2013-10-06

【週俳9月の俳句を読む】こころのなかの秋 瀬戸正洋

【週俳9月の俳句を読む】
こころのなかの秋

瀬戸正洋


僕はY市にある事業協同組合の事務局に勤めている。たまたま、組合員とその社員のために落語会を開くことになり三百人定員のS区公会堂を借り切ることにした。紹介された落語家に電話を入れると「**亭**助」ですと名乗った。「助」という字は「すけべえ」の「助」ですと答えた声が、今でも印象に残っている。参加費は無料ということと、当日が悪天候だったため百人も集まらず散々な落語会となった。その落語家は笑顔で「気にしないで、また、声をかけて下さい」と言い、二つ目仲間と帰っていった。その翌年の春、突然、招待状が届き、開くと、「六代目襲名、及び、真打昇進披露」とあった。会場は東京會舘。僕はたった一度会っただけの落語家の、知り合いなど誰も来ないお祝いの会に、のこのことひとりで出掛けていった。

その年の落語会はA区公会堂にした。会場は二百人が定員。前回より百人少ない会場なら満席にできると思った。参加費は三千円とし懇親会も合わせて開催した。その年は定員の二百人を集め盛況であった。ただ、懇親会は立食ビュツフエだったため料理が足らず反省点は残った。次の年は、落語会は野毛の「****座」地階の「小ホール」、懇親会は桜木町駅前のホテルのレストランを借り切り、着席、卓盛とした。「卓盛」としたことで料理が不足することもなく、三年目にして何とか僕の落語会のかたちが出来上がったと思った。

時代が変わっても僕らがふだんの暮しの中であたりまえのようにやっている行為そのものが落語の世界だ。日頃の自分の振舞と同じなのに、すっかり忘れて笑っている。六代目も「みなさん笑ってらっしゃいますけど、いつもみなさんがやっていらっしゃることなんですよ」と言う。僕らが懸命に生きている行為は、他人が見ると思わず笑ってしまうことなのだ。その中でも、一番感心するのが「横丁の隠居」だ。僕らの暮しの中には姿を変えた幾人もの「横丁の隠居」が存在し僕らを正しい方向に導く。僕らは気付くことも無くその方向に動かされ最高の幸福である「平凡な暮し」を送ることができるのだ。

六代目は僕より十数歳年下になる。「勉強会」「**会」「一門会」「親子会」「独演会」などという案内状が届くようになり、いろいろと出掛けてみた。落語家の世界がおぼろげながらわかったような気がした。「根多(ネタ)」は、はじめから決まっていたり高座に座って客を見てから決めたりするのだということも知った。ある時、妻が六代目の「独演会」に行きたいというので、チケットを友達の分も含めて数枚渡した。僕が六代目から直接買ったものだ。「楽屋に何か届けなくていいの」と僕に聞く。妻は頂いたものと勘違いしていた。


 ぺらぺらの団扇を配る男かな   高柳克弘

誰も「ぺらぺら」の団扇など配りたくないのだ。どうせ、配るのなら、しっかりしたまともな団扇を配りたい。この男とは、たとえば裏町の酒場で安酒を呷りながら、カウンターの片隅で人生について語り合いたい。嘘で飾られた男の人生、その嘘がその男にとっても僕にとっても「真実」の何ものでもない。みんな真剣に生きているのだ。「ぺらぺらの団扇」は酒の肴にぴったりの僕らのアイテムだ。

噴水の水に病む手を浸しけり   高柳克弘

空中に水を押し上げ、その水が落ちてきて水たまりとなり、再び、その水たまりの水を空中に押し上げる。仕組まれた「水」は病んでいるのだ。病んでいる人の手を病んでいる水に浸していることになる。人が仕組んだカラクリの水が病み、その仕組まれた水により人が病む。地球も社会も人類も誰も彼もが病んでいる。僕らは気が付かないふりをして噴水の水に病む手を浸したりしている。


ばっきゅーんうちぬかれたハートはもうはつなつのチョークのよう   内田遼乃
陸でしか生きられない人間って悲しいってめだかが言ったの
世の中の関節外れてしまったというか折れたんでしょめだかさん
私を月につれてってなんてはつなつのぬるい海で我慢してね

「ばっきゅーん」とは銃声である。この銃声、必要か必要ではないかは作者が決めることで僕らは与えられたものを、ただ、読むだけのことだ。銃声から弾丸。弾丸から教師が投げる「はつなつ」のチョークを思ったのだろうか。この作品は空想と想像の中間に位置している。この作品の「私」は、「打ち抜かれたハート」なのである。現実ならば死んでいる肉体を、肉体から離れた私が眺めて遊んでいる。二句目の「陸でしか生きられない人間って悲しい」って言ったのも、三句目の「関節外れてしまったというか折れた」のもめだかではなく「私」なのである。四句目は、自分が月に行けないことを理解している。「はつなつのぬるい海」で我慢してねと他人にも言っているのだ。才能だけなら野垂れ死にするに決まっているから努力が必要などと言おうとしたが、何の努力もせずに野垂れ死にしないのが「才能」なんだと気付いた。


