2012-09-16

【週俳8月の俳句を読む】さよなら、アイルトン・セナ 福田若之の三十句 中村安伸

【週俳8月の俳句を読む】

さよなら、アイルトン・セナ 福田若之の三十句

中村安伸



福田若之氏の三十句。そのタイトルに「さよなら、二十世紀。さよなら。」とあり、二十一世紀も十分の一が経過しているこのタイミングで二十世紀への別れを告げようとする福田氏の関心のありようが興味深い。

さて、唐突だがこの連作から受けた印象をレーシングカーに例えるなら、タイヤに十分熱が入らずエンジンのパワーが路面に伝わらない状況ということになるだろうか。

さよなら、ウォーホル 丸ごとのトマトを齧る

福田氏にとって二十世紀を象徴する偶像の一つがアンディ・ウォーホルであり、他にレーニンの名前なども見える。

ウォーホルのというわけではないが、MOMAなどに展示されている巨大でのっぺりとした二十世紀後半あたりのアート作品。作者が打ち出すコンセプトを異様に突出させたそれらの物体から受ける印象と、福田氏の作品群から受けるそれが重なる気がするのである。

指導者は笑い続けるこうもり飛ぶ

麦を踏む悪魔のほうがまだまともさ

僕たちの大きな蜘蛛の巣食う星

原爆の音を知らず
――そこここに秋が近づく

たとえば上記のような作品にみられる文明批判のようなものは、福田氏固有の主題というより、そうしたモチーフを俳句形式に突っ込んだらどうなるかというコンセプチュアルな実験のように受け取れるのである。それは、裏返せば作者が作品を十分に手放していないということなのではないか。作者の意図をはなれて動きまわる作品にこそ魅力を感じる。

扇風機どこかの鈴木から電話

扇風機は連作全体の雰囲気に接続させるためのアイテムとして選択されたのかもしれないが、それはともかく、鈴木という呼び捨てに不思議なインパクトがある。「どこかの鈴木」という把握は人物としての個体性を失っており、たとえば人名という枠を超えて鈴木を鈴と木に分解して読んでみたくなるのである。

死者が弾く死んだ木の音夏の星

死という語のリフレインが呼び出してきた「死んだ木」という表現。人の死と木の死の違いということを思わせられる。すなわち、死にも浅いと深い、音階になぞらえれば高い死と低い死があるということ。夏の星という季語がいかにも居心地悪そうにみえるが、連作後半で「星」という語がこの地球という意味で用いられていることと無関係ではないだろう。

いやむしろ滝は過程が美的じゃん

なにかに対する反論としてのセリフをそのまま一句にしたという体であるが、そのなにかを確定することができない。「結果がすべて」というような言葉を想定してみても微妙に成立しない。滝の過程とは、いやむしろ滝の結果とはどういうことなのだろうか。滝とは水の流れにとっては過程であり、地形の高低差の結果であり、それを見る者にとってはどちらでもない。過程として切り取られた滝には「うつくしい」ではなく「美的じゃん」と皮肉まじりの婉曲表現で賛えることしかできない。滝壺にかかる虹のような曖昧さである。

福田氏にとってレーシングカーのエンジンにあたるものは、以下の句にみられるような規範に対する抵抗のようなものなのかもしれない。定型はむしろターボのように苛立ちを加速する装置となり得るだろう。

赤信号は死なないように渡れ初夏

夜の汗日付が変わっても今日だ

夏の浜辺のできあいのことばたち


エンジンが主題ならタイヤは表現、あるいは言葉である。タイヤに熱が入り路面にグリップするようになれば、エンジンのパワーを十分に活かすことが出来るだろう。そのためには言葉の作用を知り尽くし、それを使いこなす技術が必要である。福田氏がタイヤを使いこなしたとき、多くのライバル俳人たちを振りきってトップチェッカーを受ける事ができるかはともかく、ファステストラップを獲得することは十分に可能だと思う。


谷口摩耶 蜥蜴 10句  ≫読む
福田若之 さよなら、二十世紀。さよなら。 30句
  ≫読む  ≫テキスト版(+2句)
前北かおる 深悼 津垣武男 10句 ≫読む
村越 敦 いきなりに 10句 ≫読む
押野 裕 爽やかに 10句 ≫読む
松本てふこ 帰社セズ 25句 ≫読む
石原 明 人類忌 10句 ≫読む


0 comments: