【週俳8月の俳句を読む】
雑読々Ⅲ
瀬戸正洋
帰省子に真っ先に来る海老フライ 岡田耕治
子どもは海老フライが好きなのである。子どもが海老フライを好きだから母親も海老フライが好きなのである。母親は、海老フライを食べる子どもの笑顔が好きなのである。父親は母親の目線ではなく子どもの目線に立っている。だから、真っ先に「出す」とは言わない。真っ先に「来る」なのである。
トマトジュース最後の音を立てて飲む 岡田耕治
紙パックのトマトジュースにストローを刺して思い切り吸い込む。紙パックは徐々に変形し最後には、あの音がして、くしゃくしゃになる。コップであっても最後にあの音はする。少し残しておくことがエチケットなのかも知れない。少し残すことは感謝の精神が足りないのかも知れない。ストローを使いこなすのは難しいのだ。トマトジュースを使いこなすことも、もちろん難しい。生きていくことも・・・・。
蟬飛んでもう戻らないつもりらし 岡田耕治
人生は短いのである。あなたのことなどかまっている時間などない。誰もがそう思っているのである。そんなことはないなどと思ったとしたらそれはあなたの錯覚なのである。あるいは騙されているのかも知れない。蟬は飛んでいってしまった。戻ってくるはずなどない。あのひとも戻ってくるはずなどない。それでいいのである。
落蟬の突然暴れ出している 岡田耕治
落ちたばかりなのだろう。仰向けのまま暴れ出す。油蟬なのかも知れない。死ぬときは静かに消えるように逝くものなのか、それとも、この蟬のように突然暴れ出して今生の別れの記念とするのか。蟬にも個性はある。個性とはやっかいなものなのである。真夜中の縁側の庭先で突然暴れ出す蟬。
関節の音立てている立葵 岡田耕治
公園の広場では子どもたちが集まり、今まさにラジオ体操がはじまろうとしている。花壇には立葵が咲いている。それを眺めていたとき関節を連想したのだ。子どもたちといっしょに膝の屈伸運動をした時、関節がぽきぽきと鳴った。老いたなと思う。立葵には関節があるということを知った、とある夏の日の朝。
原爆ドームに楽止まぬ日や蚊に刺され 樫本由貴
原爆をテーマとして俳句を作るということは「反戦」ということでいいのだろう。八月六日、広島平和記念公園に隣接する原爆ドームでは音楽が鳴り続けている。その日、そこにひとが集まることも「反戦」ということでいいのだろう。平和記念資料館を見学する。頭の中は広島に投下された原子爆弾のことでいっぱいになる。気が付いたら蚊に刺されていた。蚊に刺された「私」について考える。どこかに行ってしまった「蚊」について考える。これも「反戦」ということでいいのだろう。
原爆を見し人氷菓吸うてをり 樫本由貴
原爆投下後の広島を展示物や資料で見たひとということなのだろう。資料館より資料を脇にかかえた若者たちが片手で氷菓を吸いながら歩いてくる。これも「反戦」なのである。作者がここにいてこの若者たちを眺めていることも、作者がこの作品をつくったことも「反戦」なのである。
黙礼やみな立葵見てきしが 樫本由貴
立葵を見てきたことは無意識のことなのである。黙礼とは黙ってお辞儀をすること。そのことを願い黙ってお辞儀をするのである。だが、何千何万の黙礼は、たとえ、目的は同じてあっても、それぞれの方法は異なっているのである。その異なった黙礼の集まったパワーが、このひとたちに戻ってくるのだ。立葵は薬草でもある。
原爆以後この緑陰に人の棲む 樫本由貴
七十数年前に原子爆弾が投下された以後も、この地にひとは棲み続けてきた。春になると草が生え、樹木は芽吹く。ひとは少しずつ戻り家を建てた。唯一、ひとを守ってくれたのは自然だけだったのである。暑さからひとを守ってくれたのは緑陰だけだったのである。
どの碑にも蟻ゐるそれも大きな蟻 樫本由貴
碑とは銘文を刻んで建立したものである。碑文に書かれているものは、そのことなのである。どの碑にも蟻がいる。それも大きな蟻がいる。その大きな蟻は碑の表面を歩きまわっている。銘文を読んでいる。その蟻は被爆したひとたちなのかも知れない。
空蝉がゐて被爆樹の添木かな 樫本由貴
