第 16 号
2007年8月12日
CONTENTS
■柳×俳 7×7
なかはられいこ「二秒後の空と犬」7句 ● 大石雄鬼「裸で寝る」7句 →読む
柳×俳第3回は、柳人(川柳作家)なかはられいこさんと俳人(俳句作家)大石雄鬼さんの共演です。 「愛」というテーマで詠んでいただきました。
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■真夏の出来事
中嶋憲武×さいばら天気 「一日十句」より31句×31句 →読む
■近代俳句の周縁 2 80年前の俳壇総覧
昭和四年刊改造社
『現代日本文学全集38現代短歌集・現代俳句集』……橋本 直 →読む
■八月十九日は「俳句の日」
「短冊法要」のお知らせ 於:東京根岸西念寺 →読む
■ モノの味方 〔8〕 鞄 ……五十嵐秀彦 →読む
■ 連動企画 俳句図鑑 〔8〕 かばん →読む
■週俳7月の俳句を読む(下)
1/3 石原ユキオ/橋本喜夫/中村安伸 →読む
2/3 野口 裕/猫髭/小野裕三 →読む
3/3 榊 倫代/上田信治 →読む
【俳誌を読む】
■『俳句研究』2007年9月号(休刊号)を読む ……上田信治 →読む
■ 後記+出演者プロフィール →読む
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2007-08-12
7×7 なかはられいこ×大石雄鬼
なかはられいこ 二秒後の空と犬
ち ゅ う ご く と 鳴 く 鳥 が い る み ぞ お ち に
空 と 犬 と ち く わ が 好 き な ぼ く の 女 神
い ま 視 野 を か す め て い っ た も の が 愛
二 秒 後 の ワ タ シ に 水 の 輪 が 届 く
母 さ ん は す で に こ こ ま で 紅 し ょ う が
隙 あ ら ば ふ た り で つ く る ふ か み ど り
や く そ く の 木 綿 豆 腐 を 持 っ た ま ま
●
大石雄鬼 裸で寝る
川 べ り の 川 の 見 え ざ り 行 々 子
エ ン ジ ン の 音 に 口 あ け 燕 の 子
蝸 牛 の 肉 の 透 け い る 愛 が あ る
愛 の 巣 の パ イ ナ ッ プ ル が 立 っ て お り
銀 色 の 如 雨 露 が 自 閉 草 茂 る
大 花 火 痩 せ た 財 布 の よ う に い る
ペ ル セ ウ ス 座 流 星 群 や 裸 で 寝 る
■
■
■
真夏の出来事 前口上
前口上 さいばら天気
毎年7月、「俳句強化月間」と銘打って一日十句。この営みを中嶋憲武さんは1999年から続けているという。最初の年はノート、次の年からはパソコン、さらにはみずからのBBS(インターネット掲示板)に書き込むようになって人目に触れるようになり、そして昨年からはミクシィ(閉所式交換日記サイト)がその舞台となっている。
今年の7月1日、ミクシィに書き込まれた憲武さんの十句を見て「ああ、また始まったな、夏の風物誌」と思いつつ、なんの気なしにそのイベントに便乗した。私も「一日十句」を始めたのだ。
7月の31日間、憲武さんはきっちりとペースを守って「一日十句」をこなした。さすが、歴史が違う。思いつきで始めた私は、その日には間に合わなかったりしながらも、なんとか31日まで漕ぎ着けた。その間、お互いの十句に「選」のようなものを残した。
7月が終わろうとする頃、これを図々しくも「週刊俳句」に載せてもらおうと思い立ち、信治さんに相談した。さぞかし困惑されたことと思うが、「まあ、いいだろう」と了承いただいた。当初は310句のなかから10句程度を選ぶつもりだったが、信治さんのアイデアで、どうせなら一日一句ずつ日記風にしてしまえ、と31句ずつを並べることになった。
この31句は、自選ではなく互選である、つまり、憲武さんの31句は私が選び、私の31句は憲武さんが選んだものだ。日々互選を済ましていたから、記事にまとめるのは楽だった。「自選」という最も厄介な所業から逃れられたことも大きい。
この互選というスタイル、本人たちにとって、もうひとつメリットがある。責任をなすりつけ合える点である。「つまらない31句だ」と退屈したなら、どうぞ、それを作者のせいと考えないでいただきたい。「選」が悪いのだ。
なお、一日二句の下に、その日の出来事を付したが、このアイデアに憲武さんは、「こうしてみると社会派俳句に見えてくるから不思議だ」と、例によって軽くボケてくれたので、「見えない見えない」と軽くツッコんでおいた。
→31句×31句へ
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毎年7月、「俳句強化月間」と銘打って一日十句。この営みを中嶋憲武さんは1999年から続けているという。最初の年はノート、次の年からはパソコン、さらにはみずからのBBS(インターネット掲示板)に書き込むようになって人目に触れるようになり、そして昨年からはミクシィ(閉所式交換日記サイト)がその舞台となっている。
今年の7月1日、ミクシィに書き込まれた憲武さんの十句を見て「ああ、また始まったな、夏の風物誌」と思いつつ、なんの気なしにそのイベントに便乗した。私も「一日十句」を始めたのだ。
7月の31日間、憲武さんはきっちりとペースを守って「一日十句」をこなした。さすが、歴史が違う。思いつきで始めた私は、その日には間に合わなかったりしながらも、なんとか31日まで漕ぎ着けた。その間、お互いの十句に「選」のようなものを残した。
7月が終わろうとする頃、これを図々しくも「週刊俳句」に載せてもらおうと思い立ち、信治さんに相談した。さぞかし困惑されたことと思うが、「まあ、いいだろう」と了承いただいた。当初は310句のなかから10句程度を選ぶつもりだったが、信治さんのアイデアで、どうせなら一日一句ずつ日記風にしてしまえ、と31句ずつを並べることになった。
この31句は、自選ではなく互選である、つまり、憲武さんの31句は私が選び、私の31句は憲武さんが選んだものだ。日々互選を済ましていたから、記事にまとめるのは楽だった。「自選」という最も厄介な所業から逃れられたことも大きい。
この互選というスタイル、本人たちにとって、もうひとつメリットがある。責任をなすりつけ合える点である。「つまらない31句だ」と退屈したなら、どうぞ、それを作者のせいと考えないでいただきたい。「選」が悪いのだ。
なお、一日二句の下に、その日の出来事を付したが、このアイデアに憲武さんは、「こうしてみると社会派俳句に見えてくるから不思議だ」と、例によって軽くボケてくれたので、「見えない見えない」と軽くツッコんでおいた。
→31句×31句へ
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中嶋憲武×さいばら天気 「一日十句」より31句×31句
真夏の出来事
中嶋憲武×さいばら天気 「一日十句」より31句×31句(互選)
7月1日(日)
黒南風の午後を眠りてパフェ高し 中嶋憲武(以下の)
七月や模型の汽車に灯がともり さいばら天気(以下て)
〔その日の出来事〕香港返還から10年を迎え、記念式典「香港回帰祖国10周年大会」開催。
7月2日(月)
動かざりガードの下の五月闇 の
死がふたりを分かつまで剥くレタスかな て
〔その日の出来事〕プロ野球・オールスターゲームのファン投票の最終結果発表。楽天から8人が選出。
7月3日(火)
合歓の花太陽遠くありにけり の
昇天祭しらないひとに手を振つて て
〔その日の出来事〕久間章生防衛大臣が「原爆投下は仕方ない」と言った発言の責任を取り防衛大臣を辞職。
7月4日(水)
ラムネ瓶仔細に眺め捨てにけり の
人形のこはばるゑくぼ南風 て
〔その日の出来事〕大阪市が、路上喫煙防止条例に伴い、御堂筋と大阪市役所周辺を喫煙禁止地区に指定。
7月5日(木)
あやまりに行くめまとひに巻かれつつ の
水に金魚かゆいところのありさうな て
〔その日の出来事〕新党日本の荒井広幸幹事長(参議院比例区)と滝実総務会長(衆議院比例区近畿ブロック)は今後は無所属で活動すると発表、事実上の離党。
7月6日(金)
目つぶりて耳掻きつかふ羽蟻の夜 の
東京に貧しきパセリ添へらるる て
〔その日の出来事〕元モーニング娘。メンバーの飯田圭織が、元ボーカリストで会社員の25歳の男性と、近く結婚することが明らかに。
7月7日(土)
七夕の飾りの烏賊のやうなもの の
七夕の短冊が地に墜ちてをり て
〔その日の出来事〕赤城徳彦農相の政治団体が、茨城県内の両親の住む実家を、事務所としての実体が無いにもかかわらず、「主たる事務所」として茨城県選管に届けていたことが判明。
7月8日(日)
新宿を裏から見れば冷蔵庫 の
噴水の昼を疲れてゐたりけり て
〔その日の出来事〕中国残留孤児訴訟の弁護団、与党プロジェクトチームから提示された最終案を受け入れ、損害賠償請求権を放棄、訴訟の一括終結を正式決定。
7月9日(月)
五月晴開きつぱなしの犬の口 の
磨り硝子の裏はつるつる暑気中り て
〔その日の出来事〕テニスのウィンブルドン選手権最終日、男子シングルス決勝で、ロジャー・フェデラー(スイス)が、1976~1980年のビョルン・ボルグ(スウェーデン)と並ぶ5連覇を達成。
7月10日(火)
行水や黙考の恥部すぐ乾く の
本降りに四万六千日の雨 て
〔その日の出来事〕東京都渋谷区の温泉施設『シエスパ』で、6月19日に別棟が爆発して3人が死亡した事故で、ユニマットグループは、営業再開はしないとする方針を明らかに。
7月11日(水)
烏瓜咲いて灯ともす活版所 の
雨粒がとろろあふひの花のうへ て
〔その日の出来事〕ブルドッグソース、同社の全株取得を目指して敵対的TOBを実施しているアメリカ系投資ファンド会社に対し、買収防衛策を発動。
7月12日(木)
プリオシン海岸梅雨の雲ひとつ の
豚肉の角煮に似たる避暑の町 て
〔その日の出来事〕安倍内閣発足後初の全国規模の国政選挙に当たる第21回参議院選挙が公示。
7月13日(金)
振り向きし白井権八立版古 の
猫が顔またいでゆくや三尺寝 て
〔その日の出来事〕アメリカ下院議会は、120日以内にイラク駐留米軍の削減に着手し、2008年4月1日までに戦闘部隊を撤退させることを義務づける法案を223対201の賛成多数で可決。
7月14日(土)
なすび漬噛みて旅人算解けず の
蠅の目に一部始終の映りをり て
〔その日の出来事〕北海道弟子屈町の阿寒国立公園内で、原生林が約100ヘクタールに亘って違法伐採されていることが判明。
7月15日(日)
船虫の走り青空透けにけり の
起し絵のなかの男が泣いてをり て
〔その日の出来事〕KDDIが、携帯電話・auの利用者に対して、誤って末尾に「0」が1桁か2桁多い金額を記載した支払いの督促状を、2万6000件分送付していたことが判明。
7月16日(月)
たばこ屋の売子のうしろ飯饐えて の
まだなにも叩いてゐない蠅叩 て
〔その日の出来事〕午前10時13分、新潟県柏崎市などで震度6強を観測する地震が発生。
7月17日(火)
未来派の車や猫や書を曝す の
冷麦のいつぽん残るこほりみづ て
〔その日の出来事〕東京電力、新潟県中越沖地震で被災した柏崎刈羽原発の被災状況について、50件のトラブルが全7基で確認されたと発表。
7月18日(水)
性交を終へ蒼朮を焚くところ の
朝がたの滝がはだかで立つてゐる て
〔その日の出来事〕共産党の宮本顕治・前名誉議長が18日に、老衰のため死去。98歳。
7月19日(木)
白玉をつつき幻想第四次 の
冷房のなかの売り子の声高し て
〔その日の出来事〕中国・北京市内の露店で、段ボールを溶かして挽肉に練りこんだ『ニセ肉まん』を作っていたと報じていた北京テレビは、18日夜に、この報道が『やらせ』だったことを認める。
7月20日(金)
木下闇はなれてみれば木下闇 の
食堂の大きな窓に沙羅の花 て
〔その日の出来事〕私立大阪学芸高校(大阪市住吉区)が、2006年の大学入試で、成績優秀な1人の生徒に、本人の志望と関係無い大学の学部・学科を多数受験させ、合格率を水増ししていたことが判明。
7月21日(土)
金魚ゐて夜のつやつやしてゐたる の
極貧のうちにバナナの熟れてをり て
〔その日の出来事〕武豊騎手、小倉競馬の第12レースで通算2,944勝目(地方・海外を除く)を挙げ、JRA通算最多勝記録を更新。
7月22日(日)
游弋に似てががんぼの飛びゐたる の
フロリダのぶらりと垂れて南風 て
〔その日の出来事〕新潟県柏崎市は、中京テレビ(日本テレビ系列)のスタッフが、新潟県中越沖地震の避難所のテントに隠しマイクを仕掛けていたことを公表。
7月23日(月)
フェルディナンドてふ猫へ海酸漿鳴らし の
愛なき日蠅の軌道のややこしき て
〔その日の出来事〕療養中だったアフガニスタンのザーヒル・シャー元国王が死去、享年92歳。
7月24日(火)
帰り来し日傘すぼめて日の匂ひ の
射的屋のあるじのをらず南風 て
〔その日の出来事〕新潟県中越沖地震で被災した柏崎市で、同市が災害用に備蓄していた薬や医療器具などの医療品のほとんどが、使用期限切れで使用できない状態になっていたことが判明。
7月25日(水)
サンダルをはなれ素足のかかとかな の
熟れトマト雲のなかから雲が湧く て
〔その日の出来事〕百貨店業界4位の三越と同5位の伊勢丹が経営統合に向けて交渉を開始したことが明らかに。
7月26日(木)
六人の並びて雷を待つてをり の
薔薇園に来ていちいちの薔薇を言ふ て
〔その日の出来事〕中国の北京・上海で、輸出が解禁された日本産の米が2003年4月以来4年ぶりに発売。
7月27日(金)
牛頭馬頭の絵のアロハシャツ吊し売り の
スピッツのうるさき氷屋でありぬ て
〔その日の出来事〕プロ野球・ソフトバンクは、午後6時から予定されていた西武戦を中止。西武ナインが搭乗した羽田発福岡行きの全日空機がトラブルを起こし、到着が予定よりも3時間半と大幅に遅れたための措置。
7月28日(土)
白南風の松見えてきて海の音 の
江戸城へ急ぎで運ぶ氷かな て
〔その日の出来事〕広島市内で路面電車を運行する広島電鉄が、世界遺産に登録されている原爆ドームを「広島が誇る……」と表現した写真入の沿線案内を電車内に掲示し、利用者から抗議を受け撤去していたことが判明。
7月29日(日)
単衣着て着方うんぬんしてゐたり の
かぶとむし口のまはりの濡れてをり て
〔その日の出来事〕第21回参議院議員通常選挙投票・即日開票。与党自由民主党が議席を大幅に減らし、野党が過半数を獲得。
7月30日(月)
増築のひと間油団に横たはり の
思ひ出のしなじなを這ふごきかぶり て
〔その日の出来事〕スウェーデンの世界的映画監督・イングマール・ベルイマンが、同国のファロ市内の自宅で死去。89歳。
7月31日(火)
宮様の庭にかなかなしきりなる の
かはほりの漂ふチークダンスかな て
〔その日の出来事〕兵庫県豊岡市の『コウノトリの郷公園』で43年ぶりに人工孵化で誕生。
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真夏の出来事 後口上
後口上 中嶋憲武
1999年7月から始めた俳句強化月間。なかば習慣になってしまっていたものを「週刊俳句」に掲載していただけるとは、望外の喜びであります。
このような形式、以前にどこかで見た覚えがあると思ったら、私の所属している結社、炎環の結社誌で、10年以上前に「日付のある競詠」というタイトルで、ひと月の間、二人が毎日一句ずつ詠み、自選の30句もしくは31句を上下段に分けて掲載されていたコーナーがありました。当時俳句を始めたばかりだった私も、炎環編集部の依頼で、ひと月詠み倒したものを、誌上に発表させてもらったものです。お相手は、現在、海程の吉川真実さんでした。その時のことを思い出し、感慨深いものがあります。
自分の詠んだ俳句は、それが辛口の批評であろうと悪口であろうと、人様に何か言ってもらえたり、取ってもらえたりすると、嬉しいものです。その意味で今年の俳句強化月間は、読まれた皆様に何か言っていただけたり、そのうえ、こうして不特定多数の目に晒されたりして、まさに、有り難き仕合せこの上なしでございます。
この次はモア・ベターよ!
→31句×31句へ
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1999年7月から始めた俳句強化月間。なかば習慣になってしまっていたものを「週刊俳句」に掲載していただけるとは、望外の喜びであります。
このような形式、以前にどこかで見た覚えがあると思ったら、私の所属している結社、炎環の結社誌で、10年以上前に「日付のある競詠」というタイトルで、ひと月の間、二人が毎日一句ずつ詠み、自選の30句もしくは31句を上下段に分けて掲載されていたコーナーがありました。当時俳句を始めたばかりだった私も、炎環編集部の依頼で、ひと月詠み倒したものを、誌上に発表させてもらったものです。お相手は、現在、海程の吉川真実さんでした。その時のことを思い出し、感慨深いものがあります。
自分の詠んだ俳句は、それが辛口の批評であろうと悪口であろうと、人様に何か言ってもらえたり、取ってもらえたりすると、嬉しいものです。その意味で今年の俳句強化月間は、読まれた皆様に何か言っていただけたり、そのうえ、こうして不特定多数の目に晒されたりして、まさに、有り難き仕合せこの上なしでございます。
この次はモア・ベターよ!
