【週俳2月の俳句・川柳を読む】
音と音の距離、耳と音の距離
宮本佳世乃
エリック・ドルフィーの「Eric Dolphy in Europe, Vol. 1」というアルバムにフルートとベースだけの曲がある。フルートのソロから始まって1分くらいしてベースが加わるのだが、このベースのピッチが驚くほど正確なのだ。音が正確であることによって、それぞれの楽器のもつ、空気の震わせ方の違いや、音がゆきたがるベクトルの違い、音と音の距離、わたしの耳とその音との時間的な距離を感じるのである。
2月号の句となった言葉たちも、こういった意味で楽器や楽器から出る音と似ているように思う。
●死なない トオイダイスケ
映像のをさなき俺が東風に揺れ トオイダイスケ
堅香子の故郷に怖き地の残る
暮春かつて祖父居し部屋に日の暮れる
1句目、「映像のをさなき」まではすぅっとわたしに入ってくる。しかし、「俺」という一人称で一気に「その映像」がリアルになる。東風にあるのは、荒い断続性の揺れである。
2句目、カタカゴという音の硬さや、昏く低く咲くあの花の色が「怖き地」を支えている。この句の「地」を想像した場合、片栗という表記になることはありえないだろう。一句目でいうところの「俺」に匹敵する中心的な「地」なのである。本10句には通奏低音として、その土地およびその家族の歴史が感じられるし、それは表題にも端的に表されている。
3句目の「暮春」は暮れの春の意だろう。意味を違える「暮」を2回もってきたことで祖父のありようが見えてくる。老いによって男性性も女性性もうすれ、ただただ人として透き通ってあるかのようだ。
●檻=容器 川合大祐
読み終えて、おもしろいパッケージだと思った。10句で一連であるかのようだ。
“「”からはじまる口語にはさまれて「」のなかに俳句があり、最後は“」”で終わる。つまりすべてが枠である容器のなかで起こっているできごとなのだ。
いくつかの句はある文脈のなかで読んだほうが自然なのであろうし、また、それらをベースにすることは、ある読者層にとっての読みを豊かにすることになるのかもしれない。しかしそれだけでは音は流れていかないのだ。そう考えると予定調和なコード進行や作品の終わり方がものたりないように思う。
以下、印象に残った句。
枯菊を焚く火中より波の音 中村 遥
椅子に木のやはらかさあり日脚伸ぶ 下楠絵里
福豆を打つや遠くへ近くへと 篠塚雅世
2016-03-13
【週俳2月の俳句・川柳を読む】 音と音の距離、耳と音の距離 宮本佳世乃
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