被爆樹が何十年も枯れずに生きていることに驚く。だが、ここに立ち続けるためには添木は必要だったのである。それは誰もがそうなのである。老いればひとの助けがいるのは誰でも何でも同じことなのである。蝉の幼虫は被爆樹を登り羽化をした。作者は、自身が生きていることも含めて何もかもに感謝をしている。
水を打つそばから乾く水を打つ 柘植史子
単純な光景である。単純であるがゆえにいろいろと考えさせられることがある。何かが足りないということは誰もが、そう思って生きている。これかと思い動きはじめてみても途中で違うような気がする。水を打つそばから水は乾いてしまう。よしんば、乾いていなくても水は打たなければならない。水を打つ、ただ、ひたすらに水を打つ。何故か、楽しくなってくる。
天井へとどく棚の書夜の蟬 柘植史子
本というものは家中のいたるところにあるものだ。玄関に置かれ、床の間に積まれ、廊下に放り出され、机のうえにも積まれる。本は本棚に並べ置かれるものなどということは幻想なのである。本は家中を侵食していく。ありとあらゆるところに積まれる。棚にも当然積まれる。積み始めれば天井に届かなければ終わりとならない。いらない本ならとっとと捨ててしまえなどと言ってはいけないのである。蟬も夜ぐらいは鳴き止めばいいのにと思う。
返されし雨傘を提げ星月夜 柘植史子
雨が止んだから返されてしまったのである。返されるのは翌日以降、それも届けてくれるのかと思って貸したのである。それが、すぐに雨は止んでしまい、傘は返されたのである。つまり、傘をふたつ提げて歩いているのだ。夜空はすっかり晴れ渡り星月夜。間の抜けた自分自身の歩くすがたが影となりあとを追う。
桃香り桃の形を思ひだす 柘植史子
桃を食べたことのないひとは香りがしても、それが桃であるのかどうかわからない。桃の形を思い出すこともできない。桃が嫌いなひとは桃の香りがしても気にもならない。たとえば、好きな楽曲がラジオから流れてくると、今まで聴いた中でのいちばん気にいっている演奏がよみがえり、あたまのなかを鳴り響いていくのである。
秋日傘発掘作業の脇を抜け 柘植史子
麦藁帽子やヘルメットを被ったひとびとが地べたに這いつくばって、じょれんや移植ごてで遺跡の表面をきれいに削っている。その脇を秋の日傘を差したご婦人が通り過ぎるのである。和服すがたなのかも知れない。土木作業現場と、そこを通り抜ける秋日傘のご婦人。これを歴史というのかも知れない。
石榴割る海馬のなかに声の匣 柘植史子
割った石榴から脳をイメージし「海馬」まで繋げる。「海馬」とは、脳の記憶や空間学習能力に関わる器官なのだそうだ。その「海馬」の中に声の匣があるという。確かに記憶にないことばは声として発することはできないと思う。
爪を切るあいだ背中にある泉 三宅桃子
泉とは水の湧き出る場所である。爪を切るあいだ背中に泉があるのだという。背中から水が湧き出るのだという。からくり人形しか思いうかべないとしたらイマジネーションが貧弱なのか。からくり人形は日本書紀にも記載があるという。
くちびるで風を送りし金魚かな 三宅桃子
水の中でも風か吹いていることはあたりまえのことなのである。たとえば海にもぐったり川にもぐったりプールにもぐったりすると風を感じることがあるだろう。水槽のなかに風が生れるのは金魚がくちびるで送り出したからだということはあたりまえのことなのである。金魚にくちびるがあるかないかなど確認する必要などないのである。
ひまわりやコップの下の水たまり 三宅桃子
ちいさなひまわりを投げ込んだコップの下のちいさな水たまり。洗ったばかりのコップを使ったのだろう。ちいさな水たまりは台所のテーブルのうえ、ちいさな水たまりは書斎の机のうえ。外にできた水たまりと同じように、いつのまにか消えてなくなってしまうのである。
獏になり氷菓を舌で受けとめる 三宅桃子
獏は未来を食べるのではない。悪夢を食べてくれるのだ。過去に出会ったひとびとの怨念が悪夢となる。考えてみれば楽しい夢など見たためしがない。ひとにとって獏は必要な動物なのである。それが架空の伝説の動物だなどといわれても何ら気にすることはない。架空の伝説の動物、現実の動物、私たちの暮しの中では同じことなのである。さて、夢の中で獏になったこのひとの舌で受けとめた氷菓とは誰の怨念なのだろう。