→31句×31句へ
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「短冊法要」のお知らせ 於:東京根岸西念寺
「短冊法要」のお知らせ 於:東京根岸西念寺
来たる八月十九日(日)は、俳句の日。この日、台東区根岸・西念寺において、短冊法要が執り行われる。
句会等で短冊に書かれたまま捨てられていった句、頭に浮かんで、その次の瞬間には忘れ去られた句、さらにはインターネット上に書き込まれては人々の目にほとんどとどまることなく忘れ去られた句を、きっちり成仏させたげる、みたいな法要、らしい。
西念寺 住所
東京都台東区根岸3-13-17
句会等で短冊に書かれたまま捨てられていった句、頭に浮かんで、その次の瞬間には忘れ去られた句、さらにはインターネット上に書き込まれては人々の目にほとんどとどまることなく忘れ去られた句を、きっちり成仏させたげる、みたいな法要、らしい。
詳しくはわからないが、興味のある方は、当日、西念寺へ。
句会でゴミになった短冊を持参するのも、いいかも。
法要は、夕方5時より始まる。(さいばら天気 記)
西念寺 住所
東京都台東区根岸3-13-17
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80年前の俳壇総覧 橋本直
近代俳句の周縁 2 80年前の俳壇総覧
昭和四年刊改造社『現代日本文学全集38現代短歌集・現代俳句集』
橋本 直
改造社「現代日本文学全集」のシリーズは、「円本」の名で知られ、この手の企画本の原点といえる。ここでこまかく紹介するまでもなく日本の近代文学史いや文化史において重要で、これと岩波文庫が貧乏作家に富と名声をもたらした(とまでいうと大げさかも知れないが)らしい。この「円本」誕生の経緯などについては松岡正剛の千夜千冊「松原一枝『改造社と山本実彦』に面白いことが書いてあるので参照されたい。

さて、この第38巻は短歌と俳句で一冊である。計543頁。巻頭に明治天皇と昭憲皇太后の御製を入江為守筆で載せ、作家一人一人の肖像写真(ときどき画)が入り、章末には掲載作家の簡単なプロフィール一覧(「諸家略年譜」)が付けてある。巻末には短歌史を斎藤茂吉、俳諧史を高浜虚子が執筆し、この1冊で明治~大正の歌壇俳壇の代表作家をほぼ総覧できる体裁になっている。本稿では、作家作品の紹介ではなく、特に俳句側を中心に、その作られ方に焦点をあてたいと思う。
まず配列の方法について。先に書いたが短歌はそもそも冒頭の天皇の御製に始まるわけで、本編でもその流れで維新の功労者、御歌所派の歌人が並び、その後「浅香社」、「明星」、「スバル」の歌人等々が続いて、終わりのほうに「アララギ」の歌人がならぶ。すなわちほぼ文学史順とはいえ、「お偉い方々」を立てて、茂吉の内輪は後のほうに並べていることになる。
対して、俳句の配列は、まず旧派宗匠俳人が17人。次に「日本」「ホトトギス」関係俳人が85人。非ホトトギスの有季定型(「懸葵」「石楠」の大須賀乙字や臼田亜浪ら)10人。そして新傾向や自由律(「三昧」「層雲」「海紅」の碧梧桐、井泉水、一碧楼ら)33人。「秋声会」(巌谷小波、伊藤松宇ら)21人。文人俳人4人(万太郎、龍之介、三汀、犀星)となっている(ちなみに女性は4人しかでてこない)。俳壇史的流れに沿って冒頭には旧派宗匠がおいてあるものの、後はあくまで有季定型派が先で無季自由律派は後まわし。さらに秋声会や小説家のような趣味派?は最後にまわされてしまっている。いたって「ホトトギス」中心的で素っ気ない。そのころの短歌と俳句の有り様と、茂吉と虚子の歌壇俳壇における態度を反映しているようにもみえる。
さらに「ホトトギス」の中の配列を細かく見ると、子規の後に鳴雪がくるのはわかるとしても、その後が松浦為王、峯青嵐、渡辺水巴、庄司瓦全、虚子、西山泊雲、野村泊月、岩城躑躅……と並び、現在著名かどうかはおくとしても、年月日順でも、アイウエオ順でもない。子規以来の古参をたてた順かとみれば、阪本四方太や藤野古白、新海非風とかは後に出て来て、漱石や東洋城にいたっては最も後方である。初期ホトトギスは会員同人制ではなかったから、同人になった順も無理があるだろうし、この配列方法はちょっと謎である。なんらかの論功行賞のようなものだったであろうか。
次にページ割りについて。1人あたりのページ割りは、短歌俳句とも1ページから最大で3ページまでなのだが、3ページあるのは、短歌では落合直文、与謝野夫婦、白秋、啄木ら大御所や著名作家で、23名いる。それに対して、俳句はたった4人しかいない。すなわち、内藤鳴雪、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐のみ。この4人だけが別格と言うことになる。2ページある作家も、村上鬼城、松瀬青々、石井露月、青木月斗、矢田挿雲、夏目漱石、松根東洋城、大谷句仏、大須賀乙字、臼田亜浪、荻原井泉水の11名しかいない。人数的にはずいぶんアンバランスで、いま名高い作家達も、ほとんど1ページしか与えられていない。このページ割りを意地悪く見れば、「載らない作家」→「1ページ作家」→「2ページ作家」→「3ページ作家」で俳壇の権威のヒエラルキー構造を構成図示したとも見える。さて、それはどこまで既にあるものをなぞったものか、この本で新しく生まれたものか。特に後者はなかなかに興味深い。
ところで、巻末の短歌史と俳諧史であるが、冒頭、明治天皇と昭憲皇太后の歌を入江為守が書いたものが載っている以上は、斎藤茂吉の短歌の解説「明治大正短歌史概観」はこの2人から始まらざるをえないのだが、茂吉はこの短歌史を実に68ページも書いている。レイアウトが21字×24行×3段だから、単純計算で400字詰めで約260枚ほどにもなる。今時の新書にすれば、内容のうすいものなら一冊分くらいには相当しよう。
一方、虚子の手による「明治大正俳諧史概観」はたったの8ページ。これもまたえらくアンバランスである。本のタイトルが「現代俳句集」なのに「俳諧史」と書くところもまたアンバランスだ。短歌と違い皇室がらみの記事になるかならないかによる配慮の差があるとはいえ、この圧倒的な分量の差は、それだけでは説明がつかない。虚子は書くのを露骨にいやがっている。冒頭部で自分はこんなものを書くのは適任でなく、改造社がどうしても書けというから書くが、子規より後のことは「ホトトギス」を出ていった連中や外の派のことはさっぱり知らないので「名前を列記するだけでも、『ホトトギス』一派のみ詳しくならうとする傾きがある。私は努めてこれを避けたいと思つたが、しかし尚遂にその譏りを免かれ得ないであらう」とちゃっかり書いている。茂吉の大変丹念な仕事ぶりにくらべ、このような、人を食った書きようは、いかにも虚子らしい。
最後に、選び方について。この「現代日本文学全集」所収の俳人は、どういう基準で選ばれたのであろうか。おそらくは各有力俳人の推薦を編集部で集め、虚子が正否を決めたのではないかと思われる。というのは、ある子規直系の俳人を調査中、その人物の運営していた雑誌の記事で、井泉水が自分を「現代日本文学全集」に載るよう推薦してくれて喜んでいたのだが、結局載らなかったので納得がいかず、不掲載の理由を改造社の編集部に直接尋ねたところ、ある大家に反対されたからだと言われたと書いてあった。名前は伏せてあるが、井泉水の意向を蹴る権限のある「大家」となれば、まず虚子だろう。先に「この一冊で明治~大正の歌壇俳壇の代表作家をほぼ総覧できる」と書いたが、あくまで「ほぼ」であって、作品の優劣ではなく落とされた作家は少なくないと想像する。
上記のように、文学全集の中に俳句をいれると、作り方はえらく権威主義的になったようである。この円本の後、戦後も各社が「○○文学全集」の類を続々出したが、いまや図書館と書斎の置物と化しているか、古本屋の店先の1冊100円のコーナーに売れないでずっとおいてある。もはや、このような企画が世に出ることは考えにくい。が、もし、昭和~平成の俳壇の代表作家を総覧できる選集ができるとすれば、どのような方法がふさわしいだろうか。また、現在までの俳壇史の流れをどうまとめたものだろうか。
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昭和四年刊改造社『現代日本文学全集38現代短歌集・現代俳句集』
橋本 直
改造社「現代日本文学全集」のシリーズは、「円本」の名で知られ、この手の企画本の原点といえる。ここでこまかく紹介するまでもなく日本の近代文学史いや文化史において重要で、これと岩波文庫が貧乏作家に富と名声をもたらした(とまでいうと大げさかも知れないが)らしい。この「円本」誕生の経緯などについては松岡正剛の千夜千冊「松原一枝『改造社と山本実彦』に面白いことが書いてあるので参照されたい。

さて、この第38巻は短歌と俳句で一冊である。計543頁。巻頭に明治天皇と昭憲皇太后の御製を入江為守筆で載せ、作家一人一人の肖像写真(ときどき画)が入り、章末には掲載作家の簡単なプロフィール一覧(「諸家略年譜」)が付けてある。巻末には短歌史を斎藤茂吉、俳諧史を高浜虚子が執筆し、この1冊で明治~大正の歌壇俳壇の代表作家をほぼ総覧できる体裁になっている。本稿では、作家作品の紹介ではなく、特に俳句側を中心に、その作られ方に焦点をあてたいと思う。
まず配列の方法について。先に書いたが短歌はそもそも冒頭の天皇の御製に始まるわけで、本編でもその流れで維新の功労者、御歌所派の歌人が並び、その後「浅香社」、「明星」、「スバル」の歌人等々が続いて、終わりのほうに「アララギ」の歌人がならぶ。すなわちほぼ文学史順とはいえ、「お偉い方々」を立てて、茂吉の内輪は後のほうに並べていることになる。

さらに「ホトトギス」の中の配列を細かく見ると、子規の後に鳴雪がくるのはわかるとしても、その後が松浦為王、峯青嵐、渡辺水巴、庄司瓦全、虚子、西山泊雲、野村泊月、岩城躑躅……と並び、現在著名かどうかはおくとしても、年月日順でも、アイウエオ順でもない。子規以来の古参をたてた順かとみれば、阪本四方太や藤野古白、新海非風とかは後に出て来て、漱石や東洋城にいたっては最も後方である。初期ホトトギスは会員同人制ではなかったから、同人になった順も無理があるだろうし、この配列方法はちょっと謎である。なんらかの論功行賞のようなものだったであろうか。
次にページ割りについて。1人あたりのページ割りは、短歌俳句とも1ページから最大で3ページまでなのだが、3ページあるのは、短歌では落合直文、与謝野夫婦、白秋、啄木ら大御所や著名作家で、23名いる。それに対して、俳句はたった4人しかいない。すなわち、内藤鳴雪、正岡子規、高浜虚子、河東碧梧桐のみ。この4人だけが別格と言うことになる。2ページある作家も、村上鬼城、松瀬青々、石井露月、青木月斗、矢田挿雲、夏目漱石、松根東洋城、大谷句仏、大須賀乙字、臼田亜浪、荻原井泉水の11名しかいない。人数的にはずいぶんアンバランスで、いま名高い作家達も、ほとんど1ページしか与えられていない。このページ割りを意地悪く見れば、「載らない作家」→「1ページ作家」→「2ページ作家」→「3ページ作家」で俳壇の権威のヒエラルキー構造を構成図示したとも見える。さて、それはどこまで既にあるものをなぞったものか、この本で新しく生まれたものか。特に後者はなかなかに興味深い。
ところで、巻末の短歌史と俳諧史であるが、冒頭、明治天皇と昭憲皇太后の歌を入江為守が書いたものが載っている以上は、斎藤茂吉の短歌の解説「明治大正短歌史概観」はこの2人から始まらざるをえないのだが、茂吉はこの短歌史を実に68ページも書いている。レイアウトが21字×24行×3段だから、単純計算で400字詰めで約260枚ほどにもなる。今時の新書にすれば、内容のうすいものなら一冊分くらいには相当しよう。
一方、虚子の手による「明治大正俳諧史概観」はたったの8ページ。これもまたえらくアンバランスである。本のタイトルが「現代俳句集」なのに「俳諧史」と書くところもまたアンバランスだ。短歌と違い皇室がらみの記事になるかならないかによる配慮の差があるとはいえ、この圧倒的な分量の差は、それだけでは説明がつかない。虚子は書くのを露骨にいやがっている。冒頭部で自分はこんなものを書くのは適任でなく、改造社がどうしても書けというから書くが、子規より後のことは「ホトトギス」を出ていった連中や外の派のことはさっぱり知らないので「名前を列記するだけでも、『ホトトギス』一派のみ詳しくならうとする傾きがある。私は努めてこれを避けたいと思つたが、しかし尚遂にその譏りを免かれ得ないであらう」とちゃっかり書いている。茂吉の大変丹念な仕事ぶりにくらべ、このような、人を食った書きようは、いかにも虚子らしい。
最後に、選び方について。この「現代日本文学全集」所収の俳人は、どういう基準で選ばれたのであろうか。おそらくは各有力俳人の推薦を編集部で集め、虚子が正否を決めたのではないかと思われる。というのは、ある子規直系の俳人を調査中、その人物の運営していた雑誌の記事で、井泉水が自分を「現代日本文学全集」に載るよう推薦してくれて喜んでいたのだが、結局載らなかったので納得がいかず、不掲載の理由を改造社の編集部に直接尋ねたところ、ある大家に反対されたからだと言われたと書いてあった。名前は伏せてあるが、井泉水の意向を蹴る権限のある「大家」となれば、まず虚子だろう。先に「この一冊で明治~大正の歌壇俳壇の代表作家をほぼ総覧できる」と書いたが、あくまで「ほぼ」であって、作品の優劣ではなく落とされた作家は少なくないと想像する。
上記のように、文学全集の中に俳句をいれると、作り方はえらく権威主義的になったようである。この円本の後、戦後も各社が「○○文学全集」の類を続々出したが、いまや図書館と書斎の置物と化しているか、古本屋の店先の1冊100円のコーナーに売れないでずっとおいてある。もはや、このような企画が世に出ることは考えにくい。が、もし、昭和~平成の俳壇の代表作家を総覧できる選集ができるとすれば、どのような方法がふさわしいだろうか。また、現在までの俳壇史の流れをどうまとめたものだろうか。
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モノの味方 〔8〕鞄 五十嵐秀彦
モノの味方 〔8〕 ……五十嵐秀彦
鞄
鞄中毒という「病気」があると言う。鞄を持たずにいると心が不安定になるという、まあ依存症のたぐいであろう。かく言う私は、筋金入りの鞄中毒者である。
誤解のないように言うと、けっして鞄マニアでもコレクターでもない。事実、私の所持している鞄は無名のボロ鞄二種のみだ。しかし、それを片時も手放すことがない。仕事に行くときも、休日の散歩のときも、必ず持ち歩いている。
鞄の中には、ペン数本、ノート、原稿用紙、歳時記、文庫本二冊が入っている。中でも絶対にゆずれないのがペンとノートだ。これなしでは家を一歩も出られない。俳句を作るためであろうか、感心なことである、と思われるかもしれないが、残念ながらそうではない。一人になったときに書くものを持たずにいることが耐えられないのである。
これは鞄中毒と言うより、書くことの中毒患者なのだと気づいたが、そんなことに気づいてもしかたがない。今日も鞄の中にペンとノートが入っていることをチェックして家を出るのである。
難儀なことである。
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鞄
初出:『藍生』2007年5月号
鞄中毒という「病気」があると言う。鞄を持たずにいると心が不安定になるという、まあ依存症のたぐいであろう。かく言う私は、筋金入りの鞄中毒者である。
誤解のないように言うと、けっして鞄マニアでもコレクターでもない。事実、私の所持している鞄は無名のボロ鞄二種のみだ。しかし、それを片時も手放すことがない。仕事に行くときも、休日の散歩のときも、必ず持ち歩いている。
鞄の中には、ペン数本、ノート、原稿用紙、歳時記、文庫本二冊が入っている。中でも絶対にゆずれないのがペンとノートだ。これなしでは家を一歩も出られない。俳句を作るためであろうか、感心なことである、と思われるかもしれないが、残念ながらそうではない。一人になったときに書くものを持たずにいることが耐えられないのである。
これは鞄中毒と言うより、書くことの中毒患者なのだと気づいたが、そんなことに気づいてもしかたがない。今日も鞄の中にペンとノートが入っていることをチェックして家を出るのである。
難儀なことである。
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俳句図鑑 〔8〕 かばん
週俳7月の俳句を読む(下) 1/3
週俳7月の俳句を読む(下) 1/3
■ 媚 庵 「三 汀」10句 →読む■ 菊田一平 「オペラグラス」10句 →読む
■ 田中亜美 「白 蝶」10句 →読む■ 鴇田智哉 「てがかり」10句 →読む
■ 佐山哲郎 「みづぐるま」10句 →読む
■ 寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句 →読む
■ 村田 篠 「窓がある」10句 →読む■ 山口東人 「週 末」10句 →読む
■ 遠藤 治 「海の日」10句 →読む
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石原ユキオ
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る 村田 篠
夕立のあとの空にビルがあってビルには窓があるんでしょう。
それか、夕立のあとの空にビルがなくて、いきなり窓が浮いているんでしょう。
「窓がある」ってなんかひっかかるんですよ。
「窓がある」って響き、「バドガール」に似てません?
夕立のすぎた空。両手にジョッキ持って闊歩するバドガール。
まさに「高気圧はヴィーナスたちの交差点」って感じ!(c)桑田圭祐
夏だね! うほーい♪
サ ボ テ ン や 仏 の 顔 が 玄 関 に 山口東人
ガンダーラ様式の仏頭の置物とか、パーティグッズの大仏のかぶり物だったら面白い。
でもたぶん京都とか奈良のお土産の、能面状の仏の顔がついてる壁掛けなんじゃないかな。
サボテンと仏の顔がある玄関。なんていう趣味の良さなんでしょう! 不気味です! キッチュです! 最悪です! こういうお宅大好きです!
少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト 遠藤 治
やばい。少年かわいい。
少年、ふざけてて落ちるんだよw
少年っつうか、むしろ「男子」でしょ!
梅佳代ちゃんの写真みたい♪
別解)
その浜辺には伝説のゴムボートがある。
シーズンオフまでびっちり予約が入っているという。
予約するのは決まって少女だ。
なんでも、そのゴムボートに意中の少年と乗ると、必ず恋が成就するのだという。
「必ず落ちる」みたいな。(シャレかよ!)
心 臓 が 止 れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ 寺澤一雄
「心臓が止まったら死体だなぁ」っていうなんとなく中高年っぽい感懐なのかなぁ。
でもそれにサクランボを取り合わせてあるあたり、なにやら普通じゃない雰囲気。
死体にサクランボが添えてあるみたい。
「心臓」「死体」「サクランボ」って道具立て、ゴシックロリータ的でかわいくないですか?
ってか寺澤さんの句って、あったり前のことが書いてあると見せかけてどこか不穏なズレ方をしてて、面白いっす! ラブです!!
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り 田中亜美
花は植物の生殖器なわけです。
レディスコミックなどではいまだに花が外性器のメタファとして使われてたりするわけですが、この句は外性器通り越して臓腑。
エロス飛び超えていっそ爽快。潔い。
て が か り に な る 木 耳 が つ い て を り 鴇田智哉
あのぺっとりしたキクラゲならたしかに、どこかにくっついたりして手がかりとして残りそう。
って何のてがかりになるキクラゲがどこにくっついてるんでしょうか。
わざと書かなかないでおいたから、想像してね! っていうことですよね。
想像1「貝塚で発見された木耳が古代人の生活を知る手がかりになりました」
想像2「事件解決の糸口になったのは被害者の傷口に付着していた一片のキクラゲでした」
想像3「夫のYシャツについていたキクラゲで浮気を確信しました」
想像4「キリストとヨハネの間の空間がキクラゲの形を表しています」
なんとなく3が正解に近い気がしますがいかがでしょうか。
摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な 佐山哲郎
無理矢理口語訳してみました。
「なんて素敵 朝だから サラダも からだも 薔薇も 生まれたてのまっさらだ♪」
「あかさたなはまやらわ」をベーストラックに夏の朝の風景をサンプリングしてリミックス。
ぴこぴこひゅんひゅんしててかわいい。
箱 庭 の フ ィ ギ ュ ア 置 き 変 へ 太 宰 の 忌 媚庵
卒論テーマは太宰でした。誕生日が同じ、という理由だけで太宰を選んだのが間違ってました。太宰ばっかり読んでて鬱になりかけました。この「箱庭」って、絶対箱庭療法だと思う。
全国の太宰読者のみなさん、どうかお大事に。
啜 り た る 枇 杷 の 滴 が 枇 杷 の 上 菊田一平
もっときれいに食べてよ!
