2008-04-20

上州の反骨 村上鬼城 第7回 二十歳の気概と挫折 斉田仁

上州の反骨 村上鬼城
第7回 二十歳の気概と挫折   斉田 仁



            第1回 新時代・明治と若き日の鬼城
            第2回 抵抗の精神
            第3回 小説から俳句へ
            第4回 農民の反乱「群馬事件」
            第5回 初句集『鬼城句集』と虚子
            第6回 万葉東歌のおおらかさ



粕谷一希著『二十歳にして心朽ちたり―遠藤麟一朗と「世代」の人々』を久しぶりに読んだ。

この書は粕谷氏の処女作として、一九八〇年に新潮社から刊行されたものだ。私が今回読んだのは、その原本をあらためて新書版にした洋泉社新書МCで、二〇〇七年一一月に発行された。その帯にはこうある。

府立一中、一高、東大で「秀才」の名をほしいままにした、同時代のシンボル的存在。昭和二十一年夏、学生たちが創り上げた総合雑誌『世代』の初代編集長、エンリンこと遠藤麟一朗。彼は無名のサラリーマンとして逝った。著者の数年前の世代として、数歩前を歩く〝都会の秀才たち〟はまさに著者の青春の前景にあった。彼の生涯とはいったい何だったのか。(中略)終戦直後から一九五〇年代、真の意味での「戦後」の錯乱の季節に流れていた、異様なほど熱気に満ちた「ルネサンスの野望」は、なぜ蹉跌させられてしまったのか?(以下略)
 
簡潔にこの書の本質をとらえている文章である。

『中央公論』編集長として、戦後の日本の精神史とでもいうものを見詰めてきた粕谷氏が、加藤周一、中村信一郎、福永武彦などがデビューしていった『世代』という雑誌の初代編集者として活躍し、後にサラリーマンに転職し、最後は無名のままに逝った、まさに戦後の野望の象徴のような遠藤麟一朗という、一人の人間の歩みを追求することによって、戦後のこの国の、とくにインテリゲンチアたちの精神構造を、あざやかに描いている書である。

私はこれをあらためて読みながら、なぜか村上鬼城を思っていた。もちろん鬼城の明治から昭和までと、遠藤麟一朗の戦後とは時代は違う。しかし、写生文といいながらも、文学に目覚め、法律や当時はまだ少数派であった英語などを学びながらも、身体の障害からとはいえ、この道を結局は諦めざるを得なかった村上鬼城という人間の軌跡が、なぜか遠藤麟一朗という人間と重なってしまうのである。

若き日の鬼城の、溢れるような青春の意欲はどこへいってしまったのであろうか。その意志を挫折させたものは、ただ単に病気や貧困という個の問題だけではないだろう。この国がやがて進んでいこうとした時代の影のようなものを感じるのは、深読みなのだろうか。

そして、鬼城にとって「境涯の俳人」という名は、はたして幸せだったのだろうか。俳句という世界だけに深く入っていったことが、真の彼の本質だったのであろうか。

粕谷氏には及ぶべくもないが、私は多少の鬼城の精神の軌跡を追っていくことが、俳句というこの形式の本質を掘り下げる点で大事なもののような気がする。

現在では鬼城という名はあくまでも明治のころの一人の俳人としてのみ残っている。しかし、私はもっと深く、明治のインテリゲンチアとしての気概、そしてその挫折を感じるのである。

昭和十三年(一九三八年)九月十七日、鬼城は永眠しているが、その死はNHKラジオの世界放送によって、七ヶ国語でニュースとして放送されたそうである。ただ単純に俳人としての鬼城ではないひとつの証左ではあるまいか。

ちなみに「二十歳にして心朽ちたり」には出典があるという。鬼才といわれた中国の詩人李賀のつぎのような漢詩である。冒頭の八行を記しておく。

  長安に男児あり
  二十にして心已に朽ちたり
  楞伽案前に堆く
  楚辞肘後に繋る
  人生窮拙有り
  日暮聊か酒を飲む
  祗今道己に塞がる
  何ぞ必ずしも白首を須たん


(つづく)



※『百句会報』第118号(2008年)より転載

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