坂道のひらたくなって麦の秋 三宅桃子
麦秋とは麦の穂が実ったころの季節をいう。坂道のひらたくなったところの麦畑とは、坂道を下ってきたところにあるのか、坂道を登ってきたところにあるのか。どちらにしても坂道は老人には堪える。さわやかな風が吹き抜けていくひらたくなったところ。もうすぐうっとうしい梅雨がやってくる。
中元の箱をもれなく開きおり 三宅桃子
めんどくさいのでそのままにしておいたが賞味期限のあるものもある。結び紐を鋏で切り、包み紙をひらき、箱を開ける。食品と、消費用雑貨類に分ける。山村の生活はゴミの分別などしない。大方は裏の畑で燃してしまうのだ。もちろん、白いけむりのでるものしか燃しはしない。そのくらいの分別はある。
夏痩せの妻と喧嘩や殴らねど 山口優夢
夫婦喧嘩は止め時を計算して仕掛けるものである。つまらぬ感情に押し流されて、うっかりと始めてしまうものではない。妻であるがゆえに嘘をつきとおさなければならないことも多々ある。妻であるがゆえに本音は隠し通さなければならないのだ。夏痩せの妻を殴ることなどもってのほかなのである。
妻は思ひ出し怒るみんみん蟬のごと 山口優夢
みんみん蟬が鳴いているのは過去を思い出しているからなのである。妻が怒っているのも過去を思い出しているからなのである。「あなたの何もかもか癪にさわるのよ」ということなのである。みんみん蟬が鳴いているのも妻が怒っているのも、必ず朝が来ることを知っているからなのである。
言ひ負かしたのではなく見限られたのかも、夜 山口優夢
言い負かして勝ったような気がしているのだが何かがおかしい。妻は私の知らないところでほくそ笑んでいるのかも知れない。居間にも台所にも玄関にも夜のしじまが忍び寄ってくる。時間が経てばこころが落ち着いてくる。そういえば、妻を言い負かしたことなどいままで一度もなかったことに気付く。
盆の寺出て霧雨が手に頬に 山口優夢
掃除をして花と線香。そして、近況報告。雨の降りはじめに気が付くのは、いつも手や頬である。決して、目や脳髄ではない。お盆、春と秋の彼岸、そして、年末のお墓の掃除。墓にも隣近所があり、毎年、数回、集まることになる。寺の裏山では蜩が鳴いている。
妻から指をつないで帰る墓参かな 山口優夢
指と指を絡めあって帰る。指をつなぐ夫婦。怖ろしい光景なのだと思う。「捕まえたから、もう離さないわよ」ということなのである。「あなたの家のお墓なのだから」という声も聞こえてくる。だが、もううんざりなのである。妻や子と別れて、ひとり珈琲でも飲んで帰りたいのである。とにかく、ひと時でも、自由になりたいのである。やさしかった頃の面影が消えてしまうことなどわかっていたはずなのに。
おしろいや終はつても済んでない喧嘩 山口優夢
口を利かなくなってからが本当の喧嘩なのである。夫婦にとって口汚くののしり合うことなどご愛嬌なのである。庭の片隅にはおしろい花がひっそりと咲いている。これから私もひっそりと暮らしていくのだ。会社でこき使われて、自宅に戻れば無言地獄。誰もが歩いた道なのである。これからは憂鬱な日々が続くのである。
旧約の薄きページや星月夜 矢野公雄
旧約聖書のページは確かに薄い。何故、辞書のように薄いのだろう。ホテルのベッドの脇の引き出しに置いてあったりする。ホテルの窓からながめる星月夜。だが、何かが違うような気がしないでもない。私は右でも左でもないふつうの日本人のつもりだが、日本のホテルならば「古事記」の現代語訳がふさわしいだろうと思う。
虫の音や寄り道いつか迷ひ道 矢野公雄
寄ることが必要だと思ったから寄ることにしたのである。だが、何度も寄っているうちに、それでいいのかと考える。つまり、これは目的の場所へ行くことではなく精神のはなしなのである。これは私たちの生活のいたるところにあるものなのである。迷ったらしない方がいい。日本の古典にも、そんなことが書いてあった。日本の古典にも虫は鳴いている。
いまだ輪とならず踊の三曲目 矢野公雄