あたしが食べれんくなるじゃろー!
お父さんのばか――――――――!!
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橋本喜夫
せ り あ が り く る や う 日 盛 り の 水 は 村田 篠
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る
10句を拝見して、この作者は簡明な言葉で、季語と自分の感覚をうまく取り合わせているように思う。したがって、一見とても簡単な俳句のようで、作者独自の皮膚感覚、温度感覚、聴覚などが従来の季語の捉え方と微妙にずれており、それが詩性を生み出している。逆に非常に簡明な表現ながら、具象の景色としてはきちんとピントが合ってこない。
一句めは中七までの句またがりで、夏の蒸し暑さが感じられ、日盛りの水が、夏の川なのか、海なのか、水道水なのかは作者の読みに委ねられる。いずれにしろ夏の水位が上がる体感感覚を表現したいのだと思う。
二句めは窓があるの座五の措辞でピントをずらしている。夕立のすぎた後の空のすがすがしさの体感感覚を、窓から見える光景なのか、ガラス窓の冷たさなのか、空そのものに窓があると捉えたのか、やはり独自にピントをずらしているのである。
レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏 山口東人
土 用 凪 木 の 電 柱 に 蓋 が あ る
10句を通じて、国籍不明、少し川柳的(川柳が悪いという意味ではありません)、現代俳句協会的(有季定型にこだわらず、花鳥諷詠もよしとせず、言葉の喚起力で勝負するという意)つくりの句が目立つと思う。
一句めは解釈が難しいかもしれないが、私は脳裏にある夏場の不快感ではなく、むしろ脳味噌の中を流れる涼しい感覚を詠んだと私は捉えた。左脳と右脳を分ける脳梁をレースのカーテンが挟まると捉えたという読みも成立して、面白い。
二句目は夏の蒸し暑さと、コールタールの匂いを彷彿させ、土用凪の季感がよくでている。昔の木の電柱の頂上には確かに蓋のようなものがあり、そこから電線が繋がっていたと思う。そういう意味では写生しているのか。それとも「蓋がある」の措辞は土用凪の感覚をメタファーしたのであろうか。
お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止 遠藤 治
苔 藻 な す ブ イ や 深 ま る 潮 の 色
すべて海に関連した10句で、テーマ性を守った句作りである。全体に重い季語を用いずに、季語そのものを題材にして、軽く、しかも揶揄的に詠むことがうまい作者である。
一句めは日焼止という新しく、あまり詠まれない題材を詠んでいることに着目した。世の中の甘さ、軟弱さ、それを使用する若者(男女を問わず)の甘さ、香りとしての安っぽい甘さ、すべてを俗っぽい日焼止が受け止めている。一級季語ではない日焼止がここでは堅固に機能していると思う。
二句目はブイが浮いているので、ある程度沖合いである。ブイに苔藻がついて、夏も深まった感覚がある中、潮の色も蒼く深まっていた。微妙な季節感覚も十分表現できている。
ざ り が に の 鋏 の 力 抜 い て を り 寺澤一雄
山 椒 に 舌 が 痺 れ し 祭 か な
扇 風 機 売 り 場 か ら い ろ い ろ な 風
大 蚯 蚓 伸 び 切 つ て を り 進 ま ざ る
理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な
心 臓 が 止 ま れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ
50句全体に、テーマ性は無関係な作り。それはそれでよいと思う。この作者は日常生活の中で、題材の切り取りかたがうまく、広い意味で社会性(政治的意味でなく)があり、ものの見方は少し川柳的かもしれない。作者なりの季語のずらした捉え方、作者ならではの写生もあり、楽しめた。季語の本意からすこしずらした句作りは、季語の焼き直しにすぎない句もみうけられ、それが少し残念である。
ざりがにの句は新しい写生とも言えるし、諧謔がある。祭の句も無理がない。扇風機の句も誰も気づいてはいたが、誰も詠んでこなかった景ではないだろうか。蚯蚓の句も「進まざる」の座五で、蚯蚓の今後の消息を不明にしたところが面白い。サインポールの句も新しい視点だし、西日が三丁目の夕日を彷彿させ、なつかしい。心臓の句は中七までの断定とサクランボの離れ具合がよく、サクランボの色、形がまさにハートに見えてくるのがおかしい。
し づ か な る 拳 緑 陰 過 ぎ る 鳥 田中亜美
息 止 め て し ま へ ば き っ と 踏 ま れ ぬ 蟻
季語を用いて現代詩的味付けをした10句である。ニ物衝撃(とり合せ)が主な手法であるが、全体に難解な句と思う。簡単に言えば離れすぎなのか。意味はわからなくてもいいのだが、12音までの措辞は喚起力があるが、季語とぶつかって化学反応をしていない感がある。
一句目は、緑陰にいてひそかに拳を握りしめている作者(発話者)がいる。そこを鳥が過ぎていった。それだけの句であるが、心に残る。
二句目はどこで切れを入れるかで、解釈が異なるかもしれない。一物仕立ての句と捉えると、蟻がいる。作者は蟻に同化して、息を止めて立ち止まっている。息さえ止めれば踏まれないですむ。自己の閉塞感を蟻に託したといったら句がつまらなくなってしまうかもしれない。この魅力は、息を止めてしまえば、踏まれないという不条理な論理であろう。
が が ん ぼ の ぐ ら つ き な が ら ゐ る ば か り 鴇田智哉
ま う へ か ら 滴 の 落 ち て 蛇 が ゐ る
この作者らしい世界を現出した10句である。骨格がしっかりしているわけでなく、テーマ性があるとは思えず、特異な文体があるわけでなく、平明な言葉で、季語を十分生かして10句すべてに読み手を首肯させる不思議な力を持っている。切字でいうと 「かな」、「をり」、があるが、「けり」、「や」と言った強めの切字を使用しないのが特徴か。とにかくこの不完全燃焼性が魅力の句なのだ。
一句目、ががんぼの見立てとしては決して斬新ではないが、座五の「ゐるばかり」がいい味を出している。
二句目は真上から滴が落ちているのがわかるのは蛇自身である。はじめは水滴が滴る木の枝、葉先でもいいが、そこにクローズアップして、突如カメラアングルは下から見上げた蛇の視点になる。その滴が真下の蛇の頭に垂れて、ことの一部始終を見ている作者が出現するというロングショットに切り替わる。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま 佐山哲郎
籐 椅 子 の を ん な 魚 の 卵 抱 く
俳句の新しい試み、たとえば無意味性の追求と、心地よい言葉遊びの追求などを感じさせる10句で、楽しく読んだが、口誦性という意味では成功していないのではないか。一句目はその中でも比較的口誦性も生じやすく、音調の整った句で、一見無関係に羅列した言葉がそれぞれ繋がるように意図されている。橋の上の涼風のすがすがしさも感じられ、それが内耳でも風が吹いているように読める。内耳→蝸牛管→渦巻き→みづぐるま と連想される。
二句目はシュールである。籐椅子のをんな で切れて、魚の卵抱く。これも女→人魚→魚卵→卵巣→女と戻ってくる連想。勿論、籐椅子に坐っている女が魚の卵(たとえばイクラ)を抱いているという奇妙な景を想像してもいいはずだ。
年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子 媚庵
度 の 強 き 眼 鏡 の 人 や 竹 床 几
猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な
10句全体に、よい意味で文人俳句の匂いがする。描く世界は独善的であり、文学的である。その中でも一句目は今が旬の句であるが、夏帽子のさりげない置き方がよい。サングラスならどぎついし、白靴なら怖いし、甚平なら作り過ぎだし、藍浴衣なら信憑性がない。
二句目はさもありなんという登場人物であるが、いままであまり俳句にされていないキャスティングではないだろうか。猫町も架空の町の名か、だれか有名な文人が住んでいた町かは知らないが、作者は猫町にさす西日になりたいのである。または猫町にまぎれこみたいのである。もちろん、猫→まぎれる と連想が起こり、重層性がある地名である。
ニ ッ ケ ル の 灰 皿 重 ね 太 宰 の 忌 菊田一平
つ ゆ 寒 の ひ け ば か た か た 厨 紙
さ み だ る る わ け て も そ ね さ き あ た り は も
10句ともそれなりに、楽しく、また私の狭量な俳句選句基準でも解りやすい句が多かった。解りやすいというのは、良い句であると自分が感じたという意味である。それをうまく説明できるかどうかは別であるが……。
太宰の忌の句はたくさんあるが、ニッケルの灰皿という小道具がうまく嵌った句と思う。いやみではなくうまい句。
二句目はつゆ寒のもの憂い感覚が共感できるし、紙が水分を吸って重くなり、ひくときかたかた鳴りやすい。これも何と信憑性のある句であろうか。信憑性とは事実かどうかは関係ない。
三句目、散文で言えば、五月の雨がふっている、特に曽根崎あたりでは……。ただそれだけなのであるが、やはりこの句の良さは曽根崎という地名の選択、すべてひらがなという技巧、音調の良さ、「わけても」と最後の「はも」の措辞の旨さにつきる。わけても曽根崎という読み手の頭の中のどこかにひっかかっているが、それほど有名すぎない地名を選んだ手柄であろう。
…………………………………………………………………………
中村安伸
●媚庵「三 汀」
「林房雄」「久米三汀」「太宰」「満州」といった「昭和初期」的なものを感じさせる固有名と「年金」「ビリー」「フィギュア」という現代風俗を代表する語がない交ぜになっているのだが、そこに違和感はなく、軽妙で飄々としたトーンは一貫している。
どちらかというと、ビリーやフィギュアが昭和初期の風景のなかにとりこまれてしまっているような感覚である。
季語の選択、とりあわせが順接的であり、意外性がないのがひとつの特徴だが、意図的に意外性を排除しているといったほうが当たっているだろう。
年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子
帰 省 子 の 渡 り 廊 下 を 渡 り け り
これら二句には実に淡々としたユーモアがあり、
猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な
満 州 の 佳 人 の ご と き 日 傘 か な
これら二句には、夏の爛れた光のなかに浮かび上がる懐旧の念がある。
●菊田一平「オペラグラス」
句のなかの作者の立ち位置という点に注目してみると「青水無月」「つゆ寒の」「啜りたる」といった客観的な句と、「さみだるる」「東京の」「南風」といった主観的な句がバランスよく配置されている。また音韻に対して繊細な目配りがある。
豆 ご は ん 厨 揺 ら し て 噴 き 上 が る
この句のなんとも痛快な誇張表現に惹かれる。
夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場
この句は舞台芸術を主題に、なかなか複雑な構造をもった句である。屋外にはボリュームたっぷりの夏至の光。それとは別に屋内のくらがりで展開される愁嘆場。その対比の妙。
月 見 草 お ー い お ー い と 手 を 振 れ り
さきに「太宰の忌」の句があることにひきずられたのか『富嶽百景』のラストを思った。人物が消え富士だけが映る写真。
この句には書かれていない富士がある。
●田中亜美「白 蝶」
非常にきっちりとした定型感に支えられた文体で、やや生硬に感じるほどである。
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り
白という色がもつ過剰な光量のなかに、自らを曝け出すということ、それは大きな痛みをともなう行為だろう。この句に代表されるように、自分自身の「臓腑」を晒しつつ、それを見つめ続けることによって、作者は強さと深さ(幅の狭さにつながっているとしても)を獲得していると思う。また、心の痛覚を研ぎ澄ますことと、情に流れることを拒む理性のはたらき。そのふたつのバランスがとれているかどうかによって、作品の出来、不出来が左右されているように感じる。
帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑
この句の「位置」という語のはたらきに、感性と理性のバランスを感じるのである。
白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な
白 日 傘 真 空 管 と し て あ ゆ む
これらの句の「真空管」「心臓にして金魚」といった喩には鋭利な感覚がはたらいている。
●鴇田智哉 「てがかり」
紫 陽 花 の 火 照 り が か ほ を う つ ろ へ り
繊細な皮膚感覚を発揮した作品である。
第一句集を読んで、この作者の作品には、文体のやわらかさに加え、独特の空気感があることを感じた。今回の作品群についてみると、昆虫やちいさな植物、それらの微細な動揺をとらえる視線、表記のバランスへの気配りなどに、作者の嗜好や特徴があらわれているといえるだろう。
しかし、空気感については、以前の馥郁としたものとは幾分違う、やや乾燥したものを感じる。その印象のよって来るところを考えてみると、理性的な表現が多いということに思い当たる。それは、ほとんどの作品が一句一章で仕立てられていることと無縁ではなく、「ほとんど」「のなかを(~来る)」「(昨日)のままの」「(ゐる)ばかり」「てがかりになる」といった抽象的な語の多用とも関連しているだろう。
●佐山哲郎「みづぐるま」
実験的要素の強い作品と、詩的な定型作品の両者がバランスをとって配置されている。
音韻的なつらなりによって引きだされた語と語のとりあわせがもたらす、詩としての衝撃というところを狙っていると感じる。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま
この句には、瞬発的なイメージの連鎖、あるいは断片的であると同時に全体的な景がある。そこには視覚だけでなく、音や匂いや温度までもが浮かび上がってきて心地よい。
摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な
この句を支配しているのはやはり音韻であり、それぞれの語は、踊りながら手を翻すダンサーのように、リズムに乗って意味のうらとおもてを見せてはかくす。
●寺澤一雄「銀蜻蜓」
多彩なアイデアに満ちた作品群である。アイデアとは、言い換えれば意外性ということになるだろうか。適量の意外性を含んだ句は実に魅力的である。余分な解釈を加えることなく、惹かれた作品を掲出するにとどめたい。
万 物 に 石 を 見 立 て る 夏 休 み
夕 空 は 気 ま ま な も の や 青 簾
戦 艦 に 無 数 の 漕 ぎ 手 い ま は 急 き
燃 え 尽 き て 蚊 取 線 香 渦 残 す
理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な
夏 草 が 土 俵 の 中 を 埋 め に け り
●村田 篠 「窓がある」
一句一章の文体で詩的なイメージを丁寧に叙述した句が多い。静謐な空気感のなかをかろやかに移動してゆくなにものかをとらえる視点と、ゆるやかな調子がマッチしていると感じる。
音 楽 の 流 る る ま ま に 浮 い て こ い
「浮いてこい」という季語の面白さ。浮き人形や物理の実験に使われる浮沈子のことだが、命令形の台詞が名詞に転化された珍しい語である。それをたくみに用いて独特の諧謔を実現した句は古今少なくない。この句の場合は、その浮遊感を音楽(ウインナワルツ等であろうか)の律動感にシンクロさせて巧みである。
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る
はげしい雨によって掃き清められたような夕空を窓越しに見る。「窓に空」でなく「空に窓がある」としたことによって、句の内包する世界がひろがる。空に窓枠を描いた、安いシュールレアリズム風絵画を想像してしまってはよろしくない。
●山口東人 「週 末」
景の明確な人事句が多いが、そのなかに
レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏
といったシュールレアリズム的な句が唐突にあるのが面白い。
分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り
「分身のやうな」という喩が「冬瓜」の独特な存在感を裏から描いたようで秀逸。
●遠藤 治 「海の日」
海水浴場の景を描いた連作だが、文体はなぜか、大正から昭和初期の俳句を思わせるところがある。
お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止
という句は、本歌取りと言えるかどうかは微妙だが、虚子の「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」をふまえてのものであろう。
海 の 日 は 母 の 始 ま り 天 使 舞 ふ
という句はなかでも印象的である。
中世の西洋絵画がひとつの静止画面に無理やり物語を埋め込んだように、俳句という瞬間的な詩形にひとつの物語を語らせようとしている。成否はともかく試みとしては面白い。
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■ 媚 庵 「三 汀」10句 →読む■ 菊田一平 「オペラグラス」10句 →読む
■ 田中亜美 「白 蝶」10句 →読む■ 鴇田智哉 「てがかり」10句 →読む
■ 佐山哲郎 「みづぐるま」10句 →読む
■ 寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句 →読む
■ 村田 篠 「窓がある」10句 →読む■ 山口東人 「週 末」10句 →読む
■ 遠藤 治 「海の日」10句 →読む
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石原ユキオ
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る 村田 篠
夕立のあとの空にビルがあってビルには窓があるんでしょう。
それか、夕立のあとの空にビルがなくて、いきなり窓が浮いているんでしょう。
「窓がある」ってなんかひっかかるんですよ。
「窓がある」って響き、「バドガール」に似てません?
夕立のすぎた空。両手にジョッキ持って闊歩するバドガール。
まさに「高気圧はヴィーナスたちの交差点」って感じ!(c)桑田圭祐
夏だね! うほーい♪
サ ボ テ ン や 仏 の 顔 が 玄 関 に 山口東人
ガンダーラ様式の仏頭の置物とか、パーティグッズの大仏のかぶり物だったら面白い。
でもたぶん京都とか奈良のお土産の、能面状の仏の顔がついてる壁掛けなんじゃないかな。
サボテンと仏の顔がある玄関。なんていう趣味の良さなんでしょう! 不気味です! キッチュです! 最悪です! こういうお宅大好きです!
少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト 遠藤 治
やばい。少年かわいい。
少年、ふざけてて落ちるんだよw
少年っつうか、むしろ「男子」でしょ!
梅佳代ちゃんの写真みたい♪
別解)
その浜辺には伝説のゴムボートがある。
シーズンオフまでびっちり予約が入っているという。
予約するのは決まって少女だ。
なんでも、そのゴムボートに意中の少年と乗ると、必ず恋が成就するのだという。
「必ず落ちる」みたいな。(シャレかよ!)
心 臓 が 止 れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ 寺澤一雄
「心臓が止まったら死体だなぁ」っていうなんとなく中高年っぽい感懐なのかなぁ。
でもそれにサクランボを取り合わせてあるあたり、なにやら普通じゃない雰囲気。
死体にサクランボが添えてあるみたい。
「心臓」「死体」「サクランボ」って道具立て、ゴシックロリータ的でかわいくないですか?
ってか寺澤さんの句って、あったり前のことが書いてあると見せかけてどこか不穏なズレ方をしてて、面白いっす! ラブです!!