緑雨いま泣きながら食む夫の肉   佐々木貴子
烏賊の骨咲き狂いたる夫の骨         

作者は「夫」をことのほか愛していた。あるいは愛しているのかも知れない。夫の肉とは、「私の肉」であり、夫の骨とは「私の骨」なのである。「緑雨」とは生命のはじまりであり、「烏賊の骨」とは余計なものなのである。


二学期の少年水に触れてゆく   村田 篠

少年にとって「二学期」とは「夏」が終わり「秋」がはじまる季節なのだ。その日が、残暑であろうが雨が降っていようが何の関係もない。少年は、その新しい季節のはじめの日に、水に触れるのである。水に触れることで精神と肉体を清め、いそいそと、片思いの彼女に会いに学校へ行くのだ。

秋の暮とは階段の見ゆる窓   村田 篠

秋の暮とは「窓」のことなのである。それも階段の見える「窓」だ。階段が見えなければ秋の暮とは言ってはいけないのである。サスペンスドラマの一シーンのような。たとえば、階段を登っていくのは杉下右京なのかも知れない。階段を降りていくのは浅見光彦なのかも知れない。

鉄塔の二百十日の高さかな   村田 篠

目の前に鉄塔があり眺めていた。今日は二百十日だと気付いた。そして「高さ」という言葉が浮んだ。何の関係もない言葉が頭の中に置かれていく。原稿用紙に文字が並べられると俳句になった。

水澄むや玄関先に人の立つ   村田 篠

玄関先に立った人は清潔な人なのだ。作者の故郷からの知人なのかも知れない。「水澄む」と形容するのに相応しい爽やかな故郷の風景が目の前に浮かび上がる。

地響きのして秋麗の鼓笛隊   村田 篠

「地響きのして秋麗の」として「鼓笛隊」で完了する。小学生の「鼓笛隊」は確かに地響きがする。大人の「鼓笛隊」は、地響きがしないのは何故なのだろうか。

秋灯のひとつ港を離れけり   村田 篠

漁港から一艘の漁船が出航していった。先陣を切ったのだ。それぞれの漁船には明りが灯っている。これから順番に出航していくのだ。漁港は一面の闇と波の音。

町名のここより変る白芙蓉   村田 篠

こおるたあるのたっぷりと塗られた黒い電信柱と白芙蓉。町名は電信柱に貼られたプレートに記されている。電信柱といえば黒いコーモリ傘・・・。きっと作者は誰かを尋ねていて白芙蓉を見つけたのだ。

草の絮降る石を運んでゐる人に   村田 篠

草の絮が飛散り浮遊し降って来ている。河原の工事現場、数人の土木作業員が働いている。一輪車に石を乗せ運ぶ。工事現場とは何かを作り出す場所なのだ。草の絮からは新しい生命が芽生え、石を動かす(積む)ことは、これも何かが出来上がるためのものだ。軽いもの、そして、重いもの。片方は風の意思で、片方は人の意思で。「草の絮」も「石」も自分の意思とは何の関係もなく、かたちあるものになる。人生とはこんなものなのかも知れない。

月の夜をオプティミストの通りけり   村田 篠

目の前をオプティミストが通り過ぎる。月が煌々とオプティミストを照らしている。オプティミストには月光が似合う。月光で充分なのである。故に、悲観論者を照らすのは太陽でなくてはならない。悲観論者は、「悲観」であることが大切なことであり幸福なことなのだ。楽観論者であろうと悲観論者であろうと本人が幸福ならばそれでいいのだ。幸福な人を僕らは見つけなくてはならない。そして、その人から、少しばかりの「幸福」を分けてもらうのだ。

花野より傘をなくして帰りたる   村田 篠

家を出た時は雨が降っていた。観光バスに乗り高原を目指す。秋の花々には小雨が似合う。少し淋しいくらいがちょうどいいのだ。心が揺れる。揺れる心をそのままにしておいたら傘をどこかに忘れて来てしまった。心に隙間が生まれたのだから傘をなくしてもいいかなどと思う。


ごきかぶり客のゐぬ間にちりとりへ   小早川忠義
七夕やいつもあなたとコンビにと
ドリンク剤ひと息に飲み秋祭
おにぎりのセロファンはがし運動会     

ごきかぶりの好きな客もたまにはいるのだとしても、ごきかぶりを始末してちりとりへ運ぶのは客のいないひとりの時がいい。コンビニへ行くのはいつもあなたとふたりであって、決して、ひとりでは行かない。ましてや、七夕の日だけ行くのでもない。ドリンク剤はひと息に飲むものである。味わって飲むものではない。秋祭の日には特に一息で飲むものなのだ。運動会にはコンビニで買ったおにぎりを持っていく。セロファンを剥がす時には、防腐剤もやさしさも何もかもがいっしょに剥がれてしまうのだ。