民謡は流れているが、まだ、ひとが集まっていない。やぐらのうえも誰もいない。そんなときは踊りたいひとが好き勝手に踊ればいいのである。生ビールの紙コップをふたつ持って知り合いを捜すひと。夢中で世間ばなしに興じているひと。三曲目あたりの、この自由さがたまらなくいいのである。
一歩づつ夜の深まる踊かな 矢野公雄
昼が深まるとは誰も言わない。夜だから深まるのである。一歩づつの一歩とは踊るための一歩なのである。踊れば踊るほど夜は深まってくる。踊れば踊るほど闇は深まってくる。闇が深まってくれば魑魅魍魎の世界が拡がる。魑魅魍魎の世界が拡がってくれば、今まで見えなかったものが見えるようになる。それを盆踊りという。
さきがけもしんがりもなき踊の輪 矢野公雄
盆踊りならば確かに先頭も後尾もない。輪があるだけである。先駆けとは、まっさきに敵中に攻め入ることである。殿とは、退却する最後尾にあって追撃する敵を防ぐ役のことである。いくさの言葉を使っているところが面白い。都会の盆踊りは知らないが、田舎の盆踊りは提灯のあかりの届かないところから先は闇となる。不気味なほどの闇となる。よく近所の亡くなったひとが紛れ込んで踊っているんだなどという話を聞いたりもする。「あそこで踊っているひとは誰」などという会話がときおり聞かれたりもする。
仏にも鬼にもなれず濁り酒 矢野公雄
仏になることは辛いことなのである。鬼になることも辛いことなのである。仏になることは簡単なことなのである。鬼になることも簡単なことなのである。麹の糟を漉しさえすれば簡単なことなのである。とある裏町の立飲み屋では濁り酒の方が高価なのである。
この世には未練残さず曼殊沙華 矢野公雄
未練とは、「あきらめきれないこと」のほかに「熟練していないこと」という意味もある。「この世」がある以上、「あの世」も必ずある。もちろん、「その世」だってある。「この世」という言葉が浮かんだということは、妄想の歯止めが緩んできたのである。「この世」には未練はいくらでもある。それは「あの世」も同じことなのである。故に、未練など何もない曼殊沙華が野原に咲き誇っているのである。
子どもは海老フライが好きなのである。子どもが海老フライを好きだから母親も海老フライが好きなのである。母親は、海老フライを食べる子どもの笑顔が好きなのである。父親は母親の目線ではなく子どもの目線に立っている。だから、真っ先に「出す」とは言わない。真っ先に「来る」なのである。
トマトジュース最後の音を立てて飲む 岡田耕治
紙パックのトマトジュースにストローを刺して思い切り吸い込む。紙パックは徐々に変形し最後には、あの音がして、くしゃくしゃになる。コップであっても最後にあの音はする。少し残しておくことがエチケットなのかも知れない。少し残すことは感謝の精神が足りないのかも知れない。ストローを使いこなすのは難しいのだ。トマトジュースを使いこなすことも、もちろん難しい。生きていくことも・・・・。
蟬飛んでもう戻らないつもりらし 岡田耕治
人生は短いのである。あなたのことなどかまっている時間などない。誰もがそう思っているのである。そんなことはないなどと思ったとしたらそれはあなたの錯覚なのである。あるいは騙されているのかも知れない。蟬は飛んでいってしまった。戻ってくるはずなどない。あのひとも戻ってくるはずなどない。それでいいのである。
落蟬の突然暴れ出している 岡田耕治
落ちたばかりなのだろう。仰向けのまま暴れ出す。油蟬なのかも知れない。死ぬときは静かに消えるように逝くものなのか、それとも、この蟬のように突然暴れ出して今生の別れの記念とするのか。蟬にも個性はある。個性とはやっかいなものなのである。真夜中の縁側の庭先で突然暴れ出す蟬。
関節の音立てている立葵 岡田耕治
公園の広場では子どもたちが集まり、今まさにラジオ体操がはじまろうとしている。花壇には立葵が咲いている。それを眺めていたとき関節を連想したのだ。子どもたちといっしょに膝の屈伸運動をした時、関節がぽきぽきと鳴った。老いたなと思う。立葵には関節があるということを知った、とある夏の日の朝。
原爆ドームに楽止まぬ日や蚊に刺され 樫本由貴