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り 田中亜美
花は植物の生殖器なわけです。
レディスコミックなどではいまだに花が外性器のメタファとして使われてたりするわけですが、この句は外性器通り越して臓腑。
エロス飛び超えていっそ爽快。潔い。
て が か り に な る 木 耳 が つ い て を り 鴇田智哉
あのぺっとりしたキクラゲならたしかに、どこかにくっついたりして手がかりとして残りそう。
って何のてがかりになるキクラゲがどこにくっついてるんでしょうか。
わざと書かなかないでおいたから、想像してね! っていうことですよね。
想像1「貝塚で発見された木耳が古代人の生活を知る手がかりになりました」
想像2「事件解決の糸口になったのは被害者の傷口に付着していた一片のキクラゲでした」
想像3「夫のYシャツについていたキクラゲで浮気を確信しました」
想像4「キリストとヨハネの間の空間がキクラゲの形を表しています」
なんとなく3が正解に近い気がしますがいかがでしょうか。
摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な 佐山哲郎
無理矢理口語訳してみました。
「なんて素敵 朝だから サラダも からだも 薔薇も 生まれたてのまっさらだ♪」
「あかさたなはまやらわ」をベーストラックに夏の朝の風景をサンプリングしてリミックス。
ぴこぴこひゅんひゅんしててかわいい。
箱 庭 の フ ィ ギ ュ ア 置 き 変 へ 太 宰 の 忌 媚庵
卒論テーマは太宰でした。誕生日が同じ、という理由だけで太宰を選んだのが間違ってました。太宰ばっかり読んでて鬱になりかけました。この「箱庭」って、絶対箱庭療法だと思う。
全国の太宰読者のみなさん、どうかお大事に。
啜 り た る 枇 杷 の 滴 が 枇 杷 の 上 菊田一平
もっときれいに食べてよ!
あたしが食べれんくなるじゃろー!
お父さんのばか――――――――!!
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橋本喜夫
せ り あ が り く る や う 日 盛 り の 水 は 村田 篠
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る
10句を拝見して、この作者は簡明な言葉で、季語と自分の感覚をうまく取り合わせているように思う。したがって、一見とても簡単な俳句のようで、作者独自の皮膚感覚、温度感覚、聴覚などが従来の季語の捉え方と微妙にずれており、それが詩性を生み出している。逆に非常に簡明な表現ながら、具象の景色としてはきちんとピントが合ってこない。
一句めは中七までの句またがりで、夏の蒸し暑さが感じられ、日盛りの水が、夏の川なのか、海なのか、水道水なのかは作者の読みに委ねられる。いずれにしろ夏の水位が上がる体感感覚を表現したいのだと思う。
二句めは窓があるの座五の措辞でピントをずらしている。夕立のすぎた後の空のすがすがしさの体感感覚を、窓から見える光景なのか、ガラス窓の冷たさなのか、空そのものに窓があると捉えたのか、やはり独自にピントをずらしているのである。
レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏 山口東人
土 用 凪 木 の 電 柱 に 蓋 が あ る
10句を通じて、国籍不明、少し川柳的(川柳が悪いという意味ではありません)、現代俳句協会的(有季定型にこだわらず、花鳥諷詠もよしとせず、言葉の喚起力で勝負するという意)つくりの句が目立つと思う。
一句めは解釈が難しいかもしれないが、私は脳裏にある夏場の不快感ではなく、むしろ脳味噌の中を流れる涼しい感覚を詠んだと私は捉えた。左脳と右脳を分ける脳梁をレースのカーテンが挟まると捉えたという読みも成立して、面白い。
二句目は夏の蒸し暑さと、コールタールの匂いを彷彿させ、土用凪の季感がよくでている。昔の木の電柱の頂上には確かに蓋のようなものがあり、そこから電線が繋がっていたと思う。そういう意味では写生しているのか。それとも「蓋がある」の措辞は土用凪の感覚をメタファーしたのであろうか。
お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止 遠藤 治
苔 藻 な す ブ イ や 深 ま る 潮 の 色
すべて海に関連した10句で、テーマ性を守った句作りである。全体に重い季語を用いずに、季語そのものを題材にして、軽く、しかも揶揄的に詠むことがうまい作者である。
一句めは日焼止という新しく、あまり詠まれない題材を詠んでいることに着目した。世の中の甘さ、軟弱さ、それを使用する若者(男女を問わず)の甘さ、香りとしての安っぽい甘さ、すべてを俗っぽい日焼止が受け止めている。一級季語ではない日焼止がここでは堅固に機能していると思う。
二句目はブイが浮いているので、ある程度沖合いである。ブイに苔藻がついて、夏も深まった感覚がある中、潮の色も蒼く深まっていた。微妙な季節感覚も十分表現できている。
ざ り が に の 鋏 の 力 抜 い て を り 寺澤一雄
山 椒 に 舌 が 痺 れ し 祭 か な
扇 風 機 売 り 場 か ら い ろ い ろ な 風
大 蚯 蚓 伸 び 切 つ て を り 進 ま ざ る
理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な
心 臓 が 止 ま れ ば 死 体 サ ク ラ ン ボ
50句全体に、テーマ性は無関係な作り。それはそれでよいと思う。この作者は日常生活の中で、題材の切り取りかたがうまく、広い意味で社会性(政治的意味でなく)があり、ものの見方は少し川柳的かもしれない。作者なりの季語のずらした捉え方、作者ならではの写生もあり、楽しめた。季語の本意からすこしずらした句作りは、季語の焼き直しにすぎない句もみうけられ、それが少し残念である。
ざりがにの句は新しい写生とも言えるし、諧謔がある。祭の句も無理がない。扇風機の句も誰も気づいてはいたが、誰も詠んでこなかった景ではないだろうか。蚯蚓の句も「進まざる」の座五で、蚯蚓の今後の消息を不明にしたところが面白い。サインポールの句も新しい視点だし、西日が三丁目の夕日を彷彿させ、なつかしい。心臓の句は中七までの断定とサクランボの離れ具合がよく、サクランボの色、形がまさにハートに見えてくるのがおかしい。
し づ か な る 拳 緑 陰 過 ぎ る 鳥 田中亜美
息 止 め て し ま へ ば き っ と 踏 ま れ ぬ 蟻
季語を用いて現代詩的味付けをした10句である。ニ物衝撃(とり合せ)が主な手法であるが、全体に難解な句と思う。簡単に言えば離れすぎなのか。意味はわからなくてもいいのだが、12音までの措辞は喚起力があるが、季語とぶつかって化学反応をしていない感がある。
一句目は、緑陰にいてひそかに拳を握りしめている作者(発話者)がいる。そこを鳥が過ぎていった。それだけの句であるが、心に残る。
二句目はどこで切れを入れるかで、解釈が異なるかもしれない。一物仕立ての句と捉えると、蟻がいる。作者は蟻に同化して、息を止めて立ち止まっている。息さえ止めれば踏まれないですむ。自己の閉塞感を蟻に託したといったら句がつまらなくなってしまうかもしれない。この魅力は、息を止めてしまえば、踏まれないという不条理な論理であろう。
が が ん ぼ の ぐ ら つ き な が ら ゐ る ば か り 鴇田智哉
ま う へ か ら 滴 の 落 ち て 蛇 が ゐ る
この作者らしい世界を現出した10句である。骨格がしっかりしているわけでなく、テーマ性があるとは思えず、特異な文体があるわけでなく、平明な言葉で、季語を十分生かして10句すべてに読み手を首肯させる不思議な力を持っている。切字でいうと 「かな」、「をり」、があるが、「けり」、「や」と言った強めの切字を使用しないのが特徴か。とにかくこの不完全燃焼性が魅力の句なのだ。
一句目、ががんぼの見立てとしては決して斬新ではないが、座五の「ゐるばかり」がいい味を出している。
二句目は真上から滴が落ちているのがわかるのは蛇自身である。はじめは水滴が滴る木の枝、葉先でもいいが、そこにクローズアップして、突如カメラアングルは下から見上げた蛇の視点になる。その滴が真下の蛇の頭に垂れて、ことの一部始終を見ている作者が出現するというロングショットに切り替わる。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま 佐山哲郎
籐 椅 子 の を ん な 魚 の 卵 抱 く
俳句の新しい試み、たとえば無意味性の追求と、心地よい言葉遊びの追求などを感じさせる10句で、楽しく読んだが、口誦性という意味では成功していないのではないか。一句目はその中でも比較的口誦性も生じやすく、音調の整った句で、一見無関係に羅列した言葉がそれぞれ繋がるように意図されている。橋の上の涼風のすがすがしさも感じられ、それが内耳でも風が吹いているように読める。内耳→蝸牛管→渦巻き→みづぐるま と連想される。
二句目はシュールである。籐椅子のをんな で切れて、魚の卵抱く。これも女→人魚→魚卵→卵巣→女と戻ってくる連想。勿論、籐椅子に坐っている女が魚の卵(たとえばイクラ)を抱いているという奇妙な景を想像してもいいはずだ。
年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子 媚庵
度 の 強 き 眼 鏡 の 人 や 竹 床 几
猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な
10句全体に、よい意味で文人俳句の匂いがする。描く世界は独善的であり、文学的である。その中でも一句目は今が旬の句であるが、夏帽子のさりげない置き方がよい。サングラスならどぎついし、白靴なら怖いし、甚平なら作り過ぎだし、藍浴衣なら信憑性がない。
二句目はさもありなんという登場人物であるが、いままであまり俳句にされていないキャスティングではないだろうか。猫町も架空の町の名か、だれか有名な文人が住んでいた町かは知らないが、作者は猫町にさす西日になりたいのである。または猫町にまぎれこみたいのである。もちろん、猫→まぎれる と連想が起こり、重層性がある地名である。
ニ ッ ケ ル の 灰 皿 重 ね 太 宰 の 忌 菊田一平
つ ゆ 寒 の ひ け ば か た か た 厨 紙
さ み だ る る わ け て も そ ね さ き あ た り は も
10句ともそれなりに、楽しく、また私の狭量な俳句選句基準でも解りやすい句が多かった。解りやすいというのは、良い句であると自分が感じたという意味である。それをうまく説明できるかどうかは別であるが……。
太宰の忌の句はたくさんあるが、ニッケルの灰皿という小道具がうまく嵌った句と思う。いやみではなくうまい句。
二句目はつゆ寒のもの憂い感覚が共感できるし、紙が水分を吸って重くなり、ひくときかたかた鳴りやすい。これも何と信憑性のある句であろうか。信憑性とは事実かどうかは関係ない。
三句目、散文で言えば、五月の雨がふっている、特に曽根崎あたりでは……。ただそれだけなのであるが、やはりこの句の良さは曽根崎という地名の選択、すべてひらがなという技巧、音調の良さ、「わけても」と最後の「はも」の措辞の旨さにつきる。わけても曽根崎という読み手の頭の中のどこかにひっかかっているが、それほど有名すぎない地名を選んだ手柄であろう。
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中村安伸
●媚庵「三 汀」
「林房雄」「久米三汀」「太宰」「満州」といった「昭和初期」的なものを感じさせる固有名と「年金」「ビリー」「フィギュア」という現代風俗を代表する語がない交ぜになっているのだが、そこに違和感はなく、軽妙で飄々としたトーンは一貫している。
どちらかというと、ビリーやフィギュアが昭和初期の風景のなかにとりこまれてしまっているような感覚である。
季語の選択、とりあわせが順接的であり、意外性がないのがひとつの特徴だが、意図的に意外性を排除しているといったほうが当たっているだろう。
年 金 を 確 か め に 行 く 夏 帽 子
帰 省 子 の 渡 り 廊 下 を 渡 り け り
これら二句には実に淡々としたユーモアがあり、
猫 町 に ま ぎ れ こ み た き 西 日 か な
満 州 の 佳 人 の ご と き 日 傘 か な
これら二句には、夏の爛れた光のなかに浮かび上がる懐旧の念がある。
●菊田一平「オペラグラス」
句のなかの作者の立ち位置という点に注目してみると「青水無月」「つゆ寒の」「啜りたる」といった客観的な句と、「さみだるる」「東京の」「南風」といった主観的な句がバランスよく配置されている。また音韻に対して繊細な目配りがある。
豆 ご は ん 厨 揺 ら し て 噴 き 上 が る
この句のなんとも痛快な誇張表現に惹かれる。
夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場
この句は舞台芸術を主題に、なかなか複雑な構造をもった句である。屋外にはボリュームたっぷりの夏至の光。それとは別に屋内のくらがりで展開される愁嘆場。その対比の妙。
月 見 草 お ー い お ー い と 手 を 振 れ り
さきに「太宰の忌」の句があることにひきずられたのか『富嶽百景』のラストを思った。人物が消え富士だけが映る写真。
この句には書かれていない富士がある。
●田中亜美「白 蝶」
非常にきっちりとした定型感に支えられた文体で、やや生硬に感じるほどである。
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り
白という色がもつ過剰な光量のなかに、自らを曝け出すということ、それは大きな痛みをともなう行為だろう。この句に代表されるように、自分自身の「臓腑」を晒しつつ、それを見つめ続けることによって、作者は強さと深さ(幅の狭さにつながっているとしても)を獲得していると思う。また、心の痛覚を研ぎ澄ますことと、情に流れることを拒む理性のはたらき。そのふたつのバランスがとれているかどうかによって、作品の出来、不出来が左右されているように感じる。
帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑
この句の「位置」という語のはたらきに、感性と理性のバランスを感じるのである。
白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な
白 日 傘 真 空 管 と し て あ ゆ む
これらの句の「真空管」「心臓にして金魚」といった喩には鋭利な感覚がはたらいている。
●鴇田智哉 「てがかり」
紫 陽 花 の 火 照 り が か ほ を う つ ろ へ り
繊細な皮膚感覚を発揮した作品である。
第一句集を読んで、この作者の作品には、文体のやわらかさに加え、独特の空気感があることを感じた。今回の作品群についてみると、昆虫やちいさな植物、それらの微細な動揺をとらえる視線、表記のバランスへの気配りなどに、作者の嗜好や特徴があらわれているといえるだろう。
しかし、空気感については、以前の馥郁としたものとは幾分違う、やや乾燥したものを感じる。その印象のよって来るところを考えてみると、理性的な表現が多いということに思い当たる。それは、ほとんどの作品が一句一章で仕立てられていることと無縁ではなく、「ほとんど」「のなかを(~来る)」「(昨日)のままの」「(ゐる)ばかり」「てがかりになる」といった抽象的な語の多用とも関連しているだろう。
●佐山哲郎「みづぐるま」
実験的要素の強い作品と、詩的な定型作品の両者がバランスをとって配置されている。
音韻的なつらなりによって引きだされた語と語のとりあわせがもたらす、詩としての衝撃というところを狙っていると感じる。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま
この句には、瞬発的なイメージの連鎖、あるいは断片的であると同時に全体的な景がある。そこには視覚だけでなく、音や匂いや温度までもが浮かび上がってきて心地よい。
摩 訶 サ ラ ダ 朝 か ら だ 薔 薇 あ ら は か な
この句を支配しているのはやはり音韻であり、それぞれの語は、踊りながら手を翻すダンサーのように、リズムに乗って意味のうらとおもてを見せてはかくす。
●寺澤一雄「銀蜻蜓」
多彩なアイデアに満ちた作品群である。アイデアとは、言い換えれば意外性ということになるだろうか。適量の意外性を含んだ句は実に魅力的である。余分な解釈を加えることなく、惹かれた作品を掲出するにとどめたい。
万 物 に 石 を 見 立 て る 夏 休 み
夕 空 は 気 ま ま な も の や 青 簾
戦 艦 に 無 数 の 漕 ぎ 手 い ま は 急 き
燃 え 尽 き て 蚊 取 線 香 渦 残 す
理 髪 屋 の サ イ ン ポ ー ル に 西 日 か な
夏 草 が 土 俵 の 中 を 埋 め に け り
●村田 篠 「窓がある」
一句一章の文体で詩的なイメージを丁寧に叙述した句が多い。静謐な空気感のなかをかろやかに移動してゆくなにものかをとらえる視点と、ゆるやかな調子がマッチしていると感じる。
音 楽 の 流 る る ま ま に 浮 い て こ い
「浮いてこい」という季語の面白さ。浮き人形や物理の実験に使われる浮沈子のことだが、命令形の台詞が名詞に転化された珍しい語である。それをたくみに用いて独特の諧謔を実現した句は古今少なくない。この句の場合は、その浮遊感を音楽(ウインナワルツ等であろうか)の律動感にシンクロさせて巧みである。
夕 立 の す ぎ た る 空 に 窓 が あ る
はげしい雨によって掃き清められたような夕空を窓越しに見る。「窓に空」でなく「空に窓がある」としたことによって、句の内包する世界がひろがる。空に窓枠を描いた、安いシュールレアリズム風絵画を想像してしまってはよろしくない。
●山口東人 「週 末」
景の明確な人事句が多いが、そのなかに
レ ー ス の カ ー テ ン 挟 ま つ て ゐ る 脳 裏
といったシュールレアリズム的な句が唐突にあるのが面白い。
分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り
「分身のやうな」という喩が「冬瓜」の独特な存在感を裏から描いたようで秀逸。
●遠藤 治 「海の日」
海水浴場の景を描いた連作だが、文体はなぜか、大正から昭和初期の俳句を思わせるところがある。
お よ そ こ の 世 の 甘 き 香 を 日 焼 止
という句は、本歌取りと言えるかどうかは微妙だが、虚子の「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣でけり」をふまえてのものであろう。
海 の 日 は 母 の 始 ま り 天 使 舞 ふ
という句はなかでも印象的である。
中世の西洋絵画がひとつの静止画面に無理やり物語を埋め込んだように、俳句という瞬間的な詩形にひとつの物語を語らせようとしている。成否はともかく試みとしては面白い。
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週俳7月の俳句を読む(下) 2/3
週俳7月の俳句を読む(下) 2/3
■ 媚 庵 「三 汀」10句 →読む■ 菊田一平 「オペラグラス」10句 →読む
■ 田中亜美 「白 蝶」10句 →読む■ 鴇田智哉 「てがかり」10句 →読む
■ 佐山哲郎 「みづぐるま」10句 →読む
■ 寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句 →読む
■ 村田 篠 「窓がある」10句 →読む■ 山口東人 「週 末」10句 →読む
■ 遠藤 治 「海の日」10句 →読む
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野口 裕
帰 省 子 の 渡 り 廊 下 を 渡 り け り 媚庵
足音はその人の癖が出る。「ただいま」、「おかえり」の挨拶のあと、しばらく聞いていなかった足音をさせて遠ざかっていく背中でも見ている景か。
麦 粉 菓 子 林 房 雄 を 再 読 し 媚庵
林房雄を初読する気も起こらず、「はったい粉」を冬に食べていたので「麦焦がし」にしろ、「麦粉菓子」にしろ、夏の季感を喚起されない私にとってはどうでもよい句だが、猫髭さんが麦粉菓子を「ビスケットのような洒落た味」と書いているので気になった。
ウィキペディアには、「麦粉 (菓子)」および「はったい粉」の二項目で説明がある。それを参考にしつつ調べてみると、いわゆる麦粉を使った菓子には色々なタイプがあるようで(私の好きな「かつおげんこつ飴」も麦粉が原料として入っている)、必ずしも「ビスケットのような」は当てはまらないようだ。もっとも、「はったい粉」を湯で練って食べるやり方では、本を読みながらはちょっとしんどい気もする。
南 風 鯉 に か ま け て ゐ る ら し く 菊田一平
十句まとめて読むと、作中主体がかかわる恋物語のようだ。この句だけ取り出すと、南風が主語のように受け取れて不安定なところがあるが、作中主体の恋の相手が「鯉にかまけてゐる」と見ると、情緒纏綿とした景が浮かぶ。五七五に動詞の主語が見あたらないとき、常に主語を「私」と解釈するのをうっとおしいとも感じるところがあるので、なるほどそんな読みもできるのだな、と妙に感心した。
白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な 田中亜美
砂利一粒のような心臓、ということなのだろう。一瞬、砂粒のような心臓が金魚の体内あちこちに散在しているような錯覚におちいった。なかなか捨てがたい解釈だが、面白すぎてだめだろう。
ス ピ ノ ザ は レ ン ズ を 磨 き 天 の 川 田中亜美
一七世紀の、とあるサロンにて
A 望遠鏡で見ると、月はでこぼこらしいわね。天上にあるものが不完全な形なんて信じられないけど、本当かしら?ガリレイの法螺なんじゃない?
