズムを生むのではないかな、と思います。

篠●韻律についてはいろいろな角度から検証したいですね。では今回はこのへんで。

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