原爆をテーマとして俳句を作るということは「反戦」ということでいいのだろう。八月六日、広島平和記念公園に隣接する原爆ドームでは音楽が鳴り続けている。その日、そこにひとが集まることも「反戦」ということでいいのだろう。平和記念資料館を見学する。頭の中は広島に投下された原子爆弾のことでいっぱいになる。気が付いたら蚊に刺されていた。蚊に刺された「私」について考える。どこかに行ってしまった「蚊」について考える。これも「反戦」ということでいいのだろう。
原爆を見し人氷菓吸うてをり 樫本由貴
原爆投下後の広島を展示物や資料で見たひとということなのだろう。資料館より資料を脇にかかえた若者たちが片手で氷菓を吸いながら歩いてくる。これも「反戦」なのである。作者がここにいてこの若者たちを眺めていることも、作者がこの作品をつくったことも「反戦」なのである。
黙礼やみな立葵見てきしが 樫本由貴
立葵を見てきたことは無意識のことなのである。黙礼とは黙ってお辞儀をすること。そのことを願い黙ってお辞儀をするのである。だが、何千何万の黙礼は、たとえ、目的は同じてあっても、それぞれの方法は異なっているのである。その異なった黙礼の集まったパワーが、このひとたちに戻ってくるのだ。立葵は薬草でもある。
原爆以後この緑陰に人の棲む 樫本由貴
七十数年前に原子爆弾が投下された以後も、この地にひとは棲み続けてきた。春になると草が生え、樹木は芽吹く。ひとは少しずつ戻り家を建てた。唯一、ひとを守ってくれたのは自然だけだったのである。暑さからひとを守ってくれたのは緑陰だけだったのである。
どの碑にも蟻ゐるそれも大きな蟻 樫本由貴
碑とは銘文を刻んで建立したものである。碑文に書かれているものは、そのことなのである。どの碑にも蟻がいる。それも大きな蟻がいる。その大きな蟻は碑の表面を歩きまわっている。銘文を読んでいる。その蟻は被爆したひとたちなのかも知れない。
空蝉がゐて被爆樹の添木かな 樫本由貴
被爆樹が何十年も枯れずに生きていることに驚く。だが、ここに立ち続けるためには添木は必要だったのである。それは誰もがそうなのである。老いればひとの助けがいるのは誰でも何でも同じことなのである。蝉の幼虫は被爆樹を登り羽化をした。作者は、自身が生きていることも含めて何もかもに感謝をしている。
水を打つそばから乾く水を打つ 柘植史子
単純な光景である。単純であるがゆえにいろいろと考えさせられることがある。何かが足りないということは誰もが、そう思って生きている。これかと思い動きはじめてみても途中で違うような気がする。水を打つそばから水は乾いてしまう。よしんば、乾いていなくても水は打たなければならない。水を打つ、ただ、ひたすらに水を打つ。何故か、楽しくなってくる。
天井へとどく棚の書夜の蟬 柘植史子
本というものは家中のいたるところにあるものだ。玄関に置かれ、床の間に積まれ、廊下に放り出され、机のうえにも積まれる。本は本棚に並べ置かれるものなどということは幻想なのである。本は家中を侵食していく。ありとあらゆるところに積まれる。棚にも当然積まれる。積み始めれば天井に届かなければ終わりとならない。いらない本ならとっとと捨ててしまえなどと言ってはいけないのである。蟬も夜ぐらいは鳴き止めばいいのにと思う。
返されし雨傘を提げ星月夜 柘植史子
雨が止んだから返されてしまったのである。返されるのは翌日以降、それも届けてくれるのかと思って貸したのである。それが、すぐに雨は止んでしまい、傘は返されたのである。つまり、傘をふたつ提げて歩いているのだ。夜空はすっかり晴れ渡り星月夜。間の抜けた自分自身の歩くすがたが影となりあとを追う。
桃香り桃の形を思ひだす 柘植史子
桃を食べたことのないひとは香りがしても、それが桃であるのかどうかわからない。桃の形を思い出すこともできない。桃が嫌いなひとは桃の香りがしても気にもならない。たとえば、好きな楽曲がラジオから流れてくると、今まで聴いた中でのいちばん気にいっている演奏がよみがえり、あたまのなかを鳴り響いていくのである。
秋日傘発掘作業の脇を抜け 柘植史子