B じゃあ、実際に見てみたら。良いレンズさえあれば、簡単に見えるわよ。
A そんなレンズどこにあるの。
B スピノザの磨いたレンズよ。ちょっと高いけどいいらしいわよ。
A あの無神論のスピノザ?
B そうよ。だけど、レンズの良し悪しには関係ないわ。
A ん~。悪いけどやめとくわ。
…というような会話があったかどうかは、知らない。
昨 日 か ら 昨 日 の ま ま の 蛇 苺 鴇田智哉
「AがAである」という形の、トートロジーとなる五七五が成功するかどうかは、「AはAでない」という矛盾をあらわに示すことなく、暗示できているかどうかにかかっているのだろう。この句は案外良いなと思った。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま 佐山哲郎
一見したときの印象と異なり、結構意味を強調する句が多いな、と思った。しかし、上述の句はほとんど意味のない音の羅列と見えるまで希薄化され、読者に意味を意識させないことに成功している。何回か音を転がすうちにゆっくりと意味が立ち上ってくるが、それが作句過程の追体験めいて興味深い。
船 虫 の た く さ ん 出 て た く さ ん 去 る 寺澤一雄
夕 空 は 気 ま ま な も の や 青 簾 寺澤一雄
夏 草 が 土 俵 の 中 を 埋 め に け り 寺澤一雄
「膝ポン川柳」という言い方があるが、客観写生は「膝ポン写生」にとどめを刺すのかもしれない。「片陰の途切れ命は途切れざる」や、「風鈴は吊されながら鳴りにけり」などは、膝を叩けないが。
ぬ た く つ て 針 金 虫 は 輪 を 作 る 寺澤一雄
つい最近まで、針金虫の詳細を知らず、知ってから夢中になって調べたことがある。mixiの日記に書いたものをそのまま転載する。
『以前に針金虫のことを書いた。カマキリの腹中に棲む寄生虫で、大きくなるとカマキリの腹を脱して水中で生活する。カマキリの腹中に棲むものでも長いものは1メートルに達するらしい。書いてからずっと気になっていたのだが、カマキリの寄生虫ならひょっとすると秋の季語ではないかと思いついた。手持ちの歳時記を引っぱり出してみると、「図説 俳句大歳時記 秋」(角川書店 昭和48年刊)にあった。
針金蟲 (線蟲 あしまとひ)
解説
カマキリの異常にふくれている腹のなかから、まっ黒な長い針金のような虫が出てくることがある。くるくるもつれながらうごめいているところは気持ちが悪い。これはカマキリに寄生した円形動物門の線虫網に属する動物で昆虫ではない。(中略)甲虫類の叩頭虫(こめつきむし)の幼虫は土中に生息していて作物の根を食害しているが、これも針金虫といわれている。しかし、前者とはまったく違うものである。(大町文衛)
考証
『新修歳事記』(明治四二)に「異名 あしまどひ」として「蟷螂の先はすゝむや足まどひ 巴水」の句を初出。
…とある。これで思い出したのだが、宮澤賢治の戯曲「植物医師」に針金虫が登場する。これは上述の説明の後者を指している。針金虫をどこかで聞いたことがあると思ったのだが、宮澤賢治だった。
最後に、針金虫にとりつかれるきっかけとなった句をあげてこの話を閉める。
かの川のはりがねむしに謎のこし 北村虻曳
針金虫を知ってしまうと、この句は「膝ポン写生」として読める。
蛇 を 見 て ひ と り に な つ て し ま ひ け り 村田 篠
句会で点が集まり、点を入れた人は句の良さを説明しようと苦労するが、説明が行き届かず、句の良さがわからない初心の人には何となく不満の残るタイプの句ではないかと想像する。まれに、「見て」が気に入らないと気むずかしいことをいう人も居そうだが、それは別問題としておく。
たぶん、どんな説明をしても分からない人は分からないとは思うが、分かるように説明する努力を放棄してはいけないだろう。放棄した途端、「第二芸術論」に足をすくわれることになる。口で言うよりも、文で説明する方が難しいだけに難儀なことではあるが。
五七五の中だけで説明しようとすると、「蛇を見る」以前を想像してもらうよりしょうがないだろう。「蛇を見る」以前は、「ひとり」ではなかった。「ひとり」でないときの人間は、普通、「語らい」の中にいる。ぺちゃくちゃとあれこれの話題を他人に投げかけ、他人からも投げ返されと、言葉はしっかりとした基盤を作っている。しかし、「蛇を見」た瞬間から、事情は一変する。「あそこに蛇。」、「どこどこ?」、「いないじゃない。」というような会話の後、「蛇」は宙ぶらりんになる。他人には通じない言葉となった「蛇」は、「ひとり」の中で反芻せざるを得ない。それを表現するのが、「ひとりになつてしまひけり」という書き方だ。
これも、足をすくわれた説明ではあろう。ま、その自覚を忘れず、ぼちぼちやらなしゃあない。
メ ロ ン パ ン 喰 へ ば 火 葬 の 終 り け り 山口東人
すでにカタカナ語に取り巻かれている、日常の言葉。その中から、五七五を発見しようとしているのだろう。「シーア派」の句以外が、懐かしい雰囲気に包まれているのはなぜだろう?安定した日常生活自体が過去を含んでいるのかもしれない。
普通、骨を拾って後に食事となる。その間、妙に腹が減ることはあり得る。近所で評判の店のこだわりのメロンパンではなく、ありあわせの、ひょっとすると火葬場近くのコンビニの、メロンパンで腹をなだめ終わったところだろう。生活のすぐそばの死を肩肘張らず書いて魅力的だ。
波 乗 り の 波 に 乗 る と き 陸 を 向 き 遠藤 治
波 乗 り の 姿 勢 の ま ま に 呑 ま れ け り 遠藤 治
瞬間を切り取る切れ味の良さ。
少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト
観察にかけた長い時間を思わせる句。と書くと、ご大層だが、毎年見ているとそんな感想も出てくるだろう。ああ、またやってる、と。
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猫 髭
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り 田中亜美
ちょうど調布の神代植物園に植物吟行に行って、白百合を詠んで【内側はちらかつてゐる】といった措辞の句が句会で出ていたので、揚句を見たときに、【臓 腑 あ ら は に】という措辞に、これは女性が生理的に内側から詠んだ句だと感じた。男は外側から眺める目になる。アラーキーの花の写真にしても、あれは新宿の三角ビルでのオリンパスの展示会だったか、蘂をアップした花の近接写真に囲まれていると、写真であるにもかかわらず噎せるような花の匂いに息苦しくなり、外へ出て、硝子越しに画廊の写真を見ると、花弁の露のひとつぶひとつぶが愛液のようにきらめく克明なその写真たちを、アラーキーが女性器そのものとして撮っていることがわかったが、それも外側から内側へ分け入る男の目だ。
読むことに、男か女かという目は持たないが、時に作品のほうからまなざしをそそぐような句があり、揚句もそうだ。昔、マンハッタンで初めてジョージア・オキーフの花の絵を見たときの事を思い出す。吉行淳之介が理想の女性像を問われて「性器に手足が生えている女」と答えており、オキーフの花の絵を見ていると、女が全身Vaginaとなって迫ってくるような暗い美しさに、見ている自分が男根となって全部吸い込まれていくような気になり、食虫花のようにその中で蕩けてゆくのも悪くないなと思わせ、吉行淳之介が理想としたのはこれかと思い当たったが、揚句は自分で内臓を露わにしているにもかかわらずとてもクールな印象だ。
「白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 匂 ひ け り 」といった、イメージの叛乱を嫌うからだろう。つまり、自分が巻き込まれて「性」として露わになる「関係の暴力性」へは距離を置く詠み方であり、例えば【帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑】の「位置」は、スティーブン・キングが『デッド・アイ』の中で描いたような「関係の暴力性」が「祈りのような行為」だという生身の切なさまでには踏み込まない。【息 止 め て し ま へ ば き つ と 踏 ま れ ぬ 蟻】の、さくら貝を踏み潰した後のような蹠と蟻との距離、【い つ 逢 へ ば 河 い つ 逢 へ ば 天 の 川】の自分からは踏み出さぬ、待つ女としての距離。若くして看取る経験を重ねてきたのだろうか、吉行理恵の詩の感覚に通ずるような、熱くない青い炎のような無臭のエロティシズムを湛えた句である。
う す う す と 電 気 の な か を 羽 蟻 来 る 鴇田智哉
2005年という年は、仏壇に限りなく近かった俳壇が、鴇田智哉『こゑふたつ』と高田正子『花実』で俳人協会新人賞、今井肖子が『花一日』で日本伝統俳句協会賞という、才能ある三人の俳人を輩出したことで、わたくしには記憶に残る年になった。なかでも鴇田智哉には傑出した新しい才能を感じた。
モーリス・メルロー=ポンティは『知覚の現象学』の中で【事物の命名は、認識のあとになってもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである】と述べているが、鴇田智哉が「電気」と言うとき、その命名はまさに認識そのもので、「電気」という言葉が自分で自分を指し示すようにそこにひとつの世界を現わす。「電気」と命名する事で、そこに「電気」という言葉自体が持つ意味が分泌しはじめ、読者はそこに「電気」という世界を見る。【光あれと言ひたまひければ光ありき】という神のような認識を持って登場した俳人を初めて見た。俳人になっていなければ、彼は教祖になっていただろう。その声は、居丈高ではなく【う す う す と】というように、静かな声なのがいい。
洗 ひ 髪 ゆ ゑ い き し ち に 火 、と 叫 ぶ 佐山哲郎
次は非常に騒々しい声を持つ俳句で、いわゆる飛んでる俳句。今は行っちゃった俳句と云うのだろうか。しかし、わからない=つまらないにならないのは、関係妄想症のようなイメージの連鎖のスパーク力で、この【洗 ひ 髪 ゆ ゑ】という滑り出しは、俳句は自由だということを証すアリバイのようにドキッとさせる。
吉増剛造と谷川俊太郎の二人は日本では数少ないプロと言い切れる詩人だと吉本隆明が言っていたが、吉増剛造がスパイラル状に言葉を自動書機のように増殖させる天才なのに対して、谷川俊太郎はデビューしたときから恐ろしく抽斗の多い整頓された言語登録機のような天才で(なにせ大江健三郎が『万延元年のフットボール』で【本当のことを言おうか】という処女詩集『二十億光年の孤独』の一節をテーマにしたぐらいだ)、年季が長い俳壇ではこういうめくるめくような天才は、ゲートボール文芸に天才は似合わないよなと腑に落ちてしまうところがあるが、さしずめ揚句などは谷川俊太郎的言葉遊びの天分がばらまかれている。
昔、NHKテレビで「みんなのうた」が始まったとき、これがみんな素晴らしく面白く、またアニメーションが楽しかったが、その第一回目の歌が『誰も知らない』という楠トシエの歌で、そのなかに揚句の【い き し ち に 火】というフレーズが出て来たと記憶する。確か【お星さまひとつ、プチンともいで、こんがり焼いて、急いで食べたら、お腹こわした、イキシチニ、ヒ!誰も知らないここだけの話】と、こういう歌だったが、おお、今でも歌える、もう随分昔の歌なのに。で、いま検索したら、1961年の歌で、作詞:谷川俊太郎、作曲:中田喜直、アニメ:和田誠だった。というわけで、「谷川俊太郎的言葉遊びの天分」と持ち上げたが、撤回。しかし、「火」によって、「洗ひ髮」と「しち」と「叫ぶ」で、八百屋お七が浮かぶ、そういう変わり玉のような面白さを持った「おとなのうた」である。
…………………………………………………………………………
小野裕三
棘 の あ る 草 の ま は り の 梅 雨 晴 間 村田篠
名の草枯る、という言葉が歳時記を引くと出てくる。これを最初に見たときに、変な言葉だと思った。名のある草の枯れることなどというような説明があったりするのだが、と言っても正確に言えばどんな草にでも本当は名前がある。だが確かに我々は、日常的に「名のある草」と「雑草」とを大別してしまっていることも事実かも知れない。「名のある草」「名のある花」の裏には、無数の「名なき草」「名なき花」がある。なんだか脚光を浴びない地味な演歌歌手のような雰囲気で、ついつい応援したくもなる。
そんなことを考えていると、この句に出てくる「棘のある草」が妙に面白く思えてくる。あえて名を名乗っていないところを見ると、あの「名なき草」の一派かも知れない。まずは「わざわざ名乗るほどの者でもありません」との低姿勢を維持しつつ、しかし名はないながらもちょっとした特徴を説明することでその低姿勢な雰囲気から一歩だけ踏み出している。しかも、そのいささか控えめな自己主張が「棘」。「わざわざ名乗るほどのも者でもありませんが、特徴としては棘があります」という、自虐的なのか攻撃的なのかよくわからないスタンスが可笑しい。
分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り 山口東人
冬瓜とは不思議に幾何学的な野菜という印象があって、普通の野菜とはやや毛色の違う句ができることが多いような気がする。その何かこの端然とした佇まいに、意思めいたものを持っているように感じさせたりもする。とにかくどこかミステリアスなところのある野菜である。
その冬瓜が、「分身」のようだと言う感覚はよくわかる。冬瓜の持っている幾何学的な物質感と、その中に宿されているかのような意思性は、「分身」めいて感じられることもあるだろう。この句は、配合や斡旋の作品ではなく、「冬瓜」という本質だけを一途に詠んだ句である。冬瓜に対する把握の的確さと、それを一途にまとめた形式が相乗効果となり、作品全体に力強さを与えている。
少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト 遠藤治
俳句的に言うと、「みな」「すべて」とか「必ず」とかは便利なツールの一種とも言えるが、それだけにある種の逃げである場合も多い。AがBという状態であるというだけではつまらないものも、AはみなBという状態である、と言っただけで俄然面白く感じられたりするからだ。この句もどうだろう。少年がゴムボートから落ちたというだけではまさに只事でしかないだろう。それが、「必ず」の一言が入っただけでぐっと時空が広がり、むくむくと連想が働き始め、どこか物語の端緒すら感じさせるようになる。
とは言え勿論、「みな」「すべて」「必ず」を使えばいつも成功するというわけでもない。ある種の安易さが見え透いてしまう場合もあり、それが「逃げ」ということにもなる。この句の場合成功しているのは、少年がゴムボートから落ちるという、その様自体がどこかコミカルで明るい動きを示唆している点だ。しかも「必ず」と言われたことによって、読み手はその光景を複数想像してしまう。どこかモノクロの喜劇映画にも似た、光景というか動作自体のさまざまな面白さが読み手に伝わってくるのである。
有 象 無 象 神 輿 の 後 を 付 て い く 寺澤一雄
内容的には当たり前というか、神輿なのだから祭などの情景なのだろうし、その周りにいろんな人が付き従っていくのは、当然といえば当然の光景だ。この句の成功の鍵は「有象無象」にあるのだろう。神輿に付き従っていく人々、それを敢えて「有象無象」と濃く詠んだところが、何か不思議な連想を誘う。読んでいて、いささか起伏のようなものさえ感じてしまう。起伏というのは、最初に「有象無象」と出てきて、次は何が来るのだろうと思ったところに神輿に付き従う人々という、ややオチめいた展開が待っているという意味だ。一句の中のこの起伏がなかなか楽しめる。
そしてさらにいろんな想像も働きだす。「有象無象」と敢えて言っているからには、これは人間だけを指しているのではないのかも知れない。犬とか猫とか、いやあるいは虫とか鳥とか風とか、いやいやあるいはもっと目に見えないような何か、そのようなものもこの「有象無象」の中には入っているのかも知れないと思わせる。「有象無象」と言ったことによってぐっと景が広がり始めるのだ。
ス ピ ノ ザ は レ ン ズ を 磨 き 天 の 川 田中亜美
哲学に明るいわけではないので、スピノザが数世紀ほど以前の哲学者であるという以外にはあまり詳しい知識を持っていない。だが、その哲学者であるはずのスピノザがレンズを磨いているという、まずその様がいかにも面白い。確かにあの頃の哲学者は、神学者だか自然科学者だか判然としないようなところがあって、そんな雰囲気もこの句には漂っている(そういう意味では、「天の川」という、神学的だか哲学的だか自然科学的だかよくわからない存在が季語としてよく働いているのだろう)。
Wikipediaで調べてみると、どうやらスピノザがレンズ磨きの技術を身につけていたのは本当のようで、ただしレンズ磨きによって生計を立てていたというのは誤伝、という説明がある。史実はともかく、確かにこの句の中では輝く星空の下でスピノザは一心にレンズを磨いている。その像だけは、確実なものとしてこの言葉の中に存在している。
蚊 の と ほ り 抜 け た る あ と の 背 中 か な 鴇田智哉
彼が俳句研究賞を取って世に出てきたとき、僕はとても新鮮な印象を持った。いや、新鮮というのはどこか語弊があるかも知れない。新鮮というと、新進気鋭というか、挑戦的というか、どこか旧世代的なものに対する画然とした決別みたいなものを含意しているかも知れないからだ。彼の句はそういうのでもない。一番正しい評は、どこかはぐらかされたみたいな印象、というのが合っているような気がする。旧というでもなく、新というでもなく、どこに足場を置いていいのかよくわからないような、すべてに通じるようでもあり、すべてから離れているようでもあり、それが「はぐらかされた」という意味である。勿論、いい意味だ。
この句を読んだとき、その最初に彼の句に出会ったときの印象を思い出した。この句もなんだか、新とも旧ともつかない、どこかはぐらかされたような印象を与える。この蚊はどこを通り抜けたのだろうか、なんだか本当に人間の身体をするりと通り抜けてしまったような気がする。と、本人に聞いてもきっと「ふ、ふ、ふ」とはぐらかされてしまうに違いない。
半 夏 生 魚 は 鱗 を 脱 ぎ に け り 佐山哲郎
なんだか重心をどこに置いていいのかわからない、妙な句だ。魚が鱗を脱ぐというフレーズは面白くてそれ自体で確かな魅力を秘めているが、季語の斡旋次第では台無しになりそうなフレーズでもある。魚が鱗を脱ぐという、このイメージがどこか季感めいたものを孕んでいるからだ。季感ではなく、季感めいたものである。というのは、具体的な季節がここから浮かび上がってくるというよりは、個々の季語から季節が立ち上がってくる、あの瞬間に似た抽象的な動作をこのフレーズに感じる、という意味である。ふわっと空間が広がっていくような、あの瞬間だ。
そしてそのようなフレーズに対して、斡旋した季語が半夏生。微妙だ。成功しているのか成功していないのかもよくわからない。半夏生という季語自身がそもそもどこか手がかりに乏しい季語でもある。だが、少なくとも失敗はしていないだろう。フレーズが持っている季感めいたものに対して、季語が一歩引いているような印象があって、そのことで結局は全体のバランスをうまく取っているのかも知れない。それが、重心をどこに置いていいのかよくわからない、と言った趣旨である。
未 発 表 句 稿 あ り け り ね ぶ の 花 媚庵
たまに有名な作家などの未発表原稿が発見されてニュースになることがある。やむをえない事情を除き、たいていの場合は本人が未発表にしているのには理由があって、つまりはそれほど質の高い作品ではないというケースが多いのではないだろうか。だが、時に未発表原稿というものは数奇な運命を辿ることもある。有名な話はカフカの例だろうか。未発表原稿の焼却を遺言に死んでいったカフカの原稿を、友人のマックス・ブロートはその遺言に反して再整理し作品として発表した。『アメリカ』『審判』『城』なとがそれに当たるという。こんな具合に、未発表原稿という存在自体がどこか数奇な雰囲気を持っているのだ。
この句では未発表句稿ということで、明確に俳句作品と特定されているものの、未発表原稿全般の持っている濃厚な雰囲気は健在だ。これまで数奇な運命を辿ってきたか、あるいはこれから数奇な運命を辿ることになるのか、発表されることを待っている言葉の運命が頭の中を駆け巡る。そして、合歓の花。数奇な運命にはぴったりの花ではあるまいか。
夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場 菊田一平
結構、オペラは好きで、1、2年に一度は見に行く。DVDやCDも結構持っている。そんなに薀蓄を語るほど音楽の知識も技術もないが、オペラは観ていて、あるいは聴いていて、楽しい。嘆きの場面は、きっと歌も盛り上がるハイライトシーンのひとつなのだろう。歌い終わった後に「ブラボー」の声が飛ぶような、そんなシーンのはずだ。オペラグラスで観ているのだからきっと、天井桟敷だかなんだかそんな辺りだろう。レンズの向こうに遠くある役者たちはしかし、今を時とばかりに歌声を高らかに響かせているのだ。まさに、この瞬間のために今までの舞台があったのだとでも言うように。
この句、季語が非常によく効いている。暑い盛りというにはちょっと早い、蒸し暑くなり始めたくらいの頃だろうか。ぎっしりと埋まった劇場は、それでも充分なくらいきっと暑い。そして今まさに訪れた、レンズの向こうのクライマックス。それを俳句的な瞬間にしてしまった作者の力量に拍手。
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■ 媚 庵 「三 汀」10句 →読む■ 菊田一平 「オペラグラス」10句 →読む
■ 田中亜美 「白 蝶」10句 →読む■ 鴇田智哉 「てがかり」10句 →読む
■ 佐山哲郎 「みづぐるま」10句 →読む
■ 寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句 →読む
■ 村田 篠 「窓がある」10句 →読む■ 山口東人 「週 末」10句 →読む
■ 遠藤 治 「海の日」10句 →読む
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野口 裕
帰 省 子 の 渡 り 廊 下 を 渡 り け り 媚庵
足音はその人の癖が出る。「ただいま」、「おかえり」の挨拶のあと、しばらく聞いていなかった足音をさせて遠ざかっていく背中でも見ている景か。
麦 粉 菓 子 林 房 雄 を 再 読 し 媚庵
林房雄を初読する気も起こらず、「はったい粉」を冬に食べていたので「麦焦がし」にしろ、「麦粉菓子」にしろ、夏の季感を喚起されない私にとってはどうでもよい句だが、猫髭さんが麦粉菓子を「ビスケットのような洒落た味」と書いているので気になった。
ウィキペディアには、「麦粉 (菓子)」および「はったい粉」の二項目で説明がある。それを参考にしつつ調べてみると、いわゆる麦粉を使った菓子には色々なタイプがあるようで(私の好きな「かつおげんこつ飴」も麦粉が原料として入っている)、必ずしも「ビスケットのような」は当てはまらないようだ。もっとも、「はったい粉」を湯で練って食べるやり方では、本を読みながらはちょっとしんどい気もする。
南 風 鯉 に か ま け て ゐ る ら し く 菊田一平
十句まとめて読むと、作中主体がかかわる恋物語のようだ。この句だけ取り出すと、南風が主語のように受け取れて不安定なところがあるが、作中主体の恋の相手が「鯉にかまけてゐる」と見ると、情緒纏綿とした景が浮かぶ。五七五に動詞の主語が見あたらないとき、常に主語を「私」と解釈するのをうっとおしいとも感じるところがあるので、なるほどそんな読みもできるのだな、と妙に感心した。
白 き 砂 利 心 臓 に し て 金 魚 か な 田中亜美
砂利一粒のような心臓、ということなのだろう。一瞬、砂粒のような心臓が金魚の体内あちこちに散在しているような錯覚におちいった。なかなか捨てがたい解釈だが、面白すぎてだめだろう。
ス ピ ノ ザ は レ ン ズ を 磨 き 天 の 川 田中亜美
一七世紀の、とあるサロンにて
A 望遠鏡で見ると、月はでこぼこらしいわね。天上にあるものが不完全な形なんて信じられないけど、本当かしら?ガリレイの法螺なんじゃない?