秋扇としていつまでも使ひけり   今泉礼奈
晴れてゐて去年と同じ案山子かな
団栗を持ちそれなりの気分かな       

軽い作品である。もちろん「軽い」とは悪い意味では決してない。軽く生きるとは至難の業なのである。扇をいつまでも使えば「秋」扇ではない。雨が降っていても去年と同じ「案山子」であることには違いない。三句目は、団栗を持つことを意識しただけのことなのだ。僕も作者と同じように軽く生きることができればと思う。


お母いたか塩摑もぅと故郷想う   仁平 勝
おお男娼コート絡まる野菜市
新富座若き女形紅一点
田舎村腐った俺か猫と歌
義仲が眉間皺立て待つは兵
置く雑貨まやかしを買い道拒む
鷹病まれオナニー尽くし晩成す
ダサい薔薇テンキーで買う枝信じ      

「二人姓名詠込之句」は一句の中に二人の姓名が詠み込まれているのだそうだ。「解題とヒント」まで付けて作者は姓名を当ててみなさいと言っている。作者はこの人達が好きに違いない。嫌いな人のために、こんな苦労をするはずがないのだ。僕らは「解題とヒント」は読まずに二人の姓名を捜す。ところが、僕は根性なしのナマケモノだから、直に、「解題とヒント」を読む誘惑に負ける。作者にとって、これらの作品は姓名を詠み込むことに意味があり、それ以外は二次的なものだ。だが、「文字」というものは不思議なもので、並べてみると、言葉のオブジェとなり、それなりに何かが生まれてしまう。作者は、その偶然と遊んでいるのだ。人生とは束縛されているものだ。小説や詩と比べて俳句には束縛がある。作者はそれに「二人姓名詠込」という束縛を新たに加えた。「生きる」という束縛よりも、句作する束縛の方が、まだまだ、足りないのだと感じ、もうひとつの束縛を加えてみようと思ったのだ。自由に生きるという「生き方」が嘘八百ならば、不自由の中に、真の「自由」さが隠されているということも同様。原稿用紙に自由に何か書けといわれてもなかなか書けるものでもなく、それなりの束縛(定型だとか季語を入れるとか)があれば書けそうな気になってくる。「書けそうな気になってくる」から、僕らは七転八倒して何とか文字を並べることができるのだ。考えてみれば人生には楽しさとか正しい答えなどがあるはずもない。「解題とヒント」の先には「生きることのヒント」が隠されていることに僕らは気付くなどというと飛躍のし過ぎか。


満月に少しほぐしておく卵   北川美美

「ほぐす」とは縋りたい言葉だ。悪に凝り固まった僕の「心」を、貧しい「精神」をほぐしてもらいたいと思ったりもする。台所の窓から満月が見える。何に使うのかわからないが卵をすこしほぐしておく。「負」のものをほぐすよりも「正」のものをほぐした方が「満月」にとっても嬉しいことだと思う。

さびしいとさびしい幽霊ついてくる   北川美美

ひとは、みなさびしいのだから、幽霊だってさびしいはずだと思った。たとえば、誰も気が付かないだけで、「Y市」は幽霊の過密都市なのかも知れない。みんな真剣に生きているから成仏できないのだ。みんないい加減に生きているから成仏できないのだ。みなとまちのとあるBARのカウンターでカンパリオレンジを飲んでいるご婦人も幽霊に違いない。

幽霊も頬被りして踊りの輪   北川美美

僕が子供の頃の盆踊りは小学校の校庭にやぐらを建てて提灯を飾り、母親たちが浴衣を着て踊っていた。僕らは校庭の明るい場所で遊び回る。夜になっても残る暑さと、提灯の明りの届かない「闇」が盆踊りの校庭を包み込む。亡くなった近所のおばさんや、全く見たこともないご婦人が、揃いの浴衣を着て輪の中でみんなと踊っている。そんなことを子供心にも感じた記憶が甦ってきた。

今年の落語会は第八回目となり、**中華街の「**閣」で開催する。マイクと座布団さえあれば、どこででもできるのが落語会だ。何年もやっていると、当時、前座だった青年もいつのまにか二つ目となり、すっかり落語家らしくなってきた。中華街大通りに「**亭**」という「幟」を立てて景気をつける。土曜の午後の中華街のあの人通りの中、落語会の会場を見つけるには「幟」は必要なのだ。落語と広東料理のコラボ。屏風も中国風で面白い落語会になると思う。そろそろ、六代目と「番組」の打合せをして案内状を送付しなければならない。


第332号 2013年9月1日
髙柳克弘 ミント 10句 ≫読む

第333号 2013年9月8日
佐々木貴子 モザイク mosaic 10句 ≫読む
内田遼乃 前髪パッツン症候群 10句 ≫読む

第334号2013年9月15日
村田 篠 草の絮 10句 ≫読む

第335号2013年9月22日
小早川忠義 客のゐぬ間に 10句 ≫読む
今泉礼奈 くるぶし 10句 ≫読む
仁平 勝 二人姓名詠込之句 8句 ≫読む

第336号2013年9月29日
北川美美 さびしい幽霊 10句 ≫読む

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