麦藁帽子やヘルメットを被ったひとびとが地べたに這いつくばって、じょれんや移植ごてで遺跡の表面をきれいに削っている。その脇を秋の日傘を差したご婦人が通り過ぎるのである。和服すがたなのかも知れない。土木作業現場と、そこを通り抜ける秋日傘のご婦人。これを歴史というのかも知れない。
石榴割る海馬のなかに声の匣 柘植史子
割った石榴から脳をイメージし「海馬」まで繋げる。「海馬」とは、脳の記憶や空間学習能力に関わる器官なのだそうだ。その「海馬」の中に声の匣があるという。確かに記憶にないことばは声として発することはできないと思う。
爪を切るあいだ背中にある泉 三宅桃子
泉とは水の湧き出る場所である。爪を切るあいだ背中に泉があるのだという。背中から水が湧き出るのだという。からくり人形しか思いうかべないとしたらイマジネーションが貧弱なのか。からくり人形は日本書紀にも記載があるという。
くちびるで風を送りし金魚かな 三宅桃子
水の中でも風か吹いていることはあたりまえのことなのである。たとえば海にもぐったり川にもぐったりプールにもぐったりすると風を感じることがあるだろう。水槽のなかに風が生れるのは金魚がくちびるで送り出したからだということはあたりまえのことなのである。金魚にくちびるがあるかないかなど確認する必要などないのである。
ひまわりやコップの下の水たまり 三宅桃子
ちいさなひまわりを投げ込んだコップの下のちいさな水たまり。洗ったばかりのコップを使ったのだろう。ちいさな水たまりは台所のテーブルのうえ、ちいさな水たまりは書斎の机のうえ。外にできた水たまりと同じように、いつのまにか消えてなくなってしまうのである。
獏になり氷菓を舌で受けとめる 三宅桃子
獏は未来を食べるのではない。悪夢を食べてくれるのだ。過去に出会ったひとびとの怨念が悪夢となる。考えてみれば楽しい夢など見たためしがない。ひとにとって獏は必要な動物なのである。それが架空の伝説の動物だなどといわれても何ら気にすることはない。架空の伝説の動物、現実の動物、私たちの暮しの中では同じことなのである。さて、夢の中で獏になったこのひとの舌で受けとめた氷菓とは誰の怨念なのだろう。
坂道のひらたくなって麦の秋 三宅桃子
麦秋とは麦の穂が実ったころの季節をいう。坂道のひらたくなったところの麦畑とは、坂道を下ってきたところにあるのか、坂道を登ってきたところにあるのか。どちらにしても坂道は老人には堪える。さわやかな風が吹き抜けていくひらたくなったところ。もうすぐうっとうしい梅雨がやってくる。
中元の箱をもれなく開きおり 三宅桃子
めんどくさいのでそのままにしておいたが賞味期限のあるものもある。結び紐を鋏で切り、包み紙をひらき、箱を開ける。食品と、消費用雑貨類に分ける。山村の生活はゴミの分別などしない。大方は裏の畑で燃してしまうのだ。もちろん、白いけむりのでるものしか燃しはしない。そのくらいの分別はある。
夏痩せの妻と喧嘩や殴らねど 山口優夢
夫婦喧嘩は止め時を計算して仕掛けるものである。つまらぬ感情に押し流されて、うっかりと始めてしまうものではない。妻であるがゆえに嘘をつきとおさなければならないことも多々ある。妻であるがゆえに本音は隠し通さなければならないのだ。夏痩せの妻を殴ることなどもってのほかなのである。
妻は思ひ出し怒るみんみん蟬のごと 山口優夢
みんみん蟬が鳴いているのは過去を思い出しているからなのである。妻が怒っているのも過去を思い出しているからなのである。「あなたの何もかもか癪にさわるのよ」ということなのである。みんみん蟬が鳴いているのも妻が怒っているのも、必ず朝が来ることを知っているからなのである。
言ひ負かしたのではなく見限られたのかも、夜 山口優夢
言い負かして勝ったような気がしているのだが何かがおかしい。妻は私の知らないところでほくそ笑んでいるのかも知れない。居間にも台所にも玄関にも夜のしじまが忍び寄ってくる。時間が経てばこころが落ち着いてくる。そういえば、妻を言い負かしたことなどいままで一度もなかったことに気付く。
盆の寺出て霧雨が手に頬に 山口優夢
掃除をして花と線香。そして、近況報告。雨の降りはじめに気が付くのは、いつも手や頬である。決して、目や脳髄ではない。お盆、春と秋の彼岸、そして、年末のお墓の掃除。墓にも隣近所があり、毎年、数回、集まることになる。寺の裏山では蜩が鳴いている。