B じゃあ、実際に見てみたら。良いレンズさえあれば、簡単に見えるわよ。
A そんなレンズどこにあるの。
B スピノザの磨いたレンズよ。ちょっと高いけどいいらしいわよ。
A あの無神論のスピノザ?
B そうよ。だけど、レンズの良し悪しには関係ないわ。
A ん~。悪いけどやめとくわ。
…というような会話があったかどうかは、知らない。
昨 日 か ら 昨 日 の ま ま の 蛇 苺 鴇田智哉
「AがAである」という形の、トートロジーとなる五七五が成功するかどうかは、「AはAでない」という矛盾をあらわに示すことなく、暗示できているかどうかにかかっているのだろう。この句は案外良いなと思った。
あ 橋 の 風 夏 内 耳 み づ ぐ る ま 佐山哲郎
一見したときの印象と異なり、結構意味を強調する句が多いな、と思った。しかし、上述の句はほとんど意味のない音の羅列と見えるまで希薄化され、読者に意味を意識させないことに成功している。何回か音を転がすうちにゆっくりと意味が立ち上ってくるが、それが作句過程の追体験めいて興味深い。
船 虫 の た く さ ん 出 て た く さ ん 去 る 寺澤一雄
夕 空 は 気 ま ま な も の や 青 簾 寺澤一雄
夏 草 が 土 俵 の 中 を 埋 め に け り 寺澤一雄
「膝ポン川柳」という言い方があるが、客観写生は「膝ポン写生」にとどめを刺すのかもしれない。「片陰の途切れ命は途切れざる」や、「風鈴は吊されながら鳴りにけり」などは、膝を叩けないが。
ぬ た く つ て 針 金 虫 は 輪 を 作 る 寺澤一雄
つい最近まで、針金虫の詳細を知らず、知ってから夢中になって調べたことがある。mixiの日記に書いたものをそのまま転載する。
『以前に針金虫のことを書いた。カマキリの腹中に棲む寄生虫で、大きくなるとカマキリの腹を脱して水中で生活する。カマキリの腹中に棲むものでも長いものは1メートルに達するらしい。書いてからずっと気になっていたのだが、カマキリの寄生虫ならひょっとすると秋の季語ではないかと思いついた。手持ちの歳時記を引っぱり出してみると、「図説 俳句大歳時記 秋」(角川書店 昭和48年刊)にあった。
針金蟲 (線蟲 あしまとひ)
解説
カマキリの異常にふくれている腹のなかから、まっ黒な長い針金のような虫が出てくることがある。くるくるもつれながらうごめいているところは気持ちが悪い。これはカマキリに寄生した円形動物門の線虫網に属する動物で昆虫ではない。(中略)甲虫類の叩頭虫(こめつきむし)の幼虫は土中に生息していて作物の根を食害しているが、これも針金虫といわれている。しかし、前者とはまったく違うものである。(大町文衛)
考証
『新修歳事記』(明治四二)に「異名 あしまどひ」として「蟷螂の先はすゝむや足まどひ 巴水」の句を初出。
…とある。これで思い出したのだが、宮澤賢治の戯曲「植物医師」に針金虫が登場する。これは上述の説明の後者を指している。針金虫をどこかで聞いたことがあると思ったのだが、宮澤賢治だった。
最後に、針金虫にとりつかれるきっかけとなった句をあげてこの話を閉める。
かの川のはりがねむしに謎のこし 北村虻曳
針金虫を知ってしまうと、この句は「膝ポン写生」として読める。
蛇 を 見 て ひ と り に な つ て し ま ひ け り 村田 篠
句会で点が集まり、点を入れた人は句の良さを説明しようと苦労するが、説明が行き届かず、句の良さがわからない初心の人には何となく不満の残るタイプの句ではないかと想像する。まれに、「見て」が気に入らないと気むずかしいことをいう人も居そうだが、それは別問題としておく。
たぶん、どんな説明をしても分からない人は分からないとは思うが、分かるように説明する努力を放棄してはいけないだろう。放棄した途端、「第二芸術論」に足をすくわれることになる。口で言うよりも、文で説明する方が難しいだけに難儀なことではあるが。
五七五の中だけで説明しようとすると、「蛇を見る」以前を想像してもらうよりしょうがないだろう。「蛇を見る」以前は、「ひとり」ではなかった。「ひとり」でないときの人間は、普通、「語らい」の中にいる。ぺちゃくちゃとあれこれの話題を他人に投げかけ、他人からも投げ返されと、言葉はしっかりとした基盤を作っている。しかし、「蛇を見」た瞬間から、事情は一変する。「あそこに蛇。」、「どこどこ?」、「いないじゃない。」というような会話の後、「蛇」は宙ぶらりんになる。他人には通じない言葉となった「蛇」は、「ひとり」の中で反芻せざるを得ない。それを表現するのが、「ひとりになつてしまひけり」という書き方だ。
これも、足をすくわれた説明ではあろう。ま、その自覚を忘れず、ぼちぼちやらなしゃあない。
メ ロ ン パ ン 喰 へ ば 火 葬 の 終 り け り 山口東人
すでにカタカナ語に取り巻かれている、日常の言葉。その中から、五七五を発見しようとしているのだろう。「シーア派」の句以外が、懐かしい雰囲気に包まれているのはなぜだろう?安定した日常生活自体が過去を含んでいるのかもしれない。
普通、骨を拾って後に食事となる。その間、妙に腹が減ることはあり得る。近所で評判の店のこだわりのメロンパンではなく、ありあわせの、ひょっとすると火葬場近くのコンビニの、メロンパンで腹をなだめ終わったところだろう。生活のすぐそばの死を肩肘張らず書いて魅力的だ。
波 乗 り の 波 に 乗 る と き 陸 を 向 き 遠藤 治
波 乗 り の 姿 勢 の ま ま に 呑 ま れ け り 遠藤 治
瞬間を切り取る切れ味の良さ。
少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト
観察にかけた長い時間を思わせる句。と書くと、ご大層だが、毎年見ているとそんな感想も出てくるだろう。ああ、またやってる、と。
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猫 髭
白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 咲 き に け り 田中亜美
ちょうど調布の神代植物園に植物吟行に行って、白百合を詠んで【内側はちらかつてゐる】といった措辞の句が句会で出ていたので、揚句を見たときに、【臓 腑 あ ら は に】という措辞に、これは女性が生理的に内側から詠んだ句だと感じた。男は外側から眺める目になる。アラーキーの花の写真にしても、あれは新宿の三角ビルでのオリンパスの展示会だったか、蘂をアップした花の近接写真に囲まれていると、写真であるにもかかわらず噎せるような花の匂いに息苦しくなり、外へ出て、硝子越しに画廊の写真を見ると、花弁の露のひとつぶひとつぶが愛液のようにきらめく克明なその写真たちを、アラーキーが女性器そのものとして撮っていることがわかったが、それも外側から内側へ分け入る男の目だ。
読むことに、男か女かという目は持たないが、時に作品のほうからまなざしをそそぐような句があり、揚句もそうだ。昔、マンハッタンで初めてジョージア・オキーフの花の絵を見たときの事を思い出す。吉行淳之介が理想の女性像を問われて「性器に手足が生えている女」と答えており、オキーフの花の絵を見ていると、女が全身Vaginaとなって迫ってくるような暗い美しさに、見ている自分が男根となって全部吸い込まれていくような気になり、食虫花のようにその中で蕩けてゆくのも悪くないなと思わせ、吉行淳之介が理想としたのはこれかと思い当たったが、揚句は自分で内臓を露わにしているにもかかわらずとてもクールな印象だ。
「白 百 合 の 臓 腑 あ ら は に 匂 ひ け り 」といった、イメージの叛乱を嫌うからだろう。つまり、自分が巻き込まれて「性」として露わになる「関係の暴力性」へは距離を置く詠み方であり、例えば【帆 船 は 祈 り の 位 置 に 夕 薄 暑】の「位置」は、スティーブン・キングが『デッド・アイ』の中で描いたような「関係の暴力性」が「祈りのような行為」だという生身の切なさまでには踏み込まない。【息 止 め て し ま へ ば き つ と 踏 ま れ ぬ 蟻】の、さくら貝を踏み潰した後のような蹠と蟻との距離、【い つ 逢 へ ば 河 い つ 逢 へ ば 天 の 川】の自分からは踏み出さぬ、待つ女としての距離。若くして看取る経験を重ねてきたのだろうか、吉行理恵の詩の感覚に通ずるような、熱くない青い炎のような無臭のエロティシズムを湛えた句である。
う す う す と 電 気 の な か を 羽 蟻 来 る 鴇田智哉
2005年という年は、仏壇に限りなく近かった俳壇が、鴇田智哉『こゑふたつ』と高田正子『花実』で俳人協会新人賞、今井肖子が『花一日』で日本伝統俳句協会賞という、才能ある三人の俳人を輩出したことで、わたくしには記憶に残る年になった。なかでも鴇田智哉には傑出した新しい才能を感じた。
モーリス・メルロー=ポンティは『知覚の現象学』の中で【事物の命名は、認識のあとになってもたらされるのではなくて、それはまさに認識そのものである】と述べているが、鴇田智哉が「電気」と言うとき、その命名はまさに認識そのもので、「電気」という言葉が自分で自分を指し示すようにそこにひとつの世界を現わす。「電気」と命名する事で、そこに「電気」という言葉自体が持つ意味が分泌しはじめ、読者はそこに「電気」という世界を見る。【光あれと言ひたまひければ光ありき】という神のような認識を持って登場した俳人を初めて見た。俳人になっていなければ、彼は教祖になっていただろう。その声は、居丈高ではなく【う す う す と】というように、静かな声なのがいい。
洗 ひ 髪 ゆ ゑ い き し ち に 火 、と 叫 ぶ 佐山哲郎
次は非常に騒々しい声を持つ俳句で、いわゆる飛んでる俳句。今は行っちゃった俳句と云うのだろうか。しかし、わからない=つまらないにならないのは、関係妄想症のようなイメージの連鎖のスパーク力で、この【洗 ひ 髪 ゆ ゑ】という滑り出しは、俳句は自由だということを証すアリバイのようにドキッとさせる。
吉増剛造と谷川俊太郎の二人は日本では数少ないプロと言い切れる詩人だと吉本隆明が言っていたが、吉増剛造がスパイラル状に言葉を自動書機のように増殖させる天才なのに対して、谷川俊太郎はデビューしたときから恐ろしく抽斗の多い整頓された言語登録機のような天才で(なにせ大江健三郎が『万延元年のフットボール』で【本当のことを言おうか】という処女詩集『二十億光年の孤独』の一節をテーマにしたぐらいだ)、年季が長い俳壇ではこういうめくるめくような天才は、ゲートボール文芸に天才は似合わないよなと腑に落ちてしまうところがあるが、さしずめ揚句などは谷川俊太郎的言葉遊びの天分がばらまかれている。
昔、NHKテレビで「みんなのうた」が始まったとき、これがみんな素晴らしく面白く、またアニメーションが楽しかったが、その第一回目の歌が『誰も知らない』という楠トシエの歌で、そのなかに揚句の【い き し ち に 火】というフレーズが出て来たと記憶する。確か【お星さまひとつ、プチンともいで、こんがり焼いて、急いで食べたら、お腹こわした、イキシチニ、ヒ!誰も知らないここだけの話】と、こういう歌だったが、おお、今でも歌える、もう随分昔の歌なのに。で、いま検索したら、1961年の歌で、作詞:谷川俊太郎、作曲:中田喜直、アニメ:和田誠だった。というわけで、「谷川俊太郎的言葉遊びの天分」と持ち上げたが、撤回。しかし、「火」によって、「洗ひ髮」と「しち」と「叫ぶ」で、八百屋お七が浮かぶ、そういう変わり玉のような面白さを持った「おとなのうた」である。
…………………………………………………………………………
小野裕三
棘 の あ る 草 の ま は り の 梅 雨 晴 間 村田篠
名の草枯る、という言葉が歳時記を引くと出てくる。これを最初に見たときに、変な言葉だと思った。名のある草の枯れることなどというような説明があったりするのだが、と言っても正確に言えばどんな草にでも本当は名前がある。だが確かに我々は、日常的に「名のある草」と「雑草」とを大別してしまっていることも事実かも知れない。「名のある草」「名のある花」の裏には、無数の「名なき草」「名なき花」がある。なんだか脚光を浴びない地味な演歌歌手のような雰囲気で、ついつい応援したくもなる。
そんなことを考えていると、この句に出てくる「棘のある草」が妙に面白く思えてくる。あえて名を名乗っていないところを見ると、あの「名なき草」の一派かも知れない。まずは「わざわざ名乗るほどの者でもありません」との低姿勢を維持しつつ、しかし名はないながらもちょっとした特徴を説明することでその低姿勢な雰囲気から一歩だけ踏み出している。しかも、そのいささか控えめな自己主張が「棘」。「わざわざ名乗るほどのも者でもありませんが、特徴としては棘があります」という、自虐的なのか攻撃的なのかよくわからないスタンスが可笑しい。
分 身 の や う な 冬 瓜 も ら ひ け り 山口東人
冬瓜とは不思議に幾何学的な野菜という印象があって、普通の野菜とはやや毛色の違う句ができることが多いような気がする。その何かこの端然とした佇まいに、意思めいたものを持っているように感じさせたりもする。とにかくどこかミステリアスなところのある野菜である。
その冬瓜が、「分身」のようだと言う感覚はよくわかる。冬瓜の持っている幾何学的な物質感と、その中に宿されているかのような意思性は、「分身」めいて感じられることもあるだろう。この句は、配合や斡旋の作品ではなく、「冬瓜」という本質だけを一途に詠んだ句である。冬瓜に対する把握の的確さと、それを一途にまとめた形式が相乗効果となり、作品全体に力強さを与えている。
少 年 が 必 ず 落 ち る ゴ ム ボ ー ト 遠藤治
俳句的に言うと、「みな」「すべて」とか「必ず」とかは便利なツールの一種とも言えるが、それだけにある種の逃げである場合も多い。AがBという状態であるというだけではつまらないものも、AはみなBという状態である、と言っただけで俄然面白く感じられたりするからだ。この句もどうだろう。少年がゴムボートから落ちたというだけではまさに只事でしかないだろう。それが、「必ず」の一言が入っただけでぐっと時空が広がり、むくむくと連想が働き始め、どこか物語の端緒すら感じさせるようになる。
とは言え勿論、「みな」「すべて」「必ず」を使えばいつも成功するというわけでもない。ある種の安易さが見え透いてしまう場合もあり、それが「逃げ」ということにもなる。この句の場合成功しているのは、少年がゴムボートから落ちるという、その様自体がどこかコミカルで明るい動きを示唆している点だ。しかも「必ず」と言われたことによって、読み手はその光景を複数想像してしまう。どこかモノクロの喜劇映画にも似た、光景というか動作自体のさまざまな面白さが読み手に伝わってくるのである。
有 象 無 象 神 輿 の 後 を 付 て い く 寺澤一雄
内容的には当たり前というか、神輿なのだから祭などの情景なのだろうし、その周りにいろんな人が付き従っていくのは、当然といえば当然の光景だ。この句の成功の鍵は「有象無象」にあるのだろう。神輿に付き従っていく人々、それを敢えて「有象無象」と濃く詠んだところが、何か不思議な連想を誘う。読んでいて、いささか起伏のようなものさえ感じてしまう。起伏というのは、最初に「有象無象」と出てきて、次は何が来るのだろうと思ったところに神輿に付き従う人々という、ややオチめいた展開が待っているという意味だ。一句の中のこの起伏がなかなか楽しめる。
そしてさらにいろんな想像も働きだす。「有象無象」と敢えて言っているからには、これは人間だけを指しているのではないのかも知れない。犬とか猫とか、いやあるいは虫とか鳥とか風とか、いやいやあるいはもっと目に見えないような何か、そのようなものもこの「有象無象」の中には入っているのかも知れないと思わせる。「有象無象」と言ったことによってぐっと景が広がり始めるのだ。
ス ピ ノ ザ は レ ン ズ を 磨 き 天 の 川 田中亜美
哲学に明るいわけではないので、スピノザが数世紀ほど以前の哲学者であるという以外にはあまり詳しい知識を持っていない。だが、その哲学者であるはずのスピノザがレンズを磨いているという、まずその様がいかにも面白い。確かにあの頃の哲学者は、神学者だか自然科学者だか判然としないようなところがあって、そんな雰囲気もこの句には漂っている(そういう意味では、「天の川」という、神学的だか哲学的だか自然科学的だかよくわからない存在が季語としてよく働いているのだろう)。
Wikipediaで調べてみると、どうやらスピノザがレンズ磨きの技術を身につけていたのは本当のようで、ただしレンズ磨きによって生計を立てていたというのは誤伝、という説明がある。史実はともかく、確かにこの句の中では輝く星空の下でスピノザは一心にレンズを磨いている。その像だけは、確実なものとしてこの言葉の中に存在している。
蚊 の と ほ り 抜 け た る あ と の 背 中 か な 鴇田智哉
彼が俳句研究賞を取って世に出てきたとき、僕はとても新鮮な印象を持った。いや、新鮮というのはどこか語弊があるかも知れない。新鮮というと、新進気鋭というか、挑戦的というか、どこか旧世代的なものに対する画然とした決別みたいなものを含意しているかも知れないからだ。彼の句はそういうのでもない。一番正しい評は、どこかはぐらかされたみたいな印象、というのが合っているような気がする。旧というでもなく、新というでもなく、どこに足場を置いていいのかよくわからないような、すべてに通じるようでもあり、すべてから離れているようでもあり、それが「はぐらかされた」という意味である。勿論、いい意味だ。
この句を読んだとき、その最初に彼の句に出会ったときの印象を思い出した。この句もなんだか、新とも旧ともつかない、どこかはぐらかされたような印象を与える。この蚊はどこを通り抜けたのだろうか、なんだか本当に人間の身体をするりと通り抜けてしまったような気がする。と、本人に聞いてもきっと「ふ、ふ、ふ」とはぐらかされてしまうに違いない。
半 夏 生 魚 は 鱗 を 脱 ぎ に け り 佐山哲郎
なんだか重心をどこに置いていいのかわからない、妙な句だ。魚が鱗を脱ぐというフレーズは面白くてそれ自体で確かな魅力を秘めているが、季語の斡旋次第では台無しになりそうなフレーズでもある。魚が鱗を脱ぐという、このイメージがどこか季感めいたものを孕んでいるからだ。季感ではなく、季感めいたものである。というのは、具体的な季節がここから浮かび上がってくるというよりは、個々の季語から季節が立ち上がってくる、あの瞬間に似た抽象的な動作をこのフレーズに感じる、という意味である。ふわっと空間が広がっていくような、あの瞬間だ。
そしてそのようなフレーズに対して、斡旋した季語が半夏生。微妙だ。成功しているのか成功していないのかもよくわからない。半夏生という季語自身がそもそもどこか手がかりに乏しい季語でもある。だが、少なくとも失敗はしていないだろう。フレーズが持っている季感めいたものに対して、季語が一歩引いているような印象があって、そのことで結局は全体のバランスをうまく取っているのかも知れない。それが、重心をどこに置いていいのかよくわからない、と言った趣旨である。
未 発 表 句 稿 あ り け り ね ぶ の 花 媚庵
たまに有名な作家などの未発表原稿が発見されてニュースになることがある。やむをえない事情を除き、たいていの場合は本人が未発表にしているのには理由があって、つまりはそれほど質の高い作品ではないというケースが多いのではないだろうか。だが、時に未発表原稿というものは数奇な運命を辿ることもある。有名な話はカフカの例だろうか。未発表原稿の焼却を遺言に死んでいったカフカの原稿を、友人のマックス・ブロートはその遺言に反して再整理し作品として発表した。『アメリカ』『審判』『城』なとがそれに当たるという。こんな具合に、未発表原稿という存在自体がどこか数奇な雰囲気を持っているのだ。
この句では未発表句稿ということで、明確に俳句作品と特定されているものの、未発表原稿全般の持っている濃厚な雰囲気は健在だ。これまで数奇な運命を辿ってきたか、あるいはこれから数奇な運命を辿ることになるのか、発表されることを待っている言葉の運命が頭の中を駆け巡る。そして、合歓の花。数奇な運命にはぴったりの花ではあるまいか。
夏 至 の 日 の オ ペ ラ グ ラ ス に 嘆 き の 場 菊田一平
結構、オペラは好きで、1、2年に一度は見に行く。DVDやCDも結構持っている。そんなに薀蓄を語るほど音楽の知識も技術もないが、オペラは観ていて、あるいは聴いていて、楽しい。嘆きの場面は、きっと歌も盛り上がるハイライトシーンのひとつなのだろう。歌い終わった後に「ブラボー」の声が飛ぶような、そんなシーンのはずだ。オペラグラスで観ているのだからきっと、天井桟敷だかなんだかそんな辺りだろう。レンズの向こうに遠くある役者たちはしかし、今を時とばかりに歌声を高らかに響かせているのだ。まさに、この瞬間のために今までの舞台があったのだとでも言うように。
この句、季語が非常によく効いている。暑い盛りというにはちょっと早い、蒸し暑くなり始めたくらいの頃だろうか。ぎっしりと埋まった劇場は、それでも充分なくらいきっと暑い。そして今まさに訪れた、レンズの向こうのクライマックス。それを俳句的な瞬間にしてしまった作者の力量に拍手。
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週俳7月の俳句を読む(下) 3/3
週俳7月の俳句を読む(下) 3/3
■ 媚 庵 「三 汀」10句 →読む■ 菊田一平 「オペラグラス」10句 →読む
■ 田中亜美 「白 蝶」10句 →読む■ 鴇田智哉 「てがかり」10句 →読む
■ 佐山哲郎 「みづぐるま」10句 →読む
■ 寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句 →読む
■ 村田 篠 「窓がある」10句 →読む■ 山口東人 「週 末」10句 →読む
■ 遠藤 治 「海の日」10句 →読む
…………………………………………………………………………
榊 倫代
頬 い つ も 張 り つ く 痛 み 夏 の 蝶 田中亜美
あ、と思ったときはもう叩かれていた。目の前のママは真っ赤な顔をしている。多分あたしも。
黙ったまま家を出た。そんなつもりはなかったのだけれど、ドアは乱暴な音をたてて閉まった。行く当てのないまま、ずんずん前だけ見て歩く。
それにしても、打たなくったっていいじゃないか。夏期講習をサボって友達と花火をしたのは悪かったと思う。でも中学校最後の夏休みなのだ。隣のクラスのキムラくんも来ると言っていたし、一日くらいどうってことないと思った。ゆうべ何食わぬ顔をして帰ったときは何も言われなかったのに。なんでばれたのか。
頬はまだじんじんする。ママのてのひらの感触が残っていて不愉快。張りついているものを落とすみたいに、首を思い切り振ってみたけれど、もちろん何も変わらないし。
蝉がうるさくていまいましい。タバコ屋さんの角のところの百日紅は、なんでいつもバカみたいに咲き続けるのか。わしゃわしゃと重たそうな枝先に蝶が来ている。
そう言えば、今朝のママは蝶の柄のエプロンをしていた。母の日にあたしがプレゼントしたハナヱモリのやつ。問い質されたときすぐに謝ればよかったのに、あたしもつい意地になって口ごたえした。交友関係まで否定されてカッとしたのだ。でも「ママがそんなだからパパが出ていったんだよ」は言い過ぎだったかも。
蝶はどこかに行ってしまった。頬はまだ痛い。
ママの手もまだ痛いだろうか。
啜 り た る 枇 杷 の 滴 が 枇 杷 の 上 菊田一平
眠る大伯母の顔を見ている。
さっきまで大伯母は枇杷を食べていた。入れ歯を外した口で、食べにくそうにだらだらと汁をこぼしながら。枇杷の汁は指から手首へ、そしてまだ剥いていない枇杷の上へと、滴になって落ちていった。
枇杷は実家の庭の木からもいだものだ。入院してから日に日に食欲がなくなっていく様子を心配した母が、これなら食べられるかもしれないから、と私に持たせたのだ。
咽喉に詰まらせてはいけないので薄く切って少しずつわたす。大伯母は力無く口に運んでは、歯茎で潰しながら時間をかけて食べる。啜るようにしてゆっくりゆっくり食べる口元を見つめていると、子どもの頃に戻ったような妙な心持ちになる。
早くに亡くなった祖母に代わって母を育てたのが大伯母で、母が働きに出たので幼い私も毎日の面倒を見てもらっていた。食が細かった私は、食事時には必ず大伯母を困らせた。
「おいしいよ。ほら、食べてごらん」と匙を差し出しながら大伯母は大きな口を開けてみせる。口に入れたままなかなか飲み込めないでいる様子を見ると、一緒になって噛む真似をする。もそもそと食べながら大伯母の口を見ていると、食べているのが自分なのか大伯母なのか、そもそもいま口に入っている物は何なのか、噛んでそれからどうするのか、すべてがあやふやなような心許なさばかりが募るのだった。
あの頃の大伯母は美味しいものには目が無く、恰幅がよかった。歯もちゃんと揃っていて、こんな枇杷など一口か二口だったのに。
すっかり小さくなってしまった口を、かすかに開けて眠る大伯母の顔と、枇杷の皮と種。点々と残る枇杷の汁のあと。病室の窓の外はもうすっかり夏の色だ。
結局一つ食べるのがやっとで、たくさん残ってしまった枇杷の中から、一番大きいのを選んで思い切り齧った。
…………………………………………………………………………
上田信治
筑紫磐井氏は、「虚子の新研究」(2004)で、虚子の俳句理論、作句法の体系化を試み、その研究の最終節で、季題趣味に終らず、俳句の伝統にもつながらない、虚子句のいくつか(「流れ行く大根の葉の早さかな」「帚木に影といふものありにけり」etc)を念頭に、氏の命名になると思われる「ゼロ化」の手法について、論じている。
外部要素をゼロ化(形式化・記号化・無意味化)し、内部要素も極力ゼロ化する。例えば、内部要素の中でも意味を伴いやすい季題をゼロ化するのである。(…)このようにしてゼロ化した構文の上に微妙な意味を乗せることにより生まれる成功が俳句とは何かを答えてくれるだろう。(『近代定型の論理』p299)
週俳7月の俳句を見ていると、今日の俳句が「ゼロ」として書かれることは、もはや当然至極の前提であるように思えてくる。世間の常識は、必ずしも、そういうことになっていないと思うんですが。
背 中 に は 手 の 届 か ざ る と こ ろ あ り 寺澤一雄
「銀蜻蜒」50句より。その俳句のゼロ化した場所が(グラウンド・ゼロですね)、いかに広く、いつまでも遊んでいられる場所であるかを、証明し続けている作者。「背中には手の届かないところがある」そう思ったんだから、仕方がないじゃないか。そして、こんなふうに書かれてしまったら、もはや、そこに永遠感のようなものが漂ってしまうんだから、仕方がないじゃないか。それは、きっと、例の「形式が書く」という事態に関係がある。無私の手が、俳句の歴史に、こんなご無体な一句を刻んでしまう。
螢 ほ も よ ろ を 逢 瀬 の ど ん づ ま り 佐山哲郎
五七五というのは、なんだかんだ言って、日本語の土俗のリズムなわけで、それがカッコヨクなりうるとしたら、粋とかいなせとかは、はずせないのだということが、よく分る。あと、〈鯵として熱く激しく皮膚匂ふ〉。こういう美味しそうさは、あまりないでしょう。われと我が身が、美味しそうだ、という恍惚。
サ ボ テ ン や 仏 の 顔 が 玄 関 に 山口東人
この作者の他の句〈芝を刈るボタンダウンの男かな〉などからして、ここは、玄関に仏頭か何かが飾ってある知的中産階級の居宅を、イメージするのが正解のはずなのだが、「仏の顔」ということばが、典型的にシュールな絵柄であり、日に三度なものだという、含意をもつために、読者は、ついつい面白すぎる想像を強いられて苦しむ。それが作者のたくらみであることは、わざわざ玄関に「サボテン」などを配していることからも、明らかである。すべての句に、季語のような、そうでないような言葉があることは、そのたくらみの繊細にして投げやりであることの証左であろう。
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■ 媚 庵 「三 汀」10句 →読む■ 菊田一平 「オペラグラス」10句 →読む
■ 田中亜美 「白 蝶」10句 →読む■ 鴇田智哉 「てがかり」10句 →読む
■ 佐山哲郎 「みづぐるま」10句 →読む
■ 寺澤一雄 「銀蜻蜒」50句 →読む
■ 村田 篠 「窓がある」10句 →読む■ 山口東人 「週 末」10句 →読む
■ 遠藤 治 「海の日」10句 →読む
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榊 倫代
頬 い つ も 張 り つ く 痛 み 夏 の 蝶 田中亜美
あ、と思ったときはもう叩かれていた。目の前のママは真っ赤な顔をしている。多分あたしも。
黙ったまま家を出た。そんなつもりはなかったのだけれど、ドアは乱暴な音をたてて閉まった。行く当てのないまま、ずんずん前だけ見て歩く。
それにしても、打たなくったっていいじゃないか。夏期講習をサボって友達と花火をしたのは悪かったと思う。でも中学校最後の夏休みなのだ。隣のクラスのキムラくんも来ると言っていたし、一日くらいどうってことないと思った。ゆうべ何食わぬ顔をして帰ったときは何も言われなかったのに。なんでばれたのか。
頬はまだじんじんする。ママのてのひらの感触が残っていて不愉快。張りついているものを落とすみたいに、首を思い切り振ってみたけれど、もちろん何も変わらないし。
蝉がうるさくていまいましい。タバコ屋さんの角のところの百日紅は、なんでいつもバカみたいに咲き続けるのか。わしゃわしゃと重たそうな枝先に蝶が来ている。
そう言えば、今朝のママは蝶の柄のエプロンをしていた。母の日にあたしがプレゼントしたハナヱモリのやつ。問い質されたときすぐに謝ればよかったのに、あたしもつい意地になって口ごたえした。交友関係まで否定されてカッとしたのだ。でも「ママがそんなだからパパが出ていったんだよ」は言い過ぎだったかも。
蝶はどこかに行ってしまった。頬はまだ痛い。
ママの手もまだ痛いだろうか。
啜 り た る 枇 杷 の 滴 が 枇 杷 の 上 菊田一平
眠る大伯母の顔を見ている。
さっきまで大伯母は枇杷を食べていた。入れ歯を外した口で、食べにくそうにだらだらと汁をこぼしながら。枇杷の汁は指から手首へ、そしてまだ剥いていない枇杷の上へと、滴になって落ちていった。
枇杷は実家の庭の木からもいだものだ。入院してから日に日に食欲がなくなっていく様子を心配した母が、これなら食べられるかもしれないから、と私に持たせたのだ。
咽喉に詰まらせてはいけないので薄く切って少しずつわたす。大伯母は力無く口に運んでは、歯茎で潰しながら時間をかけて食べる。啜るようにしてゆっくりゆっくり食べる口元を見つめていると、子どもの頃に戻ったような妙な心持ちになる。
早くに亡くなった祖母に代わって母を育てたのが大伯母で、母が働きに出たので幼い私も毎日の面倒を見てもらっていた。食が細かった私は、食事時には必ず大伯母を困らせた。
「おいしいよ。ほら、食べてごらん」と匙を差し出しながら大伯母は大きな口を開けてみせる。口に入れたままなかなか飲み込めないでいる様子を見ると、一緒になって噛む真似をする。もそもそと食べながら大伯母の口を見ていると、食べているのが自分なのか大伯母なのか、そもそもいま口に入っている物は何なのか、噛んでそれからどうするのか、すべてがあやふやなような心許なさばかりが募るのだった。
あの頃の大伯母は美味しいものには目が無く、恰幅がよかった。歯もちゃんと揃っていて、こんな枇杷など一口か二口だったのに。
すっかり小さくなってしまった口を、かすかに開けて眠る大伯母の顔と、枇杷の皮と種。点々と残る枇杷の汁のあと。病室の窓の外はもうすっかり夏の色だ。
結局一つ食べるのがやっとで、たくさん残ってしまった枇杷の中から、一番大きいのを選んで思い切り齧った。
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上田信治
筑紫磐井氏は、「虚子の新研究」(2004)で、虚子の俳句理論、作句法の体系化を試み、その研究の最終節で、季題趣味に終らず、俳句の伝統にもつながらない、虚子句のいくつか(「流れ行く大根の葉の早さかな」「帚木に影といふものありにけり」etc)を念頭に、氏の命名になると思われる「ゼロ化」の手法について、論じている。
外部要素をゼロ化(形式化・記号化・無意味化)し、内部要素も極力ゼロ化する。例えば、内部要素の中でも意味を伴いやすい季題をゼロ化するのである。(…)このようにしてゼロ化した構文の上に微妙な意味を乗せることにより生まれる成功が俳句とは何かを答えてくれるだろう。(『近代定型の論理』p299)
週俳7月の俳句を見ていると、今日の俳句が「ゼロ」として書かれることは、もはや当然至極の前提であるように思えてくる。世間の常識は、必ずしも、そういうことになっていないと思うんですが。
背 中 に は 手 の 届 か ざ る と こ ろ あ り 寺澤一雄
「銀蜻蜒」50句より。その俳句のゼロ化した場所が(グラウンド・ゼロですね)、いかに広く、いつまでも遊んでいられる場所であるかを、証明し続けている作者。「背中には手の届かないところがある」そう思ったんだから、仕方がないじゃないか。そして、こんなふうに書かれてしまったら、もはや、そこに永遠感のようなものが漂ってしまうんだから、仕方がないじゃないか。それは、きっと、例の「形式が書く」という事態に関係がある。無私の手が、俳句の歴史に、こんなご無体な一句を刻んでしまう。
螢 ほ も よ ろ を 逢 瀬 の ど ん づ ま り 佐山哲郎
五七五というのは、なんだかんだ言って、日本語の土俗のリズムなわけで、それがカッコヨクなりうるとしたら、粋とかいなせとかは、はずせないのだということが、よく分る。あと、〈鯵として熱く激しく皮膚匂ふ〉。こういう美味しそうさは、あまりないでしょう。われと我が身が、美味しそうだ、という恍惚。
サ ボ テ ン や 仏 の 顔 が 玄 関 に 山口東人
この作者の他の句〈芝を刈るボタンダウンの男かな〉などからして、ここは、玄関に仏頭か何かが飾ってある知的中産階級の居宅を、イメージするのが正解のはずなのだが、「仏の顔」ということばが、典型的にシュールな絵柄であり、日に三度なものだという、含意をもつために、読者は、ついつい面白すぎる想像を強いられて苦しむ。それが作者のたくらみであることは、わざわざ玄関に「サボテン」などを配していることからも、明らかである。すべての句に、季語のような、そうでないような言葉があることは、そのたくらみの繊細にして投げやりであることの証左であろう。
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『俳句研究』2007年9月号(休刊号)を読む 上田信治
『俳句研究』2007年9月号(休刊号)を読む ……上田信治
空っぽだ、という言葉しか、浮かんできません。
目次を開くと、「第一線俳人50人による作品8句」という作品特集で、50ページ。
つぎに「いまこそ俳句! 600人からのメッセージ」というアンケート特集で、93ページ。
他には、いつもの、連載記事。ほぼ、それだけ。
「第一線俳人50人」は、後藤比奈夫から、長谷川櫂まで50人が年齢順に並んでいます。ひじょうに不思議な頼み方です。第一線俳人が、なぜ、年齢で区切られるのか。50代ということなら小澤實が入ってもいいはずだし、
はじめから、長谷川櫂より上(年齢が)で、50人頼もうと、決めて頼んだとしか思えない人選です。
「600人からのメッセージ」は、代表句1句、感銘句1句、メッセージ「いま、俳句に思うこと」。
誰もおもしろいことなんか、言ってません。年末の号のアンケートを、前倒しでやってるというだけです。
間違いなく、アンケートにそえて、編集スタッフに対する同情のこもった言葉が、多数、寄せられたことでしょう。
何、これ。就職活動?