妻から指をつないで帰る墓参かな 山口優夢
指と指を絡めあって帰る。指をつなぐ夫婦。怖ろしい光景なのだと思う。「捕まえたから、もう離さないわよ」ということなのである。「あなたの家のお墓なのだから」という声も聞こえてくる。だが、もううんざりなのである。妻や子と別れて、ひとり珈琲でも飲んで帰りたいのである。とにかく、ひと時でも、自由になりたいのである。やさしかった頃の面影が消えてしまうことなどわかっていたはずなのに。
おしろいや終はつても済んでない喧嘩 山口優夢
口を利かなくなってからが本当の喧嘩なのである。夫婦にとって口汚くののしり合うことなどご愛嬌なのである。庭の片隅にはおしろい花がひっそりと咲いている。これから私もひっそりと暮らしていくのだ。会社でこき使われて、自宅に戻れば無言地獄。誰もが歩いた道なのである。これからは憂鬱な日々が続くのである。
旧約の薄きページや星月夜 矢野公雄
旧約聖書のページは確かに薄い。何故、辞書のように薄いのだろう。ホテルのベッドの脇の引き出しに置いてあったりする。ホテルの窓からながめる星月夜。だが、何かが違うような気がしないでもない。私は右でも左でもないふつうの日本人のつもりだが、日本のホテルならば「古事記」の現代語訳がふさわしいだろうと思う。
虫の音や寄り道いつか迷ひ道 矢野公雄
寄ることが必要だと思ったから寄ることにしたのである。だが、何度も寄っているうちに、それでいいのかと考える。つまり、これは目的の場所へ行くことではなく精神のはなしなのである。これは私たちの生活のいたるところにあるものなのである。迷ったらしない方がいい。日本の古典にも、そんなことが書いてあった。日本の古典にも虫は鳴いている。
いまだ輪とならず踊の三曲目 矢野公雄
民謡は流れているが、まだ、ひとが集まっていない。やぐらのうえも誰もいない。そんなときは踊りたいひとが好き勝手に踊ればいいのである。生ビールの紙コップをふたつ持って知り合いを捜すひと。夢中で世間ばなしに興じているひと。三曲目あたりの、この自由さがたまらなくいいのである。
一歩づつ夜の深まる踊かな 矢野公雄
昼が深まるとは誰も言わない。夜だから深まるのである。一歩づつの一歩とは踊るための一歩なのである。踊れば踊るほど夜は深まってくる。踊れば踊るほど闇は深まってくる。闇が深まってくれば魑魅魍魎の世界が拡がる。魑魅魍魎の世界が拡がってくれば、今まで見えなかったものが見えるようになる。それを盆踊りという。
さきがけもしんがりもなき踊の輪 矢野公雄
盆踊りならば確かに先頭も後尾もない。輪があるだけである。先駆けとは、まっさきに敵中に攻め入ることである。殿とは、退却する最後尾にあって追撃する敵を防ぐ役のことである。いくさの言葉を使っているところが面白い。都会の盆踊りは知らないが、田舎の盆踊りは提灯のあかりの届かないところから先は闇となる。不気味なほどの闇となる。よく近所の亡くなったひとが紛れ込んで踊っているんだなどという話を聞いたりもする。「あそこで踊っているひとは誰」などという会話がときおり聞かれたりもする。
仏にも鬼にもなれず濁り酒 矢野公雄
仏になることは辛いことなのである。鬼になることも辛いことなのである。仏になることは簡単なことなのである。鬼になることも簡単なことなのである。麹の糟を漉しさえすれば簡単なことなのである。とある裏町の立飲み屋では濁り酒の方が高価なのである。
この世には未練残さず曼殊沙華 矢野公雄
未練とは、「あきらめきれないこと」のほかに「熟練していないこと」という意味もある。「この世」がある以上、「あの世」も必ずある。もちろん、「その世」だってある。「この世」という言葉が浮かんだということは、妄想の歯止めが緩んできたのである。「この世」には未練はいくらでもある。それは「あの世」も同じことなのである。故に、未練など何もない曼殊沙華が野原に咲き誇っているのである。
■矢野公雄 踊の輪 10句 ≫読む
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