…いや、まあ、そういうことを言ってはいけない。きっと、スタッフは、ガッカリしすぎて、身体も頭も動かなかったんでしょう。
せっかくだから、面白いところを拾います。
●いまこそ俳句! 600人からのメッセージ p101-
大牧広さん「総合誌がデスクの好悪によって、内容が偏重することはよいことではない。水先案内人としてのプライドを持つ総合誌こそが待たれる。それに応えている総合誌はある」
加藤かな文さん「俳句はいろいろな場所にある。句集、総合誌、結社誌、新聞の投句欄、お茶の缶、ブログ。「俳句研究」という場所にあった俳句はどこに行くのだろう。そもそも俳句はどこにあるのがいちばん好ましいのだろう」
岸本尚毅さん「(略)目の前によい句があれば幸せ、ただそれだけのことである」
島田牙城さん「(自選句)昼寝すと言ひたるままに荼毘にあり」
高山れおなさん「(略)日本社会はその精神の貧しさをいよいよ露呈するでしょう。俳句は面白くなるでしょう」
谷雄介さん「「いま俳句に思うこと」については、あまりにもたくさんありすぎるので、下記ホームページを(略)」
筑紫磐井さん「十年前、小澤實のプロフィルを依頼され、「小澤實の時代来たる」と書いて顰蹙をかったが、今まさに小澤實の時代が来ようとしている。再びここに「櫂未知子の時代来たる」と書いて顰蹙をかってみたい」
あと、小林貴子さんの回答が、面白かった。依光陽子さんの回答が、偉そうだった。稲畑廣太郎さんの回答が、関西弁だった。
●リレーエッセイ「句友・句敵」p94-
おや、さいばら天気さんが、雪我狂流さんのことを、書いています。
●恭二歳時記 p72-
「新興俳句編」2回目にして、中断です。さいごの文が「(鳳作の「しんしんと」の句に対する)俳人たちの具体的な反応については、稿を改めることにしましょう。」とあったので、とりあえず、何らかのかたちで続きが読めることを、期待して、待つことにします。
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空っぽだ、という言葉しか、浮かんできません。
目次を開くと、「第一線俳人50人による作品8句」という作品特集で、50ページ。
つぎに「いまこそ俳句! 600人からのメッセージ」というアンケート特集で、93ページ。
他には、いつもの、連載記事。ほぼ、それだけ。
「第一線俳人50人」は、後藤比奈夫から、長谷川櫂まで50人が年齢順に並んでいます。ひじょうに不思議な頼み方です。第一線俳人が、なぜ、年齢で区切られるのか。50代ということなら小澤實が入ってもいいはずだし、
はじめから、長谷川櫂より上(年齢が)で、50人頼もうと、決めて頼んだとしか思えない人選です。
「600人からのメッセージ」は、代表句1句、感銘句1句、メッセージ「いま、俳句に思うこと」。
誰もおもしろいことなんか、言ってません。年末の号のアンケートを、前倒しでやってるというだけです。
間違いなく、アンケートにそえて、編集スタッフに対する同情のこもった言葉が、多数、寄せられたことでしょう。
何、これ。就職活動?
…いや、まあ、そういうことを言ってはいけない。きっと、スタッフは、ガッカリしすぎて、身体も頭も動かなかったんでしょう。
せっかくだから、面白いところを拾います。
●いまこそ俳句! 600人からのメッセージ p101-
大牧広さん「総合誌がデスクの好悪によって、内容が偏重することはよいことではない。水先案内人としてのプライドを持つ総合誌こそが待たれる。それに応えている総合誌はある」
加藤かな文さん「俳句はいろいろな場所にある。句集、総合誌、結社誌、新聞の投句欄、お茶の缶、ブログ。「俳句研究」という場所にあった俳句はどこに行くのだろう。そもそも俳句はどこにあるのがいちばん好ましいのだろう」
岸本尚毅さん「(略)目の前によい句があれば幸せ、ただそれだけのことである」
島田牙城さん「(自選句)昼寝すと言ひたるままに荼毘にあり」
高山れおなさん「(略)日本社会はその精神の貧しさをいよいよ露呈するでしょう。俳句は面白くなるでしょう」
谷雄介さん「「いま俳句に思うこと」については、あまりにもたくさんありすぎるので、下記ホームページを(略)」
筑紫磐井さん「十年前、小澤實のプロフィルを依頼され、「小澤實の時代来たる」と書いて顰蹙をかったが、今まさに小澤實の時代が来ようとしている。再びここに「櫂未知子の時代来たる」と書いて顰蹙をかってみたい」
あと、小林貴子さんの回答が、面白かった。依光陽子さんの回答が、偉そうだった。稲畑廣太郎さんの回答が、関西弁だった。
●リレーエッセイ「句友・句敵」p94-
おや、さいばら天気さんが、雪我狂流さんのことを、書いています。
●恭二歳時記 p72-
「新興俳句編」2回目にして、中断です。さいごの文が「(鳳作の「しんしんと」の句に対する)俳人たちの具体的な反応については、稿を改めることにしましょう。」とあったので、とりあえず、何らかのかたちで続きが読めることを、期待して、待つことにします。
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後記+プロフィール 016
後記
えー、恒例「週俳7月の俳句を読む」が、常にも増して百家争鳴(前号と合わせ14名が執筆)です。百家争鳴となれば、そこにある種のコンペのようなものを見出してしまうのは、読者の性というものでしょう。
文章を書くということは、まず、書く主体を仮構することなわけですが、どういう「俳句を読む人」像を、それぞれのレビュワーが立ち上げているか。そのへんから、勝負ははじまっております。
それは、レビュワー同士の勝負であり、レビュワーと読者、レビュワーと句の勝負です。勝負のあやを楽しんでいただければ、幸いです。勝負というのは、勝ったり負けたりですが、最終的に、読むに値するレビューが生産されれば、よいのだろうと考えています。
「週刊俳句賞」が終ってしまったさびしさを埋めるように、今週は、ひさしぶりの「柳×俳7句×7句」、なかはられいこさんと大石雄鬼さんの登場。そして、中嶋憲武さんとさいばら天気さんの「真夏の出来事「一日十句」より31句×31句」は、「香港回帰祖国10周年大会」の日にはじまって、43年ぶりのコウノトリの人工孵化の日で終る、31日間の記録です。なんか、夏休みの宿題? どうぞ、お楽しみください。
では、また、来週の日曜日にお会いしましょう。
(上田信治 記)
no.016/2007-8-12 profile
■なかはられいこ
岐阜県生まれ、岐阜市在住。1988年、時実新子の『有夫恋』がきっかけで川柳をはじめる。98年、文芸メーリングリスト「ラエティティア」に参加。著書『散華詩集』(93年、川柳みどり会)、『脱衣場のアリス』(2000年、北冬舎)、共著『現代川柳の精鋭たち』(2000年、北宋社)。サイト「短詩型のページμ」http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/
■大石雄鬼 おおいし・ゆうき
1958年生まれ、埼玉県育ち。現代俳句協会会員、「陸」同人、「豆の木」所属。1996年現代俳句協会新人賞。ブログ「ゆうきはいく」http://sky.ap.teacup.com/ukiuki575/
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1960年生まれ。「炎環」「豆の木」。1998年炎環新人賞。99年炎環同人。03年炎環退会。04年炎環入会。来年、二回目の同人。
■さいばら天気 さいばら・てんき
播磨国生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。句集に人名句集『チャーリーさん』(私家版2005年)。
ブログ「俳句的日常」 http://tenki00.exblog.jp/
■橋本直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。
「俳句の創作と研究のホームページ」 http://homepage1.nifty.com/haiku-souken/
■五十嵐秀彦 いがらし・ひでひこ
1956年生れ。札幌市在住。現代俳句協会会員、「藍生」会員、「雪華」同人、迅雷句会世話人。第23回(平成15年度)現代俳句評論賞。
サイト「無門」 http://homepage2.nifty.com/jinrai/
■石原ユキオ いしはら・ゆきお
1982年岡山生まれ。2000年、第一回詩のボクシング岡山大会優勝、全国大会一回戦敗退。以後、Happy? Hippie! (現mimucus)、オカヤマポエトリーナイト、大朗読などの朗読会に参加。2005年より俳句を始める。三上史郎主宰の「らんまん句会」「あきさ句会」に参加。文学系ギャルサークル「ブラック乙女部」部員。「黒鳥」同人。「海程」会員。サイト「石原ユキオ商店」http://www.d-mc.ne.jp/blog/575/
■橋本喜夫 はしもと・よしお
1957年生まれ、北海道旭川市在住。「雪華」「銀化」同人、俳人協会、現代俳句協会所属。第5回俳句界賞、第26回鮫島賞、第11回加美俳句大賞スウエーデン賞。句集「白面」。
■中村安伸 なかむら・やすのぶ
1971年、奈良県生まれ。東京都在住。現代俳句協会会員。「豈」同人。共著に『無敵の俳句生活』俳筋力の会編(ナナ・コーポレートコミュニケーション)、『21世紀俳句ガイダンス』現代俳句協会青年部編(邑書林)。
■野口 裕 のぐち・ゆたか
1952年兵庫県尼崎市生まれ。小池正博と二人誌「五七五定型」を発行。その他、肉声媒体「もとの会」、「北の句会」、「辻句会」、「樫句会」、活字媒体「逸」、「垂人」などに参加。サイト「野口家のホームページ」http://www.saturn.dti.ne.jp/~ngyutaka/
■猫髭 ねこひげ
「きっこのハイヒール」所属。サイト「三畳の猫髭」 http://homepage1.nifty.com/ssweb575/page056.html
■小野裕三 おの・ゆうぞう
1968年、大分県生まれ。神奈川県在住。「海程」所属、「豆の木」同人。第22回(2002年度)現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作、新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句集に『メキシコ料理店』(角川書店)、共著に『現代の俳人101』(金子兜太編・新書館)。サイト「ono-deluxe」http://www.kanshin.com/user/42087
■榊 倫代 さかき・みちよ1974年愛知県生まれ。「天為」同人。
■上田信治 うえだ・しんじ
「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。ブログ「胃のかたち」 http://uedas.blog38.fc2.com/
■■■
えー、恒例「週俳7月の俳句を読む」が、常にも増して百家争鳴(前号と合わせ14名が執筆)です。百家争鳴となれば、そこにある種のコンペのようなものを見出してしまうのは、読者の性というものでしょう。
文章を書くということは、まず、書く主体を仮構することなわけですが、どういう「俳句を読む人」像を、それぞれのレビュワーが立ち上げているか。そのへんから、勝負ははじまっております。
それは、レビュワー同士の勝負であり、レビュワーと読者、レビュワーと句の勝負です。勝負のあやを楽しんでいただければ、幸いです。勝負というのは、勝ったり負けたりですが、最終的に、読むに値するレビューが生産されれば、よいのだろうと考えています。
「週刊俳句賞」が終ってしまったさびしさを埋めるように、今週は、ひさしぶりの「柳×俳7句×7句」、なかはられいこさんと大石雄鬼さんの登場。そして、中嶋憲武さんとさいばら天気さんの「真夏の出来事「一日十句」より31句×31句」は、「香港回帰祖国10周年大会」の日にはじまって、43年ぶりのコウノトリの人工孵化の日で終る、31日間の記録です。なんか、夏休みの宿題? どうぞ、お楽しみください。
では、また、来週の日曜日にお会いしましょう。
(上田信治 記)
no.016/2007-8-12 profile
■なかはられいこ
岐阜県生まれ、岐阜市在住。1988年、時実新子の『有夫恋』がきっかけで川柳をはじめる。98年、文芸メーリングリスト「ラエティティア」に参加。著書『散華詩集』(93年、川柳みどり会)、『脱衣場のアリス』(2000年、北冬舎)、共著『現代川柳の精鋭たち』(2000年、北宋社)。サイト「短詩型のページμ」http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/
■大石雄鬼 おおいし・ゆうき
1958年生まれ、埼玉県育ち。現代俳句協会会員、「陸」同人、「豆の木」所属。1996年現代俳句協会新人賞。ブログ「ゆうきはいく」http://sky.ap.teacup.com/ukiuki575/
■中嶋憲武 なかじま・のりたけ
1960年生まれ。「炎環」「豆の木」。1998年炎環新人賞。99年炎環同人。03年炎環退会。04年炎環入会。来年、二回目の同人。
■さいばら天気 さいばら・てんき
播磨国生まれ。1997年「月天」句会で俳句を始める。句集に人名句集『チャーリーさん』(私家版2005年)。
ブログ「俳句的日常」 http://tenki00.exblog.jp/
■橋本直 はしもと・すなお
1967年生。「豈」同人、「鬼」会員。
「俳句の創作と研究のホームページ」 http://homepage1.nifty.com/haiku-souken/
■五十嵐秀彦 いがらし・ひでひこ
1956年生れ。札幌市在住。現代俳句協会会員、「藍生」会員、「雪華」同人、迅雷句会世話人。第23回(平成15年度)現代俳句評論賞。
サイト「無門」 http://homepage2.nifty.com/jinrai/
■石原ユキオ いしはら・ゆきお
1982年岡山生まれ。2000年、第一回詩のボクシング岡山大会優勝、全国大会一回戦敗退。以後、Happy? Hippie! (現mimucus)、オカヤマポエトリーナイト、大朗読などの朗読会に参加。2005年より俳句を始める。三上史郎主宰の「らんまん句会」「あきさ句会」に参加。文学系ギャルサークル「ブラック乙女部」部員。「黒鳥」同人。「海程」会員。サイト「石原ユキオ商店」http://www.d-mc.ne.jp/blog/575/
■橋本喜夫 はしもと・よしお
1957年生まれ、北海道旭川市在住。「雪華」「銀化」同人、俳人協会、現代俳句協会所属。第5回俳句界賞、第26回鮫島賞、第11回加美俳句大賞スウエーデン賞。句集「白面」。
■中村安伸 なかむら・やすのぶ
1971年、奈良県生まれ。東京都在住。現代俳句協会会員。「豈」同人。共著に『無敵の俳句生活』俳筋力の会編(ナナ・コーポレートコミュニケーション)、『21世紀俳句ガイダンス』現代俳句協会青年部編(邑書林)。
■野口 裕 のぐち・ゆたか
1952年兵庫県尼崎市生まれ。小池正博と二人誌「五七五定型」を発行。その他、肉声媒体「もとの会」、「北の句会」、「辻句会」、「樫句会」、活字媒体「逸」、「垂人」などに参加。サイト「野口家のホームページ」http://www.saturn.dti.ne.jp/~ngyutaka/
■猫髭 ねこひげ
「きっこのハイヒール」所属。サイト「三畳の猫髭」 http://homepage1.nifty.com/ssweb575/page056.html
■小野裕三 おの・ゆうぞう
1968年、大分県生まれ。神奈川県在住。「海程」所属、「豆の木」同人。第22回(2002年度)現代俳句協会評論賞、現代俳句協会新人賞佳作、新潮新人賞(評論部門)最終候補など。句集に『メキシコ料理店』(角川書店)、共著に『現代の俳人101』(金子兜太編・新書館)。サイト「ono-deluxe」http://www.kanshin.com/user/42087
■榊 倫代 さかき・みちよ1974年愛知県生まれ。「天為」同人。
■上田信治 うえだ・しんじ
「ハイクマシーン」「里」「豆の木」で俳句活動。ブログ「胃のかたち」 http://uedas.blog38.fc2.com/
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